ラファエル・ロッドの思惑
幼い頃から妹に譲ってきた姉・ラファエルが譲れないもの。
子爵令嬢ラファエル・ロッドには妹がいる。金の髪、青緑の瞳のラファエルとは違い、髪はピンクブロンド、瞳は紫、体つきも18歳にして豊満なラファエルとは正反対な華奢な体形。妖精のようだ、とは妹を形容するためにある。
そんな妹、アンジェリークをラファエルは溺愛している。
「お姉様!」
ばたん!と淑女らしからぬ乱暴さで扉を開けて部屋に踏み入ってきたのは、アンジェリークだった。
「アンジェ、レディたるものもう少しお淑やかになさい」
姉のお小言にアンジェリークはぷくっと頬を膨らませるが、結局許してくれることを知っている。すぐに花の咲くような笑みを浮かべると、いつものようにおねだりをはじめた。
「ねえ、お姉様。この間見せてくれたネックレス、わたしにくださらない?クレアおばさまのお茶会につけて行きたいの!」
くれることを疑っていないアンジェリークは、早くも「きゃっ」と声をあげて笑い、くるくると回った。子供じみたその様子に、ラファエルの友人がわずかに眉をひそめる。
「ネックレス…。ああ、あのピンクサファイヤの?」
「そう!あんな色のサファイヤがあるなんて!ねえ、お姉様、いいでしょう?」
ラファエルは仕方がなさそうにくすりと笑い、少しだけ考え込む。しかしやはりいつものように、緩慢にうなずいた。
「そうね、いいわ。ただし、私に一番に見せに来ること。いいわね?」
「はい!お姉様、ありがとう!」
アンジェリークは来た時と同じようにばたばたと去って行った。
「…ラファエル様、よろしいのですか」
「いいのよ。あの子はいつもああなんだから」
幼い頃から、アンジェリークはラファエルの物を欲しがった。
絵本、人形、ドレス、アクセサリー。なにもかもをだ。はじめのうちは戸惑ったラファエルだったが、両親は姉なのだから譲ってやれと言い、そういうものかと納得した。以来、ラファエルはアンジェリークに譲ること前提で物を持つようになった。
「でも、もうじきにデビュタントを迎える令嬢が、ああも不作法ではいけないわね。お母様にもう少し厳しくするように言っておきましょう」
「ラエルが許してしまうのが原因でしょうに。あなたが厳しくするべきではなくて?」
友人は遠慮がない。ラファエルは「そうね」と言って紅茶を一口飲み、ほっとため息まじりに言った。
「仕方がないわ。あの子は妹なんですもの」
「せっかくクラーラの店に行くのに妹に譲ること前提なんてやめてね。売ってくれなくなっちゃう」
「それはないわよ。私とあの子じゃ似合うものが違うもの」
そう、クラーラの店の最大の売りは『一番似合うもの』だ。リボンのひとつをとってもクラーラが少女にあわせてレースを編んだり刺繍を入れたりする。同じものはひとつとしてなく、だからこそクラーラの店で買うことが少女たちのステイタスになっているのだ。
「だったらいいけど…」
「この日のためにお小遣い3ヶ月ぶんも貯めたのよ。さあ、いざ行かん、クラーラの店!」
ロッド家は子爵とはいえ本当に小さな分家にすぎない。西の国境沿いの辺境にある侯爵が本家だ。とはいえ分家なりの矜持を持っているので貴族として王城のある王都に屋敷を構え、商売をしている。
ラファエルは長女で、男子のいないロッド家を継ぐのは彼女になる。騎士爵の三男であるゴードン・ヘイゼルと婚約中だ。ラファエルより二つ年上の20歳、なかなかの美男子と評判の騎士である。
結婚は、ラファエルがもう少し商売の勉強をしたいと先延ばしにしているが、アンジェリークの社交デビューを目途に本格的に進める予定だ。ラファエルが家を継ぐため、婿養子である。
「こんにちは、クラーラ様」
「いらっしゃーい。久しぶりねえラファエルちゃんとアリスちゃん」
「お久しぶりです」
クラーラの「久しぶり」には商売人にありがちな嫌味がない。ラファエルはクラーラを見習おうと彼の所作の一挙手一投足を見逃すまいと目を見開いた。クラーラがくすくすと笑う。
「ラファエルちゃんはあいかわらず商売熱心なのねぇ。そんなに見つめられたら溶けちゃうわ、お茶にしましょ」
クラーラの出す茶は、各国からさまざまな伝手で入手したものだ。紅茶はもちろん、ハーブティーや東洋の緑茶まである。お茶うけに出される菓子もラファエルが家やお茶会などで出されるものと比べると一段上だった。
これらに料金はかからない。クラーラ流のおもてなしであり、サービスだという。リラックスさせることで口の滑りを良くし、相手の好みや事情、仕草まで考慮に入れて完璧なものを作りだすのだ。
「聞いてくださいなクラーラ様。ラエルったら、またアンジェリークにネックレスを譲ってしまったんですのよ」
「あらぁ、また?ラファエルちゃんのシスコンは筋金入りねぇ」
「だって、アンジェったら可愛いんですもの!」
そう、アンジェリークは可愛いのだ。貴族らしからぬ振る舞いが社交デビュー前だから許されていると知っているのだろう、最近はその傾向が強く、ラファエルを困らせている。
「気まぐれな妖精のおねだりを断れないわ…!」
「それで大事にするなら諦めもつくけど、あの子は貰ったら満足してポイでしょ?見てるこっちが腹立つわ」
「そうですねえ、大切にしていただけるのを譲渡の条件にしてみてはいかがです?」
突然割り込んできた低音ボイスにラファエルとアリスがハッと見ると、穏やかな顔の青年がにこにこと笑いながらお茶を飲んでいた。
「マージェス様…!いつからこちらに?」
「ついさっきですよ。あなたへの贈り物をなににしようか、クラーラさんと相談をしに」
この穏やかな青年はデュラン・マージェス。新興成金で知られるマージェス家の長男だ。同じく長女であるラファエルにずっと求愛していたが、彼女は婿取りをしなければならないため婚約は成立しなかった。
だがデュランは諦めが悪かった。ラファエルを本気で愛していると、彼女がゴードンと婚約してもなお求愛し続けている。
「残念ですが、マージェス様。私そろそろゴードン様との結婚の話を進めますの」
ゴードンとの婚約が決まってから一度も贈り物を受け取っていない。せめてもの誠実さをラファエルは示していた。
「そうですか。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ラファエルは困ったように微笑んだ。姉気質だからだろうか、そういう微笑みはラファエルを慈悲深い女神のように見せる。デュランはうっとりとした顔でラファエルを見つめた。
「マージェスちゃん、ラファエルちゃんったら今度はネックレスをあげちゃったんですって」
「なるほど。では、僕から最高のネックレスを贈りましょう」
「受け取れませんわよ?」
「いいんじゃない?ゴードン様はあなたに贈り物なんかしないんでしょう?」
「ゴードン様には事情があるもの」
ゴードンの事情とは、ずばりヘイゼル家の財政難だ。しがない騎士爵の三男では自分の財産は自分で稼ぐほかない。
一方のラファエルは、子爵家の後継ぎとしてそれなりに金をかけて育てられている。アンジェリークに渡ってしまうことも考えて、長持ちするように良い品ばかりだ。
しかしそうはいってもラファエルが自由に使えるのは自分の小遣いくらいだ。アリスをはじめとする友人と連れ立ってクラーラの店に行くのは彼女にとって最高の娯楽であった。
「マージェスちゃんは宝石を選んでいて。さ、まずはラファエルちゃんからはじめましょう。お客様、何をご所望ですか?」
お道化た口調でクラーラが宝石の入った小箱をデュランに渡し、ラファエルとアリスには彼女たちの小遣いでも買える布のサンプルを出す。
「予算にもよるけど、今なら良い布地が入ってるから帽子か手袋…。レース用の糸も新色が入ってるわ」
「まあ、素敵!」
「こちらの糸でレースを編んで、髪飾りなんか良さそうね」
「レースだけじゃ地味だから、ビーズを入れませんか」
宝石を見定めていたデュランが口を出す。
「そうねぇ…。ラファエルちゃんは素材もいいし、ゴージャス系が似合うわね。リボンで花を作って、レースに宝石ビーズを使って…こんなのはどうかしら」
クラーラがささっとデザインをスケッチし、色鉛筆で色彩を加えていく。ローズレッドの薔薇とレースのついた豪奢な髪飾りだ。
「いいですね」
なぜか一番に絶賛したのはデュランだ。ラファエルはデュランに賛同するのもと思いつつうなずく。
「ええ。今度の夜会に使おうかしら」
「おや、どこのですか?」
「うちのよ。ラファエルは親友ですもの、来てもらわなくっちゃ」
夜会に招く客は、ホスト側の人脈を周囲に知らしめる示威行動でもある。ラファエル・ロッドは次期当主であり、この国では珍しい女当主となる立場だ。またロッド家は子爵とはいえ商売をやっており、国境に近い本家から他国の品々も入ってくるだろう打算もある。
「ああ、アリスさんのところのですか。それなら僕も招待状が来ていますね」
もちろん友人として、アリスにはアリスの考えがあった。ラファエルの婚約者、ゴードン・ヘイゼルについては彼女も紹介されて何度か会っている。その度に感じるのは違和感だ。
ゴードンは騎士なだけあって体格は良いし評判通りの美形なのだが、ラファエルに対する態度がどうにも傲慢なのだ。あからさまではないものの、嫁に貰ってやるのだと考えているのが透けて見える。たしかに子爵家といえども婿探しは難しいが、騎士爵の三男ではいかに実力があっても出世するのは妻の後ろ盾いかんだということを理解していないように思える。ラファエルは口ではゴードンを庇うが、では愛があるのかと問えば首をかしげるだろう。
だったらデュランのほうが良いとアリスは思う。そもそもラファエルは、デュランと恋人の関係だったのだ。どちらも長子であり、家を継がなくてはならない事情があったから破局に至ってしまったが、デュランはラファエルを愛しているしラファエルだって今も気持ちは同じだろう。
アリスは友人として、天然でお人好しなラファエルの幸福を願っていた。
「アリスちゃんはどうする?」
「えっ?」
「もう、ラファエルちゃんのことは本人たちに任せておきなさいな。何か作っていくんじゃないの?」
クラーラの手には真白いページのスケッチブックがある。
「え、ええ…。私も夜会用にドレスを新調したんですけど、どうも大人っぽくて。襟だけでも変えようかと」
「襟ね。なるほど」
アリスがドレスの説明をすると、クラーラは考えてはスケッチしていく。ラファエルとデュランは以前の頃のように軽口を言い合い笑っていた。
「たしかにこれじゃ地味ねぇ。アリスちゃんは見た目が大人っぽいんだから、もうちょっと冒険してみる?」
クラーラのデザインは地味で控えめなドレスのデコルテに生花とレース、肩には大きなリボンを付け、袖からも大きくレースが見えるものだった。
「これだけでもずいぶん違いますのね…」
「そうよぉ。同じドレスでも印象が違えば何度も着られるわ。お得でしょ」
夜会用のドレスは様々なパーツからなる、まさしく淑女の鎧だ。生地やレースなどもそうだが、宝石やビーズが縫い付けてあると値段がぐんと高くなる。あまり余裕のない家だと一着新調するだけで家計を圧迫する。アリスの家はそこまで困窮していないが、それでも年頃の娘の夜会用ドレスとなれば毎回同じものというわけにはいかなかった。
感心するアリスにクラーラがそっと囁いた。
「あの二人なら心配いらないと思うわ」
「え……」
「二人とも商売人だし、駆け引きはお手の物でしょ。なるようになるわよ」
ちらりと目で示された先にはまるで夫婦のようにやりとりをして笑いあうラファエルとデュランがいた。
こうして眺めていると、クラーラの言う通りなるようになるのではと楽観的な思いになる。だが、二人の家の事情はそう簡単ではない。ラファエルの婚約は決まっているし、デュランも優秀な次期当主として知られている。デュランにはひっきりなしに縁談が舞い込んでいるという噂だ。
「人の恋路に嘴を突っ込んだって良いことないわよ。アリスちゃんこそお相手とどうなの?」
「クラーラ様ったら!」
夜会当日、ゴードンが正装をしてラファエルを迎えに来た。
「こんばんは、ゴードン様」
「ああ」
ゴードンはラファエルを不躾に眺めると、ラファエルの両親に挨拶へ向かった。友人家の夜会とはいえ未婚の娘を連れだすのだ、やはり礼儀は通さねばならない。
「ゴードン様!」
そこにアンジェリークがやってきた。ラファエルとは違い、室内用のドレスだ。そこに先日ラファエルから譲られたネックレスをつけている。
勢いのままゴードンに飛びついたアンジェリークを、さすがにラファエルも見咎めた。
「アンジェ、殿方にそう飛びつくものではなくてよ」
アンジェリークに飛びつかれたゴードンは打って変わって笑顔で彼女を受け止め、すかさず抱き上げて一回転した。ふわりとドレスが揺れ、アンジェリークの愛らしさを増幅させる。
「いいじゃない!もうすぐお義兄さまになるんだし、ね?ゴードン様」
「まあ、そうだな」
「ゴードン様まで…」
婚約者まで妹に寛容になられては、ラファエルが出る幕はない。はしたないまねはおやめなさい、と軽くお小言だけに留め、ラファエルはゴードンと馬車に乗った。この馬車は婿殿の移動にとロッド家が贈ったもので、御者の賃金もロッド家が支払っている。ゴードンは当然といった態度で乗り込んだ。
夜会には紳士淑女が揃っていた。貴族とはいえそれほど高位の者はおらず、親しい者たちの集まりといった雰囲気だ。ゴードンと連れ立って現れたラファエルも安心して溶け込んだ。
仕事が男の戦場なら、社交は女の戦場だ。少しでも有利になるように情報を集め、まとめ、考え、家を運営する。女は家で守られていればいいという男は女のなんたるかをわかっていない。裏側の支援がなければどれだけ有能であっても出世できないのはどの世界でも同じだろう。
ゴードンはラファエルと2曲踊った後、早々に男ばかりが集うゲームルームに引っ込んでいった。
「あいかわらずですわね、ゴードン様は」
そっとやってきたアリスが言った。本人がいなくなったからか、嫌悪を隠そうともしていない。
ラファエルは自分のために怒ってくれる友人に申し訳なさそうに微笑む。
「そう言わないで。あれで良い所もあるのよ」
「どこが?」
「たくましくて、頼りになるわ」
傲慢で乱暴の間違いじゃなくて?と言おうとして、アリスは口を噤んだ。自分の感情と彼女の感情は違う。婚約者の良い所を素直に受け止められるのはラファエルの美点だ。
「それよりアリス、今夜の衣装はとっても素敵ね」
「ありがとう。クラーラ様のおかげですわ」
「あなたが磨けば光る素材だからでしょう」
ラファエルはうつむいた。
今夜のラファエルはドレスこそ新調しなかったが、クラーラの店であつらえた髪飾りを付け、それにあわせたアクセサリーをつけている。会う人会う人に褒められた。だが、ゴードンはひと言も感想を言ってはくれなかった。せめてお世辞でも綺麗と言ってくれるのではと期待したぶん落胆も大きかった。
アリスはうつむいたラファエルに察するところがあったのか、母たち大人の女性陣が集まっているところに彼女を案内した。
夜会が終わり、帰る間際まで酒を飲んでいたのか、ゴードンは明らかに酔漢の足取りで馬車に乗った。
彼はこういう社交の場が苦手な男だった。いつだってすまし顔の貴族共が表面だけを取り繕って腹の探り合いをしているとしか思えない。ひたすらに酒を飲んでやり過ごすしかなかった。
「ゴードン様、飲み過ぎですわ」
ゴードンは馬車の背もたれに寄りかかり酒臭い息を吐くと、たしなめるラファエルをうるさげに見てふんと顔を背けた。ラファエルは良い女だが、どうにも舵を取られているようで気に食わなかった。冷たい態度をとり、その度にラファエルが悲しそうな顔をするとわずかな歓喜が湧きおこり、ゴードンの胸を軽くする。
今も、そうだった。馬車で寝てしまわないようにとラファエルがあれこれ話しかけてくるが、返事は一度もしない。不機嫌を隠すことなくむっつりと黙り込んでいれば、とうとう諦めたのかラファエルは悲しそうに口を噤んだ。そっと手を撫でられる。ゴードンは乱暴に払いのけた。
「お帰りなさいませ」
ロッド家に着くとラファエルはゴードンの部屋を用意させた。万事ぬかりないロッド家の使用人たちは、ゴードンの酒癖の悪さも知っており、客室はいつ誰がやってきても泊まれるように準備されている。執事二人が両脇からゴードンを支えて馬車から降ろすと客室に連れて行った。
「私も疲れたからお風呂に入って休むわ」
「はい。準備はできております」
ドレスをメイドに任せ、ラファエルは入浴に向かった。風呂には薔薇の香りのオイルが入っていた。酒好きのゴードンと一緒にいて、酒精の匂いが鼻についているだろうという気遣いが嬉しかった。
風呂は一種の贅沢だ。湯を大量に沸かす薪の用意から清潔な水、体を拭く布など、支度が大変なのも風呂が贅沢になった一因だろう。
昔は一般にも普及しており公衆浴場などもあったが、一時期流行した病が風呂で感染すると風評被害が広がったため、今はあまり見かけない。貴族の屋敷でも毎日というわけにはいかず、週に何度かあれば良い程度である。メイドをはじめとする使用人たちは残り湯をいただくのがせいぜいで、主人の入浴日を待ちわびている。
だからこそ、そのぶん張り切って支度を整える。明日には屋敷中が薔薇の香りに包まれるだろう。それを思い、ラファエルは笑った。クラーラの店で買った石鹸をメイドたちにも使わせてあげよう。外国からの輸入品で香りも泡立ちも良く、肌の潤いを守る成分も入っているという一品である。
「これ、良かったら使ってみて」
「いいんですかお嬢様!?」
「クラーラのマークがついてる!」
クラーラの店は女の子の憧れだ。ラファエル付きメイドたちも当然のように店に行くことを夢見ている。子爵家程度の給金で賄えるメイドは貴族出身の子女ではなく、紹介状を持っている身元のしっかりした市井の少女だ。家族への仕送りも含めると手元にたいした額は残らない。
「あなたたちはいつも頑張っているものね。私のお古で申し訳ないけれど、使ってちょうだい」
「ありがとうございます!」
「お嬢様、ありがとうございます」
ラファエルは自分付きのメイドをけして蔑ろにしなかった。いずれ家を継ぐ者として、家内で働いているメイドや執事はラファエルの手足だ。身なりをきちんと清潔にするのも主人の役目だと思っている。
「夜会はいかがでしたか?」
「楽しかったわ。アリスはすごいわね、今夜の夜会はアリスが段取りを受け持ったらしいの。それにあのドレスをあんなに素敵に着こなして!あれはアリスじゃないと難しいんじゃないかしら」
アリスが地味と評していたドレスだが、彼女の落ち着いた雰囲気に良く似合っていた。それを損なわず、むしろ引き立てていたクラーラ特製の襟飾りももちろんだが、やはりアリスあってのことだ。
「私ももうちょっとアリスみたいに淑やかさを出せればいいのに」
「まあ、お嬢様。それは贅沢というものですわ」
「そうですわ。お嬢様はわたくしたちの憧れですのに」
たっぷりと泡立てた石鹸でラファエルの体を洗いながらメイドたちが苦笑する。お世辞ではない。金髪に青緑の正統派な外見といい、豊満でありながらバランスの良い体つきといい、ラファエルは物語に出てくる令嬢そのままだ。子爵家という貴族の中では位が低いことと商売を営んでいることから気安く、メイドにとって仕えやすいのは間違いない。なによりラファエルは我儘を言わず、やさしかった。ラファエル付きメイドの自分たちがアンジェリーク付きメイドたちから羨ましがられていることを、この主人は知らないのだろう。
「お肌も白くて滑らかで、御髪も艶やか。ヘイゼル様も幸せですわね」
「…………」
ゴードンの名が出てもラファエルは微笑んだだけだ。そういえばゴードンの話はなかったことに気づき、メイドは自分の失敗を悟る。慌ててもうひとりが取り繕った。
「こ、今夜の髪飾りもそれは御髪に映えてお綺麗でしたわ」
「ありがとう。…下がっていいわ」
「はい」
「はい。では、上がる際にはお呼びください」
「ええ」
体を洗い終えたメイドが風呂場から下がり、ひとりになるのを待ってラファエルは湯船に浸かった。
「……ふぅ」
ついついため息が漏れる。こうして風呂に入る時くらいしかリラックスできない現状は正直きつかった。
屋敷の使用人たちは全部とまではいかないが掌握できている。忠誠まではいかずとも好意は抱いてくれているだろう。少なくとも、アンジェリークよりは。
ラファエルにとって、アンジェリークは可愛い妹だ。それは今も変わらない。
だが、幼い頃から自分の物を欲しがり妹特権をこれでもかと利用して、あるいは泣き真似までして奪われるのには納得していなかった。
両親がどちらかというとラファエルに重きを置いているのは、ラファエルが跡取りの自覚をもって行動していることと、妹の所業が大きいのだろう。絵本も人形もドレスも、最終的にはアンジェリークの物になる。代わりの物を買い与えてはくれるが、たとえば人形と一緒に眠った思い出や、絵本を母に読んでもらった思い出は取り戻せない。アンジェリークは姉から奪えれば満足するのかよほど高価なものでもない限り大切にしようとしなかった。それがまた腹立たしく、悔しいのだ。
奪われて恨まない人間などいないだろう。たとえ妹であってもだ。ラファエルはアンジェリークを可愛いと心底思っているが、同時にどうすれば排除できるのかずっと考え続けていた。表立って動かないのはいつ何時アンジェリークにばれて泣かれるかわからないからだ。妹に泣かれるのは本意ではない。
ゴードンとの婚約もアンジェリーク対策のひとつだった。子爵家に婿入りしてくれる男を探すのは難しいことを逆手にとった。家柄こそ騎士爵という低い身分の三男だが、ゴードンはいかにも騎士然とした男だ。女受けする顔といい、どこか俺様な態度といい、恋に恋する少女ならコロッといきそうだ。
このところのゴードンもどうやらラファエルよりアンジェリークに惹かれているようで、態度があからさまになってきた。姉のものならなんでも欲しがるアンジェリークなら男にも手を出しそうだと予想していたが、どうやら当たりらしい。あの二人がくっついてくれないと、家の中でも気が抜けない。それに一応婚約者なのだからゴードンを悪く言うこともできなかった。
長女って大変だわ。倦怠感を振り払い、ラファエルは湯船から上がった。
「ゴードン様はもうお休みになられたかしら?」
「いえ、先程寝酒のワインをお持ちしていました」
ヘイゼル家に比べて裕福なロッド家は置いてある酒も豊富で良いものばかりだ。ここに来るたびに酒を飲むゴードンにさもありなんと苦笑して、ラファエルは彼のいる客室に向かった。
「では、ご挨拶してから休みます」
寝間着姿に羽織を着ただけのラファエルは湯上りもあいまって色っぽい。メイドは少し戸惑ったがラファエルなりのアピールと思ってくれたのか、黙って付き添った。
「ゴードン様、お休みですか?」
控えめにノックをする。まだ眠ってはいなかったのか、がたがたっと音がした。メイドと顔を見合わせる。
「ゴードン様?」
まさか、という思いを隠さず、ラファエルはドアを開けた。
クラーラの店で、アリスは憤懣やるかたないといった顔をしていた。
「あの男!よりによって婚約者の妹に手を出すなんて!!」
「アリスちゃん、お顔がすごいことになってるわよ」
さすがにクラーラも引き気味だが、アリスはおかまいなしだ。
「顔なんて!クラーラ様は何とも思いませんの!?私、もう、悔しくって……!」
感極まったのかアリスは泣き出してしまった。テーブルに突っ伏した黒髪を撫でてやりながら、クラーラはやれやれとため息をつく。
今、社交界のみならず庶民の間でも、ラファエルの婚約者であったゴードン・ヘイゼルとラファエルの妹であるアンジェリーク・ロッドの醜聞でもちきりだ。
あの夜会の日にふたりが密会――といえるのか、ロッド家の客室でのあられもない姿を、よりにもよってラファエルに発見されたのはまずかった。ラファエルのそばにメイドがいたことも更に悪かった。
ラファエルはさすがに淑女なだけあって叫ばなかったが、金切り声をあげたメイドに目の前の光景が現実だと理解するや失神してしまったのだ。主人が気絶したのを見たメイドがさらにパニックに陥り、あっという間に家人が集まってしまった。言い逃れできない現場を、当の婚約者とその両親にばっちり見られてしまったのだ。
当然ラファエルの両親は激怒した。夜中に突然呼びつけられたヘイゼル家当主はラファエルの父の学生時代からの友人で、息子のしでかしたことに平身低頭で謝った。
アンジェリークは自分のしたことの大きさを理解していないのか泣くばかりだったが、未婚の娘、しかも社交界に出る前の娘の醜聞は本人だけではなく家名に傷をつける行為である。姉の婚約者を寝取ったというだけでも絶縁ものだ。両親にこんこんと説教され、ようやく罪を自覚したらしい。青くなって震えていた。
両親はアンジェリークを社交界に出さないと言ったが、それは可哀想だと庇ったのはやはりラファエルであった。今後のことも考えて、せめてデビュタントだけはすませてあげてと訴えた。
デビュタントを終えたらすぐさまアンジェリークとゴードンが結婚することで話がついた。
「ラエルは甘すぎるわ!いくら妹だからって、あ、あんなこと…っ」
ラファエルはむしろ話が大きくなりすぎたことに戸惑っているようだった。ラファエルにとっても今回のことは痛手であり、なるべく早く収束させたいのはわかる。だが、罰が軽すぎてはあの妹のことだ、またしでかすだろう。
「…アリスちゃん?あなたはもう少し裏を考えてみるべきだわねぇ」
泣くに泣けないラファエルの代わりとばかりに怒り泣くアリスに、クラーラは言った。
落ち着きなさいなと紅茶を淹れるクラーラに涙を拭いて化粧を直したアリスはなんのことだと問いかける。
「クラーラ様、裏とは…?」
紅茶の香りが泣きすぎて痛い目頭をやわらかく包み込み、また涙が滲む。ぼんやりとした視界にクラーラが映った。
「ラファエルちゃんよ。あの子はたいしたものよ。本当に大切なものはなにひとつ妹に渡していないもの」
「え…でも…」
「いつまでも子供じゃないってことよ。気づいてる?ラファエルちゃん、デュランちゃんからの贈り物は受け取れないとは言ったけど、いらないとは言っていないのよ」
ぽかんとするアリスにクラーラはくすくすと笑った。
ラファエルは妹に甘い。だがそれ以上にしたたかだった。現にクラーラの店で買ったものを譲ったという話は聞いたことがないし、デュランが彼女に贈った物は一度も受け取っていない。
「そういえば……?」
「あの子の根っこは商売人なのね。本当に大切なもの、価値のあるものをどうすれば守れるのか考える頭があるわ。ラファエルちゃんは物は譲っても、プライドは譲らなかった」
ラファエルとデュランが恋人であったのはほんの一ヶ月程度だ。互いに両親の反対にあって別れている。だがその一ヶ月でこれ以上の相手はいないと互いに理解していたのだろう。だからこそ、ラファエルはアンジェリークに奪われることを懼れ、デュランと別れたのだ。
「商人は一度大失敗したほうが成功すると言われているわ。どん底を味わうとどんなことにも耐えられる根性がつくわけ。意に染まぬ婚約は二人にとって苦渋の決断だったでしょうけど、そのぶん愛は深まったんじゃないかしら」
「そ、それじゃ…。ラエルはこうなることを予想して…?」
「ここまで大きなスキャンダルになるとまでは思わなかったでしょうけど、妹に奪われることは予想できたでしょうね。計算していたかどうかは…ちょっとわからないわ。ラファエルちゃんって、本当にシスコンだから……」
むしろ妹のためにゴードンを見定めていたとも考えられる。
ちょっと行き過ぎた妹への溺愛ぶりを見ていたアリスは、なんだか納得してしまった。
「ああ、クラーラ様、それはたぶん素でやっていたと思いますわ。ラエル、アンジェに譲ること前提でいたから」
とはいえラファエルに似合うものがアンジェリークにも似合うとは限らない。好みだってまったく同じではないだろう。ましてや伴侶だ。
ラファエルならゴードンをコントロールできても、姉ありきで生きてきた妹にできるとは思えない。クラーラの聞く噂話でもゴードンという男は卑屈で、それをごまかすように傲慢だった。我儘な少女のアンジェリークとでは、互いに失望し疲れる結婚生活になるだろう。
「…でも、良かったんじゃなぁい?デュランちゃんが未だに浮いた噂のひとつもないのは、ラファエルちゃんのためでしょ」
「そうですわね。デュラン様は誠実ですから、今度こそご両親を説得してくれますわ」
婚約者を寝取られたラファエルの結婚は、さらに難しくなる。デュラン以上の男は見つからないだろう。ひっきりなしの縁談を片っ端から断っているのだから、ラファエル以外とは結婚しないと宣言しているようなものだ。
「ふふふ。まだ打診だけれどね、マージェス家からウエディングドレス用の生地の注文が来てるのよ」
「まあ!」
「お似合いの二人を引き裂くことはできないってことよね。ああ、来たみたい」
ちりりん、とドアベルが鳴り、来客を告げる。
幸福そうなラファエルと、彼女をエスコートしたデュランが入ってきた。
次は妹・アンジェリークの話になります。
ステラおばさんはたぶんクッキー作りが得意。
誤字訂正ブラコン→シスコンでした!ご指摘ありがとうございます。