一話 公爵令嬢と秘密の部屋
「――このようにミミックスライムは人間に化けて人里に紛れ込むことがあります。そのため――セレスティアお嬢様? ちゃんと聞いてますか!?」
「聞いているわ、ヘクタ先生。続けて頂戴」
私、セレスティア・フェアクロフは魔物生態学の講義をサボって薬草学の教科書を読んでいた。我がフェアクロフ家は薬草で有名な貴族であり、国王にも多くの薬を献上している。それに権謀術数渦巻く社交界ではいつ毒を盛られるかわからない。魔物の勉強などなんの役に立つというのだ。
「あっ」
先生の青い長髪が私の目の前に垂れ下がる。あまりに集中して読んでいたため家庭教師のヘクタの接近に気づかなかった。ヘクタは私の教科書を取り上げて、中身を確認するとため息をついて机の上に戻した。
「はあ、お嬢様、勉強熱心なのは構いませんがあなたには淑女教育に基づいて厳密に割り振られたカリキュラムがあることをお忘れなく」
私は仕方なく薬草学の教科書を閉じた。
「ええ、わかっているわ。でもこのあたりに魔物なんてほとんど出ないでしょう? そして社交界にも。本当に恐れるべきは魔物ではなく人間なのでは?」
貴族の居住する地域は定期的に騎士団が見回りに来ているため、魔物どころか狼のような野生動物すら現れない。それにか弱い淑女が魔物に出会ったところで何ができるというのだろう。
「授業の内容を聞いていましたか? 今まさに説明したミミックスライムは人間に擬態して人里に現れるのです。それもこの魔物は高度な知能を持っていて完全に市民の生活に溶け込んでいたのですよ?」
「それで近くの教会に近づいて化けの皮が剝がれたのでしょう? ちゃんと聞いているわよ」
そのミミックスライムに関してはちょっとしたニュースになっていた。なんでも捕獲後に脱獄されたらしく、騎士団が警戒を強化しているという。
「それなら魔物が関係ないなどとは言えないはずです」
「ええそうかもね。でも私の婚約者は騎士様なのよ? それも魔物討伐で名を挙げているクロムウェル家の。もし魔物が襲ってきてもすぐに何とかしてくれるわ」
そういって私は教科書を机の中に直し立ち上がった。ヘクタが眉をひそめる。
「まだ授業は終わっていませんよ」
「いいえ、終わったわ」
そういった途端、授業終了のチャイムが鳴る。私はそのまま教室を出ようとした。
「待ちなさい、最後にスライムの弱点をあげなさい」
「熱、教会、香辛料」
私は即答して教室を出た。ドアの後ろからヘクタの困ったような声が聞こえてくる。
「……ちゃんと聞いているのではないですか」
※※※※※
私は盛大に伸びをしながら廊下を歩いていた。淑女とは思えない振る舞いだろうが咎めるものはいない。幼いうちに母が死に、公爵である父に溺愛されている一人娘を止められるものはいない。
……そんなことを考えていると、廊下にある姿見鏡にあまりにも間抜けな姿が映り、私は姿勢を正した。そうだ、明日は婚約者であるウェインと会うのだ。こんなはしたない習慣はやめにしないといけない。私は鏡で自分を確かめた。金色の意思の強い瞳と蒼みがかった髪は母方の祖母からの隔世遺伝だ。なんでも祖母は魔女の血を引いており、魔女狩りにあって死んだという。母から伝え聞いた話なので真偽はわからない。本当だったらいいなと私は思っている。
自分の容姿に問題のないことを確認し、再び歩みを進めると、見知った侍女を見つけた。私専属のメイドであるコレットだ。コレットは栗色の髪を肩口にくすぐる位の長さでそろえた小動物系女子のような見た目をしている。彼女はどこからどう見ても困ったような素振りで開け放たれたドアを覗いていた。他のメイドたちはを面倒ごとに巻き込まれないように見ないふりしている。そう、コレットはトラブルメーカーなのだ。
「どうしたの?」
「あ! お嬢様! ちょうどいいところに!」
主従関係にあるとは思えないこの話し方は私のお願いによるものだ。田舎生まれで敬語が苦手な彼女に敬語を強要するとほとんど喋れなくなってしまう。コレットは白を基調にした廊下の中で明らかに異質な黒い扉の前に立っていた。
「どうやら地下へのドアの鍵が開いちゃっているみたいでして。旦那様にいうべきかどうか迷ってるんです」
このドアはお父様が全メイドに触ることを禁止しているドアだ。中に入ることは当然のこと、ホコリを払うことすら禁じている。なぜコレットがこのドアの鍵が開いていることに気づいたかは触れないことにする。
「…………お父様は今どこに?」
「ええっとぉ……図書室……もとい書斎です」
「わかったわ、ありがとう。私が何とかしておくからコレットは自分の仕事に戻って」
「了解です!」
ピシッと敬礼してコレットが去っていく。私はそれをほくそ笑みながら見送った。実は前々から中に何があるのか気になってはいたのだが、なかなか機会をつかめずにいたのだ。これは絶好のチャンスである。
私はドアを開けた。燭台ひとつない階段が私を出迎える。私はこんなこともあろうかと隠し持っておいた蓄光石のペンダントをもって中に進んでいった。母からの贈り物であるこのペンダントは普通のものと違い明かり一つない暗闇でも十分な視界を確保してくれる。母は祖母からのお下がりで魔法のアイテムであると言っていた。
階段の底でドアに行き当たった。おそらくはこれが秘密の地下室の入口だ。しかし、私は少し戸惑った。見たことのない文様の刻まれた黒い鉄扉はどこか不安にさせる。秘密の場所への扉というよりは何かを封印している扉のように見えた。
……引き返したほうがいいだろうか。でもこんなチャンスはそうそう来ないだろう。
覚悟を決めた私はドアノブをひねった。少し開いただけで異様なにおいが鼻を突く。薬品のにおい、それも病院にあるようなものではなく獣避けのような嫌な臭いだ。私は鼻をハンカチで覆って肩でドアを押して中に飛び込んだ。重いドアがひとりでに閉まる。しかし私の注意は後ろより前に惹かれていた。
「…………なにこれ」
巨大な円柱型の水槽が部屋の真ん中に鎮座していた。緑色に濁った謎の液体に満たされたそれはただの水槽ではなかった。
「ひっ……!」
人だ。中に人型の何かがホルマリン漬けのように入っている。しかも胸のあたりがかすかに上下していた。生きている…………
思わず後ずさった私の背中がテーブルに当たった。振り向くと実験レポートのようなものが上に乗っていた。その表紙をみて目を疑った。
「うそ……」
十歳の時の私の顔写真だ。しかも表題には……
「アルファスライム寄生による人体蘇生……? ど、どういうこと?」
私は一枚ページをめくった。それをみて私はすぐにレポートを投げ捨てた。しかしそこにあるものが目に焼き付いてしまった。
「いやっ!」
死体だ。それも私の。頭が混乱する。どういうこと? 私は死んでいるの? 幽霊なの? でも今日も普通に授業を受けたしコレットとも話したし…………
カツン……カツン……
誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。