ヒューズ・ジュデンの婚活・前
たまには男を主役にしてみようと思ったら筆が滑りました。
ヒューズ・ジュデンは十人中九人が口を揃えて「良い人」と評価する男である。
王都の安全を守る警察官として務め、革命時には民衆を守って戦った。その功績が認められ、この度めでたく昇進が決定。そろそろ身を固めたいお年頃の二十五歳である。
ヒューズは良い人だ。
ご近所さんは、
「ヒューズさん? ああ、良い人だよ」
と言い、同僚の警官も、
「ヒューズは良いやつだ!」
と太鼓判を押す。今まで付き合ってきた女性たちだって、
「ヒューズ? そうね、彼は良い人だったわ」
そう微笑むだろう。
つまるところ、ヒューズ・ジュデンという男は、どこまでいっても「良い人」止まりなのだった。
だからなのか、決まって最後にはフラれてしまう。
「ごめんなさい、ヒューズ。あなたはとっても良い人だけど、結婚したいと思えないわ」
花束と指輪を差し出し、片膝をついてプロポーズ。現場は恋人たちの人気スポット、花咲き誇る公園の池に浮かぶ四阿だ。おりしも夕暮れ時、愛を囁くにはぴったりのシチュエーションである。
まさかのお断りに凍り付くヒューズに、彼女は申し訳なさそうな、けれど毅然とした態度で彼に別れを告げた。
「あなたなら、私よりもっと良い人が見つかるわ。さよなら、ヒューズ」
ヒューズが結婚したいと思ったのは彼女であって、現れてもいない架空の恋人ではない。体の良い別れ文句に決めポーズのまま動けないヒューズを置いて、彼女は未練のない足取りで去って行った。
ぴゅう、と風が吹き、仲睦まじげな恋人たちが無残に散ったヒューズに気の毒そうな視線をちらちらと送る。消えてなくなりたくなった。
いつもこうである。
プロポーズまでしたのは彼女がはじめてだが、ヒューズはいつもフラれてしまう。どの彼女もヒューズを良い人だと言ってくれるが、それならなぜ別れることになるのかヒューズに教えてはくれなかった。
先程の彼女――元彼女とは長く続いたほうだ。結婚に焦っていたつもりはないが、時期尚早だったのだろうか。それならそれでまだ早いと言ってくれれば、いや、良い人と言いつつも他の女が見つかるというくらいだ、別れが頭にあったのだろう。
「良い人の何が悪いってんだ……っ」
「別に悪くないわよぉ。頭に『都合の』とか『調子の』とか付かなければね」
馴染みの居酒屋でヤケ酒を煽っていれば、常連客でヒューズとも顔馴染みのクラーラが笑いながら茶々を入れてきた。
喉を鳴らしてビールを飲み干し、次を注文する。グラスを叩きつけるように置いたヒューズがついでに頭も乗せた。
「あ、あとは『あれさえなければ』っていうのもあったわねぇ」
「あれってなんですか……」
「主に酒癖ね。酔っぱらって醜態晒して尻拭いは周囲の人となれば普段どんなに良い人でも『お酒を飲まなければ』良い人だわ。それと口臭。食事のマナーも地味に気になるわよねぇ。あとは――」
「もういいです」
「あらぁ、ヒューズちゃんのことを言ってるわけじゃないわよぉ?」
クラーラは若者の失恋話を肴にして楽しいらしい。ころころと笑った。
「ヒューズちゃんはそこそこ顔が良いし、働き者のイイ男じゃなぁい。またすぐに恋人ができるわよ」
「昇進が決まった」
「あらぁ、ますます良いじゃない。優良物件だわ」
「だから結婚したかったんだ……」
お代わりのビールをまたぐいと飲み干し、ヒューズは鼻を啜った。
ヒューズはクラーラの店の常連というわけではないが、恋人ができると必ず店を訪れていた。居酒屋で酔っぱらいが意気投合というよくある話だ。酔った勢いというのか、大柄な女装男に引くでもなく、気持ち良く飲み食いしていたクラーラに話しかけ、その人生観となぜか鋭い観察眼に感心し、今では大切な飲み友達兼相談相手である。
クラーラが高級店街に店を持つ仕立て屋だと知った時は驚いたが、歓迎するわよと言われて行ったら本当に歓迎してくれた。ヒューズの給料でも買えるレースのハンカチやリボン、手袋など、その時の恋人に似合う絶妙な物を薦めてくれるのだ。貴族様御用達の店で恋人がプレゼントしてくれた満足感に、彼女たちは感激し瞳を潤ませていたものである。
「結婚って、生活なのよね。貴族様と違ってアタシたちは愛だけじゃぁ食べていけないもの。慎重になるわよ」
「クラーラさんだって独身だろ」
「おだまり青二才が。そんなんだから良い人止まりなのよ」
クラーラの指先がヒューズの鼻を抓んだ。わざとだろうが爪を立てられて痛い。
「何、クラーラさんわかるの?」
「伊達に歳食ってないわよ。ヒューズちゃん、教えて欲しいなら素面の時にお店に来てね」
ウィンクひとつしたクラーラに、なんだ営業かとヒューズは酒臭い息を吐きだした。酔いに任せて目を閉じる。疲労感と共に眠気がいっせいに襲ってきた。
***
ヒューズのコンプレックスはずばり顔である。光に当たるとオレンジにもなる赤毛と、垂れ気味の大きなブルーアイは彼を幼く見せていた。背もさほど高くならず、パッと見で女の子と間違われることもしばしばだ。庇護欲をくすぐるのか年上の女性には受けが良いが、同世代の男には舐められた。
だからこそヒューズは体を鍛えて警官を目指した。黒い制服と帽子はヒューズによく似合い、美形警官として人気がある。現に、制服で声をかけた女の子に誘いを断られたことは一度もなかった。
「あっきれたぁ。仕事中にナンパしてるの?」
「ナンパってほどじゃないですよ。警邏中なら出会いが多いってだけで」
「同じことよぉ。あーあ、それならフラれるのも無理ないわぁ」
やれやれとばかりに首を振ったクラーラは、白い目でヒューズを睨みつけた。
あれからヒューズも何がいけなかったのか考えたのだ。考えてもわからなかったから言われた通りに素面で聞きに来たのである。反発せず、素直に教えを乞うあたり、ヒューズは人が良いというか単純というか、やはり良い人だ。
高級店街はまだどの店も開いていない早朝の時間帯だった。使用人を置いていないクラーラは自分で開店の準備をする。店の前を掃き清め、店内の床を掃除し棚や小物の埃を丁寧に拭き取る。飾ってある見本のドレスやアクセサリーは特に丁寧に磨いた。そんな時間帯にヒューズが店を訪れたのだった。
警官は交代勤務だ。犯罪が発生するのは夜が多いが、事件は二十四時間関係なく起こる。いつ何が起きても対応できるようにシフトが組まれていた。
ヒューズは夜勤明けの目を瞬かせた。まだまだ若いが、徹夜はきつい。
「無理もないってなんですか。最大のセールスポイントでふぉ」
欠伸を噛み殺そうとして失敗したヒューズに、クラーラが紅茶を淹れた。うんと濃くしたのはわざとである。少しは目が覚めるだろう。
「出会いがそれじゃぁ、結婚したってまた仕事中にナンパするんじゃないか不安になるわよ」
「あっ」
「自分のセールスポイントを心得てるのはいいけど、使いどころが間違ってるわ」
彼女にしてみれば自分が前例なのだ。制服姿のヒューズに助けられてコロッといく女が現れるのではと気が気じゃないだろう。
「そんなぁ」
自分の一番の売りを叩き落とされて、ヒューズが情けない声を出してうなだれた。制服はもっとも確実なのに、フラれたばかりの今、他にどうしろというのだ。
「そんなに嘆くことじゃないわ。順番を逆にしてみたらどうかしら」
「順番?」
「そうよぉ。ヒューズちゃんは非番の時も事件や事故がないか見回ってるんでしょう?」
「え? はい、そうですけど」
「で、指名手配犯を見つけると追いかけていっちゃう、と」
「ええっ、なんでそこまで知ってるんですか!?」
警官が非番の日に出かけた先でもつい警戒してしまうのは職業病みたいなものだ。人々を助ける仕事なだけに、どうしたって気にしてしまう。
だが、指名手配犯の追跡はまずない。指名手配されているということは、罪を犯しておきながら逃げているわけだ。当然警戒しているし、場合によっては返り討ちに遭う。よって、尾行しつつ応援を呼ぶのが正しい行動だ。
「捕り物してるのを見ちゃったのよ。彼女に良いとこ見せようとしたんでしょうけど、肝心の彼女がぐったりしてたじゃなぁい。逆効果よねぇ」
ほほほ、と笑うクラーラは容赦なかった。
「いや、でもっ、警官として見逃すわけにはっ」
「見逃せって言ってんじゃないの。彼女を危険に晒してまでやる必要はなかったって言ってんのよ」
ヒューズの言い訳をぴしゃりと遮る。
ヒューズは警官として訓練を受けているし、犯人に見つかって抵抗されても抑えられるだろう。
だが、彼女は何の防衛手段も持たない、か弱い一般人なのだ。しかも恋人なら、まずは一番に安全を確保するべきだった。
「じゃあ、クラーラさんならどうするんです?」
「決まってるじゃなぁい」
ふっと笑ったクラーラは、下してある右の前髪をわざとらしくかきあげた。
「彼女に伝言を頼んで応援を呼んでもらい、自分は犯人を尾行よ」
そもそも犯人追跡に素人を連れていくなど愚の骨頂だ。彼女が脅えて挙動不審になったら一発でばれてしまう。
ぐうの音も出ないヒューズが温くなったお茶を飲んで苦い顔になった。
「さて、その反省を踏まえて順番を逆にする作戦よ」
「関係あったんですね」
投げやりなツッコミが入った。
クラーラは重々しくうなずく。
「大ありよ。想像してごらんなさい。良い感じだけどちょっと頼りなさそうで弟みたいに思っていた相手が、実は警官だった。ある日ばったり制服姿で街を巡回しているのを見てしまう。仕事中の彼は凛々しくて、まさに男の顔。こちらに気づいた彼は、いつものようににこっと笑って、また仕事の顔に戻った……」
クラーラはまるで見てきたかのように滑らかに語った。
ヒューズは目を閉じて想像してみる。いつもの気安い自分と、仕事中の自分。しかも制服だ。オンオフのギャップもあいまってときめくシチュエーションである。
「さらによ、騒動に巻き込まれたところに颯爽と彼が現れ、自分を助けてくれたの。犯人を見事に捕まえた彼は、こちらを見て安心したように笑って息を吐き、君が無事で良かった、と言うのよ……。どうかしら?」
「すごくかっこいいです!」
「でしょう!? 定番だからこそまさか自分の身に起こるとは思わないシチュエーション! 乙女が求めるのは恋のときめきなのよ! あとはいかに結婚という現実に落としこんでいくか、ときめき補正が有効なうちに話を擦り合わせておくしかないわね」
「話を擦り合わせる?」
ここはときめきが持続しているうちに結婚まで一気に持ち込むパターンだろう。首をかしげるヒューズに、クラーラはまた呆れ顔になった。
「男が結婚匂わせたら瞬時に現実を見るのが女よ」
「でも結婚したら男は外で働き、女は家庭に入るものでしょう。何を擦り合わせるんですか」
これは何もヒューズだけの偏見ではない。時代的に当然の考え方だった。
職業婦人が増えてきているとはいえ、一生働き続けるわけではない。時は誰しも平等に過ぎ、人は老いていくのだ。年老いて体が思うように動かなくなれば仕事は引退になる。そして雇い主は、働かない者をいつまでも雇ってはくれない。
だからこそ結婚して子を儲け、老後は面倒を見てもらうことになる。一生独身で生きていけるだけの蓄えがあるなら話は別だが、そこまで稼げるのはごく少数だった。
これは完全に余談だが、この時代に生命保険はまだない。ただし葬儀費用を賄うための積み立てはあった。これは教会に毎年いくらかの金を預けておき、いざという時に遺族が受け取れるというもので、いわば保険の先駆けだ。むろん、教会は手数料を取る。貧富の差はなく金額は一定で、しかも高齢者になっても入れて受取金額は一律。一見お得なように思えるが若者には負担が大きく不平等であるとの声も大きい。なにせ教会が神の名を笠に着てやるものだから不満はあっても断り辛かった。いつの時代も宗教の裏側はけっこうあこぎであった。
それはさておきヒューズのような平民にとって、妻をいわゆる専業主婦にするのは普通の考えだ。むしろ妻を働きに出すのは恥であるのが一般的といえる。
「だからといって、一から十までお嫁さんにやってもらうつもりなの? 自分はソファに根を張ってればいいとでも?」
ヒューズは不思議そうな顔をした。
「当然でしょう」
「……ヒューズちゃんは実家住まいだったかしら」
「アパート暮らしですよ」
「家事はどうしてるの?」
「ある程度は自分でやりますが。え、まさか結婚しても自分で家事をやれって言うんですか?」
「余裕があるならメイドを雇えばいいけど……」
クラーラは額を押さえた。
ヒューズの私生活までは知らないが、この調子では恋人ができたら彼女にやってもらっていたのだろう。そりゃ結婚できないわ。クラーラだってそこまで酷くない。
「あのねえ、ヒューズちゃん」
昇進が決まったとはいえ結婚してすぐの頃はメイドを雇う余裕などとてもないだろう。よほどしっかりした妻なら良いが、たいていは浮かれて散財する。そうでなくても結婚式、新婚旅行と続いた後である。
「結婚は二人で新しい生活をはじめるもので、大きな息子の面倒を見ることじゃぁないのよ」
しかも生んだ覚えのない息子だ。やっていられない。
生活習慣が違う二人が暮らし始めるのだから、最低限の気遣いは必要だった。
「それくらい……」
知ってる、と言いかけたヒューズが気まずそうに言葉を詰まらせ、唇を尖らせた。
「三食作ってもらうのも、お家の掃除も、ご近所付き合いだってお嫁さんに任せていいでしょう。旦那さんだってお金を預けるわけですものね。でも、お嫁さんは人間よ、いつでも元気に働けるわけじゃぁないのよ」
女は現実を見るとクラーラは言ったが、その現実には未来予想も含まれる。子供ができたら、病気になったら、事故で怪我をしたら、もしもどちらかが先に死んだら。そもそもこの人と一緒になって毎日生活していけるのか、シビアに考えるものだ。
そう考えた時、ヒューズ・ジュデンは失格だ。妻を母親にして、自分では何ひとつやろうとしないだろう。歴代の恋人はそう判断を下し、ヒューズの元から去って行った。
「ヒューズちゃん、共同生活に必要なのは感謝といたわり、相手への思いやりよ」
「感謝はいつもしてましたよ」
「それが当然って顔して言われてもねぇ。……ヒューズちゃん、よくうちで買い物してくれたけど、自己満足や優越感からじゃないでしょうね」
クラーラはあえて煽る言い方をした。そんなことはないのはクラーラが一番よくわかっている。
男が自己満足で女に買い与えるつもりなら、クラーラは相手にしないからだ。そういう客は最初からお断りである。
ヒューズは彼女を喜ばせたかっただけだ。幸福に笑う彼女が見たかった。だがそこに男の下心がなかったとは言い切れない。
「なんだよ、そんな言い方っ」
ヒューズはカッとなった。今までの常識を徹底的にこき落とされて揺らいだ証拠だ。
「俺には俺の生き方がある。こんな店、二度と来ねえよ!」
「ヒューズちゃん」
立ち上がったヒューズは怒りの足取りで店を出ていった。ちりりりりん! とベルが抗議の音をあげた。
***
ヒューズの実家は父が会計士、母が主婦のごく一般的な家庭だった。
ヒューズが幼い頃はそこそこ裕福だったがその後ぽんぽんと弟と妹が生まれ、五人兄弟となると生活するのにやっとだった。それでも学校に通わせてくれたのだから感謝している。
母は自分や弟妹たちの面倒を見ながら家事をやり、父は帰ってくればソファから一歩も動かない。夫婦とはそういうものだとヒューズは思っていた。
そして、女に生まれなくて良かったとも思っていた。何の楽しみもなく家事に追われるだけなんて、そんな人生はつまらないだろう。自分が女という生き物を自然に見下していることに気づいていなかった。
「ヒューズ! 聞いたぜ、またフラれたって?」
「または余計だ。なんで知ってんだ?」
「居酒屋でくだ巻いてりゃあっという間さ。ヤケ酒なら付き合うぜ」
「そんなこと言って奢らせる気だろ。やなこった」
ばれたか、と言って笑うのは同僚警官だ。
たかられるのは嫌だが失恋の傷に触れられて笑われるのはもっと嫌だ。ヒューズはそっと距離をとった。
「どうせまた『良い人』だけど~でフラれたんだろ」
「そうだけど」
「そんなんだからフラれるんだよ! 女なんてな、もっと強引なのがいいんだ」
腕を振り回す同僚にヒューズは眉を寄せた。巡回中にめったなことを言わないでもらいたい。
「警官が強引にってわけにはいかないだろう」
「舐められるよりマシだ。誰が守ってやってると思ってるんだ」
こういう警官は意外と多い。家や主人を守る騎士と違い、民衆を守る警官は下に見られがちだった。公務員とはすなわち公僕であり、俺たちの税金で生きてるやつだという考えだ。しかも警官は何か起こらないと出てこない。人の不幸で飯食いやがって、と言われがちなのである。
「女を紹介してやろうか? かわいこちゃんが揃ってんぜ」
「そりゃ店の子だろ。……おい」
「ん?」
ふと見れば、数人の男に囲まれた女の子が狭い路地に連れ込まれそうになっていた。
「あれ」
「ああ……出番かねぇ」
同僚が肩を鳴らした。粗野で乱暴なところもあるが、こういう時には頼りになる男だ。いかつい顔の同僚は盗賊すら怯んで逃げ出しそうな笑みを浮かべ、男たちに声をかけた。
「おーいおい、何してんだお前ら」
「ンだコラぁ!? ……あ、何でしょうか?」
邪魔された男たちは怒りの形相で振り返り、相手が制服着た警官とわかると露骨に態度を変えた。とてもわかりやすいチンピラである。
「それを聞いてるのはこっちだ。おい、大丈夫か?」
女の子はどこかのメイドらしい服とエプロン姿だった。今にも泣き出しそうな瞳が痛々しい。
助けが来るとは思わなかったのか、彼女は身動きもとれずに震えている。
「いやぁ、この子が道に迷ったっていうから、な?」
「そうなんスよ。親切にしてやってただけですって」
「俺らは送ってってやろうと思ったのに勝手に逃げたんですよー」
彼女は勢いよく首を振った。エプロンを抱きかかえているのを見るに、おつかいにでも行く途中だったのだろう。金目当て、あるいは体目当ての男に捕まったのだ。
「そうか。じゃあ彼女は俺が送っていこう。お前はこいつらを頼んだ」
「えっ」
ずるい。美味しいトコ取りかとヒューズは思ったが、男たちの顔に見覚えがある。今回はそのほうが良いだろう。
「わかった、そちらは任せる。おい、お前らはちょっと説教だ」
同僚が彼女を庇って大通りに出るのを見送って、ヒューズは男たちに向き直った。チンピラらしく、獲物を盗られた怒りでヒューズを睨みつけてきた。
「邪魔すんじゃねーよ、警官ふぜいが」
「人に親切にしちゃいけないんですかー」
「税金泥棒が女の前でだけ仕事すんのかよ」
拳をぱきぱき鳴らしながら威嚇してくる。男たちの顔を眺めて確信を持ったヒューズは挑発するように言い返した。
「本当に親切なら女の子が泣くわけないだろう。大方金目当てか?」
いや、泣くかもしれない。いくらなんでも見ず知らずの男三人に囲まれて狭い路地に連れ込まれたら怖いだろう。
「ンだとぉ!!」
ヒューズの挑発に乗った男たちが殴りかかってきた。すかさず警棒を構えて防御する。
何発か避けて、男たちが疲れてきたところで足を殴打した。警棒で脛を打たれた男たちが悲鳴をあげて倒れ込む。
足を抱えてヒイヒイ言っている男たちを見下して、ヒューズは唇を吊り上げた。
「さ、じゃあお話しようか。うちの警部殿による説教耐久二十四時だ」
ヒューズの童顔で垂れ目の可愛らしい顔立ちは、こういう時不気味に映るらしい。男たちは蒼ざめ、しおしおと警察署に連行された。
署では警部が期待通り、男たちに雷を落とした。
そこに彼女を送っていった同僚が戻ってくる。
「お疲れさん。大丈夫だったか?」
「ああ。……仲間がつけてくる様子はなかった。そっちはどうだ」
「警部殿による説教大会開催中」
正式名称を取り調べという。警部が直々に、というのには理由があった。
「あいつら……指名手配中の強盗犯だよな」
「ああ。たしか手配書では五人組だったはずだが」
「革命のどさくさで王都に来たか。厄介だな」
連中のやり方は狡猾だ。狙った家のメイドに近づいて恋仲になり、屋敷の間取りや護衛の有無などを聞きだす。メイドを本気にさせ油断させて、夜に忍んで行っても会えるようになれば作戦は成功したも同然だ。恋人役の男がメイドを連れだしている間に仲間が屋敷に押し入り、暴虐の限りを尽くす。
メイドが屋敷に帰ってみれば強盗に入られた後。怪我人どころか死者まで出ている有り様だった。おまけに恋人と連絡が取れないとなれば、誰が犯人だったのか馬鹿でも予想がつく。強盗の顔がわかっているのもこのためだ。
これが残酷なのは騙されたメイドが主人や生き残った者たちの恨みを一身に受けてしまうところだ。夜にこっそり屋敷を抜け出すのは、防犯上どこの家でも禁止している。それを知っていながら外に出て、しかも戻る時のことを考えて鍵を開けておく。強盗にどうぞお入りくださいと言っているようなものだ。
騙されたとわかっていても、被害者が恨むのは無理もなかった。責められるだけでも辛いが、もっと酷い場合だと共犯者扱いされてしまう。仕事は当然クビになり、家に帰ることもできずに身を落とし、自殺してしまった者までいる。
まさに外道。極悪非道の犯罪集団であった。
「どこかで恋人役が見張ってたと思うが」
「どこのメイドだったんだ?」
「チェスター家だ。貴族じゃないけど小金持ち。狙い目だな。メイドのほうは知人から行儀見習いとして預かっているそうだ」
「訳ありってわけか……」
「よく調べてる。油断できねえな」
知人から行儀見習いで預かっている娘なら、メイドにするにしてももっと内向きの仕事をさせるのが常だ。下働き同然ということは十中八九訳あり、当主がどこぞの女に手を付けて産ませた娘なのかもしれなかった。
不遇の身の少女がある日現れた親切で頼もしい男に恋をする。クラーラではないがこれぞ定番だろう。ちょっと身の上話を聞いてやさしく慰めてやるだけでコロッといきそうである。
「危ないな。当分張るか?」
「警部殿の腕次第だ、上手く自白させてくれればいいんだが……」
願いも虚しく男たちはあくまで彼女を道案内しようと思っただけだと供述した。指名手配については他人の空似と主張している。
指名手配の通達は名前と出身、罪状、そして似顔絵だ。男たちが所持していた身分証は別の名前だった。
「反乱軍に紛れて王都に侵入し、軍や警察の手を逃れて偽名で登録したんだろうな」
取調室から出てきた警部が忌々しげに煙草を吹かした。
「警部殿、奴らは?」
「否認してる。ヒューズにやられて大人しくついてきたのも逃げたほうが疑われるからだろう」
否認している以上、彼らは『少女に絡んでいたチンピラ』にすぎない。要注意されて解放だ。
「……泳がせるんですか」
「上の判断だ。チェスター家には事情を伝えて警戒してもらうしかない」
「あのメイド、囮にされそうですけど」
もし本当に訳ありなら、むしろこれ幸いと厄介払いされそうである。
「むろん手は打つ。ヒューズ、お前チェスター家の出入り業者になれ」
突然の命令にヒューズはぎょっとした。
「潜入ですか? 俺、顔見られてますよ?」
それに畑違いだ。ヒューズは町のおまわりさんであり、刑事ではない。
「次の昇進で念願の刑事部に異動になる。勉強だと思ってやれ」
刑事はヒューズの憧れだ。小説に出てくるような切れる刑事になり、凶悪犯を捕まえる。警官の花形である。
ヒューズは身震いする思いで姿勢を正し、敬礼した。
***
チェスター家のハウスメイド、メルルはヒューズが予想したように訳ありだった。
母はチェスター家の当主と通じてメルルを身籠ったが、怒り狂った奥様に叩き出され、認知されていない子供を抱えて苦労に苦労を重ねた末に死んでしまった。
父親のいない子として肩身の狭い思いで生きてきたメルルが父を知ったのは、母が残した手紙だった。
チェスター家の当主がメルルの父であることと、自分が死ねば奥様も慈悲をくれるだろうからチェスター家を頼るようにと書かれていた。
甘い、とメルルは思った。奥様にしてみればメルルは夫の裏切りの象徴なのだ。メルルが存在していることすら許せるものではあるまい。
メルルが思った通り、母の手紙を手に訊ねたチェスター家は今さら現れた不貞の娘に困惑した。奥様はさすがに発狂することはなかったが声一つかけずに顔を背け、父も迷惑を隠そうともしなかった。
そんなものである。メルルは知人の子、という嘘でも本当でもない者としてメイドになり、異母兄弟となるチェスター家の子供たちにはメルルがいることすら知らせなかった。使用人たちも同様にメルルについて教えられるはずもなく、追い出さないだけましという扱いになった。追い出さないのはやけっぱちになったメルルにあることないこと暴露されては困るのと、母を喪った子供に対する罪悪感だろう。主人に冷遇されていることを敏感に察知したメイド長にはあれこれ言いつけられこき使われているが、衣食住が確保されているので文句はなかった。
そんなメルルに最近急接近してくる男がいる。しかも二人だ。
一人はメルルが出先で声をかけてきた、いかにもなナンパ男。もう一人はチェスター家に出入りするようになった食料品の業者だ。どちらも美男子である。
十八年生きてきて男っ気のなかったメルルに突如吹いてきたヒロインの風。二人の男に挟まれて翻弄され、どうしたらいいの!? なんて思い悩む性格ではないメルルは、何か目的があるはずだと怪しんだ。世間の冷たい風に当たって育ったメルルはすっかり擦れ枯らしていた。
「よう、メルルちゃん。あいかわらず痩せっぽちだなぁ」
快活に笑う男はヒューズと名乗った。二人の男のうち、ヒューズは断然会う回数が多い。毎朝新鮮な卵と牛乳を運んでくるからだ。
「無駄口叩いてないで、さっさと置いてってよ」
十八歳にはとても見えない体つきをメルルは気にしている。わざわざ言ってくるあたり、ヒューズは意地悪して女の気を惹くタイプなのだろう。ガキめ、とメルルは内心で吐き捨てた。
「これ、やるよ」
牛乳の缶の上に置かれたのはドロップ缶だった。子供向けのイラストが貼られている。
「ドロップ?」
「これなら口に入れときゃばれないだろ! 大きくなれよー」
悪巧みをするようにヒューズが笑った。なにやら身に覚えがありそうな言い方である。
「……フン」
こんなもので絆されるほど安いつもりはないが、ドロップに罪はない。メルルはさっとポケットにしまった。
礼を言うべきかとヒューズを見ればニヤニヤ笑っていて言う気が失せた。気を取り直して牛乳缶を持ち上げる。たぷん、と中身が揺れた。これが重いのだ。
両手に計四つ、ぶらさげるようにしてなんとか持った。
「お、頑張るね。足元気をつけろよメルルちゃん」
よたよたと歩くメルルに、のん気な声がかかった。
***
ヒューズはメルルの頑なさに手を焼いていた。
自分の境遇を理解し、そのせいで辛酸を舐めてきたからだろう。誰にも気を許さず、自分一人で生きている。
かといって父親を恨んでいるわけではなさそうだ。恨んでもしょうがないと早々に諦めたのかもしれなかった。恨むくらいなら働いているほうがよっぽど建設的である。そういう割り切りができているのだ。
強い娘だ。なにより賢い。不幸を嘆くだけでは何も改善しないことを身をもって知っている。
メルルと接触するにあたり、ヒューズは彼女に舐めた態度をとらないと決めていた。からかう程度なら軽い男だと思ってくれるだろうが、馬鹿にしようものならたちまち噛みついてくるだろう。変に同情するのも、憐れむのも駄目だ。
ヒューズは警官として、あの瞳を知っている。
他人からどん底よ貧乏よと蔑まれても、誇りを失っていない瞳だ。自分はかわいそうではないと、まっすぐに前を向いて生きる者の瞳である。
懸命な者に憐れみや同情をかけるのは逆効果になりかねなかった。気安く頑張れと励ますのも重荷になりかねない。もう十分なほど頑張っているのにこれ以上どう頑張れというのだと、潰れてしまうこともあるからだ。道を示せないのならそれは単に無責任な押し付けである。
メルルは難しい少女だ。体つきは幼女のようだが、苦労したせいで精神的な成長が早かったのだろう。言葉使いは荒いが、中身は大人だった。
ヒューズはメルルの努力を認めて褒める方法をとった。褒められて怒る人間はまずいない。後はそっと見守るだけに留める。目指すは近所の兄ちゃんくらいの位置である。
仕事なのだ。あまり肩入れしないようにヒューズは線引きを心掛けた。そう思っている時点でとっくに手遅れなことは薄々気づいているが、ヒューズは見ないふりをした。
今のヒューズは食品仕入れ業者の使い走りだ。仕事内容は違うが、メルルと同じようにこき使われている。
少しでも苦労を分かち合おうと、ヒューズは汗水たらして働いていた。
アパートに帰って身元が強盗にばれるのを防ぐため、事情を話して実家で暮らすことにした。実家に帰ることはめったになかったせいか、ご近所さんは仕事に失敗してアパートを追い出され、今は農家の手伝いをしているという嘘の設定をあっさり信じてくれている。微妙なやさしさにちょっぴり泣けた。
「ただいま」
ヒューズの実家は王都中心部から少し遠い郊外にある。なにせ子供が五人もいたものだから、家も庭も広くなくては収まらなかったのだ。ヒューズは長男だからわかる。子供なんて強盗よりたちの悪いモンスターだ。
「おかえり、ヒューズ」
「兄さんおかえり」
今はもう弟妹は家を出て両親だけのはずが、一番下の妹が帰ってきていた。
「おう。どうした、ついにお暇を出されたのか?」
「休暇だってば。兄さんじゃあるまいし」
妹は商家のところで住み込みのハウスメイドをしている。メルルと同じだ。
「なあ、ハウスメイドってやっぱ大変なのか」
「そりゃあね。お屋敷の規模にもよるけど掃除だけで一日が終わるもん。なーに、今度はメイドをひっかけたの」
「ひっかけ……って、お前なあ、兄をなんだと思ってるんだ」
「顔だけが取り柄のカイショナシ」
妹という生き物は残酷だ。兄に対して容赦がない。がっくりとなったヒューズに妹がけらけら笑った。
「今のうちに捕まえておかないと、年取った時に悲惨よー。兄さん、仕事しかできないんでしょ?」
「男は仕事できりゃ充分だろ」
ヒューズが反論すると妹はわかってないなあと何もかも知り尽くした教師のように首を振った。残念なものを見る目がいつかのクラーラを彷彿とさせ、ドキリとする。
「兄さん、父さんの何を見てたの? だから結婚できないんだよ」
「ほほー。そこまで言うならお前には良い人がいるんだな? いやあ、兄さん先越されちゃったかー」
「ちょ、そこまで言ってないわよ! もう、心配してるのに!」
兄と妹が笑いながら喧嘩していると父が帰ってきた。やはり娘と息子では娘が可愛いのか、妹を見て嬉しそうな顔になる。
「おかえりなさい」
「うん。なんだ、帰ってきてたのか」
「明日までだけどね。ねえ、父さんも兄さんに言ってやってよ」
「何をだ?」
父が帽子を脱ぎ、帽子掛けに乗せる。父の帰宅に夕飯を作っていた母がキッチンから出てきた。自然な動作でスーツを受け取り、ハンガーにかける。その間にブラシを取っていた父が、ハンガーにかかったスーツに丁寧にブラシをかけた。
「すぐ夕飯できますけど、お茶を淹れますか?」
「いや、夕飯にしよう」
ハンガーを持ったまま父が自室に消え、部屋着に着替えて戻ってきた。
「それで、何の話をしていたんだ?」
夕飯は妹がいるからか豪華だった。食べ盛りだった頃と比べると量が減り、そのぶん手が込んでいる。
「結婚の話」
「余計なお世話だっつうの」
妹と声が重なった。すわ喧嘩か、と互いに身構える。
「まあ、ヒューズもそろそろ考える歳だな」
「そうですね、お父さん」
「父さん……。母さんまで」
両親が妹につき、味方のいなくなったヒューズが脱力する。よく煮込まれて透きとおったコンソメのスープがやさしく胃に染みわたっていった。
「兄さんはさ、気が利かないのよ。今時は女が働くのだって当然なんだから」
「当然ったって、結婚するまでだろ」
「甘い!」
ズバンとフォークで兄を指した妹が、すかさず行儀が悪いと叱られている。ごめんなさいとあまり反省の色を見せずに謝った妹は言葉を続けた。
「メイドの中には結婚するより働いてたほうがましって人もいるのよ。現にメイド長は家政婦を目指してるし」
家政婦はその家の女主人に次ぐ家内の管理人だ。信頼と実績が物を言い、働けなくなっても家族同然に大切にされることも多かった。
「辞めていった人もお金貯めて自分の店を持ったりしてるのよ」
「それはすごいな」
と、父が感心した。
「時代ですかね。でもお前、結婚せずに働く気なの?」
心配そうな母に妹は胸を張った。
「あたしが目指してるのはナースメイドよ。学校は出てるし、知識と教養はある。あとは経験よね」
「レディスメイドじゃないのか?」
「レディスメイドじゃお嬢様がお嫁に行ったら終わりじゃない。倍率高いし。家庭教師は嫁き遅れのイメージ強いけど、ナースメイドならそんなことないわ」
ナースメイドは看護婦ではなく子守り役のことである。何かと忙しい奥様に代わって子供の面倒を見て、躾もする。両親とあまり交流できず、愛情に飢えた子供が一番に懐くのがナースメイドだ。子供が成長しても、ナースメイドだけには心を打ち明けることもある。上手くやれば一生そばにいることだってできるのだ。
「お前……けっこうやり手だな」
妹の計算高さにヒューズは引き気味だ。
ちなみに跡取り息子のナースメイドの場合、初恋を奪ったあげくそのまま愛人になることもあった。どこぞの王様が王妃を差し置いて城を与え、生涯愛し抜いた例もある。
「まあね? それにナースメイドなら他家とのつきあいも多くなるし、できれば執事あたりと結婚したいな」
得意げにそこまで語っていた妹だが、はっとヒューズを見た。
「あたしの話はどうでもいいのよ。今は兄さんの話でしょ」
「そうは言ってもな……」
正直にいって今は結婚どころではない。仕事で手一杯の状態だ。
妹がため息を吐いた。
「……女のほうが危機感強いよ。鉄道や復興で景気良いけど、これからどうなるか」
ナースメイドを雇える家は貴族か大富豪だ。貴族が先行き不安になれば商家にも影響が出る。名門は見栄で雇っても、子供が成人するまでその余裕が続くかわからないのだ。
「結婚したって不安なんだから、少なくとも頼りになるところを見せて欲しいよ」
「稼ぎ?」
「それは承知で結婚するわよ。仕事以外で、子供をどうするか、家のこととかさ」
「……嫁さんが病気になった時とか?」
クラーラが言っていたのと同じことを妹も言う。ヒューズの言葉に妹はほっとしたように肩を落とした。
「そうだよ。ちゃんとわかってるのね」
「…………」
わかっているというか、気がついたのだ。
ヒューズがそれで当然だと思っていた両親のやりとりは、互いへの思いやりの上に成り立っている、ということに。
たとえば先程、父の帰宅に母が出てきた。母がスーツをハンガーにかけ、父がブラシで手入れをする。
きちんとハンガーにかけておかないと、スーツは型崩れしてしまう。ヒューズはそれが苦手だった。疲れて帰ってきてスーツを脱ぎ散らかしたままだったり、そのまま食事をして倒れるように眠ってしまうことすらあった。よれて皺の付いたスーツに眉を顰め、あるいは苦笑いで、今までの恋人は世話をしてくれたものである。
夕飯だってそうだ。妹が帰ってきているからお茶にするかと聞いた母に、先に夕飯にしようと言った。この時間にお茶にしても、母はキッチンに行ってしまって話ができない。だったら夕飯の団欒を全員で囲んだ方がいいだろう。父なりの気づかいだった。
そして父は母の話をよく聞く。うんうんと相槌を打って肯定し、自分の意見は言っても母を否定したことは一度もないのだ。
そういえば、と夕飯を終えて自室に戻ったヒューズは窓から夜の庭を眺めた。
子供の頃は父がよくいろんな物を作ってくれた。忙しい日々の中でも時間ができれば必ず子供たちと遊んでくれたものだ。お手製のブランコは撤去され今は畑になっているが、あれもきっと父が耕したのだろう。雨漏りすれば父が屋根の修繕をし、子供が病気になれば早く帰ってきて母に代わって看病してくれた。
夜中に怖い夢を見て飛び起きた時、父はベッドに入るのを迷惑がらずに許してくれていた。
働いている父が偉いのは当然だ。けれど母だって一日中働きづめだった。家事は待ったなしである。洗濯は陽のあるうちに干さなければならないし、雨が降れば服を繕っていた。むしろ母のほうが家事と育児で忙しそうだった。
子供が大きくなれば家事の手伝いをするようになる。皿や鍋を洗うのは嫌いだった。嫌いだったから女の仕事だと妹に押し付けたのを思い出す。
子供の頃、母は言った。
『嫌なことは率先してやりなさい』
それは嫌がらせをしろという意味ではなかった。
幼い頃、父は言った。
『男なら、でかくなれ』
それは態度のことでも、体のことでもなかった。
人が嫌がることでも自分からやれる、器の大きな男になれという教訓だったのだ。
今の自分はどうだろうか。今までの恋人には甘えてばかり。ヒューズの家に来れば家事をやるのは当たり前、ねぎらいの言葉もそっけない。たまのことなら新婚気分で楽しめるが、毎回毎回押し付けられたら嫌になる。
ヒューズは付き合って気心が知れるとお家デートをしたがった。外に遊びに行くのは金がかかるしつい周囲を警戒してしまう。彼女を送り届けるのも面倒だからだ。家ならその点気にしなくていいし部屋も綺麗になる。彼女だって花嫁修業になるだろうと調子に乗っていたが何様のつもりだ。少なくともヒューズならこんな男と付き合いたくない。まるで自分の価値が感じられない。
自分でさえ嫌なのだ、彼女にしてみたらふざけんじゃねえと悪態の一つも吐きたくなるだろう。
良い人で終わらせてくれた彼女たちこそ良い人だったのだ。ヒューズは夢から覚めた思いで猛省した。




