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秘密の仕立て屋さん  作者: 江葉


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マルグリット・モンテスの引退・後


 さて、事の次第をクラーラから聞くことになったルードヴィッヒはというと、一瞬絶句した後しみじみとした仕草で額を押さえ、それからクラーラを見て深い深いため息を吐いた。


「……ルイ、その目の前にある犬の糞をカッコよく避けようとジャンプして思いっきり踏んづけた人を見るような目はやめなさい」

「馬鹿の自覚があるようで安心しました」

「わかってるわよ馬鹿やったって! でも仕方ないじゃない? まさかクラーラの正体をばらすわけにはいかないし、あんな顔されたら断れないわよ!」

「実はちょっと嬉しかったんでしょう。自分の幸せを願われて」


 うっとクラーラが黙り込んだ。誰だって、誰かに幸福を祈られたら嬉しいものだ。


「本気にさせないように気を付けてくださいよ。可哀想です」

「アタシがあの子を好きになるとは思わないのね?」


 拗ねたように唇を尖らせるクラーラに、ルードヴィッヒは目を反らした。いい加減慣れたが、違和感はどうしても消えない。


 一個人にマクラウドの重さを支えられるとは思えない。早々と潰されるだけだろう。


「あなたが幸せなら何だってかまいません。高級娼婦であろうと、ドレスであろうとね」

「わぁお。熱烈ぅ」


 クラーラがお道化るのを一睨みで黙らせ、ルードヴィッヒは机から手紙の束を取り出した。


「……なにこれ?」

「社交の招待状です。昨夜の舞踏会でクラストロが復帰したと大騒ぎですよ」

「こんなにあるの!?」

「狐は耳が早い。ちょうど良かったのでは? 彼女と会うのに困らないでしょう」


 皮肉たっぷりのルードヴィッヒから招待状を受け取り、クラーラは一通を指で摘まんで翳し見た。

 汚いものでも触る仕草にルードヴィッヒが先手を打つ。


「レギオンに代理をさせるのは止めてくださいね。これ以上は彼が気の毒です」

「アタシの身がもたないわよぉ」


 よよよ、とソファの手すりにわざとらしく突っ伏したクラーラを鼻で笑い飛ばす。


「二つの顔を使いこなすのは得意でしょう。双頭の龍が」


 嘆きの姿勢のまま、目だけを動かしてマクラウドが弟を見た。深淵に動じることのない彼に、持っていた招待状の束を落とす。

 床に散らばった誘惑を指先でかき混ぜ、一枚を掬い上げた。


 ***


 マクラウドが社交に出るようになってしばらく経つと、マルグリットが彼に恋をしているという噂が流れるようになった。


「クラーラ様、あの噂をお聞きになりまして?」

「あのマルグリット・モンテス様が恋に落ちたそうですの」

「しかもお相手はあのクラストロ公爵様だそうですわ」


 いつものお嬢様三人組も興味津々だ。しかも『あの』の使い方が絶妙に上手い。クラーラは苦笑に感心を乗せた。


「あなたたち、いつものことながらよく知ってるわねぇ」

「だってマルグリット様ですわよ?」

「そうですわ。いつも自信に満ちてらして、わたくし秘かに憧れていますの」

「そんな方が恋の病に伏せていらっしゃるなんて、ああ見えて純情な方でしたのね」


 お嬢様たちもマルグリットと面識がある。可愛い子猫ちゃん扱いだが嬉しそうに懐いていた。フランシーヌとはまた別の意味での憧れなのだろう。なにせ悪女だ。


 それがガラリとイメージチェンジして恋に苦しむ純愛路線になった。さらにその相手がクラストロ公爵だという。悲恋の匂いしかしないマルグリットに社交界は盛り上がった。


「クラーラ様はクラストロ家とお付き合いがありますでしょう?」

「何かお聞きしていませんの?」

「公爵様はマルグリット様をどう思っていらっしゃるのかしら?」


 クラーラは苦笑を深くした。


 マルグリットにマクラウドの社交情報を伝えてから、何回か顔を合わせている。だが、それだけだ。マルグリットからマクラウドに声をかけることはできないし、マクラウドは数ある花のうちの一つに過ぎないという態度を崩さなかった。


 クラーラはマルグリットに、マクラウドには彼女のことを何も伝えていないと言ってある。女性不信の公爵の不興を買って、クラストロに切られたら困るのはクラーラだ。マルグリットはそれでいいとクラーラに感謝した。とにかく何回も会っていれば、そのうちに彼も気づくだろうと前向きだった。


「付き合いがあるといってもアタシは単なる仕立て屋だもの。公爵様と気軽にお話できるわけじゃぁないのよ」


 肩を竦めて躱したクラーラに、お嬢様たちは不満そうだ。


「それに、あんな四十路のおっさんにマルゴちゃんはもったいないわ! もっと若くて純情な男のほうがお似合いよ!」


 なんだか言ってて悲しくなってきた。次々返ってくるブーメランがクラーラに突き刺さる。


「それはそうですわね」

「公爵様は四十代、二十代のマルグリット様とは釣り合いませんわ」

「今は良くてもそのうち薄くなったり丸くなったりするかもしれませんわね」


 お嬢様たちが追撃を仕掛けてきた。

 四十ともなれば髪や腹が気になるお年頃である。否定することもできず、クラーラは心で泣いた。


 ちりりん。


 そこにひっそりとベルを鳴らして客が入ってきた。


「いらっしゃーい。あら、クロエちゃん」

「クラーラ様……」


 マルグリットのメイド、クロエである。彼女はお嬢様たちに頭を下げると、いつもの澄まし顔を忘れた苦悩の表情でクラーラに縋りついた。


「クラーラ様。どうかマルグリット様をお助け下さい」


 クラーラは驚きに体を硬くし、お嬢様たちは顔を見合わせていた。


 ひとまず落ち着いて、とクラーラはクロエを座らせ、紅茶を用意した。蜂蜜の小瓶にディッパーを差し入れ、たっぷりとまとわせて掬い上げる。とろりとした蜜を見せつけてからクロエのティーカップに垂らした。


「さ、どうぞ。プラティーヌで採れた蜂蜜よ」


 蜂蜜に目をきらきらさせていたクロエは「まあ」と声をあげた。プラティーヌ領の蜂蜜は美のエキスとして有名である。


 こう見えて甘い物に目がないクロエは大切そうにカップを持ち、口をつけた。蜂蜜のコクのある甘さと爽やかな香りが心を落ち着かせてくれる。


「ありがとうございます。クラーラ様」

「どういたしまして。それで、マルゴちゃんに何かあったの?」


 ドレスはまだ完成していない。マルグリットの恋と純情を表すドレス、それもマクラウドに見せることを前提としたものである。クラーラも慎重に進めていた。


「マルグリット様がクラストロ公爵様に恋い焦がれているのはもうご存知でしょう?」

「ええ」


 ご存知どころかマルグリット本人から真っ先に教えられている。


「マルグリット様はなんとか公爵様のお目に止まろうと、このところあちこちの夜会に出かけておいででした。ですが、それはギュスターヴ様への裏切りに他なりません。マルグリット様はしきたりをお忘れになるほど公爵様に熱をあげているのです」

「それってまずいんじゃないの?」


 高級娼婦だからこそ守らねばならない筋がある。浮気はご法度。他の男に心を移したのなら潔く今の男とは別れなくてはならない。


「ギュスターヴ様ともめたの?」

「そうなのです……」


 だが、別れを承諾しない男もいる。本気で惚れこみのめり込んで泥沼から脱出できないタイプか、または今まで注ぎ込んだ金が惜しいタイプの男だ。高級娼婦という職業を理解している男ならそんな無粋な真似はせず、綺麗に別れるものであった。


「ギュスターヴ様とは秋風が吹き始めていたところでした。マルグリット様はいつものように、金の切れ目が縁の切れ目と別れ話をなさったのです。公爵様への恋心を持ち出さないだけのやさしさはおありでした」

「決定的な理由はなかったというわけね。マルグリットを囲えるだけの財力がなくなったのなら、余計に執着したんでしょう。そういう男に限ってしぶといのよ」

「その通りです。ギュスターヴ様は納得されず、マルグリット様を束縛しはじめました。そして、そのうちにクラストロ公爵様への恋心に気づかれ……」


 クロエが顔を伏せた。


 絶対に叶うことのない恋に、ギュスターヴは安心したのだろう。見せつけるようにマルグリットを着飾らせ、マクラウドが出席する夜会に繰り出した。


「もちろん公爵様はご存知ありません。知ったところでどうするつもりもないでしょう。公爵様をお見かけするたびにせつなそうにため息を吐くマルグリット様に溜飲が下がるのか、ギュスターヴ様はそれは酷い言葉を吐かれます」

「馬鹿な男」


 クラーラが吐き捨てた。聞き耳を立てていたお嬢様たちも深く同意する。


 ギュスターヴの焦りとプライドも理解できるが、それでは逆効果だ。マルグリットを責めれば責めるだけ、彼女の心は離れていく。

 浮気をしたマルグリットが不実ならば、妻がありながら金で愛人を囲っているギュスターヴもまた不実なのだ。


「……先日は狩猟に行き、わたくしもお供いたしました」


 クラーラがうなずいた。その情報を渡したのはクラーラだ。


 あの日のマルグリットはマクラウドの印象に残るほどであった。恋に身をやつすとはいうが痩せるんじゃないわよとクラーラが忠告し、そんな殊勝なタマじゃないとマルグリットも笑って軽口を返していたというのに、いつもの彼女が嘘のようにやつれていた。贅を凝らしたドレスに着られているマルグリットはしだいに枯れていく花のようで、ギュスターヴのギラギラした目とは対照的でなおさら哀れを誘っていた。全身で恋を訴えるマルグリットを見ないよう、ずいぶん気を使ったものである。


「ギュスターヴ様は公爵様と競うように獲物を狩っておいででしたが、猟犬、猟銃、付き人、馬、すべてにおいて公爵様が勝っておいででした。もちろん腕前においても。とても二十年間引き籠っていたとは思えないほどでございます」


 クラストロ公爵は婚約者の裏切りで心を病み、出仕不可能であった。公的にはそうなっている。


 実際にはクラーラとして好き勝手やらかしていたのだが。クラーラは聞き入るふりをしてうなずいた。


「それならギュスターヴ様に愛想がつきたと、別れる口実になるじゃないの」

「それが、マルグリット様は振り向いてもくださらない公爵様を想って嘆くばかりで……。ギュスターヴ様は激昂し、ついに手をあげたのです」

「なんですって!?」

「ギュスターヴ様はマルグリット様が高級娼婦として名を落とし、惨めになってから捨ててやるとお嗤いになります。わたくし、わたくし、もうこれ以上見ていられません……!」


 クロエは肩を震わせ拳を握り、涙が零れないよう懸命に堪えている。彼女の愛するマルグリットが貶められ、見る影もなく萎れていくのは許せないのだろう。


「ギュスターヴ様はもう駄目ね。少なくともマルゴちゃんは筋を通そうとした。それを拒否したくせに振り向かせることもできないからと手を出すなんて、紳士失格だわ」


 表面上の付き合いは続けても、裏では蔑まれるだろう。ルールを破った者にはそれなりの罰が下るものだ。


「分別をわきまえない方に社交界はやさしくないわ」

「はい。ギュスターヴ様の所業が奥様に知られ、ようやく縁切りすることができました」

「良かったじゃない」


 クラーラはほっとした。あまりの内容に顔を強張らせていたお嬢様たちも安堵の息を吐いている。

 クロエは鼻を啜り、ゆるゆると首を振った。


「いいえ。ギュスターヴ様の暴力に打ちのめされたマルグリット様はそこまでさせてしまったことを恥じ、もう社交界に出る資格はないとおっしゃっています」

「…………」


 マルグリットに非がまったくなかったとはクラーラもいえない。至高の宝石を一時でも手に入れた満足感を与えつつ去るのがもっとも望ましい別れである。別れを綺麗に演出するのも高級娼婦の腕の見せ所だ。


「それならクラストロ公爵のことは諦めたの?」

「……いいえ。ですが、諦めなくてはならないことはわかっておいででしょう」


 クロエはテーブルに両手をつき、頭を下げた。革手袋を嵌めたままのそこに涙が落ちる。


「クラーラ様、なにとぞマルグリット様をお助けくださいませんか」

「紹介しろってこと? 公爵家を甘く見ないほうがいいわ。マルゴちゃんの噂くらいとっくに摑んでいるでしょうよ」


 煩わしい、迷惑だと思われているか、くだらないと一蹴されているかのどちらかだ。


「目を向けていただくだけでいいのです。あれがマルグリット・モンテスだ、と。せめて一瞬でも、公爵様のお目に留まりたいと。……このままでは」


 ぐ、とクロエが喉を詰まらせた。


「死んでしまいます」


 クラーラは息を飲んだ。固唾を飲んで聞き入っていたお嬢様たちが堪らずに口を挟んでくる。


「クラーラ様、なんとかなりませんの?」

「そうですわ。一生一度の恋ですのよ」

「乙女の恋を応援してこそクラーラ様ですわ」

「ちょっと、みんな……」


 クラーラは頭を抱えたくなった。


 あの時感じた嫌な予感がひしひしと迫ってくる。


 マルグリットのマクラウドへの恋心がすべて嘘だとは思わない――が、どこからどこまでがマルグリットの演出なのだろう?


 忘れてはならない。マルグリットは、悪女なのだ。


「……いいわ」

「クラーラ様!」


 クロエがぱっと顔をあげた。純粋な喜びに満ちた彼女に、穿ちすぎかと苦笑する。


「もうじきドレスも仕上がるし、最後に最高の魔法をかけてあげる」


 最後の意味を理解してか、クロエは寂しそうな顔をした。わかっていなさそうなお嬢様たちに説明する。


「マルゴちゃんは高級娼婦よ。……自分の恋を明らかにした以上、もう誰のものにもなれないわ」


 それが高級娼婦である。恋を成就させたければ、今までのすべてを捨てなければならない。


「そんな。マルグリット様のいない社交界なんて」

「わたくしたち、マルグリット様の言動に胸のすく思いでしたのに」

「それほど厳しい世界でお暮しでしたのね」


 クラーラもクロエもお嬢様たちも、マルグリットの恋が成就するとは思っていなかった。一生一度の恋が散ったら、マルグリットも消える運命なのだ。


 ***


 マルグリット・モンテスのドレスは彼女の名を冠したバラと同じ濃紅色。デコルテのレースはバラを模り、わざと胸元を透かし見せている。


 左肩から胸、腰を辿り背中に回って裾まで淡いピンクのバラが飾り、背中は大胆に開けて腰から尻にかけてリボンが三つ並んでいた。リボンは白。足首まで垂らされたリボンの端にはデコルテと同じ意匠のレースが付き、ちいさな真珠が縫い付けられている。


「痩せたわりに胸は落ちていないわね。良かったわ、これくらいならコルセットでごまかせる」


 クロエに命じてマルグリットの腹部に布を巻かせ、その上からコルセットで締める。腹も痩せたが腕はさらに細くなり筋が浮いていた。


「手袋は長めのこれね。いくつか用意しておいて良かった」

「クラーラ、ごめんね」

「まったくよ。マルグリット・モンテスともあろう女が恋には完敗なんてね。あの日の強気はどこに行ったのかしらぁ?」


 髪飾りも淡いピンクのバラに、真珠をちりばめたものだ。結い上げた黒髪に、朝露に濡れて咲きはじめたばかりのように映えた。


「わたくしにも、どうしてこんなことになったのかわからないの。あの方のお目に留まりさえすればお慰めできる、笑顔にしてみせると決意していたのに」


 マクラウドはただの自然現象であるかのごとく、マルグリットの前を通り過ぎるだけだった。


「お姿を見れば嬉しくて、お声が聞ければ舞い上がるような心地だったわ。いつ振り返ってくださるか、わたくしったら年甲斐もなくわくわくしたの」


 マルグリットは少し扱けた頬を少女のように綻ばせた。


「……幸せな恋をしたのね」

「そうね。恋をするのがこんなに幸せで、そして苦しいのだと、はじめて知ったわ」


 マルグリットが頬を押さえた。ギュスターヴに打たれた痕はもうないが、衝撃は消えずに残っている。


 人を好きになるとはなんと罪深いことなのだろう。自分の心でありながら自分の思うままにならず、マルグリットの全身がマクラウドを追い求めた。そのせいでギュスターヴもムキになり、結果として彼まで傷つけ、貶めてしまった。


「……。さ、ちょっと口を閉じててね。お化粧をするわ」


 マルグリットが唇を結んだ。


 ろくに食べず、外にも出なかったのだろう。マルグリットの白い顔はさらに血色をなくし蒼ざめてしまっている。顔から首までファンデーションを塗り、さらにパウダーで整えた。チークで頬を染めて健康的な色を出す。目元に朱を乗せ、マルグリットの強気さを引き出した。口紅はドレスと同じ濃紅だ。


「つけぼくろを付けるわね」

「今時?」


 つけぼくろが流行したのは大昔、ヴェルチュガダン・シルエットの頃だ。


「目の下よ。印象に残るでしょ」

「泣きぼくろ」

「そうよ」


 仕上げに香水を耳の後ろにつけた。


「『真実ヴェリテ・アムール』はあざとくない?」

「このドレスにはこれでしょう。甘いバラの香り。今のマルゴちゃんにぴったりよ」


 鏡の前に立ったマルグリットは悪女そのもので、そうでありながらも心の奥底で秘めていた初々しさを垣間見せている。悪女でありながら乙女でもある。はじめて恋を知り、それに命を賭ける乙女の激しさと健気さが表現されていた。


 マルグリットは自分の姿に恥ずかしそうにドレスを抓んでいる。


「綺麗よ、マルゴちゃん」

「クラーラ」

「そのドレスはクラストロの絹を使ったわ。今夜の舞踏会で、公爵様にアタシの最新作を見せるって名目で、あなたを指差すからね」


 そこから先は、マルグリットしだいだ。

 マルグリットはクラーラの手を押しいただくように握りしめた。


「ありがとう、クラーラ」

「泣くんじゃないわよ。健闘を祈るわ」

「ええ。行ってきます」


 馬車に乗りこんだマルグリットを見送って、クラーラは大急ぎでクラストロ公爵邸へと向かった。


「クラーラ様、こちらです」


 待ち構えていたレオノーラがクラーラの化粧を落とし、髪の染料を洗い流す。櫛とタオルで乾かしていった。メイドたちが扇で扇いで風を送る。


「レギオンは?」

「コルセットに悲鳴をあげていました」

「そう。悪いことしちゃったわね」


 レギオンはマクラウドの代理を務めているが、クラーラになったことはない。さぞかし大変な目に遭っているだろう。

 レオノーラが呆れたため息を吐いた。


「そう思うのでしたらもっとそれらしい顔をなさってくださいませ」


 お顔が笑っています、と突っ込まれ、クラーラは頬を引き締めた。


 白いリンネルのシャツとベスト。黒の燕尾服。首に白のタイを結ぶ。


 ドアが開き、クラーラのドレスを着たレギオンが入ってきた。


「似合っているじゃないか、クラーラ」


 低い声が言った。


 艶やかな黒髪を後ろに撫で付け、クラーラの面影がないことを確認したレオノーラが一礼して下がる。


「ありがとうございます。閣下」


 女にしては低く、男にしては高い声色でレギオンは応えた。表情が硬くなっている。

 マクラウドはクラーラの前に立つと、まじまじと眺めた。


「おかしなことになったものだ」

「こんなこと、二度とごめんですわ」


 緊張しているのはコルセットが苦しいからだろう。マクラウドは肩を震わせた。クラーラにしてはずいぶんとしおらしい。


 並んで立つとマクラウドのほうがわずかに背が高かった。クラーラはいつもヒールのある靴を履いているのでマクラウドよりも高いのだが、ヒール付きではレギオンが歩けないだろうと靴だけは勘弁してある。ただし、女物だ。クラーラは完璧でなければならなかった。


「彼女は?」

「先程一人でやってきました」


 マクラウドはうなずいた。


「二、三曲終わってから、いかにも遅れてきたという体で来い。マルグリットを指差して「あれです」と言うだけでいい」


 クラーラはほんの一言だけの脇役だ。


「はい」


 それでも主役の二人を引き合わせる魔法使いである。重要な役目にクラーラの顔からは笑みが消えていた。


「そんな顔ではばれるぞ、笑え」

「わかっていますわ」

「これが済んだらしばらくは僕もまじめにマクラウドをやるさ」

「できればこれを機にマクラウドに復帰してもらいたいものですわぁ」


 マクラウドはくくっと笑うとクラーラの肩を叩いた。


「馬鹿を言うな。こんな楽しいこと、辞められるわけないだろ」

「人の気も知らないで、いい気なものですこと」


 心底人の神経を逆撫でするマクラウドに、クラーラがらしくなっていく。


「その調子だ。頼むぞ」

「はい」


 マルグリットが会場に入ると、人々の目がいっせいに彼女に向かった。


 濃紅に胸元の透けたレースはいかにも娼婦の出で立ちだ。おまけにギュスターヴとの別れ方もすでに広まっている。貴族の名誉を傷つけた女と、女性陣の中にはあからさまに眉を顰める者もいた。


 だが、立ち止まったマルグリットが誰かを探すように周囲を見回すと、雰囲気が一変する。


 微笑んではいるがせつなさに潤んだ瞳は雨上がりの雲の切れ間から覗いた青空のように濡れて、危うげだった。


「マルグリット様」

「こちらにいらしたんですのね」

「わたくしたち、ご一緒させていただいてもよろしくて?」


 そこにお嬢様三人組が近づいた。それぞれにドレスで着飾っている。


「あなたたち、どうして?」


 彼女たちのような若い貴族令嬢が高級娼婦と親しくするのは、評判を落としかねない行為だ。誰もが平等なクラーラの店とはわけが違う。三人はマルグリットの懸念を笑い飛ばした。


「わたくしたち、マルグリット様の応援に来たんですのよ」

「そうですわ。マルグリット様の大舞台を最前列で拝見させていただきます」

「一生一度の恋を見届けたく思いましたの」


 マルグリットは驚きに見開いた目を、次に潤ませた。彼女たちの若さが眩しかった。何も怖くないと、自分の人生は自分のものだと信じていたあの頃。

 今、マルグリットは高級娼婦の頂点に立ってここにいる。登り詰めて得たのは、失うことの恐怖だった。


「ありがとうございます。どうぞわたくしの恋を、目に焼き付けていてくださいませ」


 三人は無邪気に笑うと、きゅっと手を握りしめてうなずいた。


 ふいに会場が静まり返った。


 はっとマルグリットが振り返る。


 すべての色彩を混濁させた黒。マクラウド・アストライア・クラストロの入場であった。


 吸い込まれたように止んでいた音楽が再開し、マクラウドは今夜も付き従っていた弟と軽口を交わした。人々の群れを見回して一人の女性にダンスを申し込む。


「あの方は伯爵家の奥様ですわ」

「伯爵様とは万年新婚夫婦と揶揄されるほど仲がよろしいとか」

「公爵様、安全圏を見極めてらっしゃいますわね」


 嫉妬する必要はないとお嬢様たちがすかさずフォローする。なるほど、マクラウドもうかつに独身女性を誘って妙な勘違いをされるのを警戒しているらしい。


 周囲はマルグリットがどう出るのか、マクラウドがどうするのか、好奇心に満ちた目で見守っている。友人が群衆から抜け出してマルグリットを励ましに来てくれた。ファンの中にはマクラウドを朴念仁と言って窘められたり、悪女ぶりが鳴りを潜めたマルグリットにがっかりしている者もいる。


 マルグリットの恋が果たしてどのように幕を閉じるのか、マクラウドがどう始末をつけるのか。そんな思惑などあずかり知らぬ顔で、マクラウドが二曲目を踊り終えた。


 そこに、いつの間に来ていたのかクラーラが近づく。


「まあ、クラーラ様ですわ」

「クラーラ様がマルグリット様のために来てくださいましたわ」

「クラーラ様、お願いしますわ」


 クラーラはマクラウドに挨拶すると、金色のシャンパンを手に取った。マクラウドも給仕から受け取る。


 軽くグラスをぶつけて乾杯し、シャンパンを一口飲んだクラーラが、さも今見つけたというようにマルグリットを見た。ぎこちない笑みでマクラウドに何かを言い、マクラウドがマルグリットを振り返る。


 マクラウドは一瞬表情を消し、クラーラを見てまたマルグリットを見るとひと息でシャンパンを飲み干した。グラスをクラーラに押し付ける。不愉快そうに頭を振った。長い黒髪が背中で揺れていた。


「一曲踊って頂けますか」


 低くやわらかな声が言った。


「喜んで」


 たった一言で夢見心地になったマルグリットは差し出された彼の手に手を重ねた。中央にエスコートされる。


 指揮者がタクトを構え、楽団も楽器を構える。


 向かい合ったマルグリットとマクラウドが礼をした。


 メヌエットがはじまった。


 メヌエットは体を密着させず、目線で語り合い指先とステップで互いを探り合う踊りだ。ゆったりと両手を広げたマクラウドに添うようにマルグリットは体を動かす。流れゆく水のように自然に、マルグリットはマクラウドを見つめ続けた。


 恋の喜びを全身で表現するマルグリットに、貼り付けた微笑だったマクラウドの黒い瞳が揺れる。何かを探るように眉が寄り、ふっと微かな息を吐いた彼はしかたがなさそうに笑った。


 マクラウドにしてみれば、二十五歳のマルグリットなどお嬢ちゃんなのだろう。それでも良かった。焦がれるほど求め続けた彼が、自分をその瞳の中に入れてくれている。


 あなたの幸福を、いつまでも祈っています。


 自分では成し遂げられない事実に悔しさと悲しみを噛みしめ、マルグリットのダンスは終わった。


「ありがとう」

「こちらこそ。公爵様と踊れて光栄ですわ」


 弾む胸を押さえながらマルグリットは微笑んだ。泣くんじゃないわよ、と言ったクラーラをなぜか思い出す。


「お名前を伺ってもよろしいか?」


 どきりとした。マクラウドを見上げる。彼の肩越しにクラーラが見えた。目が合うと、怒ったような表情でうなずいた。


「マルグリット・モンテスと申します」

「マルグリット……『優美なるマルグリット』か」

「まあ、ご存知ですの?」

「うちの庭にもあったはずだ」


 中央から端までの距離などあっという間だ。魔法が解けるのはこんな感じなのだとマルグリットは思う。地に足が付き、一歩ごとに重みが返ってくる。


「では」


 と、マクラウドがマルグリットの手を取った。


「良い夜を」

「はい。今夜のことは、わたくし一生の思い出にいたします」


 マクラウドの目が含羞に弧を描いた。彼の黒い瞳に自分だけが映っているのを見て、マルグリットは歓喜に震える。指先にキスが降ってきた。


 別れはマルグリットの心臓を引き裂くような痛みを伴った。彼のぬくもりが消えるのが惜しくてキスされた手をもう片方で包み込む。


 マクラウドが遠ざかる。クラーラがカーテシーで彼に感謝を伝えていた。


「マルグリット様、大丈夫ですか?」

「おめでとうございます」

「さあ、あちらへ」


 お嬢様三人組がはしゃぎながらマルグリットをテラスに連行した。


「ここなら誰も見ていませんわ」

「マルグリット様、ようございましたね」

「わたくしたちに捕まったと思わせておきますわ」


 さすがは貴族令嬢だ、とマルグリットは感心した。会場から窺ってくる人々に見せつけるように笑い合い、マルグリットを隠してくれている。心配してくれていたのだろう友人もさりげなく動いて不躾な視線から彼女を守っていた。


 淑女が人前で泣くのはあってはならないことだった。感情を露わにするのははしたないことだとされている。いついかなる時も微笑みを浮かべ、嫌味や皮肉を笑って躱す。失恋に泣き崩れるのは子供のすることだ。


「……っ、ふ、……っ」


 クラーラ、もういいでしょう? 彼がキスをした手を頬に当て、マルグリットは宝石のような瞳から涙を溢れさせた。


 ***


 それからしばらくの間、クラーラの店は休業していた。マルグリットの恋を知りながらドレスを仕立て、彼女と踊るように誘導したことがクラストロ公爵の不興を買い、謹慎を申し付けられたともっぱらの噂だ。


 実際はレギオンとの約束通り、マクラウドの仕事に専念していたのが真相である。レギオンを筆頭にしたクラストロ家家臣一同心を合わせてここぞとばかりに当主を扱き使った。これを機会にマクラウドを取り戻そうという思惑もあったのだろう。


 ちなみにルードヴィッヒは我が身を嘆く兄にただ一言「自業自得」と切って捨てている。


 その間にマルグリットが高級娼婦を正式に引退した。礼もあったのか、ドレスの代金は請求金額より色を付けて支払われている。謹慎中のクラーラに代わり、レオノーラが対応した。


 クラーラの店が再開した日。やってきたマルグリットが開口一番こう言った。


「クラーラ、聞いて! わたくし結婚するの!」

「はあぁ!?」


 幸せいっぱいのマルグリットの後ろには、メイドのクロエもいる。よく見れば二人とも外套を着た旅姿だ。クロエは旅行鞄を持っている。


「どういうことよ!?」


 何と言って慰めようと気を揉んでいたクラーラは、嫌な予感が命中したことを確信した。

 うふっと肩を竦めたマルグリットが優雅に座る。


「わたくしが引退したことは知っているでしょう?」

「ええ」

「それから、何が起きたと思う?」

「何って……」


 クラーラは頭を巡らせた。マルグリットが引退――それもクラストロ公爵への叶わぬ恋の末の引退。あのマルグリットの意外すぎる幕引きに、驚いたものも多いだろう。


「高嶺の花が地に落ちたってわけね」

「そういうこと。わたくしを囲うほどの財はないけれど、愛のある方々が列を作ったわ」


 マルグリット・モンテスを愛人にするには金だけでは駄目だ。反対に、愛だけあっても無駄である。マルグリットを手に入れられる男は、愛と金と粋を兼ね備えていなければならなかった。


 しかし結婚するなら愛と金があればなんとかなる。あとは相性と情熱だ。


「クロエ、あなたも大変ね」


 侍女用の椅子でお茶を飲んでいたクロエは、澄まし顔でカップをソーサーに置いた。


「こういう主人でございますから」


 どこか自慢げな口元に、百も承知かとクラーラは納得する。もしかしたらマルグリットをもっとも愛しているのはクロエなのかもしれない。


「で、どんな方なの?」

「誠実な方よ。やさしくて、不器用で、わたくしを退屈させてくれるわ」


 結局はそこなのだ。男が女に若さを求めるように、女は男に誠実さを求める。退屈さえも楽しめるのなら、安心してそばにいられるだろう。


「上手くやったわね」


 マクラウドを見事に踏み台にしてくれた。クラストロが相手だったからこそ、マルグリットの純愛路線は成功したのだ。


「ありがとう。そうそうクラーラ、あなたに仕立ててもらったドレス、ずいぶん高く売れたわ」

「はぁ!?」

「ギュスターヴ様が思い出にと買ってくれたの。おかげで持参金が潤ったわ」


 マルグリット・モンテスの最後のドレスだ。欲しがる男が群がり勝手に値を吊り上げた。


 気前よく代金を支払ったと思ったら、そういうからくりがあったとは。出ていった金額より入った金額のほうが大きい。マルグリットの手腕にクラーラも唸るしかなかった。


「この悪女! せいぜい幸せになりなさいよ!」

「最高の褒め言葉だわ、クラーラ。……ありがとう」


 青い瞳を潤ませたマルグリットは素早くクラーラの頬にキスをした。クロエの手を取って店を出ていく。


 離れた所に停まっていた馬車から男が降りてきた。彼がマルグリットの夫だろう。


 荷物を持ったクロエが馬車に乗り、男がマルグリットに手を伸ばす。


 彼に微笑んだマルグリットはふと振り返り、これでおしまいというように綺麗な礼をした。




想像がついたと思いますが、マルグリットのモデルは峰不二子です。女はコワイデスネー。


「秘密の仕立て屋さん」二巻発売中です! よろしくお願いします!

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