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あおにとける  作者: iliilii
第三章 気体
17/20

17

 溜め息が重い。

 須臾が造っている家から少し離れた場所を流れる小川は、あのシャワーのような滝と同じ水源らしい。実際に川の流れをしばらく遡っていくとあの滝のそばに出る。逆に流れに沿って歩くと、滝の脇を流れる川と合流する。滝の脇を流れる川の水源は島の奥の方にあり、青はまだ行ったことがない。

 自然そのままの姿で湧き出て流れる水は澄んでいる。水草が流れに身を委ねながらもその根はしっかりと川底を掴んで揺れている。種類も名前もわからない小指ほどの魚の影が翻る。

 こういう川の流れる音をなんと言うのだったか、青はしばらく頭を悩ませて、ようやく「せせらぎ」という言葉を導き出した。

 いずれこの小川から生活用水を引くらしい。浄水装置や多少の電化製品を使えるように太陽光発電システムの導入も検討しているとか。道理で別荘にしては本格的だと思った。


 須臾が言うにはこの島は大人の足なら一日で回れるほどの大きさしかなく、実際に船でぐるっと島の周りを巡るのにたいした時間はかからない。

 そそり立つ岩の上に緑がこんもり茂る島は、遠目からは今川焼きの上にブロッコリーがのっかっているように見える。その一部はスプーンで掬ったようにへこんでいて、ビーチというには荒々しい砂利よりももっとごろごろした石の浜はこぼれる粒あんのようでもある。石が波に転がされるときに生じるころからという音を青は結構気に入っている。


 いつもなら心を解放してくれる景色も、今日はどこかよそよそしい。

 もとより青はよそ者だ。ここは旅先でもなければキャンプ場でもない。須臾の島だ。


 どうしようもないほど不便なのに、青はここが好きだ。

 今回だって造りかけの家の中に小動物が入り込んでいる形跡を見付けた須臾から、家から少し離れた場所に小便を撒き散らせという指令が下された。尿の臭いが小動物を寄せ付けなくなるらしい。いわゆるマーキングだ。

「三回くらいに分けて少しずつ場所を異動しながら用を足せ」

「そんな器用なことできないよ」

「慣れればできる。練習しろ」

「できるわけないし!」

 二十一にもなる女性に向かって「小便を撒き散らせ」という指令が出せる須臾は絶対にモテない。それとも青だからの扱いだろうか。いや、須臾なら誰に対しても言いそうだ。

 しかも「青は東と北、俺は西と南に撒く」と互いの縄張まで決められた。そのために麦茶をごくごく飲めとの指令まで出ている。練習を拒否した青には浜に流れ着いた空き瓶が渡された。泣けてくる。海に空き瓶捨てた人を心底呪う。

 それでも大の方はマシになった。一人用のテントの中に木箱がふたつ置かれ、便座もどきが置かれた椅子ほどの高さの木箱の方で用を済ますと、もう一つの木箱に入っているおがくずや枯れ葉をかけることになっている。これが意外と臭いもなく快適で、次回来るときには微生物が便を分解して肥料に変わっているというエコトイレだ。ただし、携帯洗浄器でおしりを洗うことに変わりはない。

 そんな不便さも含めて好きだと思えるのだからどうしようもない。


「ねえ、須臾は一生独身なの?」

 夕食の赤いハマダイは島に来る途中の船で須臾が釣ってきた。須臾はオナガと呼ぶ。尾が長いかららしいのだが、青にその長さの違いはわからない。

「結果的にそうなるだろうな」

「なんで?」

「なんでって、ここに出会いはない」

 日が暮れる前にとハマダイを捌く須臾の横で、青は炊きあがった飯盒を逆さにして蒸らす。植えっぱなしで放置しているトマトは甘味こそあれ、皮がかたくなっている。蒸したジャガイモを潰して塩コショウし、くり抜いたトマトの身と混ぜてトマトの器に入れ、串に刺して軽く炙って皮を剥く。チーズが欲しい。

「ここに引っ越してくるまでに見付かるかもしれないじゃん」

「無理だ。東京で生活しているような人がここで暮らせるとは思わない」

「そんなことないよ。ほら、愛があれば」

 トマトから抜いた串を青は指揮棒のようについと振る。

「あのなあ、愛は環境に負けるんだよ」

 たしかに。小便撒き散らせ、なんて言われたら、愛なんてあっという間に冷める。

「何納得してるんだよ」

 須臾がむっとしながら鍋にシマダイのアラを入れた。

「だって小便撒き散らせって言われたら、普通えーって思うでしょ」

 沸騰し、アクを取った鍋に味噌玉を落とす。今回はネギたっぷり目に作ってきた。

 いつの間にか須臾が海藻も採っていた。ざっくり刻んで鍋に入れるとぱあっと色が変わる。明日の朝はここに冷ご飯を入れて雑炊にする予定だ。

「愛があれば耐えられるんだろ」

「事と次第による」

「たいした愛だな」

 呆れ顔の須臾がお皿代わりの大きな葉の上に刺身をきれいに盛り付けた。

 刺身になったハマダイの半身は今日の晩ご飯、もう半身は一夜干しにして明朝のメインディッシュだ。

「でもさ、こんなおいしい魚を毎日食べられるんだよ?」

「そのうち飽きるんだよ。で、ステーキ食べたいとか言い出す」

 やたらと実感のこもった言い方だった。

「元カノに言われたとか?」

「いや、母親がいつも愚痴ってた。お父さんのことは好きだけど、ここの暮らしは好きになれないって」

 他人の親を悪く言うつもりはないが、青は母親が子供に言っていいセリフではないと思った。

「なんか、ちょっと淋しいね。どうせ愚痴るなら、ここの暮らしは好きになれないけど、お父さんのことは好き、って順番変えるだけで受ける印象は変わるのにね」

 須臾が驚いた顔で青を見ていた。

「なに?」

「いや、確かにそうだなと思って」

 夕闇が島をのみ込んでいく。




 ────◆────




「あのさ、来年も再来年もその先も、ここに来たいって言ったら困る?」

 シュラフに潜り込んだ青がもごもご言った。移住の話をしてからずっと不機嫌そうに口を尖らせていたのはそれが不安だったからか。

「いや。事前に連絡さえくれたら本島まで迎えに行く」

「なんだ」

 ほっとしたように青が呟く。須臾は純粋に嬉しかった。


 須臾の母親をはじめとした本土からこの島に渡った人間は、一年か二年、遅くとも三年目にはここでの生活に見切りを付ける。それまで当たり前にあったコンビニエンスを諦めてここで生きるか、諦めきれずここから出ていくか。その確率は半々だった。また、進学のためにここから一旦出た者が戻ってくる確率はさらに低い。

 一度上がった生活水準を再び下げることは容易ではない。須臾も何もなければこの島に戻ろうなどとは考えていなかった。両親もそれを認めていた節がある。父親がある時ぼそっと耳打ちしてきた。本土で婿養子になれ。榛葉の名を捨てろ。須臾の家は本家ではなかったためにそれが許された。父の兄の息子であればそれは許されない。

 愚痴が日常化している母にうんざりした須臾は父に訊いたことがある。なぜあんな女と結婚したのかと。父は母親をあの女呼ばわりする須臾を咎めることもなく、やけに真剣に考えた末に天を仰ぎながら言った。こいつには敵わないと思ったのだと。思ってしまったのだ、と。


 須臾は青をここに連れてくるようになった当初、そのうち「行かない」と言い出すだろうと決めつけていた。しかし蓋を開けてみれば一向にそんな様子はなく、むしろ彼女はその先を望む。

 青にしてみれば短期滞在の旅行気分かもしれないが、トイレさえない状況でもめげない彼女の強さは本物だと須臾は思う。きっと青ならどんな状況になろうとも最後まで生き抜ける。




「上からの打診を断ったそうですね」

 十年以上須臾を診続けている医師がふと思い出したように言った。

「よくご存じですね」

「こう見えて私もかなり深く関わっていますし、あなたも上から打診されるほどですから多少のネタばらしは大目に見ていただけるでしょう」

 実行部の面々を常に診断し続けているのだから、ある意味全体を掌握しているに等しい。

「なぜ、とお伺いしてもよろしいですか? 多少の便宜は図れるかと」

「単純なことです。故郷に戻ります」

 医師が手元のカルテを確認した。実行部のカルテはあえて電子化されていない。

「本籍は確か東京でしたよね、ん? 甥島……」医師の目が見開かれていく。「生存者はいなかったと聞いています」

「そうですね。全て、何もかも持って行かれました。未だにその欠片すら見付かりません」

「あなたは当時……」

「高校三年です。あの日は島をあげての祝いの、いわばお祭りのような日で、年に一度一族が島に集結します。本来なら私も戻っていたところでしたが、たまたま試験日と重なり、同じ高校に通う同い年の又従兄弟も島には戻りませんでした」

「そうでした。高校生が二名と、あとは本島で役場の宿直に当たっていた男性が一名」

「よくご存じですね。ほとんど報道されなかったのに」

 離島の全滅より、同時期に発生した都内の停電の方が大きく報道された。離島の住人の捜索より、都内の停電復旧の方に多くの人間が投入された。幼馴染みでもある又従兄弟は日本という国に絶望し、須臾はそれ以降、原色は判別できるものの細かな色の違いが判別できない、わずかに色の褪めた視界にいる。

「知り合いが海保にいます。当時の状況をよく話していました」

「そうでしたか」

 業務に関わる人間のデータは上層部で共有されていると思っていた。医師の情報源もそこからだろうと。そんな須臾の心理を察したのか、医師がかすかな苦笑いを浮かべる。

「さすがに上は知っているでしょうが、私自身は文字にされた情報より、目の前にいるその瞬間の一人一人を診てきたつもりです」

 確かにそうだった。この十年、精神に異常をきたさなかったのは、この医師のおかげでもある。

 罵られ、恨まれ、時に相手を死に追いやることも辞さない、そんな業務だ。現に任期を全うする人間は半分にも満たない。

「この十年、あなたは常に一定でした。安定していると言ってもいい。上ばかりではなく、元来の所属先からも声がかかったはずですが」

「それも断りました。様々な意見があるでしょうが、十年以上現場を離れていた者がのこのこ戻れるほど甘くはないと思っています」

「正直に言えば、その知り合いからあなたの説得を頼まれています」

 珍しく医師の目が強い。

「難しいですね。あの島に住みながら続けていくことは」

「あの島に住むことが前提ですか……確かにそれは難しい」

 医師は腕を組み、エルゴノミクスチェアの背にもたれながら、しばらく目を閉じた。

 そこで須臾は初めてと言っていいほど医師の風貌をまじまじと観察した。年は四十代半ばほど。すっきりとした体躯には適度なトレーニングの成果が見受けられ、鼻筋はすっと通り、唇はやや厚ぼったい。常に笑みを湛えていた細目は今は閉じられているが、直前の強い視線は鋭敏だった。




 医師と話したあと、上からの執拗な打診がぴたりと止まった。

 その代わりと言ってはなんだが、須臾のもとには厄介な案件ばかりが回ってくるようになった。資料を眺めながら溜め息を呑み込む。青にこれまで以上に身辺に気を付けるよう言った方がいかもしれない。資料を読んだだけでもその複雑さは明白なのに、これを内々で処理することの難しさに頭を抱える。


「しばらく綿に来ないよう連絡した」

「また?」

「まただ。今回は今まで以上に面倒なんだ。青も気を付けるように。ああ、悪いがしばらくは宅配便も控えてくれ」

「私の場合は大丈夫だと思うけど、一応気を付けておく。じゃあ、今やってるのは別のコンビニから送った方がいいかな」

「そうだな。出来上がったら直接配送センターに持って行く」


 そんな会話をした翌週だった。帰宅すると青がエントランス前で待ち構えていた。

 何があったかを目で促すと、眉根を寄せた青は「うーん」と唸った。

「勘違いかもしれないんだけど、なんかさっき、玄関ドアの前をうろうろしてた不審者がいた」

 このビルの五階まで上がってくる人間は滅多にいない。階数ボタンを間違えて押したとしてもエレベーターから降りることなく正しい階に行き直すのが普通だ。

「ドアスコープから覗いてみたらマスクしてぶっとい黒フレームの眼鏡かけたわかりやすく怪しい人で、とりあえず尾行したら寄り道しないで真っ直ぐ駅まで行って上り電車に乗った」

 一緒に乗り込んだエレベーターの中で須臾は呆れ混じりに「尾行するなよ」と洩らした。

「ほら、不動産屋さんとか水道局の人とか、なんかそういう系の人かなーとも思ったんだけど、それにしてはやたら高級そうなスーツだったし、何より挙動不審だった」

 ドアなどに何かしらの細工なりがなされていれば、防犯カメラ映像からすぐさま通報され警察が駆けつけることになっている。念のため退社時に電源を落としていたスマホの電源を入れると、情報部からの着信が残っていた。家に入る前にかけ直す。

 青が言っていた通り、不審者がいたらしい。カメラの存在に気付いたらしく、特に何をするわけでもなく不審者は撤退している。現在念のため画像解析中とのことだった。再三注意しているが、との苦い声でスマホの電源を切るなと訓告された。

「やっぱり怪しい人?」

 須臾が玄関ドアを開けると、先にバルコニーから家に入っていた青が声をかけてきた。心なしか声が弾んでいる。何を期待しているのか、青はトラブルを面白がる傾向がある。

「どうかな。単なる勧誘ってこともある」

 靴をサンダルに履き替えて洗面所に向かい手を洗う。

「マスクにだて眼鏡で?」

「なぜだて眼鏡だとわかった? 冷蔵庫壊れるぞ」

 スーツから部屋着に着替えると、気もそぞろな青が意味もなく何度も冷蔵庫を開け閉めしていた。須臾に注意された青はぱっと冷蔵庫から手を離す。冷蔵庫が不機嫌そうにモーター音を響かせた。

「近くで見たら度が入ってなかった」

「不審人物に近づくなよ」

「どうせ見えないし」

「それでも」

 不満そうな青は食事の支度を始めた。

「あ、そうだ。せっかく時間ができたから美術館巡りしようと思って。でさ、帰りに待ち合わせしてご飯食べてこようよ。たまには肉肉しく」

 青が広げた雑誌には肉肉しい巨大ハンバーガーが載っていた。その雑誌によると人気ナンバーワン店らしい。

「お持ち帰りにして、どこか公園で夜桜見ながら食べようよ」

 須臾が頷くと、途端に青の機嫌がよくなった。






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