アデレード・ベージェの後悔
書いていて気づいたのですが、私はどうやらこの手の女が大嫌いなようです。以前、会社に似たような人がいて、苦手だったことまで思い出してしまいました。
青空に教会の鐘が広がっていく。
エムロードの結婚式は、彼女の喜びを表すように晴れわたっていた。
白いウエディングドレスはエムロードの母親から譲られたもので、シンプルなデザインの胸元に花が飾られ、古いながらも遜色なくエムロードを輝かせていた。
ヴェールは結婚式の伝統でもある婚家のもので、生花で作られたティアラがエムロードの気品と華やかさに文字通り花を添える。
急な結婚となったため手持ちのドレスでなんとかした形だが、それと気づかせないほどエムロードは幸せそうだった。
エムロードと彼の夫となるメルキュール・オルタが司祭の前に膝をつき、神への誓いをたてる。
厳粛な、それでいて喜びに満ちた雰囲気に包まれた教会で、アデレード・ベージェは親友の人生最高の瞬間を見つめていた。
自分よりも年下で、社交デビューも後になるエムロードに先を越された。アデレードの胸にあったのはそんな思いだった。どうして。いつの間に。アデレードはエムロードがオルタ伯爵と婚約したことも、ましてや交際していたことすら知らなかった。自他共に認める親友でありながら、エムロードに何も相談されていなかったのだ。あまりにも突然の、電撃的な結婚に、明日から社交界はこの話でもちきりになるだろう。アデレードにも友人たちが詳しい話を聞こうと集まって来るに違いない。
親友なのになぜ何も言ってくれなかったのか。いや、それよりも、なぜ今なのか。わたくしよりも先に結婚するなんて、エムロードには気遣いが足りないのだわ。
わっと歓声が上がり、アデレードは我に返った。
招待客がエムロードとメルキュールに拍手を送り、口々に祝福を投げかける。エムロードの晴れやかな笑顔。華やかで幸福そのもののエムロード。
黒い物が込み上げてくるのをアデレードは辛うじて呑み込んだ。いけないわ。今日はあの子の結婚式。わたくしの親友、可愛いエムロードの門出。あの子の幸福を、きちんと祝福しなくては。
「おめでとう、エムロード」
「アデレード! 今日は来てくれてありがとう」
秘密裡に進められていたため結婚式への招待はほとんど直前になってからだった。エムロードが感激のあまり抱き付いてくる。アデレードとも顔見知りである彼女の両親が、微笑ましげに二人を見つめていた。母親は涙を拭っていた。
「素敵な方を見つけたみたいね。良かったわ」
「ええ。メルキュールのおかげで立ち直れたようなものだわ」
伯爵家当主の結婚式にしてはずいぶんと質素であった。招待客はエムロードの友人はアデレードだけで、メルキュールの友人も数えるほどしかおらず、あとは両家の親戚のみである。噂話に怯え、対人恐怖症気味になったエムロードを思ってのことなのだろう。
あのまま、噂に潰されてしまえばよかったのに。
「メルキュールに紹介するわ」
エムロードの両親と言葉を交わしていた夫が、アデレードに気づいて近づいてきた。
「エムロード、そちらのお嬢さんが君の自慢の親友かい?」
「ええ。アデレード・ベージェさんよ。アデレード、こちらがわたくしの夫で」
「メルキュール・オルタです。ベージェ嬢のことはいつも妻から伺っています」
「はじめまして」
アデレードが見たメルキュール・オルタ伯爵は、小太りで背の低い、ついでに髪の生え際も危険域に達している中年男だった。エムロードと並ぶと夫婦というより親子である。
なあんだ。内心に湧き上がる愉悦にアデレードはようやく素直に祝福する気分になった。
家柄が良くてお金持ちでも、冴えない中年男なんて。もしかして、あの俳優との噂のせいで男を見る目が曇ったのかしら。
「本当に、良かったですわ。エムロードを悪く言うつもりはありませんが、色々噂されていましたから。それで気を病んで、社交もおろそかになってしまって。オルタ伯爵様、エムロードを大切にしてあげてくださいね」
「もちろんです。エムロードは私の光。何があろうと守ってみせます」
「大丈夫よアデレード。わたくしメルキュールがいてくれれば噂などに負けないわ」
「まあ」
そこに執事がやってきて、メルキュールに耳打ちした。
「もうじき披露宴が始まるようです。ベージェ嬢、楽しんでいってください」
「はい。ありがとうございます」
勝った、と思った。先を越されたことはたしかだが、エムロードが引いたのはとんだハズレくじ。あんなおじさんになるまで結婚できなかった伯爵なんて、きっと訳ありに違いないわ。アデレードは自分のおおらかな心に満足した。
なのに。
『結婚って、いいわよ』
帰りの馬車の中、エムロードの言葉が何度も頭に木霊する。ガーデンパーティでのエムロードはオルタ伯爵の友人家族、自分たちより年配の貴族からも認められていた。夫を支え、家を守り、使用人にも慕われる、ご立派な伯爵夫人であった。
なによりアデレードの気に障ったのはあのドレスだった。あれを仕立てたのは有名なクラーラだという。いかにも地味で冴えないドレスだと思っていたのに、庭に出たエムロードは光を浴びて今が盛りと輝いていた。
悔しい。
黒々とした感情がアデレードの胸に染みをつけた。どうしてエムロードばかりが心配され、エムロードばかりが愛され、エムロードばかりが大切にされているのか。いつもエムロードを励まし相談に乗っていた自分ではなく、エムロードばかりが優遇されている。
「伯爵家ってやっぱりすごいな。屋敷も庭も桁違いだ」
恋人のワルス・エミュはメルキュールの友人と名刺を交換して満足そうだ。パーティの最中もアデレードを放ってあちこち挨拶に回っていた。
ワルスの実家であるエミュ家は貴族ではなく上流階級だ。建築業を営んでおり、そこらの貴族よりよほど裕福である。だがそれでも貴族ではないという点で壁を感じることも多いらしい。今日のガーデンパーティで貴族とお知り合いになれてワルスはご機嫌だが、正式に婚約者として紹介してくれなかった彼にアデレードは不満が溜まっていた。
「そうね。でも、伯爵家のパーティにしてはずいぶん慎ましやかだったわね。あの子を悪く言うつもりではないけれど、もう少し凝ったほうが良かったんじゃないかしら」
そうよ。わたくしだったらもっと上手くやれたわ。アデレードは夢想する。パーティなどの社交のもてなしは奥様業の最たるものだ。あんなに教えてあげたのに、テーブルも食器もおそまつだった。あれでは伯爵のご友人、特に奥様方はエムロードに不安を覚えただろう。
わたくしだったらテーブルの中央に大きく花を飾り、食器も流行の工房のものを新しく買い揃えるわ。退屈しないように楽団を呼ぶのも良いわね。それに庭だって、もっと自分好みに植え替えさせるわ。せっかく女主人になったんですもの、古臭い先代の匂いを一蹴してわたくしの存在をアピールしなくてはいけないわ。
貴族夫人の中でひときわ愛される自分、それは、アデレードにとって望んで止まない理想の姿だった。
「何言ってるんだ。あれは招待客への気づかいだろう」
「え?」
「伯爵のご友人は家族連れで、中にはお孫さんをお連れの方もおいでだった。小さな子が飽きて動き回っても困らないように配慮したんじゃないか」
ワルスに窘められ、アデレードは頭を打たれたかのようなショックを受けた。
言われてみればその通りである。今日のパーティはアデレードたち貴族令嬢だけではなく、メルキュールの友人世代と、その子供と孫の幼児まで来ていたのだ。気を使うのなら大人ではなく、我慢の利かない子供たちである。幼い子供が粗相をしても良いように、エムロードはテーブルをセッティングしたのだ。
「子供が遊べるゲームも用意してあったし、まだ若いのに立派に伯爵を支えていると評判も上々だ。君も鼻が高いだろう」
「……ええ、そうね。色々教えてあげた甲斐があったわ」
なんとか微笑むことに成功したアデレードに、ワルスがのん気に言い放った。
「まあ、これからは奥様方に教えてもらえるんだろうけどな」
「えっ? どうして?」
「どうしてって……。伯爵夫人になったんだから、いつまでも独身時代の友人と遊んではいられないだろう」
ワルスとしては、これでアデレードがエムロードから解放されると思ってのことだった。口を開けばエムロードに相談された、友人に頼みごとをされたと他人のことばかりで、自分のことは二の次だったのだ。
「彼女のことは伯爵様に任せておけばいい。良かったな、アデレード」
「……そうね」
自分より下にいたはずのエムロードが一足飛びに伯爵夫人となり、着々と足場を固めている。
ワルスには、アデレードの焦りがわからないのだ。男には男の世界があり、アデレードがそこに足を踏み入れることがないように、ワルスには女の複雑な関係が理解できない。
これからはエムロードがアデレードの先を行くのだ。メルキュールの年齢的問題もあり、早く子供をと周囲に急かされるだろう。出産、子育て、社交。伯爵夫人になったエムロードには、アデレードだけではない世界が待っている。かつての親友など、やがて遠くに消え去るのだろう。
それはアデレードを酷く焦らせる想像だった。エムロードに優越感を抱かれ遠巻きにされるなど、あってはならないことである。
アデレードは馬車の窓から外を眺めた。陽が落ちる寸前の、赤く燃えるような空だった。
***
翌日、さっそくエムロードに物の道理を教えてやらねばと意気込んでいたアデレードの元に、来客が訪れた。
「来客? どなた?」
「アラン・クシルス様とおっしゃるそうです」
「あら」
アデレードは素直に驚いた。アランが家に来るなど、今までなかったことである。いつもは夜会や、彼の舞台の楽屋などで会っていたのだ。
もしかしたら昨日のガーデンパーティを聞きつけて、エムロードの様子を探りに来たのかしら。波乱の予感にアデレードはほくそ笑んだ。
「お通ししてちょうだい。お茶の用意もね」
「はい、お嬢様」
応接室では憂い顔のアランが待っていた。
「いらっしゃいませ、アラン様」
「やあ、アデレード」
「我が家にお越しくださるのははじめてですわね」
「そうか。そうですね。いつもあなたと会うのは外ばかりだ」
挨拶を交わし、それぞれソファに座る。
「今日はどういったご用件ですの?」
「アデレード……。実は、聞きたいことがあるのです」
「エムロードのこと、ですわね?」
アデレードはしたり顔で微笑んだ。
しかしアランは少し考えるそぶりをした。
「エムロード。いえ、たしかに彼女にも関わることですが」
「オルタ伯爵様は、こういってはなんですが爵位以外に取柄のある方には見えませんでしたわ。エムロードは少し気の弱いところがありますから、年上というだけで頼りがいがあると勘違いしているのでしょう」
さも一時の気の迷いであるかのようにほのめかす。心配そうに俯くアデレードに、アランは眉を寄せた。
「エムロードが幸せであるのなら、私はそれでいいのです」
「いけませんわ、そんなことをおっしゃっては」
ノックの音がして、メイドがお茶の用意をして入ってきた。
「いいえ、本当です。先日の夜会で会いましたが、オルタ伯爵と二人で仲睦まじく幸福そうでした」
「違います。たしかに、社交の場ですもの。夫に従ってみせるのはむしろ当然ではなくて?」
メイドがポットから紅茶を注ぎ、カップをソーサーに乗せてテーブルに置く。会話を妨げないよう極力音を立てずに給仕するのがマナーだ。
「……アデレード、あなたはおやさしい」
使用人は目立たず、影のように動く。そして主人はそれらを気にしないものである。
「ま、いきなり何をおっしゃるの」
アデレードは頬を染めた。俳優だけあったアランは美男子だ。灰金色の髪に紫紺の瞳。精悍な顔立ちは彫刻のようだと評されている。声は甘やかに響き、舞台で彼が観客席に目をやっただけで失神する女性ファンがいるというのもうなずける話だ。
「いつも、エムロードの相談という名目であなたは私に会いに来てくれました」
メイドが切り分けたパウンドケーキを皿に移し、同じようにテーブルに置いた。
「ええ。それが何か?」
アデレードは急に不安になった。なぜ、アランは思わせぶりなのだろうか。
「外聞を憚るからと、いつも人払いをして、二人きりでしたね。アデレード、本当のことをおっしゃってください」
「アラン様? お話が見えませんわ。何のことですの?」
メイドが静かに退室した。
「エムロードを理由にして、あなたが私に会いに来ていたのでしょう?」
アデレードの心を覗き込むようなアランの瞳に耐え切れず、彼女はさっと目を反らした。エムロードがアランに恋をしているというウソがばれたのかと危惧したが、そうではないらしい。
「まあ……。何をおっしゃるのかと思えば……」
ほほ、とつい笑いが漏れた。深い安堵と、彼の誤解がおかしかった。
「穿ちすぎですわ、アラン様。わたくしは本当に、エムロードとの恋を応援していますのよ」
「ですが、彼女はオルタ伯爵と結婚した」
「結婚といっても……歳が離れすぎていますわ。わたくし、あの子が心配で」
アデレードはそっと息を吐き、すがるようにアランを見つめた。アランも彼女を見つめ返す。
「アラン様、これからも相談に乗ってくださいます?」
「ええ、もちろんです」
納得したのか、アランは何度もうなずいた。
***
アデレード・ベージェの評判はとても良い。社交界では何でも相談できる頼れるお姉さんだ。
よくできた恋人。なのになぜワルスは彼女との結婚に踏み切れないかというと、その評判のせいである。アデレードは、できすぎなのだ。
アデレードが結婚を焦っているのはワルスにもわかっている。そろそろはっきりするべきだと自分でも思っていた。アデレードのためにも、いつまでもこのままではいられない。
かといってアデレードと結婚すれば、ずいぶん窮屈な生活になるだろう。常に正しいアデレード。今でさえ息苦しさを覚える時があるのだ、結婚したらあれこれ口出しされるに違いなかった。
エムロードがいい例である。せっかくの新婚なのに、親友というだけでアデレードがずかずか入り込んでいる。
だから、その噂はワルスにとってむしろ朗報だった。
「それ、ほんと!?」
廊下の曲がり角から聞こえてきたメイドのおしゃべりに彼は立ち止まった。はじめは潜められていた声は興奮に大きくなっていく。それが他人の色恋沙汰なら尚更だった。
「ほんとだって。あたしベージェ家のメイドと親しいんだけど、そこから聞いたのよ」
「うわー。でもなんかやっぱりって感じ」
「だよね。わざわざ二人きりになるように仕組んで、でしょ」
「エムロード様は隠れ蓑にされたのね」
「収入で言えばうちの若様だけど、顔だけなら断然アラン様だもんね」
「そりゃ仕方ないでしょ。あーあ、貴族様はいいなあ」
「ねー」
噂というのは不思議なものだ。ここだけの話のはずが、いつの間にか広がっている。広めるつもりはないが誰かに聞いてもらいたい、彼女たちのようなものからじわじわ拡散していくのだろう。ワルスに気づいたメイド二人がやばいという顔になり、すぐに取り澄まして通り過ぎていった。
さすがに当事者に面と向かって言う度胸はないらしい。それにほっとしつつ、ワルスは胸に苛立ちが湧き上がってくるのを堪えきれなかった。メイドたちの話では、ワルスは二股かけられて気づきもしない間抜け男だ。財力を見ればワルスだが、本命はアランだと思われているのだ。
結婚を迷っていたワルスにとって、アデレードの瑕疵はチャンスだった。親友を盾にして二人の男と同時に交際していた女など、別れて当然である。親も結婚を認めまい。ワルスにも多少傷がつくが、非難はアデレードに向かう。いくらでも挽回できた。
しかし同時に、あのアデレードが本当に浮気などするだろうかという疑問もある。ベージェ家のメイドから聞いた話だと言っていたが、使用人の噂などとかく針小棒大になりがちだ。
部屋に戻ったワルスはしばらく考えていたが、やがてベルを鳴らして執事を呼んだ。
「探偵のフェルシンギス先生を呼んでくれ。身辺調査を依頼したい」
アラン・クシルスは人気の俳優だ。アデレードは騙されているのかもしれなかった。
自分がどうしたいのかわからないまま、ワルスは動き出していた。
***
社交界の恐ろしさは、内容の真偽はともかく噂話が冬場の火事よりも早く広がっていくことだろう。アデレードの二股疑惑は本人のあずかり知らぬところであっという間に炎上した。
特にアランの後援者であった貴族夫人たちは常々疑っていたらしく、ここぞとばかりに囁きあった。
「わたくしおかしいと思っていたんですのよ。わざわざ人払いまでして……でございましょう?」
「ああいうのを悪女というのかしらね。人は見かけによりませんわ」
「よく友人の恋愛相談を受けているそうですが、ご自分に経験があるからでしたのね」
「アランも可哀想に。恋心を利用されて」
「あら、かえって演技に幅が出るんじゃありません?」
「エミュ家はどうなさるのかしらね。跡継ぎ息子に泥を塗られたようなものですもの」
扇の下に悪意を込めた笑みを隠していた女性陣は、渦中のアデレードの登場にぴたりと口を噤んだ。
「……よく顔を出せたものですこと」
「オルタ伯爵は奥様への名誉棄損で告訴も検討してらっしゃるとか」
「無理もありませんわ。本当に様々な噂が奥様にはありましたもの」
自分たちも否定せず参加していたことを忘れ、貴族夫人はアデレードに冷たい目を向けた。
ダンスホールに入った瞬間に潜められた声と冷たい視線にアデレードも気がついた。女ならではの察しの良さで自分の陰口だったとわかり、眉を寄せる。
そこに近づいてきたのはアデレードの友人だった。エムロードとアランの恋愛相談を話していた者たちである。
「ごきげんよう、アデレード様」
「こんばんは」
彼女たちの笑みに含むものを感じたが、アデレードは見て見ぬふりをした。
「聞きましたわよ、アデレード様。アラン様とのこと」
「アデレード様はてっきりワルス様一筋だと思っていましたけど、意外と遊んでらしたのね?」
「エムロード様にかこつけてアラン様と好い仲になるなんて、おやりになりますわね」
「なんにせよ、アデレード様もそうなら安心ですわ」
次々に捲し立てられ、アデレードは呆然とした。彼女たちの話し方では、まるで自分とアランがそういう仲になっているようではないか。
「あの、何のお話でしょう?」
「あら、お隠しになりますの? 水くさい」
「そうだわ。今度仮面舞踏会にいらっしゃいません? ワルス様にはもちろん内緒でしてよ」
「わたくしたち、お仲間ですわよ」
「一途な愛は素晴らしいですけれど、背徳の罪悪感は何物にも代えがたい刺激ですものね」
「そうそう。遊びであるからこそより夫に尽くせるものですわ」
仮面舞踏会は顔も名前も教えずに一夜の夢を見る社交場だ。本来は誰とわからないからこそ――それこそ王や王妃が紛れていても気がつきませんよという暗黙の了解で開催されるものであったが、その秘密性に惹かれた人々がやがて別の意味で遊ぶようになっていった。家庭を壊すほどの度胸はない男女がもう二度とない夢として、一夜を交わすことになったのである。仮面舞踏会もまさかこんなことになるとは思わなかっただろう。
もちろん、表向き貴族からは敬遠されている。経験のあるなしに関わらずとりあえず拒否するのが貴族であった。アデレードのような未婚の貴族令嬢であればなおさら言語道断である。
「な……なんてことをおっしゃいますの。仮面舞踏会だなんて。そのようなところに行く女だと思われるのは心外ですわ」
「まあ、今さら隠さなくても」
「アデレード様は演技がお上手ですわ」
「わたくしもすっかり騙されていましたものね」
「アラン様もその手で落としたんですのね?」
とんでもない誤解をされている。アデレードはようやく危機感を覚えて真っ青になった。
「ち、違いますわ。わたくしとアラン様はお友達ですのよ」
「そうでしたわ。お友達でしたわね」
「ふふふ。特別なお友達ね?」
何度も首を振るアデレードにも、わかっていますわと彼女たちは笑うだけだ。秘密を共有している仲間意識と、あのアデレードの本性を暴いてやった優越感。わずかに悪意の滲む笑顔にアデレードはゾッとし、なおさら焦りを募らせた。
「あら、ご友人のお出ましですわ」
「アデレード様、どうぞごゆっくり……」
「アラン様によろしくお伝えくださいませ」
アランがやってきた。主催者に挨拶をしていた彼は、アデレードを見つけるとまっすぐに近づいてくる。
「こんばんは、アデレード」
「こんばんは、クシルス様」
アデレードは助けを求めて周囲に視線を走らせるが、先程の友人たちはにやにや笑って見当違いの応援をしてくるし、他の人々も噂を知ってかアデレードを軽蔑の眼差しで遠巻きにしていた。
「どうしました? いつものように、アランと呼んでください」
にこやかに手を取られ、指先にキスをされる。単なる挨拶に過ぎないとわかっていてもアデレードはゾッとした。
「クシルス様、お止めください。わたくしたちはお友達でしょう」
「ええ、そうですとも。あなたの真意に私もようやく気がつきました」
何とかアランから手を取り戻そうとするも、逆に引っ張られて中央に連行される。
断るきっかけが掴めないまま互いに礼を交わし、ダンスがはじまった。
「アラン様、わたくしの真意とはなんのお話ですの?」
「もちろん、エムロードのことです」
アデレードが周囲に聞こえないよう小声で話すのに対し、アランは俳優ならではの声量で応えた。低い声は良く響き、踊る人々がチラチラとアデレードとアランを盗み見ている。
「いくら親友のためとはいえ、あれほどまでに足しげく通ってくるのは私に会いたかったから……。なのに私はエムロードのことばかりで、あなたを思いやっていませんでしたね」
「それは違いますわ。わたくし本当に」
「あなたはそればかりですね」
弁解するアデレードをアランが遮った。
「アラン様?」
「違います。そんなつもりではなかった。エムロードのためを思って。先日もそうです。エムロードを心配する裏で、オルタ伯爵を貶めていた」
本当にエムロードを心配していたらそんなことを言わないはずだ。たとえ思っていたとしても口に出したりしないものである。
違う、と言いかけたアデレードをアランの鋭い瞳が制した。
「思えば私は、あなたの言葉しか聞いていなかった。エムロードの迷惑そうな態度や否定を、照れ隠しだ、噂を嫌うからというあなたの言葉だけで判断していた」
「わたくしのせいだとおっしゃるの?」
「私がどこまでも道化であったのは疑いようのない事実ですよ」
アデレードはアランを睨みつけた。彼のことを思って、彼を慰めるつもりだったのに、何て酷いことを言うのか。
「エムロードに選ばれなかったからといって、やつあたりはよくありませんわよ」
「……あなたの行動の意味を教えてくれたのは、そのエムロードです」
アデレードの顔が強張った。
アランはそんな彼女を見透かすように睥睨している。
「いつぞやの夜会で、エムロードにきっぱりふられたのです。結婚しても諦めきれずにいた私が悪いのですけれど。その際に『アデレードの気持ちも考えてくれ』と言われてしまいました」
アデレードはもうアランの顔を見られなかった。エムロードのことを考えていた。
曲が終わり、離れようとしたアデレードをアランが更にもう一曲と誘う。
「アラン……、クシルス様」
「もう一曲。いいでしょう? アデレード」
舞踏会にのこのこ一人で来たことをアデレードは後悔した。
立て続けに同じパートナーと踊るのは、特別な相手だと周囲に知らしめる意味を持っている。ここでアランと踊れば、噂を肯定することになるのだ。
こんな時に限ってワルスはいない。最近は仕事が忙しいらしく、アデレードが誘っても断られてばかりだった。大事な恋人に悪い虫がついても良いのかと苛立つが、いないものは仕方がなかった。
音楽がはじまり、踊り出したアランに釣られてアデレードも動いてしまう。
人の目が気になった。友人たちがやっぱりと言いたげに笑っている。あからさまに眉を顰める人もいた。
どうしよう。どうしたら。今すぐ逃げ帰りたいが、そんなことをしたらアランはエムロードの時のように、してもいないデートの話や恋人だと言い出すかもしれない。そんな話がワルスに伝わったら終わりだ。わたくしはアランがエムロードと上手くいくように応援していただけなのに、こんなことになるなんて。
どうやってアランと別れて家に帰りついたのか、アデレードは覚えていない。ほとんど混乱のままで舞踏会は終わっていた。とにかく疲れていた。
夢であれば良かったのにと思うが、踊りつかれた足が忘れさせてくれなかった。エムロードへのちょっとした――ちょっとしたからかい、アランを応援しての根回しが、あんな形で帰って来るとはアデレードは想像だにしなかった。
「違うわ。わたくしはアランとエムロードのためにしたのよ。だって親友ですもの。応援してあげるのが友情だわ」
アデレードは必死で否定する。悪意があったわけではない。初心なお嬢様だったエムロードと、恋を演じ慣れたアランが真実の恋で結ばれれば素敵だと思ったのだ。そこでアデレードは二人の間を取り持つキューピッドになる。そうしてみんなに称賛されるはずだった。
「そうよ。エムロードがいけないのだわ。わたくしに黙って結婚なんかして。あんなに親切にしてあげたのに……」
アデレードは自分に言い聞かせた。こうやって誰かを妬んだり恨んだり、醜い感情が込み上げて来た時にそれを訂正するのは彼女の癖だった。アデレード・ベージェは清廉潔白で完璧なレディでなければならないのだ。そうでなければ、何の取柄もないアデレードは誰にも見向きされなくなってしまう。
だからこそ、頑張って嫌いな女とも親友になったのだ。
コンコン、とノックの音がしてアデレードの思考が断ち切られる。
「お嬢様、エミュ様がお越しになっております」
「ワルスが?」
アデレードは一瞬どきりとした。昨夜のことをどうやって言い訳しよう。しかしすぐに思い直す。別に後ろめたいことをしたわけではないのだから、堂々としていればいいのだわ。
「すぐに行くわ。待っていただいて」
「はい」
そういえば、アランとのうわさの出所はメイドの誰かだろう。主家の令嬢の噂話をよそでするなんて、メイドのプライドはないのかしら。後できっちり教育してあげなくては。
ワルス・エミュはアデレードを見ると嬉しさを堪えきれないように一通の封筒を懐から取り出した。
「ワルス、どうしたの?」
「アデレード! これ、何だと思う?」
眼前に突きつけられた封筒は一目で上等な紙だとわかる立派なものだった。宛先はワルスではなく彼の父になっている。
「ずいぶん立派な封筒ね。貴族からの社交の招待状かしら?」
「そう! それもクラストロ公爵家だ!」
封筒を裏返したワルスが差出人を見せつける。双頭の龍に百合紋の封蝋。ザ・ロード・クラストロ――マクラウド・アストライア・クラストロからのものであった。
「嘘! まあ、すごいじゃない!」
執政からの招待状にアデレードも驚いた。思った通りの反応に満足したのか、ワルスが落ち着きを取り戻す。
「いや、正確には父宛てだが、名代ということで次期当主の俺が出席することになった」
「もう家督を譲られるの?」
「それはまだだ。最近の仕事ぶりを見てようやく認めてもらえそうだよ」
自信があるのだろう。ワルスがゆったりとソファに沈んだ。
「国の工業化の流れを受けて、うちもクラストロ領に支店を出す計画だ。その関係で招待されたんだろう。これを機にお近づきになり親しくなっておけばやりやすくなる」
正直なところ、王都よりもクラストロ領のほうが商売はしやすい。物価が安定しており、役人が賄賂を要求することもなく、バックアップも万全だ。
ただし、審査が極めて厳しいことでも知られている。従業員へ支払う給金だけではなく、安全面、健康面での基準を満たしていなければ許可が下りなかった。
「建築業界はこれから大きく動く。鉄道が通れば駅舎が必要だし、町も発展するだろう。乗り遅れるわけにはいかないからな」
そしてもちろん事業計画にはさらに厳しい審査が待っている。どこがクラストロと契約を結ぶのか、競争が激化しているのだ。
「そうなのね……」
アデレードはため息をついた。ワルスの仕事に興味はないが、どうやら大変なことになっているらしい。しかし家督を継ぐにせよ支店を出すにせよ、ほったらかしにされるのは気分が悪かった。
「それで、今日は招待状を見せびらかしに来たの?」
「違うって。パートナーとして同席して欲しいんだ」
「わたくしでいいのかしら」
アデレードは内心の嬉しさを押し隠し、悪戯っぽく言った。最近かまってくれないから拗ねているのだというポーズである。
「他の誰を誘えっていうんだ? お姫様」
長い付き合いだけあってワルスも気を悪くした様子はない。だが、そこは「君が良いんだ」と言うべきだろう。そういうところがアデレードにはいつまでも不満だった。気が利かないというか、女心がわかっていない。
そんな不満を表には出さず、アデレードは微笑んだ。
「ありがとう、ワルス。……あ」
「何?」
「ううん。ちょっと……クラストロ公爵家が主催では気後れしそうで」
アデレードの身分では公爵家の夜会など夢のまた夢だ。公爵は身分を気にしないというが、それでもまったく付き合いのない、コネがあるわけでもないアデレードが招待されることはないだろう。
どんなに華やかな方々が来るのかしら。わたくしなんかが行って、浮いてしまったらどうしよう。ワルスにも恥をかかせてしまうわ。アデレードは不安をごまかすように小さくため息をついた。
ほら、わたくし健気でしょう? だからそっちから言って? そんな目で見てくるアデレードに、ワルスはいつものように困ったように切り出した。
「実はドレスを贈ろうと思って、クラーラの店に行ったんだ」
「クラーラの店? だめよ、あそこは着る本人が直接行かないと依頼を受けてくれないわ」
「どうもそうらしい。本人を連れて来てと言われてしまったよ」
クラーラの店と聞いたアデレードは目を輝かせた。エムロードのドレスはクラーラが仕立てたという。エムロードと同じように、いいえ、もっと素晴らしいドレスを仕立ててもらうのだ。
「もう。ワルスって少し抜けてるわよね」
「そんな言い方ないだろ。これでも忙しいんだ」
「忙しい忙しいって、そればっかり」
つん、とそっぽを向いてみせる。いつもならワルスは慌てて謝ってくるはずだった。
しかし彼はため息を一つ吐くと立ち上がった。
「……まあ、いい。今度一緒に行くから予定を開けておいてくれよ」
「これから行くんじゃないの?」
「忙しいって言っただろ。これから人と会う約束があるんだ」
ご機嫌取りをせずに帰ってしまったワルスに、言いすぎたのかしらとアデレードは困惑した。あの程度はいつものじゃれ合いの範疇だ。アデレードが拗ねて、ワルスがご機嫌をとって、仲直り。それが日常だった。
「もしかして、本当に忙しいのかしら。それで疲れていて、やつあたり?」
次に会ったらやさしくいたわってあげようかしら。もしもやつあたりだったらうんとおねだりしよう。楽しい想像を膨らませ、アデレードはクラーラの店に行く日を待つことにした。
***
ワルスは自宅で探偵から報告を受けていた。
「フェルシンギス先生、わざわざありがとうございます」
「いえいえ、これも仕事ですので。どうかお気になさらず」
フェルシンギスは笑って謝辞を受け取ると、対面に座り早速調査報告書を取り出した。
「ご依頼のアデレード・ベージェ嬢ですが、なかなかの食わせ者ですな」
「……浮気ですか?」
「浮気といえば浮気でしょうが……。俳優のアラン・クシルスと密会を繰り返したうえ、先日の舞踏会ではダンスを何回も踊っております」
「…………」
報告書にはまずアデレードの家族構成と交友関係。そしてアランとの密会について書かれていた。ご丁寧にいつどこで何回会ったのか、二人に追い出されたファンの証言まである。
「友人関係もあまり素行のよろしくないご令嬢ばかりなようですな」
「まさか。オルタ伯爵夫人が?」
「いえいえ、そうではありません。オルタ伯爵夫人はどちらかというと被害者です」
「被害者とは? 彼女とアデレードは親友です」
「……親友が心を病むほど虚偽の噂を広げますかな? エムロード・オルタ伯爵夫人に関する噂は、過去を遡ってもアデレード・ベージェ嬢が出所でした」
ワルスは愕然となった。
たしかに、オルタ伯爵家でのガーデンパーティ以降、アデレードに違和感を覚えることが多くなった。妙に苛ついているというか、不安定なのだ。親友が結婚して寂しいのだろうとワルスは考えていた。
「どうもベージェ嬢はオルタ伯爵夫人を隠れ蓑にしていたようですな。正直、なぜ友人になったのかも不思議なくらいです」
「そんな、何かの間違いでは」
ワルスの心の中では、やっぱりと腑に落ちる部分と、それでもまだアデレードを信じたい部分がせめぎ合っていた。
「アデレードとオルタ伯爵夫人の実家は同格の貴族ですし、家庭環境もよく似ています。なによりアデレードは理由もなく人を陥れる女ではありません」
否定するワルスをフェルシンギスが気の毒そうに見つめた。
「長く交際している恋人を信じたい気持ちはわかりますが……」
言葉を濁した。ではなぜ身辺調査を依頼してきたのだと続くのだろう。ワルスの中に、アデレードを疑う気持ちがあったからだ。
「こちらはアラン・クシルスの証言です。これを読めばおわかりになるかと」
まさかの間男本人の証言。ワルスはもはや諦めの心持ちで読み始めた。
アランがエムロードと会ったのは、アデレードが彼女を誘って行った舞台公演だった。アランの演技に感動したエムロードが何度もブラボーを繰り返し、その時すでにアランと知り合いだったアデレードが二人を引き合わせたのだ。
エムロードは社交デビューしたばかりで初々しく、いかにも慣れていない様子だった。アランはそんな彼女にいつもの社交辞令で感謝し褒め称え、愛想を振りまいた。俳優のアランにはファンが多い。彼はわきまえていたのだ。
ところがエムロードはその褒め言葉を本気にした――と、アデレードが言ってきた。
困り果てた様子でどうか一度だけでも会ってやってくれないかと懇願され、何度も頼まれてエムロードと再会することになったという。
「……アデレードが頼んだのですか? オルタ伯爵夫人ではなく?」
「あくまでもアランの証言です。オルタ伯爵夫人はその時のことを覚えていませんでした」
「覚えていない?」
「アランは俳優ですからな。社交に出るのは仕事の一環で、自分に会うためだとは思わなかったのでしょう」
二人の再会はアデレードの家で開催された演奏会だった。人気俳優のアランをゲストに招いたことで、アデレードの交友関係も広がっていった。ようするにアデレードは上手いことやったわけだ。
「演奏会では二言三言、挨拶程度の言葉を交わしただけだったそうですが、アランはそこに惹かれたと言っています。しつこく迫ってくるでもなく、見返りを求めるわけでもない。俳優ともなれば色々とあったのでしょうな」
好きでもない女にまとわりつかれる不快感はワルスにはわからない。だが、実業家の跡取りという肩書だけで寄ってくる女に辟易した経験はあった。アランの女に対する不信感を想像し、さもありなんとうなずいた。
エムロード本人が覚えてもいない再会で見返りを得たのはアデレードだった。年下の友人のままごとのような恋を応援し、時に諫め、エムロードがアランのファンに攻撃されないように立ちまわることで周囲の信頼を得たのだ。それと同時に単なる知り合いだったアランとは演奏会に呼べるほど親しい友人という立場も得た。
「アデレードは……誰にでも親切でやさしい、頼れる女性でした」
「それは否定しません。確かに彼女はやさしすぎるほどやさしい女性なのでしょう。ですがそのやさしさでオルタ伯爵夫人を傷つけていたことも事実です」
その後はアランが積極的にエムロードに言い寄り、怯えたエムロードがアデレードに相談する。アデレードはアランとエムロードの間で板挟み状態の中、アランにはエムロードは箱入りだから目線を交わすので精一杯だと満足感を与え、エムロードには人気俳優の一時的な気まぐれだとごまかした。そしてそれを、自分の友人に話して聞かせたのだ。俳優と貴族令嬢の秘めた恋など格好の餌食になるとわかっていて、さも心配しているそぶりで噂の種を撒き散らしていった。
「そうそう、ベージェ嬢の口癖は『気を悪くしないで』『あなたのためだから』と『してあげた』『してあげる』のようですな」
「それが、何か?」
「頼んでもいないのにずいぶん恩着せがましく上からの物言いだと思いませんか」
「それは……」
それは、ワルスも感じていることだった。
アデレードはよくできた恋人である。ワルスの仕事に口出しすることなく、大変ねといたわってくれる。だが必ず言うのだ。お茶を淹れてあげる。一緒に行ってあげる。あなたのためにしてあげたわ。彼女といると、まるで乳母か家庭教師と話をしているのではと錯覚することもあった。
そのくせ彼女は自分から要求してくることはない。ワルスが察して動き、アデレードはそれに仕方がないからつきあってあげるといわんばかりだ。
フェルシンギスは探偵だ。依頼されたことを調査し、報告するのが仕事である。彼自身がどう感じていようとも、アデレードと結婚するのは止めておけとは言えないのだ。ワルスが背中を押して欲しいとわかっても、それは職務を逸脱する行為である。
「……フェルシンギス先生」
「どうするかは、エミュ君が決めることですよ」
もっともなアドバイスを残して、探偵は帰っていった。
***
クラーラの店に行く日、アデレードは張り切ってめかしこんだ。
「ずいぶん気合が入ってるな」
「あら、クラーラの店に行くんですもの。これくらいは当然だわ」
外出用のドレスに化粧もばっちり決め、珊瑚のブローチを胸元に飾った。帽子には花と羽飾り。ワルスとのデートよりも派手なくらいだ。
「それにしても、あなたがクラーラの店を知っているとは思わなかったわ」
「王都の有名店だし名前くらいは知ってたさ。ほら、オルタ伯爵家でのガーデンパーティで夫人が着ていたドレスはあそこで仕立てたんだろう」
「ええ……」
「あれはすごかったよな。印象がガラッと変わって、伯爵夫人の為人が良く出てた。クラーラの魔法の手っていうのもうなずける」
「そうね。魔法だなんて子供だましだと思っていたけれど、ドレスは素敵だったわ」
「だよな」
目立っていたのはエムロードではなくドレスだ。暗にそう匂わせるアデレードに気づいたが、ワルスはあえて肯定した。
「おっと、ここみたいだ」
クラーラの店、と書かれた看板が装飾の施されたドアにかかっている。高級店街の通り側にある小窓にはレースのつけ襟が飾られていた。
南側にはガラス張りの大きな窓が嵌めこまれ、店内中央のドレスを着たマネキンや布地、そしてティータイムを楽しむお嬢様たちが見えている。よくできたドールハウスにお気に入りを詰め込んだような微笑ましい光景だった。
ちりん。
ドアベルが鳴り、クラーラが笑顔で出迎えた。
「いらっしゃーい。ワルスちゃん、ようやく彼女を連れてきてくれたのね」
「はは、仕事が忙しくて……」
「商売繁盛、結構じゃなぁい。そちらがアデレード・ベージェさんね?」
「あ、はい」
笑顔の迫力が凄い。アデレードの感想はそれだった。いかにもオネェなハスキーボイスに話し方だが、陰気なところは一切なかった。しかし客商売をしているからか、アデレードを見る目はどこか探るような色があった。
アデレードは女の勘というべき感覚でクラーラを警戒した。クラーラの勢いに呑まれたら潰されると察したのだ。
「はじめまして。アデレード・ベージェと申します」
「これはご丁寧にありがとうございます。ようこそ、クラーラの店へ」
アデレードが優雅に礼をすれば、クラーラも見事な礼を返した。クラーラも磨き抜かれた察しの良さからアデレードの敵意を敏感に見抜いていた。
「どうぞおかけになって。今、お茶をお持ちしますわ」
クラーラが接客用テーブル席を薦め、キッチンに消えると、ようやく余裕が出てきたのかアデレードがお嬢様三人組に気づいた。
「あら? みなさま……」
三人は来客の邪魔にならないよう、静かにそ知らぬふりをしていた。アデレードの呟きにようやく顔を向ける。
「こんにちは、アデレード様」
「クラーラの店でお会いするなんて、奇遇ですわね」
「そちらが恋人のエミュ様ですのね」
エムロードと違い、アデレードは彼女たちとは親しくなかった。エムロードの友人というのが互いの認識である。なにしろ年下のエムロードよりもさらに年下で、しかも彼女たちのほうが身分が上の貴族令嬢なのだ。さらにいえば少女の好奇心と正義感でどこにでも踏み込んでいく度胸にアデレードはついていけなかった。
「ごきげんよう。みなさまも、ドレスをお求めに?」
さりげなくワルスに寄り添い、恋人からの贈り物だと見せつける。三人は曖昧な微笑のまま首を振った。
「いいえ。わたくしたち、クラーラ様のところでお茶を楽しむのが好きですの」
「わたくしたち、クラーラ様と仲良しですのよ」
「ドレスのお仕立てもお願いしますけど、わたくしたちがクラーラ様を独占するのはよくありませんもの」
三人が絶妙な呼吸で話をしてきた。こういうところもアデレードの苦手な部分だ。息が合いすぎていて逆に出来の悪い芝居でも見ている気分になる。
「ま、まあ、そうなんですのね」
色々と突っ込みたいところはあれど、アデレードは大人のレディとしてぐっと飲みこんだ。代わりに窘める。
「みなさま、クラーラ様とお呼びするのはいかがなものかと」
「まあ、なぜですの?」
「クラーラ様はクラーラ様ですわ」
「尊敬する方に敬意を持って接するのは当然ですわよ」
アデレードはわずかに眉を寄せ、それからふっと微笑んだ。
「それでも、です。いくら尊敬しているとはいえ相手は仕立て屋でしょう。あなたたちのために言いますけど、身分が違いますわ」
三人は思いがけない言葉を聞いた、ときょとんとなった。
「アデレード様はそのようにお考えですのね」
「わたくしたちとは違う価値観なのですわ」
「アデレード様がそれで良いのでしたら、そのようにしますわ」
クラーラの店では身分の上下など関係なくクラーラの『客人』である。クラーラが理念として掲げる博愛の精神を理解できないようでは客として扱われることはないだろう。
それならそれで、三人は構わなかった。来る者を吟味し、去るものは追わず。お嬢様たちは敬して遠ざけるを知っているのだ。
「あらあら、ベージェさんはウチの気風が合わないのかしらぁ?」
お茶の用意をして戻ってきたクラーラが、いかにも残念そうに首をかしげた。
「えっ?」
「アタクシのやり方、ご存知ないかしらぁ? お客様の為人を知り、親しくなることでその方に一番似合うドレスを仕立てるんですのよ」
「親しくなることと身分を軽視するのは別の話ですわ」
「ここはアタクシのお店よ。外ではともかくお店の中では庶民であろうと貴族であろうと等しくアタクシのお客様だわ」
店であるのだから選択権は客側にあるのだ。嫌なら来るなとクラーラは言い放った。
含まれた意味を正確に聞き取ったアデレードが口を閉ざす。
「ワルスちゃんが結婚を考えているお嬢様がどんな子か、楽しみにしていたけど、ずいぶん頭でっかちねぇ」
微笑むクラーラからは余裕が垣間見えた。挑発されていると感じたアデレードも負けじと微笑んで見せる。
「わたくし、そこまで奔放になれませんわ」
ワルスは二人の棘に気づかないのか、澄ましてお茶を飲んでいた。ちらりと横目でアデレードを窺っている。
実をいうと、ワルスはアデレードとの結婚をここで決めようと思っていた。クラーラの魔法の手はその人の本質を暴き出すという。クラーラは気難しく、気に入らない客の依頼は容赦なく断ることでも有名であった。
クラーラが魔法をかけても良いとアデレードのドレスを仕立てれば、彼女は周囲に誤解されているだけだ。しかし、クラーラに断られるようなら、アデレードは報告書の通りの腹黒女だったのだ。クラーラにはいい迷惑だが、判断材料にさせてもらうつもりでいた。
恋人を信じたい気持ちと、裏切られていた失望が複雑に交錯する。試し行為までして他人の判断にゆだねている時点でアデレードへの気持ちは冷めている自覚はあったが、それでもワルスにはまだアデレードへの情が残っていた。ずるずると交際していたくせに、いざとなったら逃げだす男と思われたくない、男の狡さである。
「ここが嫌なら別のところで仕立てようか?」
と、ワルスが言った。
「べ、別に、嫌だなんて言ってないわ。ここでかまわなくてよ。ワルスちゃん、なんて呼ばせているからちょっと気になっただけよ」
売り言葉に買い言葉でつい反論してしまったが、そんなつもりではなかった。クラーラの店を止めようと提案するワルスを慌てて引き留める。クラーラの店で、エムロードより素晴らしいドレスを仕立てなければならないのだ。
「それに、こんなところで結婚の話をされたくなかったわ」
アデレードはつんとそっぽを向いた。こんなところで悪かったわねぇ、とクラーラが不愉快そうに目を細める。
二人きりの素敵な場所で、薔薇の花束を捧げられて、ワルスがひざまずいてプロポーズ。アデレードはそんな夢を思い描いていたのだ。
「……俺と結婚したくなかった?」
「そんなことは言っていないわ。結婚してあげるわよ。わたくし、もう二十歳ですのよ、責任はとってもらわなくては」
責任、と言われた瞬間、ワルスは傷ついた瞳になった。
結婚に愛があるのは最良だ。政略結婚の義務だったとしても、情があれば家族になれる。相互努力もするだろう。
だが、アデレードは責任と言った。彼女と結婚すれば、この先一生ワルスだけが責められ続けるのだ。
深く長いため息を吐きだしたのは、ワルスではなくクラーラだった。
「ドレスのご依頼は、お断りしますわ」
「クラーラさん……」
「なっ、何を……っ?」
打つ手なし、とばかりにクラーラが首を振る。
「ベージェ嬢じゃぁ仕立てる気になれないわぁ。アタクシのドレスでもこの子じゃぁ無理ね」
「何が無理なのよ!?」
アデレードが勢いよく立ち上がった。結婚の安堵から一気に奈落に叩き落とされたショックに頭に血が昇る。
「だってあなた、誰も幸福にしようとしないんですもの」
クラーラはきっぱりと彼女の本質を突きつけた。
「え?」
「お店に来てから今までの短い時間でここまで人の気分を悪くさせるなんて、逆に才能よねぇ。アタシには自分を幸せにできない、そのための努力もしない人の応援はできないわぁ。だって、無駄ですもの」
むしろ憐れむようにクラーラが言った。
「ベージェ嬢はどうやら人を見下すことで自分を良く見せたいようだけど、見下したからって人より上に立てるわけじゃぁないのよ? あなた自身は何ひとつ成長していないんですものね」
「そんな……。人を見下してなんていませんわ。酷いことをおっしゃるのは止めてください」
見たくもない自分の本性をクラーラに直視させられ、アデレードは真っ青になる。
「あら、そう? 自覚してないってことは、あなた性格が悪いのね」
アデレードは一瞬愕然とし、震えだした。ついに涙が零れる。
ひっく、としゃくりあげ、ハンカチで拭うこともせずに泣くアデレードに、しかしワルスもお嬢様たちも慰めてこなかった。白けた目で女の最終兵器を振りかざすアデレードを見ているだけだ。
「……?」
なぜ、誰も何も言わないのか。ワルスでさえ慰めてくれないのか。アデレードは戸惑った。不思議そうにワルスを見たアデレードに、ため息を一つついたワルスが立ち上がった。
「気が済んだか? 帰るぞ」
「え……」
「申し訳ない、クラーラさん。みなさんも、ご迷惑をおかけしました」
頭を下げるワルスにクラーラは苦笑して「ワルスちゃんも大変ねぇ」とねぎらい、お嬢様三人組は鷹揚にうなずいた。アデレードなど誰も見ていなかった。
なぜこんな冷たい反応なのか、訳がわからず見回すアデレードの腕を引っ張り、ワルスは店を出ていった。
帰り道も無言のままで、アデレードもようやくワルスが怒っていることに気がついた。それでも人前で性格が悪いと言われた婚約者を、せめて庇うくらいはして欲しかったと責める気持ちが湧いてくる。
アデレードが口を開いたのは、ワルスの家に着いてからだった。
「ワルス、どうして何も言ってくれなかったの? わたくしの恥はあなたの恥でもあるのよ」
「君こそ人前で俺に恥をかかせてどういうつもりなんだ。クラーラさんにもお嬢様たちにも謝罪せず、よく泣けたな」
呆れと軽蔑まじりに吐き捨てられ、アデレードは立ち尽くした。
「酷いわ……。婚約者が辱められても平気なのね」
「婚約はそっちが断ったんだろう」
何言ってるんだとワルスは言うが、彼のほうこそ何を言っているのか。アデレードは慌てた。
「断ってなんかいないわ。結婚してあげるって言ったじゃない」
「責任をとれって? 愛もないのに責任だけで結婚したって、いずれ破綻するだけだ」
ワルスは机の引き出しからアデレードの身辺調査報告書を取り出すと、テーブルに叩きつけた。乱暴な仕草にアデレードがびくりと体を竦ませる。
「責任というのなら、アラン・クシルスにとってもらったらどうだ。ずいぶん『親密』らしいじゃないか」
アデレードは蒼白になった顔でワルスを凝視していたが、やがてゆっくりと、テーブルに置かれた『アデレード・ベージェに関する身辺調査書』と書かれた封筒に目を移した。
「……どうして?」
ようやくそれだけを言った。
ワルスがため息を吐く。
「結婚相手の身辺調査は当然だろう。驚いたよ、君はずいぶん奔放なんだな」
ワルスの言葉には棘があった。奔放にはなれないと言ったばかりのアデレードに突き刺さる。
「親友が苦しんでいるのを知りながら、それを利用していたとはね。俺も騙されたよ」
「違う! 違うわ!」
「何が違う? 男と二人きりで何度も逢引しておいて、まさか何もなかったとでも言うつもりか?」
「何もなかったわ、本当よ! わたくしを疑うの?」
「真実を疑いようがない。君のやったことがすべてだ」
今まで築き上げてきたものが崩れていく感覚に、アデレードは何度も首を振った。恐怖で体が凍り付いたように冷たくなっている。泣くこともできなかった。
「ワルス……」
「別れよう、アデレード。アランと幸せに」
「ワルス!!」
アデレードの悲鳴じみた呼びかけに、ワルスは眉を寄せた。口を開きかけ、ここで同情してしまっては一生この女に付き纏われると閉ざす。黙ってベルを鳴らした。
メイドと執事にアデレードを追い出させると、疲れたようにソファに座りこんだ。
***
アデレードとワルスの破局はすぐに社交界に知られることになった。
ではアランとの交際になるかというと、アランがそれを否定した。あの夜アデレードと踊ったのは、自分の恋心を利用した彼女への復讐であり、決別であったと表明したのだ。
エムロードとアランの噂はほとんどの人が知っている。涙を呑んでアランを諦めた彼のファンがどういうことかと詰めかけ、アデレードの所業が暴露されるや瞬く間に延焼する。
アデレード・ベージェの名は地に落ちた。
人の目が怖い、恥ずかしくてどこにも行けない、と家から一歩も出なくなったアデレードを心配して、エムロードが見舞いにやってきた。
「エムロード、何しに来たの……」
ベッドから起き上がることもできないアデレードが、恨みがましい目でエムロードを睨んだ。
「お見舞いよ」
エムロードは何食わぬ顔で応えた。看病用のだろうベッド脇に置かれた椅子に座る。
「それとも、あなたを笑いに来た、とでも言えば満足?」
「……っ」
アデレードがぎりっと歯を食いしばった。
そんなことをエムロードが言うからには、噂はとうに彼女の耳に届いているのだろう。
もしもこの場でエムロードがアデレードを罵倒してくれれば、それを材料にしてアデレードは復活できる。エムロードは男を惑わす性悪女で、アデレードは騙されていたのだ、と。
「ここに来る前、クラーラの店に寄ってきたわ」
アデレードが頬を引き攣らせ、毛布を被って体ごと拒絶した。クラーラの店はアデレードには禁句だ。クラーラの店にさえ行かなければこんなことにはならなかったと思えば恨みしかない。
「どうしてアデレードがあんなことをしたのか、クラーラ様にお聞きしたの。クラーラ様は、こうおっしゃったわ」
――あの子は自分が好きじゃないのね。
「何の取柄もない自分。地味で目立たない自分。誰の役にも立たない自分では、誰からも好かれないと思い込んでいる。だから自分と似た子を見つけて、下に置くことで安心していたんでしょう。そう言われて、わたくし気づいたの。出会ったばかりの頃、あなたはわたくしに、遠く離れた恋人とようやく巡り合えたかの感激を見せたわ」
覚えているかと問われ、アデレードは思い出した。
出会ったばかりのエムロードはいかにも社交デビューしたばかりの、世間知らずのお嬢様だった。わたくしと同じだわと思い、安心して近づいたのに、エムロードはそんな自分に何ら負い目を持っていないようであった。それだけならともかく、ただの小娘に過ぎないエムロードは周囲から大切にされていたのだ。
わたくしがこんなに頑張って掴み取ったものを、エムロードは労せずに得ている。それは、アデレードには許しがたいことであった。
「どうしてなの……」
「アデレード?」
「どうしてあなたばっかりなの? あなたばっかり大切にされて、愛されて、わたくしは見向きもされない! 友人も、クラーラも、アランだってエムロード、エムロード、エムロード! どうしてわたくしではないの!?」
毛布の中でアデレードが叫んだ。
「わたくし、頑張ったじゃない! なのにどうして誰も認めてくれないのよぉ!」
子供の癇癪のように泣き喚いた。劣等感が爆発し、叫びとなって溢れ出る。
「わたくし、あなたが大っ嫌い!!」
そのまま泣き崩れるアデレードに、エムロードは何と言えばいいのかわからなくなった。
メルキュールと出会う前のエムロードであれば、今の言葉に絶望し、泣きながら謝罪していただろう。
今は違う。エムロードを傷つけるはずの叫びは、彼女の心をわずかに波立たせるだけで、痛みを与えることはできなかった。ただ、憐れだった。
「――わたくしとあなたの違うところは、自分を好きか否かだったのでしょうね」
エムロードが静かに語りかける。
「わたくし、自分が好きよ。だから、わたくしを大切にしてくださる方を大切にしているわ。お父様、お母様、お兄様も弟も、使用人も、そしてメルキュールを愛しているの」
アデレードは聞こえていないのか、身動き一つしなかった。
「好きだから大切にしたいと思うし、大切にされたら嬉しくなるわ。嬉しい、楽しいと思ったことを大切な人と分かち合いたいと思うのは、当然ではなくて?」
アデレードの返事はない。アデレードは自分のことばかりで他人のことを思いやらなかった。愛されたいと言うが、誰かを大切に愛そうと思わなかったし、自分から行動しなかったのだ。それがアデレードとエムロードの違いであった。
エムロードが立ち上がった。
「安心して、アデレード。わたくしもあなたを嫌いになって差し上げるわ」
してあげる。それは、アデレードの口癖だった。あなたがそうして欲しいのなら、してあげる。恩着せがましく、さも自分ではなく相手のことを思いやっているかのように聞こえる言葉だ。責任を押し付ける言葉だった。
「さようなら」
エムロードが去って行く。アデレードが憧れ続けた理想の自分が消えてゆくのを感じ、アデレードは目を閉じた。子供のような、安らかな顔だった。
「秘密の仕立て屋さん」一巻、二巻発売中です!よろしくお願いします!




