第二章 たとえ君を忘れたとしても⑦
「――必ず殺すと言ったはずだぜ」
一瞬。意識が途切れていたことを自覚する。
僕は混乱する頭を振り、ふらつく視界の中で周りを見回す。
激痛が思い出したように体を引き裂く中で、まず目に入ったのは、
意識を失っているルナと、
そんな彼女に近づいていくヴァルトの『本体』。
「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!」
立ち上がる。
いまだにふらつく足に全力で《肉体活性》をかけ、なりふり構わず跳躍した。
驚いたように目を見開くヴァルトに《魔力武装》した足を振り抜く。飛び下がったヴァルトに対して魔弾を三連続で叩き込んだ。地形が変わり、砂煙が舞う。
その間に僕はルナを抱きかかえ、飛び下がった。
この程度で終わるとはまったく思っていない。
――ヴァルトの『本体』は、そんなに生易しい存在じゃない。
「こんなに早い登場とはな……」
砂煙の中から現れるのは、長身瘦躯の美丈夫。その体に傷はない。
鮮烈に輝く銀色の髪の下にあるのは獣の如く獰猛な紅の瞳と、精巧な人形のような顔立ち。
その腰に帯びているのは――剣。
「何を驚いてんだ? 『本体』をそう遠くに置いておくとでも思ってたのか?」
「……いや、そうじゃない。ただ、回復にはもっと時間がかかると思ってたんだけどな。仮にも魂に与えた傷だぞ。治癒は難しいだろうに、よく動ける」
「おいおい、俺は憑依能力使いだぜ? つまり魂を扱う能力者だ。治療法ぐらい知っていて当然だろうが。テメェの付け焼き刃とは訳が違うんだよ。こっちは専門家だ」
「……なるほどな」
そのヴァルトの言葉に嘘はないだろう。
でも、かつてヴァルトを倒した僕も知らない情報だった。
ヴァルトへの対策魔法《祓魔式》は、編み出したもののあまり使う機会はなかった。あの頃にはほとんど人間が生きておらず、ヴァルトも憑依能力を使わなかったからだ。
……奴のことはすべて分かっているというのは思い上がりだ。
僕が倒したのは今から八年後の弱り切ったヴァルトだ。目の前のこいつとは違う。
気を引き締めろ。
ルナに憑依していた時は、たまたま上手くいっただけだ。
ひとまずルナを抱きかかえて一気に跳躍し、遠く離れた木の幹に預ける。
そして僕を見据えているヴァルトのもとに戻った。
一瞬でも逃げようとすれば、その瞬間に襲い掛かってきただろう。
しかしルナを戦闘から遠ざけるためであれば、手出しはしてこないようだった。
ヴァルトはそんな僕の挙動を見過ごした後、剣を引き抜く。
「……見逃すんだな?」
「見逃すとは言ってねえよ。だが、勝手に余波を食らって死んじまっても困る」
「随分とルナを大事にするじゃないか。何が目的だ?」
「テメェに話してやる義理はねえが……やっぱりそこは分かってねえんだな」
ククッ、と笑うヴァルト。
確かに分からない。なぜ、ヴァルトはルナにこだわる?
この事件の目的が優秀な学生を攫うためなのは分かっている。
ルナに憑依したのは、その情報収集の一環として適当に選んだのかと思っていた。
でも、ヴァルトの様子を見る限り違うらしい。
何が目的だ?
成績だけで判断するなら、ルナは剣も魔法も平凡だ。
特筆すべきところは、白い魔力色を持つ英雄の家系に生まれた点だが……。
「まさか、ベイリー家と交渉でもするつもりか?」
「あん? 俺が交渉なんぞするような性格に見えるのか?」
「……そうだよな」
やはり違うか。
怪人は人間と交渉なんてしない。
ベイリー家と無関係なら、白い魔力色を求めているのか?
僕が考えている間にも、ヴァルトは饒舌に語る。
「計画はテメェのせいで滅茶苦茶だ。これじゃ何人攫えるかも定かじゃねえが……あのガキ一人だけでも連れて帰ればお釣りが来る。だからまあ、後はテメェを殺すだけだ」
その言葉にぴくりと耳が動く。
「ルナにはいったい何があるって言うんだ?」
「話す義理はねえって言ったろ」
ヴァルトは一歩。言いながら、足を踏み出す。
本来の姿から放たれる殺気に、思わず足が退きそうになった。
「テメェの善戦は褒めてやる。だが、ここまでだ。『本体』に戻った俺の強さは――」
ヴァルトはぐぐっ、と膝を大きく曲げた。
「――今までの、五倍だ」
次の瞬間。
いつの間にか、目の前にヴァルトが出現していた。
反射的に足を《魔力武装》して振り抜くが、それを左腕でがっしりと受け止められ、右手の剣を突き出してきた。足をわざと滑らせるように回避したものの、剣が肩口を掠める。転がるように体勢を立て直した時には、すでにヴァルトは剣を振りかぶっていた。
無理やり右に体を振ると、さっきまでいた場所を銀閃が通過していく。
背筋が凍った。ぶわっと汗が噴き出す。
さっきの比じゃない緊張感。一手のミスが死をもたらす恐怖が僕を襲う。
ヴァルトの速度は明らかにさっきよりも――そして、あの時よりも速い。
そしてその剣術は、怪物もどきとは思えないほどに洗練されていた。
「くっ……!?」
僕は魔弾を撃っていったん距離を取ろうとするが、
「それはもう見飽きたぜ」
――ヴァルトは無視して踏み込んできた。
牽制目的の魔弾など大したダメージを受けないと断定した。それは頑丈な怪人だからこそ可能な挙動。人間の体に憑依している時なら、そのまま倒れていただろう。
人間と怪人の違い。
その差に適応が遅れた僕の隙を突いてきたと、気づいた時にはもう遅い。
「しまっ……!?」
下段からの袈裟斬りが、僕の体を引き裂いた。
驚愕と共に自分の体に目をやる。肩から太腿に至るまで、斜めに傷が開いた。
一瞬遅れて、大量の血飛沫が宙を舞う。
――違う。
あの時と、まったく違う。
分かっていたつもりだった。
僕が倒した時のヴァルトはひどく弱っていた。
多くの魔法騎士との戦いで傷つき、魔力は枯渇寸前の状態だった。
全盛期とは程遠いと知っていた。
それでも、
だからと言って、
いくら何でも、
これほどのものとは――。
「――ハッ、人間にしちゃイイ線いってたぜ」
剣を振り抜いた体勢で笑うヴァルト。
――だけど僕も、このままじゃ終わらない。
ヴァルトは至近距離で僕と目が合って顔色を変えた。
「《呪詛魔法/七式》起動――《氷柱針》!」
「なっ……!?」
魔法が起動する。地面から突き出した氷柱がヴァルトの腹に直撃した。
「ごほっ……!?」
僕を仕留めたと思ったからこそ、ヴァルトにも隙ができる。
流石に狙っていたわけじゃないが、結果的には意趣返しになったな。
とはいえ、この程度で傷がつくほど怪人の体は柔じゃない。
本命は、その攻撃でうずくまるような体勢になったヴァルトを仕留める魔法。
ここで決める。
だから、複数の怪人の記憶を代償に、威力をさらに増幅する……!
「《呪詛魔法/十式》増幅起動――《稲妻》!」
雷鳴が轟く。
天から降り注ぐ紫電の柱がヴァルトに直撃した。
これまでとは桁の違う爆音が耳をつんざき、雷が周囲一帯に飛び散った。
僕は直前に後退していたが、それでも余波は避けられない。
足や腕にひどい火傷を負っていた。じわじわとした痛みが思考の邪魔をする。
それでも、これでヴァルトを倒せるなら構わない。
――倒せるなら、構わなかった。
「……どうして、立っていられるんだ」
思わず顔を歪める。
《稲妻》をまともに食らったヴァルトは、流石に堪えたようだった。
しかし、その瞳から意志は消えていない。
……これで、仕留められないのか。なら僕はどうすればいい?
希少な雷属性でも最強と呼ばれる魔法。それを呪いで威力増幅したんだぞ?
今の《稲妻》は僕が出せる最高火力だ。
これをまともに食らって仕留めきれなかった怪人はいなかった。
――これまでは。
「こっちの台詞だ。テメェこそ、その傷で……」
ヴァルトは驚いているが、僕が傷に頓着しなかったのは理由がある。
……そろそろだな。
僕がそう思った瞬間、斜めに開かれた切り傷を黒色の魔力が縫合していく。
「テ、メェ……本当に人間か?」
「……はは、怪人にそれを聞かれるとはな」
僕はそう簡単には死なない。
より正確には、死ぬことができない。
それが魔女の呪いだ。
致命傷を受ければ、勝手に治癒魔法が起動する。
《呪詛魔法/零式》――《自動修復》。
雷属性魔法だろうと、治癒魔法だろうと、魔女の呪いはあらゆる適性を入手する。
莫大な魔力と寿命と大切な記憶を犠牲にして。
「ぐうっ……!」
また一人、怪人の顔と名前が頭から消えた。
いったい誰だったのか、どんな戦い方をしていたのか、それすらも思い出せなくなる。
しかし、それで構わない。
――ルナの記憶さえ消えなければ、それだけで僕は戦うことができる。
「ハァ、ハァ……」
荒く息を吐く。
血は止まった。
だが、怪我が完璧に治るわけじゃない。
あくまで死を回避するのが魔女の呪いだ。それ以上はやろうとしない。
そして治癒魔法は繊細な扱いが必要で、非常に難しい。
つまり他の魔法と違って僕が自力で操ることができない。
だからこそ「自動」で、だからこそ番外の《零式》なんだ。
灼熱のような痛みが思考を覆いつくしていく。
――あの一撃にすべてを懸けたんだ。
正直、僕にもう打つ手はない。
「どういう仕組みか知らねえが、治るわけじゃねえのか」
対面で剣を肩掛けにしながら、ヴァルトが笑う。
「だったら、俺の勝ちは揺るがねえぞ?」
ぼうっとしている暇はなかった。
ヴァルトの剣が眼前に迫る。辛うじて回避し、回避し、回避していく。
奴の洗練された剣撃は下手な防御など容易に切り裂く。だから、かわすしかない。
「ちくしょう……!」
せめて、剣で応じることができれば。
ないものねだりをしても仕方がないと分かっているのに。
何とか剣をかわすことに集中していると、意識の外から蹴りが飛んできた。
ゴバッ!! という轟音が他人事のように耳に届く。
景色が流れるように表示されたかと思えば、大木に衝突して弾け飛んだ。冗談抜きに、呼吸が一瞬止まる。背後ではベキリと大木がへし折れていく。
木の枝が脇腹を貫通していた。
「が、はぁ……!?」
血を吐きながらうつぶせに倒れ込んだ。視界がちかちかと明滅する。
――また一人、怪人の記憶が消え失せる。
魔女の呪いが、またもや僕の体を回復していく。
辛うじて意識は繋いだ。だが、もはや打開策は何もない。
――強い。ただ、純粋に強い。
これが全盛期の《掃滅会》序列第一位。
世界最強の怪人。
そして、世界最強の剣士。
「どうにもおかしいと思うんだがよ」
その存在は剣を肩掛けにしながら、倒れ伏す僕のもとへと歩いてくる。
「――なぜ、剣を使わねえ?」
当然の疑問だろう。
僕は腰に剣を帯びているんだから。
「ああ、認めよう。テメェは強い。この俺とここまで渡り合うなんざ、本当に人間とは思えねえ。魔法騎士でもテメェには届かねえだろう――魔法しか使ってねえくせに」
吐き捨てるような言葉だった。
ヴァルトは僕を認めるような言葉を吐きながら、嫌悪感を隠しもせずに言う。
「戦えば分かるぜ。テメェは魔法しか使わねえくせに、やたらと近づいてくる。魔法を主体に拳や蹴りを織り混ぜてくるが――本当の戦い方は、そうじゃねえだろう?」
僕は口端から血を垂れ流しながら、自嘲気味に笑う。
気づかれたくなかった。だから常に、そうとは見えないように意識していた。
でも、体に染みついた剣での戦い方は抜けなかったらしい。
「剣を抜けよ、人間。本気を出さねえならこのまま負けるだけだぜ」
「……そういう君は、怪物もどきのくせに随分と剣が達者だ」
ぴくりと、ヴァルトの眉が動く。
「……何が悪い?」
「悪いとは言ってないさ。ただ……羨ましいんだよ」
魔法騎士が怪物と渡り合えた理由の本質は、魔法を土台とした剣術にある。
なら、もし怪物が人間よりも上手く剣を扱えるとしたら、人類はどうなっていた?
その答えが今ここにいる。
「……羨ましい、だと?」
僕の言葉で、隠しきれないほどにヴァルトの顔が歪む。
やがて、その口元は笑みを刻み、僕を煽る。
「ハッ、怪人になりてえのか? 明らかに人の上位存在だ。そう思うのも無理はねえ」
「……そうじゃない」
羨ましいのは、お前が剣を構えるその姿だ。
怪物もどきのくせに、当たり前のように剣を振るうその戦い方だ。
こいつが扱える剣を、人間の僕は鞘から引き抜くことすらできない。
その皮肉に、思わず笑みすら零れる。
――剣は、人であることの意志じゃなかったのか?
「は、は……」
膝に手をつき、体を持ちあげる。
声を出す体力も消えつつある中、僕は枯れ木のように感じる足を何とか立たせる。
どうにか立ち上がったところで、勝算はまったくない。
勝算を弾き出すとするなら、もはや奴の言う通り剣を使うしかない。
魔法は借り物の力。剣は僕本来の力だ。
その二つを組み合わせて戦えば、あるいは突破口が見えてくるかもしれない。
無言で剣に目を向ける。縋るような思いで。
……抜けるのか?
八年もの間、抜けなかったものを今更?
馬鹿を言え。
何を血迷っている。
無理に決まっているだろう。
窮地に追い込まれた程度で抜けるなら、これまで何度も機会はあったはずだ。
「抜けよ」
「――お前」
気軽に要求するヴァルトの態度が、ひどく癪に障った。
ああ、認めよう。
奴が当然のように剣を握るその光景が、狂おしいほどに憎らしいと。
無意識に抑え込んでいたその思いに、火をつけたのは奴の言動だ。
怒りに身を任せて、僕は腰元の剣に手をかけた。
刹那、
『ブラム――お願い、わたしを殺して』
脳裏を過るのは、
『このままじゃ……あなたを、みんなを、殺してしまう……その前に、お願い。わたしはこれ以上、友達を殺したくない……! わたしごと、この化け物を殺して……!』
何度も何度も夢に見た光景で、
『ごめん……ね、ブラム』
この世界の何よりも、認めたくない現実だった。
『それと、ありが、とう――わたしを、殺してくれて』
石のように、手が固まる。
かと思えば、がたがたと体が震え始めた。
「あん?」
不思議そうに眉をひそめていたヴァルトは、徐々に口角をつり上げる。
「何だぁ、おい。震えてんぞ体が! トラウマでも持ってやがんのかチキン野郎!」
言葉と共に、ヴァルトは踏み込んできた。
僕は反応できない。このままでは死ぬと分かっているのに、体が動かない。
銀閃が閃く。
僕の体が切り裂かれたことを他人事のように認識する。
明らかな致命傷。しかし、今度は魔女の呪いが起動しなかった。
《祓魔式》や《稲妻》で二度も勝負を懸け、《自動修復》を二度も発動させた。
怪人の記憶はほとんど失い、しかしヴァルトの記憶は残している。
こいつの記憶だけは、失うと余計に望みが見えなくなるから。
とはいえ、根本的な原因はそこじゃない。
そもそも《自動修復》は自動で発動するもの。
ヴァルトの記憶を失いたくないからって、自分で制御はできない。
だから原因は単純で、もう魔力が枯渇していた。
《自動修復》が魔法である以上、魔力なしに起動するはずもない。
僕は痛みすら感じないままに視界が酩酊し、地面に吐瀉物をまき散らす。意識があるのかないのかすら定かではない中で、また倒れてしまったことだけは土の味が教えてくれた。
やがてそれが血の味に変わる。
「おいおい、流石にそいつは興ざめだぜ?」
そんなヴァルトの言葉を最後に、僕は意識を失った。




