ココ・エルチュールの野心
冒頭あれですが、エロではありません。
指で押せば蜜が溢れて来そうな白い肌。豊かな乳房の頂きは慎ましく尖り、薔薇色の蕾を見せている。
腹部からなだらかな曲線を描いて続く腰はしなやかに細く、下半身を覆い隠すのは白い布のみ。ゆるく曲げられた膝の上に乗せられた赤子は無垢な眼差しで母を見上げていた。
慈しみに満ちた瞳は、なぜだか憂いを帯びて、まるで赤子の運命を悟っているかのようだ。
パオロ・レーベンス作『聖母子像』である。
ココ・エルチュールの名を世に知らしめた作品であり、処女が神に選ばれたが故の悲哀と誇りを見事に描ききったとしてアカデミーにも絶賛された。
この時、ココ・エルチュールは十五歳。正真正銘乙女であったろう。
貧しい花売り娘の成功譚としては上出来だ。生きることに必死だったココは瞬く間に時の人となった。そして同時に社交界など何も知らぬ娘は、その奔流に引き摺りこまれてしまったのである。
「パオロ様には感謝しています。その日一日をどう食べていくかばかりを考えていた私が、今はもう食べるものにも着ることにも困らなくなりました。それどころか、結婚しようとまで言ってくれます」
クラーラの付けた条件は、店に通ってくることだった。クラーラが呼び出すこともあるし、ココがいつ来ても良い。とにかく顔をだすこと。それが例の貴族から自分を守るためだと気づいたココは、積極的に逃げてくるようになった。
「素敵ですわ。貧しさを乗り越えてお二人は絆を深められたのですね」
ココはパオロの手ほどきを受け、言葉づかいから読み書き、貴婦人としての振る舞いまで身に着けていた。彼の役に立ちたい一心であったのだろう。懐かしそうに当時を振り返るココは、若々しい美貌にふっと苦労の影を滲ませた。
ココの話を聞いているのはクラーラともう一人、ジェイン・アンバー・プラティーヌである。
自領に帰っていた彼女は何をするにもまずは出資者がいると、王都に戻り社交界で支援者を募っていた。
クラーラにも礼をしなくてはと店を訪れたのだが、そこにちょうどココが居合わせたのである。
ジェインはココがモデルと知ると驚いたようだったが、彼女の美貌にさもありなんとすぐに納得した。クラーラは伯爵令嬢であり婚約者がまさにモデルに夢中になっているジェインがココに偏見の目を向けやしないかと危惧したのだが、ジェイン自身はそれどころではなかったので互いの苦労話に花を咲かせる始末であった。
「わたくしも、もし次にまたご縁があるようでしたら、もっとしっかり話し合って理解を深めていきませんと」
「婚約破棄は決定なの?」
ため息を吐くジェインにクラーラが訊ねた。クラーラはココを付け回している男こそがジェインの婚約者であるダニエル・ド・ラ・エタン男爵だと裏付けを取っている。どういう運命の悪戯か、と思わず天を仰いだが、どうやらジェインは知らないようだ。知っていれば友人になどならないだろう。
箱入りの貴族令嬢であるジェインは、自領をあらためて視察し自分がいかに恵まれた生活をしているのか、平民がどういった生活をしているのかをその目で見た。ジェインにはとてもできない農作業や家畜の世話、自分でドレスを縫い、粗末な食事に感謝する。それが当たり前の生活であり、苦労などとは思ってすらいないことを目の当たりにしたのだ。以前クラーラが言っていた裸一貫で生き抜く者の強さ、それを思い知った。
そんなジェインにとって、新しく友人になったココは尊敬の対象だった。逆境にめげず、夢を叶え成功を掴んだココから学ぶことはたくさんある。ついでに男に悩まされているところも共感できた。
「ええ。王都に到着する日を伝えたにも関わらず、何も言ってこない婚約者には愛想が尽きました。あちらのご両親はなんとか目を覚まさせるとおっしゃっていましたが、わたくしにも都合がありますもの。むしろこれからのことを思えば身軽なほうがよろしいですわ」
「貴族様も大変なのですね」
「わたくしだけのことではありませんもの。わたくしが恥をかけばプラティーヌ家、ひいては愛する故郷までも笑われてしまいます。ココさん、社交界はそこら中に目を光らせている魔物がおりますわ。どうぞパオロさんを支えてあげてくださいませ」
ジェインの励ましにココがうつむいた。カップの中の琥珀をゆっくりと回す。
「ココちゃん、パオロちゃんのこと、迷ってるの?」
「……ええ、求婚を、お断りすべきかと」
「どうしてですのっ?」
ジェインはつい身を乗り出した。ココの瞳に憂いが濃く浮かび上がる。
「……有名な画家、特に女性をうつくしく描く画家に描いてもらいたいと思う令嬢は多いものね」
「……はい」
ジェインは首をかしげた。商売繁盛大変結構ではないか。それがなぜ、求婚を断ることになるのだろうか。
「わからないって顔ね、ジェインちゃん」
言いよどむココに代わってクラーラが説明する。
画家が世に出るには実力は当然ながら、後ろ盾が物を言う。アカデミーに選ばれるにもまず絵を見てもらわなければならないし、貴族のツテがある画廊に置いてもらおうにも無名は門前払いされる。絵を見さえすればわかると自信があっても、見てもらうまでが大変なのだ。
さて首尾よく画壇に登場し、高評価を得た。依頼も増えて売れるようになると、今度は貴族から声をかけられる。肖像画は自分の姿を後世に残すことになるのはもちろんだが、それが名画家の手ともなれば美術的価値が付加される。これといって功績のない貴族であっても美術史に名が残るというわけだ。その為人や時代背景、どういったものを好みどういう生活をしていたのか。移りゆく歴史に名を残すことは、貴族であれば誰もが一度は憧れるものなのだ。
「令嬢はそこまで考えないでしょうけどね。でも肖像を描く時に、画家は気分を良くさせるために褒めるもの。真剣に見つめられて何日も通って来る男に褒められたら、コロッといっちゃう子もいるわ。芸術家に理解のある方なら支えてくれるでしょうし、絵が売れれば生活に困ることもない。もしかすれば爵位を与えられるかもしれないわ」
「そうなのです。今の我が国は王太子様が決まっておりませんし、王宮に出入りしている貴族に気に入られれば、宮廷画家も夢ではないでしょう。パオロ様には、それだけの実力があります」
成り上がるには貴族の令嬢と結婚するのが一番手っ取り早い。平民でモデルのココは、パオロの花となることはできても、力になることはできないのだ。
「そんな、それでは身を引こうというのですか? パオロさんのお気持ちはどうなるのです」
「人の美など一時だけです。歳を取り容色が衰えて捨てられるよりは、うつくしいままで思い出になったほうがましです」
クラーラは内心で唸った。ココは本当にモデルの現実をよく学んでいる。自分を守れるのは自分だけだという精神が身に付いていた。
「で、ですが……」
「ジェイン様、愛では食べていけませんわ」
「金をとるか、愛をとるか。究極の選択ね」
クラーラは二人の指先を見比べた。
爪先まで綺麗に整えられたジェインに比べ、ココの指先はささくれができ、赤くなっている。パオロ家の家事もこなしているのだろう。有名になり絵が売れても、社交の付き合いなどで金は出ていく。さすがにメイドは雇っただろうが、モデルのココに従わないメイドなのだ。モデルの地位は、それほどに低い。
「ひどいのになると妻とは別れるなんて言って手放さず、子供まで産ませておきながら結局離婚しない、なんて話もあるわ。もちろんパオロちゃんがそうってわけじゃぁないのよ。でも、引退後を考えておくのは悪いことじゃぁないわよねぇ」
「そ、そのモデルはどうなったんですの?」
「失意のうちに亡くなったって話よ。ずっと苦労を支えてきたのに、期待させるだけさせておいて守ってもくれない画家を恨むことなく、ね」
貴族令嬢と結婚した画家の愛人では、ろくな暮らしにはならなかっただろう。妻のいやがらせもあったに違いない。
公に認められているのは自分だ、という妻と、本当に愛されているのは自分だ、と思うモデルの、女の戦いである。
「……クラーラ様、その画家はどうなったんですか?」
ココが冷静に問いかける。なんとなく想像がつくのか、彼女の黒い瞳は冷ややかだった。
「……モデルの死を看取って、それを絵にしたわ。二人の女に愛されて苦悩する自分に陶酔しきった、それは素晴らしい絵だそうよ」
ジェインが嫌悪に眉を寄せ、ココはそっと息を吐いた。
死んだ者には勝てないと誰もが思う。死の瞬間を画家に描かせることで、彼女の愛は不動のものとなったのだ。その絵を見て、妻は何を思っただろう。
「男って身勝手」
ジェインが吐き捨てた。実感がこもっている。
クラーラは、ただ苦笑した。
ココがパオロと暮らす家に帰ると、彼が嵐の後のような惨状となった部屋を片付けていた。
「パオロ! またあの男が来たの!?」
「お帰り、ココ。あいつと会わなかったかい?」
駆け寄ったココにほっとした笑みを見せて、パオロは無事を喜んだ。
「メイドは? あなたがこんなことをしては駄目よ」
割れた陶器の欠片をパオロからそっと奪い取り、ココがメイドを呼んだ。パオロが首を振った。
「解雇した。あいつを入れないよう厳命しておいたのに、私の断りなく門を開けるようなメイドはいらない。おかげでこの有り様だ。退職金と喚いていたが、損害賠償を請求しない代わりに叩きだしてやった」
画家にとって大切な指を傷つけることは極力避けていたパオロだが、よほど腹に据えかねたのだろう。掃除もさせずに着の身着のままで追い出した。
「…………」
また? と言いかけて、止める。ココがモデルとして来て以来、すでに三人もメイドが解雇されていた。理由は簡単、メイドがあからさまにココを虐めるからだ。
三人目のメイドは自分の美貌に自信があったようで、ココを追い出して彼女の立場を乗っ取ろうと画策した。水仕事、特に洗濯は手が荒れる。それをココに押し付けて少しでも醜くしようと躍起になっていた。ところがココは洗濯にも汚れ仕事にも慣れている。まったく堪えた様子がないからなおさらムキになったのだろう。
ココがいるから厄介な貴族が来襲するのであり、ココをくれてやればパオロは感謝されますます絵が売れる。そう唆し、恩を売ることでココに成り代わろうとした。
ところがパオロは激怒した。パオロにとって、ココは美の女神であり、ここまで引き上げてくれた恩人である。手放すはずがなかった。
なにより彼はココを愛しているのだ。全身全霊でココを守ると誓っている。
「ここは片付けておくから少し散歩でもしてきたら? そんなんじゃ筆も握れないでしょう」
「一緒にやるよ。それから警察に行こう。あいつの身分を考えて訴えるのを控えていたが、もう限界だ」
「パオロ、貴族を敵に回すのは危険よ」
パオロはココの件が起きてからダニエルを名前で呼ばなくなった。ココが怖がるからという理由だが、不敬罪で不利になりはしないかとココは心配だった。
「大丈夫だ。今のご時世で、警察であっても貴族の横暴を許すものか。あちらの実家も、もうあいつを見限る算段に入っている」
婚約者が王都を離れても手紙一つ出さず、戻ってきても知らんぷり。ただでさえ貴族の浮気に民衆はうんざりしているというのに泣き寝入りなどしたらパオロが腑抜けと謗られるだろう。
「あいつの婚約者も堪忍袋の緒が切れたようだ。婚約破棄の手続きをしていると聞く」
「それならなおさら危ないわ。何もない人間は、何をするかわからないのよ」
ココとて親兄弟がいたら世間体を考えてモデルを引き受けたりしなかっただろう。失うもののない人間は、時として思っても見ないことをやらかす。精神的な箍が外れているのだ。それが強さになればいいが、やぶれかぶれで理性を失い、弱さに呑まれると結局は犯罪に走ることもある。
幼い頃、酒や薬物で身を持ち崩す人間を多く見てきた。ココはパオロに危険を訴えた。
「だが、それではいつまでたっても逃げ回ることになる。万が一誘拐でもされたらどうするんだ」
「パオロ」
ココはパオロをまっすぐに見つめた。目が潤みそうになるのを堪える。
「私、次の仕事が終わったらモデルを辞めようと思うの」
パオロが息を飲んだ。血の気が引いていくのを嬉しいと思い、ココは自分を戒める。
「あなたのおかげで貯蓄もできたし、どこか田舎で暮らすわ」
結婚しようと言われてから、ココはずっと不安だった。今は良い、うつくしいと誰もが褒めてくれる。けれど時間は止められないのだ。いずれ老い、美貌が衰えた時、はたしてパオロは今と同じように愛してくれるだろうか。老いて醜くなったモデルなど用済みだ。名声を得た彼が他に女を作り、惨めに捨てられるくらいなら、愛されたまま消えたかった。
「ココ……」
「感謝しています。今の私があるのはあなたのおかげよ」
「私の妻になる気はないのか?」
ココがうつむいた。
感謝しているし、情もある。けれどこの感情が愛なのかというと、ココにはわからなかった。
ココは愛されたことがない。彼女の両親は働くことが嫌いなろくでなしで、いつも酒臭かった。空腹でパンを食べれば殴られ、痛みで泣けば水をかけられた。やがて成長し、ココの美貌に気づいた彼らに売られそうになって、逃げだしたのだ。
物乞いをして食べるものを得て、人買いに攫われないよう路地裏で同じ境遇の子供たちと固まって眠り、花売りの仕事を見つけた。
何の希望もない日々に現れたパオロはココにとって救い主であったが、王子様だとは思わなかった。夢など見なかった。花売り娘の大半は大人になれば春をひさぐようになる。男の口車に乗せられて弄ばれ、身投げした仲間がどれだけいたことか。
あの寒くてひもじい夜を忘れたことはない。男なんて信じるのは馬鹿のすることだ。頼れるのは自分だけ。幼い頃のココが泣いて訴える。
「あなたはこれから社交界やアカデミーに評価され、画壇を駆け上っていくでしょう。……モデルなんかを妻にするより後ろ盾のある貴族の令嬢と結婚したほうが良かったといつか後悔するわ」
パオロはそんな男じゃない。彼だけは違う。パオロは私を愛してくれるし、私だって彼のためならなんだってできる。幼いココにそう訴えるココもいた。
なんでもできるというのならココ、彼から離れるのよ。これ以上、あの男にパオロの人生をめちゃくちゃにされて堪るものか!
「心配しないで、仕事はちゃんとやるわ。でも、もう結婚なんて言い出すのはやめてちょうだいね」
あえて冷たく言い放ったココにパオロは伸ばしかけた手をぱたりと落とし、惨状の爪痕の残る部屋を出ていった。




