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王都の商人

久しぶりのドレスです…!



 王都は王宮を中心に発展した都市である。中央にある王宮大聖堂の赤い三角屋根がどこからでも見えるように設計され、それより高い建築物は王都を取り囲む城壁のみだ。貴族の邸宅は王宮を守るように囲んで建てられており、それらは文字通り王宮を守るための盾となる。


 貴族の邸宅地を過ぎると王家や貴族たち御用達の高級店街に出る。王宮正門となる南門側は生活必需品である食品街、北が家具や壁紙などの専門店、西にあるのは本や雑貨などを扱う嗜好品店、そして東にあるのがドレスや靴、アクセサリーなどの服飾店街だった。クラーラの店は東門のはずれ、高級店街と民衆の集まる街と道一本を境にした位置にあった。


「どこもしけてますねぇ。まったく、厳戒令なんていつまで続くんだか」


 『ティアーズ』を出たハインリヒ・ゴールドベルクが石畳を踏みながらぼやいた。隣を歩くギルベルト・ナッシュは吹く風の冷たさから逃れるように帽子を目深に被りなおす。


「アルベール王子が発見されるまでだろう。王子の不祥事がこうも続いては、王も必死だろうさ。あまり言うと目を付けられるぞ」


 顰められたギルベルトの声に、ハインリヒは肩を竦める。不満そうな顔をしないのは、誰が見ているかわからないからだ。


「総合店の『ティアーズ』はともかく、他は在庫が心もとなくなってきています。大通り沿いの店がこれでは、下町はどうなるんでしょう…」


 脇に抱えていた黒皮のぶ厚い帳面を胸に抱きかかえ直す。これはハインリヒの矜持であり、彼が何者であるか示す大切な証明であった。王都最大の商人ギルドの会計役人ハインリヒ・ゴールドベルクは、王都を発展させ盛り立てることに人生を賭けている。


 ハインリヒの隣にいる男、商人ギルドのマスターであるギルベルト・ナッシュはフンと鼻を鳴らした。彼の持っている黒檀の杖には天秤を咥え持つ鴉の装飾が施されている。商人ギルドを示す天秤は、よく見ると片方傾いていた。商売人は、平等ではない。どちらかの利がどちらかの損であるという考えのギルベルトは、損をしないよう戒めるためにこの杖を愛用している。死肉すら食らう鴉は時に商人を罵倒する際の形容に用いられ、それをシンボルとするところに彼らの諧謔ユーモアと反骨心が透けて見えた。


「今が盛りの秋なのに食品店は閑散としていますね。特に肉や魚の生鮮食品は壊滅的ときてる」


 城門が閉ざされ、今まで通行税で通ってきていた店を持たない商人や、郊外に出て獣や魚を獲り日銭を稼いでいた者たちが、通行許可証の認可を受けられず王都に入ることも出ることもできずにいる。また許可証の証明を取るのに手間取り、門前が混雑し結局商売を諦めて帰る商人までいた。王都の品不足に足元を見られ価格をふっかけられることも多くなってきている。


「…冬までにはなんとかなるだろう。宰相様がこの状態を放っておくはずがない」


 やけに力強く言い切ったギルベルトにハインリヒは目を丸くした。ハインリヒの計算能力に目をつけ会計に引き立てて重宝してくれたのは彼だったが、それでも猜疑心の強さと損得勘定がでしゃばる性格に辟易したことは一度や二度ではない。そんなギルベルトがこうまできっぱり言うのも意外だが、長いつきあいで彼からクラストロ公爵について語られたことはなかったはずである。


「…意外です。20年間何もしていない宰相をあなたが信じるとは」

「おまえは何を見てきたんだ。そんなことではギルドは任せられんぞ」

「えっ、えっ?任せるって…?ギルド長?」

「行くぞ。次は…服飾店街だ」


 西から東へと足を向ける。秋を迎え収穫期の今頃は、例年なら春に次ぐ活気をみせる季節だった。しかしどの通りも秋風が吹き、冬の訪れに怯えるように人々は隠れている。枯れ葉が吹き溜まりに集まり、カサカサと音を立てていた。


「うん、こっちは冬支度でそれなりに賑わっていますね」


 服飾店街は流行に敏感なご婦人方が買い物を楽しんでいた。毛皮のコートやケープが店先に飾られている。ハインリヒはようやく活気のある店を見つけ、ほっと一息ついた。


「おや?あれは…」


 服飾店街の中心部から出る。クラーラの店が近づくと、店の前に立ち尽くす男女が見えた。


「これは、シュテファンさんにヴェルク夫人。ご夫婦で揃ってとは珍しい」


 ギルベルトが声をかけると、困り顔のグレースとシュテファンが振り返った。


「ナッシュさん、お久しぶりです」

「…こんにちは」


 シュテファンが妻を庇うように前に出た。グレースは夫の後ろに隠れるように身を縮ませ、そっと挨拶をしてくる。あいかわらず、人前は恥ずかしいらしい。


「クラーラに挨拶を、と思って来たのだが、不在のようでして」

「ああ…祝賀祭が終わってから休養に行っているんですよ。ドレスの受注が多かったから疲れたようでね、クラストロの温泉です」


 シュテファン・ヴェルクは厳めしい顔つきに似合わぬやわらかな目つきをした、初老の男だ。対する妻のグレースはまだ20代という歳の差夫婦で知られている。夫婦というより親子に見えるが、何年たっても変わらぬ仲の良さで有名だった。


「そうか。その話は知っているが、まだ帰ってきていなかったのか」

「王都がこれでは道中危険もありましょう。用心しているんじゃないですかね」


 不安そうにシュテファンの袖口を握ったグレースに、安心させるように笑う。商人だけあってギルベルトが笑うとどこか愛嬌があった。グレースがぎこちなく微笑みを返す。


「あなた、また出直しましょう…」

「そうだな。グレース、何か欲しいものはないか?買い物をして帰ろう」


 グレースの肩を抱いて身を寄せ、シュテファンは帽子を少し持ち上げるとクラーラの店から去って行った。黙って眺めていたハインリヒが羨ましそうに見送っている。


「ヴェルク夫妻といえば、クラーラの立役者ですよね。あの『怪物』シュテファン・ヴェルクの結婚は当時センセーショナルに騒がれました」

「クラーラのデビューでもある。あれほど鮮やかに社交界に打って出るとはわたしも思わなかった」


 当時のグレースは19歳という年齢になっても社交界に出てこない、引きこもり令嬢としてある意味有名な女性だった。彼女の実家は裕福な商家で、身分的に社交に出て結婚していなければおかしい年齢だ。醜女しこめである。病気だ。親が溺愛して結婚を阻んでいる。様々な憶測がされ、謎めいた令嬢に噂が飛び交っていた。


 グレースはある種の病気であったのだろう。極度の人見知りに照れ症で、初見の相手だとほとんど碌な会話もできない。しかし彼女の病はそれではない。グレースは本という病に憑りつかれた少女であったのだ。日がな一日本を読み、寝食すら忘れてのめり込む。幼い頃は夢見がちな少女によくあることだと見守っていた両親も、結婚適齢期を過ぎても本ばかりで異性に興味を示さない娘を心配してなんとか外に出そうとした。しかしきらびやかドレスもうつくしい宝石もグレースの心を動かすことはできなかった。一度も着られることのないドレスに、減っていく夜会や晩餐の招待状。焦ったグレースの両親は、藁をも掴む思いでクラーラの店の戸を叩いた。


 その頃のクラーラの店は、高級店街にできたばかりの庶民向けとも貴族向けともわからぬ、どっちつかずの店として爪弾きにされていた。新しいものの好きな貴族が訪れても話を聞きはするがクラーラの気に入らないときっぱり断られる。見た目があきらかに女装なので偏見に晒されてもいた。庶民の少女がお小遣いを握りしめて来店しても、店の小窓に飾られているのはそんな小銭では手に入らないものばかり。気後れした庶民は二の足を踏み、クラーラを見て逃げ出した。見事に閑古鳥が鳴く店。そこにやってきたのがグレースだったのだ。


 グレースは大人びた顔立ちにレモンイエローの金髪、夕日のように赤い瞳の、少女というにはとうの立った娘だった。両親に連れられて来たグレースはひと言も話さず、出された紅茶を飲みながら取り出した本を開いて読み始めたという。クラーラも面食らっただろうが、読書の邪魔をせずにグレースを迎え入れた。


 グレースの何が気に入ったのか、クラーラはそれから「お茶を飲みにいらっしゃい」と何度も誘った。グレースは小言を言われずに読書のできる環境だとクラーラの店を認識したのか、本を片手にクラーラの店に通い詰めた。


 あまり知られていないが、クラーラも相当な読書家である。どんな顧客の話にもついていけるように、新聞だけではなく娯楽小説や専門書までありとあらゆる分野に手を出している。読書仲間を得たグレースはクラーラに自分の本を紹介し、クラーラもまた彼女の知らない本を薦めた。会話ではなく本によって相手の趣味を探る。クラーラはそうしてグレースのドレスを仕立て上げた。


 両親がグレースのために用意した社交の場は、年嵩の娘がいてもおかしくないように配慮された晩餐会だった。そこに現れたグレースは瞬く間に話題に上った。


 時代遅れというよりは古典的というべきエンパイアスタイルのドレス。ハイウエストでバッスルやクリノリンのようにスカートの膨らみを作らず、体の線に沿って流れるラインが特徴的なドレスだ。水に墨を浮かべたような地味な色の生地を重ね、大胆にカットされた裾を飾る大振りなレースの赤とあいまってグレースを古い邸宅にある肖像画から抜け出てきたような印象を見る人に与えた。彼女の薄い金髪を飾るのは、同じく赤と薄墨を組み合わせたレースの花飾り。葉に見立てて垂らされたレースが若草色から次第に暗く変色していくのがその印象に現実味を加えていた。


 グレースはこのような場に出るのが久しぶりだからか、緊張して顔色を白くしていた。そっと顔を隠す扇はドレスと同じ趣向を凝らされ、彼女の可憐さを唯一演出するように蝶が一匹止まっていた。


 そこにクラーラがやってきた。大柄で厳つい顔の男と談笑しながら近づき、グレースに紹介する。


「グレースちゃん、こちらはシュテファン・ヴェルク様。ヴェルク様、こちらはグレース・アルザー嬢」


 それからパチン、とウインクした。ふたりにしか聞こえない声で続ける。


「あなたの大ファンよ」


 グレースの目はすでに感激に潤んでいた。反対にシュテファンは、驚愕と呆れの表情でクラーラを見ていた。彼は自分の著作のファンがいると聞いてクラーラの誘いに乗ったのだが、まさかこんなに若くうつくしい娘だとは想像していなかったのだ。それもそのはず、シュテファンは娯楽小説の中でも特に好みが分かれる、ホラー作家なのだから。


 グレースはドレスを摘み、優雅に礼をするとシュテファン・ヴェルクをひたと見つめた。上手く言葉も出てこない様子にようやくシュテファンも冗談ではないことに気づく。ぎこちなく、礼を返した。


「…なんと、言ったらいいのか……。アルザー嬢、本当にわたしの著作をお読みになっているのですか…?」


 ようやくシュテファンが発言した。大柄な体格に厳つい顔もあって、シュテファンは女性にもてたためしがない。作品の不気味さも彼の外見に悪い印象を与え、独身のままだった。


 グレースは言葉を選び、何度も口を開いては閉じて躊躇っていたが、意を決して話し始めた。本好きの性か、好きな本について語り出すと止まらない。


「は、はい。わたくし、特に『精霊姫の森』が好きで…。あの森の描写は今にも精霊が現れそうでとてもどきどきいたしました。精霊の姫への執念ともいえる恋情や憎しみ、彼女に尽くす主人公の凄まじいまでの想いに感動いたしましたわ」


 人見知りのグレースは、今までクラーラ以外の読書仲間といえる友人がいなかった。自分のような娘がホラー小説を好んでいると知られたら偏見の目で見られることもわかっていた。だからこそひた隠しに隠し、クラーラに薦める本も様子を見ながらそれとなくシュテファンの本を紛れ込ませていたくらいだ。まさかクラーラがホラー小説を読み、自分の好みをこれほど理解してくれるとは思わなかった。


 『妖精姫の森』はタイトル通り、森を舞台に展開するホラー小説だ。精霊姫のジュリエッタに恋をした主人公の少年が思い余って禁忌の森に踏み込み、姫を守ろうとする闇の精霊たちに襲われる。典型的な展開だが、そこに偏執的な恋情と自分を排除しようとする姫への憎悪が盛り込まれ、読んでいて背筋が凍りつくと評判だった。姫のうつくしさ。じっとりとした主人公の独白。次第に狂気的になっていく精霊たち。乗りに乗ったシュテファンの筆はその様を脳内に再生させ読者を恐怖に陥れた。それは思春期のグレースを虜にするには充分な力を持っていた。薄闇の広がる森に棲む赤い羽持つ精霊姫。今夜のドレスはグレースの好みと完全に一致していた。


「おお、精霊姫ですか」


 グレースが言葉を尽くし、なんとか自分の感動を伝えようとするのにシュテファンは頬を染めた。褒められることの少ないホラー小説家にとって、こうして読者と交流できる機会はめったにない。グレースとシュテファンは晩餐がはじまるまで話をし、瞬く間に意気投合した。良き理解者に出会ったふたりは次に会うまでもなくその場で結婚の約束をした。電撃的な婚約発表が人々の度肝を抜いたのはいうまでもない。


 引きこもり令嬢グレース・アルザーと『怪物』シュテファン・ヴェルクの出会いから結婚までをプロデュースしたクラーラはこうして社交界に躍り出た。世間から爪弾きにされていた女装男の手腕に誰もが驚き、グレースのドレスを口々に語った。古い考えの一部貴族からの評判は実に悪かったが、流行に敏感な少女たちは違った。自分のために仕立てられた、自分だけに似合うドレス。物語に出てくる魔法使いのように偏屈なクラーラに認められるのは一種のステータスとなった。捧げられるのは少女たちの甘い夢とほのかな恋。グレースの実家アルザー家はクラーラに感謝してそんな宣伝を打った。ギルベルトはクラーラになった彼に驚嘆し、低く唸りながら笑いを堪えるのが精一杯だった。


 商人ギルドのマスターギルベルト・ナッシュは、王都においてクラーラの正体を知る数少ないひとりである。


 王都に限らずどこの国でも商売をはじめる際はギルドの承認が必要となる。担保保証。信用保証。開店資金。他の街で経営した実績のない『クラーラ』では、王都に店を持つ資格がなかった。いかに腕が良かろうと、経営の素人が店を出して上手くいくほど商売は甘くないのだ。まして王都ともなれば老舗が居並び新参者は見極めされる。下手をすれば開店早々嫌がらせに遭い潰されかねなかった。クラーラの見た目では相当厳しい経営になるだろう。マクラウドに打ち明けられたギルベルトは率直に告げた。すでにクラーラになっていたマクラウドも同意した。


 なによりギルベルトは何故今になって彼が王都に戻ってくるのかがわからなかった。エドゥアール王の出仕要請を拒み続けてきたマクラウドが、別人に成りすましてまで王都に来る理由がない。復讐にしては時期がおかしいし、仕立て屋に何かできるとも思えなかった。エドゥアールの統治は災害や経済の低迷こそあるものの、おおむね順調だ。これといって加点すべきところが見当たらない代わりに、大きな損害もない。歴代の王とさして変わりはないだろう。疑惑の目を向けるギルベルトにふっと皮肉げに笑ったクラーラは、男にしては高い発音と女言葉でこう言った。


「だってそろそろ第一王子が婚約する頃じゃなぁい?」


 計算高い蛇がちろちろと舌を出すような声であった。ギルベルトはゾッと背筋を震わせた。舌なめずりをして獲物を丸飲みする蛇は、憐れむように笑っている。


「エドゥアール王とフローラ妃の、愛の結晶よ。うふふ、お嫁さんはどんなお嬢様かしら。楽しみよねぇ」


 次世代の子供たち。大人たちが意図して何も教えずにいた無垢な子供。クラーラの商売は彼らをターゲットにしていた。結婚を夢見て恋する少女と、少女の恋の相手となる青年。


 凍り付くギルベルトにクラーラは不思議そうに小首をかしげた。コケティッシュな仕草はこの女装の男を不思議なほど魅力的に見せた。それからクラーラは、打って変わってやさしい声で言った。


「…心配しなくても、アタシが作るのはドレスだけよ。女の子の夢のお手伝いがアタシの仕事なワケ。いくらなんでも自分の商売を潰すような真似なんかしないわ」

「その、保証はありますか」

「ふふふ、そういうトコはほんとに商売人ね、嫌いじゃないわぁ。ねえ、アタシがここにいるってことがどういう意味か、わからないわけじゃぁないでしょう?なんなら誓詞を出すわよ?」


 クラーラが――マクラウド・アストライア・クラストロがわざわざギルドに足を運んできた。それこそが即ち保証である。クラストロ公爵家が後見すれば、ギルドに顔を出すことなく命令文書一枚で事足りるのだ。それをしないことで、クラーラは王都のギルドに対し筋を通した。ギルベルトはようやく息を吐いた。


「クラストロ公爵家とは無関係の服飾職人クラーラが店を出す、ということで良いんですね?」

「そうよ」

「こちらからの要望もある程度飲んでもらいます。まず店は王都高級店街に出店してもらいます。それと併せてクラストロ産の絹を適正価格で販売してもらいたい。貴族の邸宅に近い場所ならある程度の安全が確保されます。宝飾品もできるかぎり職人ギルドに属する職人を使ってください。王都の職人は腕に自信のある者ばかりで、よそ者が地方の職人を使って売り出すのでは反発しか招きません。本当に王都で仕立て屋をやるならこれを守ってください」

「絹、適正価格で売っちゃっていいの?王家には高く売りつけてるんでしょう?」

「クラストロの絹が王都に出回っている事実が重要なんです」


 ギルベルトは真剣だった。彼はこの国で生まれて育った、この国を愛する国民のひとりだ。祖国が破滅するのをこの目で見たくないと思うのは当然だろう。なにより商売と王都を愛している。王と王妃が他国からどれだけ信用を失おうと、商売は別だ。そう割り切ってもいた。


 クラストロの絹が王都に出回れば、マクラウドが見ていることを思い出すだろう。誰かにとって恐怖であろうと、大半の民衆にとってクラストロ公爵家は国と王都を安堵させてくれる宰相なのだ。不在の宰相が確かにいることの安心感は、どれだけ金を積んでも買えるものではなかった。


「わかった、それでいいわ。どっちみちクラストロからもどうせなら絹の宣伝係になれと言われているしね」

「ありがとうございます」


 契約成立。手を差し出して良いものか躊躇するギルベルトに苦笑し、クラーラは待った。こうした場合、立場が上の者から手を差し出すのが礼儀だからだ。


「ギルド長、アタシはクラーラなのよ」

「…クラーラ、様……」


 マクラウドがどれほどの地獄を味わったのか、ギルベルトは想像することしかできない。彼は商人として成功しギルドを治める地位に就いたが、家庭は築かなかった。そんな時間がなかったことも大きいが、ギルベルトはなにより自分の商売で儲け、他人を喜ばせることに人生の意義を見出していた。


 ギルベルトが差し出した手を、クラーラがしっかりと握った。あたたかい手であった。ふわりと笑ったクラーラに先程の影はなく、屈託のない若者のようにも見えた。


 クラーラは有言実行の人間だった。グレースとシュテファンの電撃結婚の立役者として一躍有名になったクラーラは、客をえり好みするが腕は抜群の仕立て屋として王都で受け入れられていった。下町の居酒屋で飲んだくれて潰れている姿を見たことすらある。高価な絹や宝石を使ったドレスは貴族令嬢向けに、当初クラーラが望んだような庶民の少女が買えるレースやリボンも販売した。クラーラの人徳か、貴族令嬢と下町娘の垣根がしだいになくなり、笑っておしゃべりをしている。仲良く笑いさざめく少女たちは平和そのもので、ギルベルトはクラーラの狙いを察することができた。


 クラーラの望みは貴族と庶民の位置を限りなく近くすること。貴族制度はそう簡単にはなくならない。だが貴族と、庶民。どちらの人口が多いかといえば圧倒的に庶民のほうだ。偏見という垣根を取り払い、同じ人間であるという価値観を植え付け、いつかマクラウドが願ったように教育を行き渡らせる。そうしていずれ、貴族が独占している議会や官僚への道を拓くのだ。無能な貴族による世襲ではなく、有能な人材の発掘。次世代を担う若者たちの意識改革を行うことで、この国を進化させようとしている。


 議会で承認されたところでいきなり受け入れる貴族はいないだろう。クラーラはゆっくりと、時間をかけて、若者たちを導いた。誰にもその真意に気づかれることなく。


 ギルベルトはクラーラの深謀に吼えるような気分を味わった。あの男はやはり宰相なのだ。革命に犠牲は付き物。だが彼は、極力最低限で済むように民意をコントロールしている。


 服飾店街を一周したギルベルトとハインリヒの耳に、少女たちのかしましい話声が聞こえてきた。


「あら、まだクラーラの店が閉まっていますわ」

「困りましたわ。冬服を揃えるつもりでしたのに」

「クラーラ様はまだお戻りではないんですのね」


 3人組の少女たちは閉店の看板がかかった店の前でまったく困っていなさそうにたむろしている。むしろ彼女たちに付き添って来た侍女の方が困惑気味だ。慣れた様子で互いに目を合せ、苦笑している。そこに遠くから声がかけられた。


「おーい!クラーラならまだいないよー!」


 青果店の娘、チェルシーだ。振り返った3人組は笑顔で彼女が走ってくるのを待った。


「でもこの間、クラーラの家に荷が運ばれるの見たよ。そのうち帰ってくると思う!」

「まあ、そうですの?」

「チェルシーさんは頼りになりますわね」

「さすがはチェルシーさんですわ」


 そのままはじまったおしゃべりを横目に、ギルベルトは釣られて苦笑した。あの分では中々解散しないに違いない。


「…帰ってくるさ、必ずな」

「ギルド長?」


 この現状がクラーラの望んだものかどうかはギルベルトにはわからない。あるいは自然発生的な時代の流れなのかもしれなかった。だが、王と王妃は見捨てても、マクラウドがこの国を捨てることは決してない。信じるに足る光景が、王都には広がっていた。




やはりクラーラもギルドには筋を通しました。そして苦労もしました。いきなりオネエが店を開いた時、さぞかし話題になったと思います。偏見も嫌悪も排除の動きもあったでしょう。特に職人はプライドが高いですから、品定めをされたに違いありません。それをかわし、社交界に出た時のインパクトは大きくしないと認められなかったと思います。

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