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秘密の仕立て屋さん  作者: 江葉


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24/78

リスティア・エヴァンスの敗戦・後

中途半端に切るよりはと思ったら長くなりました。


 ヴィクトールがリスティアに結婚を申し込むのは、当然のことながら障害が伴った。

 まず、リスティアに会えなかった。面会を求めてクラストロ邸に行くも、門前払いで約束さえ取り付けてもらえない。

 これは想定内だった。それなのになぜヴィクトールがこの日を選んだのかというと、雨が降りそうだったからである。


 ヴィクトール・リントンは自分の容姿に自信がある。立ち居振る舞いも言葉使いも完璧で、今まで狙った女性を逃したことはなかった。文字通り命がけでニコラスに仕え続けてきたのだ、いくら裕福とはいえ田舎貴族の令嬢にすぎないリスティアなど敵ではない。たとえ彼女がクラストロの庇護下にあったとしても、落とす自信があった。


 今までちょっかいをかけてきた男を一蹴していても、今までのことがあるため邪険にしても心が痛む。ヴィクトールはその隙を見逃さなかった。拒んだ男がそれでも自分を想い、雨に濡れても立ち尽くして会いたいと訴えている。これを無視できる女は鋼鉄でできているか、不感症のどちらかだ。ヴィクトールは会ってくれるまで待つと門番に告げ、少し離れたところでひたすら待った。


 夕方には霧雨が降り始めた。時折メイドがクラストロ邸の大きな玄関を開け、こちらを窺っているのを遠目で確認する。さすがはクラストロ邸というべきか、門から屋敷まで遠く、人影は点ほどにしかわからなかった。


 夜になると雨は本降りになった。屋敷を囲うフェンス沿いに付けられたガス灯に火が灯り、ぐっしょりと濡れたヴィクトールを幽鬼のように浮かび上がらせる。門番は雨避けの外套を着て、主の帰りを待っていた。ヴィクトールを見ても顔色一つ変えない。それどころか、立ちっぱなしだというのに疲労や怠慢の欠片すらなかった。クリューゼットや実家にいる門番とは質が違う。ヴィクトールは内心で唸りを上げた。


 春の最中でも夜中の雨に濡れているのは辛い。足元から冷えが伝わり、ヴィクトールは震えはじめた。これくらいで死ぬほどやわではないつもりだが、風邪はひくかもしれない。濡れて落ちた前髪をかきあげ、灯りのついた屋敷を振り返った。夜の闇を雨がいっそう暗くしている。それがリスティアの心のようで、ヴィクトールは演技ではないため息を漏らした。


 どれくらい経ったのか、ガラガラと馬車の車輪の音が近づいてきた。門番がすかさず持っていたランプに火を入れ、上にかざして左右に揺らした。音がゆっくりとなり、止まった。


「おかえりなさいませ」


 どうやら暫定当主であるルードヴィッヒ・ユースティティア・クラストロが帰宅したらしい。門番と馬車が二言三言言葉を交わし、門が開かれる。遠い玄関が開き、にわかに明るさを増した。


「ヴィクトール・リントン」


 低い声がヴィクトールを打った。

 びくりと体が竦み、ヴィクトールはハッとして馬車に乗った人を見る。御者が馬車の扉を開けた。


「乗りなさい。そんなところに居られたら迷惑だ」

「…はい、閣下」


 立ち尽くして冷えた足をなんとか動かし、馬車に乗りこむ。予定とわずかに違ったが、正直なところありがたかった。ずぶぬれで上質な座席に座るのをためらうヴィクトールに、ルードヴィッヒは鷹揚に着席を促す。どうやら濡れたくらいで賠償請求される心配はないらしい。ヴィクトールが座ると馬車が動き出した。


 動き出した馬車にヴィクトールは感動した。出発時にもたいして揺れず、速度を落としてあるとはいえこうして走っていても尻が痛くならない馬車ははじめてだった。座席だけではなく車輪、車軸、スプリングも上等のものを使ってあるらしい。馬車というのは一種のステータスでもある。金をかけるべきところにかける貴族の余裕というものを、ヴィクトールは思い知らされた。


 ニコラスなら、と考える。雨に濡れたまま数時間待たせておいても「走って来い」と言うだけで馬車に乗せてはくれないだろう。むしろ馬車と競わせ、追いつけなければ折檻されるに違いなかった。追いつけないとわかっていて、ニコラスは平気で命令する。


 ヴィクトールはルードヴィッヒを見た。腹に置かれた手指を組み合わせ、ゆったりと座り静かな佇まいを見せているこの軍人は、政敵ともいえるヴィクトールを乗せても警戒すらしていない。この場でヴィクトールが自分を殺すとは思っていないし、ヴィクトールに自分が殺せるはずがないと知っているがゆえの余裕であった。


どちらかというと危険なのはヴィクトールのほうである。相手は敵と判断すれば殺すことにためらいのない軍人なのだ。ヴィクトールは緊張し、ルードヴィッヒの機嫌を損なわないよう口を噤んだ。


 馬車が玄関前に着くと、メイドと近侍が数人走り出てきた。彼らは手に持った傘を差し出し、主人と、それからヴィクトールが濡れないようにしてくれた。


「おかえりなさいませ」

「彼にホットワインを。それと着替えと湯も用意しろ」

「はい。ただいま」


 彼らは素早く動き、ヴィクトールの濡れた体をタオルで拭き始めた。現れた女主人、ヴァイオレットがヴィクトールを見て眉をひそめる。


「おかえりなさい、あなた」

「ただいま」


 軽く抱擁を交わした夫婦は、妻の拗ねたような顔で言葉を続けた。


「あの男をどうして入れたの?リスティアにまとわりつく悪い虫よ」

「そう言うな。リスティアはどうした?」

「部屋から出るなと厳命しました」

「着替えてくるように言いなさい」

「あなた…!」

「男の純情をそう振り回すものではないよ、レティ」


 ルードヴィッヒがそっとヴァイオレットの頬にキスをする。目の前で行われた恋人同士のようなやりとりにヴィクトールは目を丸くした。やがてヴァイオレットがため息をつき、それでもヴィクトールを一睨みして、夫の言いつけを守るべくリスティアの部屋に向かった。


「リントン様、こちらへどうぞ」


 メイドに促され、ヴィクトールは客間に案内された。

 着替えを持って来たのは侍従だったが、ホットワインや湯桶を運んできたのはメイドだった。陶器製の桶に湯が注がれ、そこに足を入れる。冷え切った爪先にじんわりとした痒みを覚えた。どうやら自覚していたよりも冷えていたようで、なかなか体温が戻らない。ありがたくホットワインを啜った。ハーブや蜂蜜を入れたホットワインは甘く香りの良い飲み物だ。アルコールはそれほど強くないが、ハーブの効用で体の内側から温まっていく。ヴィクトールはほっと息を吐いた。


「お着替えが済みましたら旦那様がお会いになるそうです」


 クラストロ邸の使用人だけあって、メイドも侍従も美男美女揃いだった。接客対応するメイドや侍従、フットマンたちはどれも容姿を重視される。彼らは主人の持ち物として、なにもかも心得ていなければならないのだ。美形で立ち居振る舞いも完璧な使用人は、主人の財力を知らしめるアクセサリーでもある。先程からヴィクトールはクラストロの底力に圧倒され通しだった。リスティアは普段から、彼らに傅かれているのだ。結婚相手としては見ないだろうが、ちょっと自信を失いそうである。


 体温を戻してから着替え、メイドに案内されてルードヴィッヒの待つ応接室へと向かう。まさか辺境軍元帥と対面することになるとは思わず、ヴィクトールは緊張する。


 メイドが仕草も優雅にノックをした。


「お連れいたしました」

「入れ」


 部屋のドアが開かれ、ヴィクトールが入室する。応接室にはヴィクトールとヴァイオレット、そしてリスティアがドレス姿で待っていた。


「ヴィクトール・リントン」


 リスティア、と呼びかける前にルードヴィッヒが牽制を放った。


「もしも本当に手に入れたいものがあるのなら、一度死を思ってみることだ」

「…それは、ご自身の経験からですか」


 声は穏やかだったがルードヴィッヒの表情はそれを裏切って何の感情も浮かべていなかった。代わりにヴァイオレットが厳しい目でヴィクトールを睨みつけている。


「そうだ。ヴァイオレットは良い女だからな。結婚するまで苦労したよ」


 ぬけぬけと言ってのけ、ルードヴィッヒは妻を促して立ち上がった。

 部屋を出る直前、ヴィクトールの耳元に囁く。


「…我が家の龍は嘘や裏切りがお嫌いだ。それが心を殺すものであれば、容赦はしないよ」


 夜の雨よりも冷たい声がヴィクトールを凍えさせる。横目で出て行く夫婦を見送れば、ルードヴィッヒは宥めるように妻の髪にキスをしていた。


 部屋の戸は完全には閉められなかった。未婚の令嬢とふたりきり、ということをこれでもかと意識させる。この場でリスティアが悲鳴のひとつもあげればすぐにメイドが駈け込んでくるだろう。


「リスティア…」

「ご用件を、伺いましょう」


 リスティアは極度に緊張し、固い顔をこわばらせてヴィクトールの一挙手一投足に集中していた。一歩近づくたびにびくりと肩を跳ねさせ、それでも来るなとは言わなかった。


 リスティアが座っているのは一人掛けのソファだった。ヴィクトールは彼女から一人分開けて片膝をついた。


「以前、言われたことは覚えています。ですがリスティア…私にはあなたのいない人生など耐えられそうにありません」


 左手を胸に、右手をリスティアに差し出す。


「私と結婚してください」


 ヴィクトールが見つめる前で、リスティアはしだいに蒼褪めていった。息苦しくなったのか肩が上下し、それでもかっと目を見開いてヴィクトールを見ている。鮮やかな新緑の瞳が雨に濡れた。


「どの、口でそのようなことを言うのです…っ。あなたの言葉が信用できるとでも?」

「女関係はすべて清算しました。あなたが望むのなら、クリューゼットと離れてクラストロに行ってもいい」

「それをどう証明するおつもりかしら。言葉も態度も過去も、わたくしにはあなたの真心というものを信用するすべがありません」

「では、これからの未来を。…信じてくれとは言いません。ですが、見ていてください」


 リスティアの震えが激しくなり、とうとう瞳から涙が零れた。宝石のような雫はぽつっと彼女の握りしめられた拳に落ち、砕けて散った。


「わたくしと奥様は、もうすぐクラストロに帰ります…。もう、遅いのです」

「…いつまで、ですか?」

「あと7日。お別れのお茶会と、夜会の予定が入っていますわ」


 ヴィクトールに会う時間はない。ヴィクトールはうつむき、そして顕然と顔をあげた。


「せっかく閣下がお膳立てしてくださったのです。私の本気をお見せしましょう」


 せつなげに微笑んだヴィクトールは素早くリスティアに近づくと、その手をとって口づけを落とした。一瞬呆然としたリスティアはすぐに我に返り、ぱしんと彼の頬を打った。たった一瞬のキスで体の奥が反応したことに対する、本能的な恐怖と嫌悪であった。


「無礼な方。お帰りになって」


 ふいと顔を背けたリスティアの横顔を見つめ、ヴィクトールは一礼して部屋を出て行った。




「7日、か」

「はい」


 ニコラスは残り少ない日数に不満げな顔をした。


「クラストロ家の出発前の夜会の招待状を入手しました。当日は私が乗り込み、まずリスティアを誘惑します」

「どうするんだ」


 ヴィクトールには確信があった。プロポーズの場で、リスティアははっきりと断ることも、悲鳴をあげてヴィクトールを叩きだすこともしなかった。ヴィクトールへの恋心と主人への忠誠で揺れる女心を彼は正確に読み取っていた。


「おそらく彼女は、はじめのうち私を無視するはずです。その間にこっそり抜け出してニコラス様を迎えに行きます。ニコラス様は会場に入らず隠れていてください。それから私が彼女をダンスに誘い、連れだします。思い出が欲しいとでも言えばリスティアも同意するでしょう」

「そう上手くいくか」

「上手くいかせるのが私の役目です。ふたりきりになったらリスティアを気絶させ、私とニコラス様が交代です」


 ヴィクトールが自信たっぷりに計画を述べると、ニコラスは早くも成功したかのように興奮した。

 その後はニコラスが好きにすればいい。ヴィクトールの見ている前で乱暴され、絶望した少女など狼の前の子羊よりもたやすい獲物だ。


「その後のことですが、彼女は曲がりなりにもクラストロの庇護にある娘です。あまり無下に扱えば連中も黙ってはいないでしょう。ひとまず婚約を交わし、ニコラス様好みに調教するか、あるいは他の男に下げ渡すか。ご自由にどうぞ」


 夜会の場で既成事実が暴かれれば、どんなにリスティアが拒絶してもニコラスとの婚約が成立する。そうなってしまえば彼女は王都滞在を延期しなければならなくなり、ニコラスが我が物顔でクラストロ邸に出入りすることを誰も止めることもできないだろう。そこまで聞いたニコラスが、堪らず笑い声をあげた。


「あっはははは!最高だ!あのクラストロの顔が歪むのが見物だなぁ?ひひひ、ヴィクトール、この悪党め」


 ヴィクトールは優雅に微笑み、ニコラスに一礼した。そんな気障な仕草が嫌になるほど似合う男だ。


 クラストロ家の夜会招待状は、顔馴染みの女性を買収して入手した。彼女は貴族ではないが社交的な性格で情報通、自分の不利益にさえならなければ平気でこういった融通をしてくれる人間だった。クラストロは王都に屋敷を持っているが住んでいるのは使用人のみで、ルードヴィッヒたちも短期の滞在だ。貴重な情報源としてこういう人種とも付き合いがあるのだろう。


 ニコラスが機嫌よく出て行き、ヴィクトールはホッと息を吐く。リスティアは今頃どうしているだろう。そんなことが頭をよぎり、彼は頭を振って、込み上げてきた感情を消した。




 フェドゥーダ夫人に送った招待状が、無事にヴィクトールの手に渡った、とクラーラが言った。


「愉快でお付き合いの楽しい方だけど、どうにも善人なのよねぇ」


 にこにこ笑っているクラーラとは対照的に、ヴァイオレットは渋い表情だ。


「善人だからこそ余計に悪いわ。良かれと思って、と言えばなんでも許されると思っているのかしら」

「思っているのよ。ヴィクトールが人生をやり直したい、リスティアと生きていきたいと甘えて縋れば簡単に絆される程度にはね」

「ちゃっかり見返りを受け取っているじゃないの。それで善意?」

「見返りじゃなくて、ヴィクトールなりの誠意なんでしょ」


 あれからリスティアは見ていられないくらい沈んでいた。ヴィクトールとフェドゥーダ夫人のデートを目撃した彼女は、やはり自分は騙されていたのだとショックを受け、そういう男だとわかっていたはずではないかとショックを受けたことにまた衝撃を受けていた。今まで真面目に生きてきた令嬢が悪い男に惹かれるのは定番とはいえ、自分だけは違うとリスティアは思っていたのだろう。


「すぐに立ち直ったけれど、今度は何か無茶をやらないか心配よ…」


 ヴァイオレットの憂いも無理はない。リスティアはあくまでエヴァンス家の娘なのだ。ヴァイオレットに気に入られ将来は彼女の補佐となるべく教育しているが、結婚までは口出しできない。エヴァンスもヴァイオレットだからこそ安心してリスティアを預けたのだ、悪い男に騙され手を出されて傷つけられるためではない。


「そう思うならいっそ直接対決させたらどうかしら?ほら、こんなのを作ってみたのよ」


 クラーラが取り出したのは、ドレスに付ける花飾りだった。キラキラと光っているのは所々取り付けられたガラスビーズだ。


「これが何ですの?」

「ちょっと触ってみて」

「?」


 言われた通り、ヴァイオレットが花飾りに触れる。花の部分は本物そっくりに作られたリボンレースの造花で、花の雫をビーズが彩り、葉の部分にも冷たく固い石が付いている。


「クラーラ様…?」

「じゃあ、今度は少し強く握ってみて?」


 ヴァイオレットが花を握りしめた。尖ったビーズが掌に刺さり、痛みですぐに離してしまう。

 クラーラは笑いながら花飾りを取り上げると、丁寧な手つきでそっと整えた。


「よく見ないとわからないけど、この先端部分を削って鋭くしてあるの。大昔に兵士が着ていた帷子かたびらと一緒ね。…男の人が女性に手を出すとしたら掴むのは胸元、あとはスカートを破いてくるかしら?ナイフで切り裂こうとしても防いでくれるわ」

「クラーラ!あの子を囮にするつもりなの!?」

「囮じゃないわ」


 クラーラはヴァイオレットをまっすぐ見つめ、笑みを深くした。


「戦うのよ」


 ヴィクトールがクラストロ家主催の夜会招待状を手に入れたということは、そこで最後の詰めをするつもりだろう。おそらくはニコラスもどこかに潜んでいるに違いない。

 ニコラスは今まで、格下の相手しか貶めてこなかった。クラストロと繋がりのある令嬢だけではなく、ニコラスの気に障った、あるいは手を出そうとしてすげなく拒否された娘ばかりだった。クラストロと繋がりのある娘たちはこちらでさりげなくフォローし、醜聞が広がる前に事を収めているが、受けた傷は深く残っている。


 そして、まさにクラストロの庇護を受けたリスティアを陥れようとするのは、負けを知らないがゆえの驕りだろう。今まで彼らは失敗をしたことがない。ヴィクトールがしくじっても彼が責任を取ればよく、ニコラスは痛手を受けなかった。もともとニコラスは名門クリューゼット家の嫡流だ、どれだけの悪事を働こうが、結局家が守ってくれると思っている。


 リスティアを呼んで、クラーラは計画を告げた。


「ヴィクトールのことだからリスティアとふたりで抜け出そうと画策するでしょう。そこを突くわ」

「誘い出されたと見せかけて、誘導するのですね」

「そうよ。いくらクラストロのお屋敷でも、夜会となればメイドや侍従の手が足りなくなる。ヴィクトールとニコラスもそれをわかっているでしょう。ふたりきりになって、薬で眠らせるかしてリスティアに乱暴でもするつもりだわね」

「…リスティア、大丈夫?あなた無茶しない?」


 ヴァイオレットはむしろ頭に血が上ったリスティアが夜会の場で暴露してしまわないか心配だ。本来呼ばれてもいないヴィクトールを見て、カッとなって計画を台無しにしてしまうかもしれない。

 リスティアはそんなヴァイオレットに毅然として言った。


「大丈夫ですわ。…ヴィクトール様のことは、わたくしも許せません。わたくしだけではなく、多くの令嬢をあの方は踏みにじってきたのですもの。ここで一掃できれば彼女たちも少しは救われるでしょう」

「部屋には私兵を潜ませるし、すぐにアタシたちも駆けつけるから、気を付けるのはふたりきりになっている時よ。くれぐれも油断しないでね」

「はい」


 リスティアがヴィクトールとニコラスを部屋に誘導する。部屋にはクラストロの私兵が待ち構えている手筈だ。なんの罪状もなければ逮捕などできないが、今回の彼らには言い逃れができない決定的な証拠があった。


「ニコラスが持つ別宅に怪しい男たちを集めているらしいの。武装までして、リスティアを人質にしてクラストロのお屋敷を乗っ取るつもりかしらね?」


 王都での私的な戦闘行動は当然のことながら禁止されている。クリューゼットとクラストロの全面戦争にでも発展すれば、民衆もただではすまないだろう。そんなことも理解していないニコラスに、ため息もでなかった。


「武装兵を集めているとなれば国家反逆罪に問えるわ。ニコラス確保と同時に別宅に警官隊を突入、一掃してしまいましょう」


 リスティアの喉が緊張で張り付いた。ごくり、と動かし、唾液を流し込む。


 ヴィクトールはどうなるのだろう。ニコラスが捕まれば、彼の手先として動いていたヴィクトールもただではすまない。国家反逆罪は斬首と決まっている。あの残酷な、けれどどこか迷子の子供のような瞳をしたあの方は。


「リスティア、いいわね?」


 ヴァイオレットが決意を込めた表情で確認した。当日、彼女は常にリスティアについてはいられない。主催側の女主人として、招待客をもてなさなければならないのだ。


「はい」


 リスティアはきっぱりと答えた。話をしてみよう。最後だと、どちらもわかっているその瞬間であればきっと彼も真情を吐露してくれる。あの求婚のすべてが嘘だとリスティアは思いたくなかった。




 その夜のリスティアはまさにきらめく花だった。たっぷりとったデコルテに盛られた胸がふんわりと乗り、そこに大きめの花飾りを付けて慎ましく演出している。彼女の髪と同じ色を水で濡らしたようなドレスには、さらに濃い色のリボンが左右から後ろにかけて並び、バッスルの代わりにふくらみを作って腰から尻にかけてのやわらかなラインを強調していた。スカート部分の花飾りはちょうどリボンに添って付けられ、リスティアこそが今まさに開こうとしている花であることを教えている。


「んん~…っ、完っ璧!綺麗よリスティアちゃん!」

「ありがとうございますクラーラ様!」

「我ながら惚れ惚れしちゃうわぁ…。ああもう、これでしばしのお別れなんて辛すぎる…!」

「またお会いしてくださるのでしょう?」

「そうよ、そうよね!クラストロで会いましょうね」


 店に来ていた少女たちが漏らした文句を、今度はクラーラが言っている。そのおかしさにリスティアはくすくすと笑った。今日ですべてが終わると緊張していたが、クラーラの素直な絶賛に解れていった。


「リスティア、支度できた?…まあ、素敵!可愛らしいこと!」


 ヴァイオレットが様子を見に来た。ドレスで着飾ったリスティアを見て、頬を染めて喜ぶ。


「でしょ?レティの見る目は良いわね、これだけのお嬢様のドレスを作ることができたのはあなたのおかげよ」

「あら。そこはわたくしのドレスも作りたかったというべきではなくて?」

「人妻のドレスは気乗りしないのよねぇ…。一番似合うものは何か、選ぶ目を持ってるでしょ」

「うふふ。ルイのことね?でも、そうね。わたくしに似合うのはあの人が一番喜んでくれるドレスですものね」

「そうよぉ。アタシより鋭い審美眼で奥様のドレスを見極めちゃうんだもの。これだから人妻は」


 ひとしきりころころと笑いながら会話を続けていたふたりは、それからリスティアに向き直った。


「リスティア、彼が来てるわ」


 びく、と肩が震えた。何も心配はないと信じているが、いざとなると、やはり、怖い。戻ってきた緊張に蒼褪めるリスティアの細い肩を、ヴァイオレットがそっと撫でた。


「未練のないようになさい。あなたの心を、彼に教えてあげればいいわ」

「はい、奥様」


 コンコン、とドアがノックされ、ルードヴィッヒが顔を覗かせた。


「良いかな、女性方。そろそろ時間だよ」

「はい。行きましょうリスティア」

「はい」


 ヴァイオレットとリスティアが腕を組んで部屋を出て行く。ドアのところでヴァイオレットがルードヴィッヒの腕を取り、彼は部屋に残されたクラーラをちらりと見て妻をエスコートして行った。


 今夜の夜会は晩餐会というより舞踏会だ。ダンスホールの他にも軽食の用意された部屋やゲームルームがあり、思い思いに食事を楽しんだり、ゲームやダンスをして楽しむ。もちろん一番はこれで王都を去るヴァイオレットとリスティアとの別れを惜しむためで、特にリスティアは貴公子たちからダンスの申し込みがひっきりなしだった。


 とはいえリスティア本人は、どちらかというと友人となったフランシーヌをはじめとする令嬢たちとの会話が楽しみだった。


「夏にはぜひ、クラストロにお越しください。避暑地の森は散策にうってつけで、川遊びもできますわ」

「ぜひお伺いしますわ。またお会いしましょうね」

「クラストロの温泉は病を癒すだけではなく美容にも良いとお聞きしますわ」

「お別れするのは寂しいですけれど、またお会いできますわよね」


 ダンスを申し込まれて踊っていたフランシーヌが戻ってくると、リスティアは彼女にそっと耳打ちした。


「あの、フランシーヌ様。こんなことをお願いするのはお恥ずかしいのですが…その、踊っていただけませんか?」

「まあ、リスティア様」


 顔を赤くするリスティアにフランシーヌは優雅に微笑み、「喜んで」と彼女の腕をとった。

 テラスに行き、どちらも女性パートしか知らないぎこちないダンスを踊りながら、ふたりは秘密の行為をしていることに笑いあう。


「ありがとうございます、フランシーヌ様」

「いいえ、どういたしまして。とても楽しいですわ。わたくし、一度男の方のように踊ってみたかったの」

「フランシーヌ様…。わたくしも、フランシーヌ様のようになりたいです」

「リスティア様…」


 すっと交代して、今度はリスティアがフランシーヌをリードする。一度笑みを収めたフランシーヌは、やがてやさしい眼差しでリスティアに向き直った。


「リスティア様、では、まず自分の心を知ることですわ」

「自分の心を?」

「ええ。自分が何をしたいのか。本当は何を望んでいるのか。心に嘘をつくのはとても苦しいものですわ。真実を見誤るのも。自分の心を見極めておかないと、きっと、後悔いたします」

「…フランシーヌ様……」


 アルベール王子との婚約破棄騒動はフランシーヌの心に深い傷を残していた。アルベールに恋していた時間はあまりにも長く、すでに諦めている心を認めることができずにいたのだ。諦めてしまえば、今までの自分は何だったのだとなる。アルベールのための教育や、社交での顔見せも、すべては彼のためだった。自分を無駄にしたような悔しさと、恋への未練、そして、選ばれなかった屈辱がフランシーヌの心を引き裂いた。


「クラーラ様のドレスを着た時、」


 その時を思い出したフランシーヌはふっと夢見るような表情を浮かべた。


「ああ、わたくしはここにいたんだ、と思いました。幼かったわたくしの心が泣いていたのを素直に認めることができたのです。まるで生まれ変わったような…、いいえ、蛹から新しく生まれ出た蝶のような。今まで見てきた景色がまるではじめて見るもののような感動を覚えたのです」


 フランシーヌは踊るのを止め、そっとリスティアの胸に頬を寄せた。


「リスティア様、心が死んでしまってはおしまいですわ。クラーラのドレスを着たあなたに、できないことはありません」

「フランシーヌ様…」

「生まれてくるのは怖いでしょう。ですが、居心地のよいそこは、何の変化もない場所なのです。リスティア様、必要なのは勇気ですわ」


 そっと肩を押されてリスティアは振り返った。

 今まで見ているだけだった、ヴィクトールが立っていた。一歩、近づいてくる。


「私と踊っていただけますか」


 リスティアは全身に震えが走ったのを知り、足を叱咤した。知らなくてはならない。本当のことを。ヴィクトールの心と、自分の心を見極めなければ、ここから前に進めない。たとえ、どんな結末が待っていようとも。


「…喜んで」


 今夜のリスティアはヴィクトールにとって高嶺の花だった。どんなに手を伸ばしても届かないとはっきりヴィクトールに教えるドレスも、こちらに目線ひとつ寄越さない彼女の態度も、すべてが彼に諦めろと告げていた。


 大声で喚きだしたい気分だった。リスティアが他の男と踊るたび、そんな男をその瞳に映しているのが許せず、綺麗な新緑をもぎ取ってやりたくなった。お前が好きなのは俺だろうと言い聞かせ、他の誰にも会えないように閉じ込めてしまいたくなり、そんな凶暴な熱に戦慄した。やはり自分はニコラスの側なのだ、とヴィクトールは絶望的な気分で悟ったのだ。


 こうして踊っていても、リスティアは頑なにヴィクトールと見つめ合おうとしない。添えられた手袋越しの指先から熱は伝わらず、彼女が抱いているのは恋ではなく恐怖であるとヴィクトールに思い知らせていた。ぐっとリードする手に力が入る。細い指を包む絹の手袋がきゅっと悲鳴をあげた。


「…先日、『ティアーズ』でお見かけしましたわ」


 固い声でリスティアが言った。王都一の百貨店にヴィクトールはぎくりとこわばった。

 招待状と引き換えに、フェドゥーダ夫人のおねだりを叶えた店である。あそこにリスティアが行くとは思わなかった。


「ずいぶん親しい女性がいますのね」

「…彼女には今夜の招待状を譲ってもらった恩がありまして、そのお礼をしていただけです」

「あら、お礼であなたは女性の腰を抱き寄せ耳に触れますの」


 ヴィクトールは舌打ちしたくなった。こうしたリスティアの態度を可愛いと思っていたが、今はタイミングが悪すぎる。これでは愛を囁いてふたりきりになるどころではない。


「リスティア…」

「ヴィクトール」


 はじめて彼女がヴィクトールを呼んだ。それも家名ではなく、ファーストネームで。

 リスティアは意を決して彼を見つめた。握られた手をしっかりと握り返す。


「信じさせてください。わたくしに、あなたを信じさせて。わたくしとあなたの心がひとつなのか、確かめたいの」


 信じられない思いで凝視するヴィクトールに、リスティアははっきりと瞳を向けた。震える唇がきゅっと引き結び、そして彼女の体がヴィクトールに寄り添う。


「おねがい……」


 潤んだ声がヴィクトールに恋を確信させた。甘やかなそれは瞬く間にヴィクトールから凶暴な嵐を吹き払い、そして、いたいけにも芽吹いた若葉を慈しむやさしい風を呼び起こす。大きく息を吸ったヴィクトールの胸に、リスティアの香りが広がった。開いたばかりで雫に濡れた、新鮮な花の香りである。


 たまらなくなった彼は一瞬リスティアを強く抱きしめた。音楽が遠く聞こえる。くるりとターンを決めたヴィクトールの目に、こちらを窺っているニコラスが一瞬映った。


「っ!」

「ヴィクトール?」


 そうだ。これから自分は、彼女を誘い出し、ニコラスに差し出さなければならないのだ。ここに来た目的を思い出し、彼の頭に冷や水を注す。ニコラスに抱かれる彼女を眺め、その絶望を絶対のものにしなければならない。


「いえ。…どこか、ふたりきりになれる場所へ行きましょう。ここでは愛を語るには邪魔が多すぎる」

「では、客用寝室へ。…こっそり用意させましたの」


 うっとりとヴィクトールを見つめるリスティアはすでにその気になっているのか女の顔だった。恥ずかし気に頬を染め、しかし期待と、恋の成就への喜びを現している。ヴィクトールはそんなリスティアに、精一杯微笑んだ。


 ふたりのダンスは一曲で終わった。互いに一礼して離れる。同時に出ては怪しまれるからだ。

 リスティアは計画通りにいったとヴァイオレットに報告した。


「客用寝室へ行くよう言い付けました」

「よくやったわ、リスティア。…あなたはもうここまでで良いのだけれど……」

「いいえ、やらせてください。わたくしは見届ける義務があるはずです」


 リスティアに迷いはない。ここまで来たからにはヴィクトールが本当にニコラスを招き入れてこちらを陥れるつもりなのか、確かめなければならなかった。揺れ動く心をぐっと抑え、ヴァイオレットに懇願する。

 ヴァイオレットはじっと彼女を見つめていたが、やがて仕方がないとため息まじりに許可した。


「わかったわ。でも、くれぐれも気を付けるのよ」

「はい。奥様にお借りした扇もありますし、大丈夫ですわ」


 今夜の扇はヴァイオレットに借りた特別製だ。扇の飾り部分を引くと、仕込んだ小刀が飛び出して来るようになっている。そのため開くことができず、鋼の重みはあるものの、リスティアにはその重みが頼もしかった。


 ヴィクトールはそっとダンスホールを抜け出すと、リスティアに言われていたらしいメイドに案内されて客用寝室に向かった。


「こちらでお待ちください」


 質の良い絨毯の敷かれた床を踏みしめ、ごくりと喉を鳴らす。ゆっくりと部屋を見回した。

 部屋の中央にテーブルと、ソファがあり、小物類が入っているのだろう箪笥が一棹あった。上には東洋趣味らしい陶器の花瓶が飾られている。壁には誰かの肖像画や風景画がかけられていた。

そして、天蓋で区切られた大きなベッドが壁沿いに鎮座している。きちんとベッドメイクされたそこは妙に生々しく、目に痛かった。


 ヴィクトールは素早くテラスに出ると合図を送った。すぐにニコラスがやってくる。


「中には誰もいません。お早く」


 彼の手を引いて部屋に引き入れる。まるで泥棒の真似事だ。ニコラスはこれからのことを想像し、すでに興奮しきっていた。


「よくやった、ヴィクトール」

「はい。ひとまずベッドに隠れていてください。すぐにリスティアが来るでしょう」


 ニコラスをベッドに潜り込ませ、天蓋を引いて隠す。ヴィクトールはドアの前でリスティアを待った。

 異様に静かな時間が続き、コツコツと数人の足音が近づいてきた。


 耳を澄ますヴィクトールに「ここでいいわ」とリスティアがメイドに言う声が聞こえた。ついでノックが響く。控えめなおとないを告げるその音は、破滅の幕開けだった。ゆっくりとドアノブが回り、リスティアが囁くように呼んだ。


「ヴィクトール様…?」


 リスティアが顔を覗かせた瞬間、ヴィクトールは彼女を抱き寄せた。驚愕に目を見開く彼女の瞳に、今にも泣き出しそうな彼の瞳が映る。

 ヴィクトールはリスティアの額にキスをした。


「リスティア…!」


 ヴィクトールは悲鳴をあげる自分の心を聞いた。これからあのニコラスに彼女を差し出さなければならない自分がひどく惨めで、それを認める権利すらないのだと思うと心臓に痛みが走った。いとおしいリスティア。その彼女に愛されているのは自分だというのに、なぜこんなことをしなければならないのか。ヴィクトールは全身を貫く痛みに耐えながら、用意のハンカチを彼女の口に当てた。即効性の睡眠薬を染み込ませた布で口を塞がれた彼女は驚き、次に絶望に瞳を染め上げて涙を浮かべる。何かを言おうとしたのだろう、ヴィクトールが塞いだ口が動き、そして力を失った。


「………っ」


 ずるりと倒れそうになる体を抱きしめ、ヴィクトールはうずくまった。彼女の左胸に頬を寄せ、耳を当ててその鼓動を確かめる。ひとつ、ふたつ。彼女の心が動いている音を聞き、ヴィクトールは胸に口付けを落とす。今すぐ自分の胸を切り開いて、この心臓を彼女に捧げたかった。代わりに死ぬのは自分だけで良かったのに。


「ニコラス様」


 ヴィクトールはリスティアの軽い体を横抱きに抱えてベッドに向かった。すぐにでも飛び出してくるかと思われたニコラスはベッドの中で身じろぎをする。リスティアをベッドの端に横たわらせ、ヴィクトールは上掛けをめくった。


「ニコラス様?」

「はぁい、かわいこちゃん。待ってたわ」


 そこにいたのはニコラスではなく、クラーラだった。

 何が起きたのかわからずぽかんとするヴィクトールににっこりと微笑み、クラーラは腕を伸ばして彼を引き寄せた。


「な…っ!?なに、が…っ?」

「のこのこ敵陣に現れてくれて感謝するよ」


 パニックに陥ったヴィクトールの背後からルードヴィッヒが現れた。後ろにはクラストロの私兵を引き連れている。

 ヴィクトールはリスティアを見た。謀られた。こんな小娘に、してやられたのはこちらだったのだ。


 ここは王都にあるクラストロの拠点である。初代の頃から増改築を繰り返し、その度にいくつもの抜け道や隠し扉が付け足されていった。王の右腕にして国家の主柱クラストロ。襲撃に備えた訓練や暗殺防止の罠などは当然館の守りに入っているのだ。むしろ、そんなことも想定せずのん気にふたりだけでやってきたほうが驚きである。


「君の大切なご主人様なら、今頃は隣の部屋でお爺様に折檻されているよ」

「リスティアちゃん。リスティアちゃんしっかり!」


 ベッドから降りたクラーラがリスティアの頬を叩き、肩を揺らした。即効性の眠り薬は効果は急激だがそのぶん抜けやすい。むずがるような声を漏らしてリスティアが目を覚ました。


「リスティアちゃん!良かったわ。気分はどう?どこか痛いところはない?」


 リスティアはぼんやりとクラーラを見ていたが、ハッとして起き上がるとヴィクトールを探した。ルードヴィッヒに後ろ手に拘束された彼を見つけ、大きく目を見開き、その頬から血の気が引いていった。


「ヴィクトール……」

「君の勝ちだ、リスティア」


 リスティアはうなずくと、立ち上がりヴィクトールの前に立った。扇を握りしめ、渾身の力を込めて彼の頬を打つ。


「これは、わたくしの分ですわ。今まで令嬢たちを弄んだ分は、ご自分でお支払いくださいませ…!」


 薄い刃とはいえ鋼鉄の入った一撃はヴィクトールの秀麗な顔に痛打を与えることに成功した。たちまち頬が腫れ、赤みが差す。口も切れたのか唇の端から血が垂れた。


 すっと音もなくベッド側の壁がスライドした。狭い出入り口から現れたのは、散々打たれたのか顔を腫らせ体中に足跡のついたニコラスと、よく見れば彼に似た面影を持つ老人だった。


「クリューゼット卿、ご協力感謝いたします」

「礼を言うのはこちらだ。クリューゼットの嫡流ともあろう者が婦女暴行で警察に捕まるなど、あってはならんことだ。おかげで我が家で裁きを受けさせることができる」


 ルードヴィッヒが礼を言うと、老人――コーネリアス・フー・ラ・クリューゼットは首を振った。


 未遂で済んだとはいえリスティアが暴行されそうになったと警察に駆け込めば、取り調べや裁判でクリューゼットも大打撃を受ける。司法長官のコーネリアスも監督不行届きを問われるだろう。ルードヴィッヒがコーネリアスに始末を任せることで、この一件は敵対する貴族同士の争いではなくなったのだ。内々に収めてしまえば国内の動揺も抑えられるだろう。


「なんだよっ。元はといえばお爺様が悪いんじゃないか!お父様にいつまでも家督を譲らないから」

「いらぬと言ったのはあやつだ」


 ニコラスの言葉に被せるように、コーネリアスが言った。嫌悪を隠そうともしない老人からは、孫に対する無条件の愛情など欠片もなかった。


「クリューゼットも、司法長官の地位も、荷が重すぎると投げ出したのはそなたの父だ。貴族として遊び暮らしていたいと言うくせに、いつまで経っても当主になれぬと愚痴ばかりで逃避する。わしがなぜ、引退もせずにいたと思う」


 ずい、とコーネリアスがニコラスを覗き込んだ。


「死ぬのを待っていたのだ。息子が、身を持ち崩し、妻子まで堕落させているのをどんな思いで見ていたと思っている!逃げるのは良い。できもせぬ役職に就いて国家に迷惑をかけるよりよほどましだ。だがな、自分で逃げ出しておいてずるいずるいと我儘を言う、それを認めるものがいると思うな!」


 コーネリアスが当主のままニコラスの父が死ねば、彼の弟が家督を継ぐ。息子の死を願わなければならないほど追い詰め、自分の尻拭いさえもできない孫に、どれほど落胆しただろう。涙さえ浮かべて叫ぶ老人には、絶望した者にしかわからない苦悩があった。


「…ニコラス・クリューゼット。あなたは誰かを笑顔にしたことがある?」


 クラーラが前に出た。コーネリアスは老体に堪えるのか肩で呼吸を繰り返している。

 はじめて面と向かって祖父に叱られたニコラスは呆然としていた。


「…笑顔?」

「そうよ。誰かを一瞬でも幸福にしたことはあるかしら?」


 クラーラはリスティアを立たせると、ニコラスに見せた。


「このドレスを見て。リスティアちゃんは、これを着た時にとっても綺麗な笑顔になったの。ドレスは女の子をお姫様にする魔法よ。アタシは誰かを幸せにすることに、生きがいを感じているわ」


 クラーラが何を言いたいのかわからないニコラスは、ふてくされたようにそっぽを向いた。ケッと乾いた笑いを漏らす。


「そんなの、たかがドレスじゃないか。脱いでしまえば単なる布だろ」

「ええ、そうね。たかが布でさえ誰かを幸福にできるのに、あなたにはできないのよ」


 コツリ、ヒールの音が絨毯に沈む。ニコラスの前で彼の目線に合せてしゃがみこんだクラーラは心からの憐れみを込めて言った。


「誰かを幸福にするのはとても難しいのよ。でも、誰かを不幸にするのはとっても簡単なの。誰も、あなたに教えてくれなかったのね」

「…っ、この、男女が!偉そうにするんじゃない!!」


 クラーラを蹴飛ばそうとしたニコラスの足を、コーネリアスが容赦なく踏みつけにした。ニコラスが醜い悲鳴をあげる。


「他人の不幸を喜ぶ人間に、クリューゼットも司法職も務まらん!クリューゼットの家法で裁かれることを幸運と思え!」


 息子のヨハネスを殺さず、廃嫡もせずにいたのはコーネリアスも通った道だからだ。人が人を裁く重みに何度も潰されそうになった。

 だが、コーネリアスはそれに耐えてきた。国家の根幹として、人の罪深さをまざまざ見せつけられてきたこの老人は、人が裁くことによってしか得られない平安があることに気づいていた。人を許すのは神ではない。それもまた、人が生まれながらにして持つ宿命なのだ。


「違う!俺じゃない!ヴィクトールがやったんだ!あいつがやった!悪いのはヴィクトールだ!!」


 ニコラスは見苦しくあがき、ヴィクトールにすべての罪を被せてきた。ヴィクトールはただ静かにそれを聞いていた。


 わかっていたことだ。自分の役目はニコラスを守ることにある。失望も絶望もしなかった。ただ悲しかった。ニコラスの本性がここに至っても変わらない事ではない。こんな男のために、リスティアを使おうとした、後悔だった。


 コーネリアスは眉を吊り上げ、憤怒の表情を消すと黙ってニコラスの顎を蹴り上げて黙らせた。


「裏口から連れていけ」


 気絶したニコラスを抱えた兵士にルードヴィッヒが命じた。引き摺られていくニコラスに続いてヴィクトールも引っ立てられていく。


「ヴィクトール」


 リスティアが声をかけた。彼が振り返る。


「ヴィクトール、わたくしを少しは愛していて?あの言葉の中に、少しでも真実はあった?」


 ヴィクトールはリスティアを見つめ、笑い出した。笑いは大きくなり、兵士に後ろ手に縛られたまま身をよじって笑い続ける。


「…まさか!こんな小娘に本気になると思ったのか?なんだ、そこだけは私の勝ちだったのだな」


 ヴィクトールは片側だけ頬を腫れあがらせた顔いっぱいに嘲りを浮かべていた。リスティアが立ち竦む。それを満足そうに見つめ、ヴィクトールは連行されていった。


「最低だな」


 ルードヴィッヒが言った。歩きは止めず、ヴィクトールを見もせずに続ける。


「だが、評価してやる」


 ヴィクトールはようやく笑いを収め、子供のように顔を歪めて泣きだした。ひっく、としゃくりあげる。


「…感謝、します…っ」


 やってやった。演じきった。これでリスティアは完全にヴィクトールを憎むだけで済むだろう。一片の情さえ残さず、新しい恋をはじめることができるはずだ。こんなクズのことなどすぐに忘れてしまうはずだ。


 愛しています。だからどうか、幸せになってください。


 祈りの言葉は、心の中でだけ捧げられた。


「リスティアちゃん。いらっしゃい、お化粧を直しましょう」

「…はい」


 リスティアは泣かなかった。去っていくヴィクトールを憎むように睨みつけている。クラーラの言葉に肩を落とした彼女は、疲れた雰囲気も見せず気丈に振舞ってみせた。


 夜会から抜け出したリスティアを、フランシーヌは気を揉みながら待っていた。

 恋は頭で考えてするものではない。彼女は身に染みて知っていた。心が勝手に動き、落ちるものなのだ。リスティアに限って駆け落ちなどはしないだろうが、一夜の恋の相手にするにはヴィクトールでは悪すぎる。


 ヴァイオレットを見れば、変わらぬ笑顔で客人と接している。さすがに女主人の貫禄があった。

 そこにリスティアとルードヴィッヒが戻ってきた。リスティアはどこか晴れ晴れとした表情だった。


「リスティア様、良かった」

「フランシーヌ様!」


 リスティアはフランシーヌの手をぎゅっと握り、悪戯っ子のように笑ってみせた。


「わたくし、あの男をとっちめてやりましたわ!」

「まあ」

「うふふ、内緒にしてくださいませ」

「わかったわ。ふたりだけの秘密ね?」

「そうですわ」


 笑うリスティアに悲壮感はない。そっと入ってきたクラーラはそんな彼女を見つめ、かすかなため息を漏らした。


 やがて夜会が終わり、リスティアは入浴を終えて部屋に戻る。一人部屋はすでに片付けられ、寝間着と明日の着替え、化粧箱くらいしかリスティアの物はなかった。ぽつんと立っていたリスティアは気が抜けたような気分でベッドへ向かう。まだ興奮が残っているのか、疲れているのに眠気はまったく来なかった。

 ベッドに座るリスティアの耳に、かすかなノックが届く。


「どなた?」

「リスティアちゃん、アタシよ」

「クラーラ様?」


 立ち上がり、ドアを開けようとするリスティアをクラーラが制した。


「開けなくていいわ。すぐに行くから」


 クラーラは扉の向こうにいる、涙すら流せない少女を思った。


「リスティアちゃん。あなたの負けね」


 涙を見せないのは彼女の強さだ。だが、負けを認められない人間は、結局弱く、脆くなっていく。勝利はたしかに美酒の味がするだろう。しかし勝利には酔えるが、成長の糧となるのは敗北の苦さなのだ。美酒に酔うために勝利を求め続けるか、敗北を認め、自分を成長させていくかは自由である。


 だからクラーラは言った。リスティアはまだ16歳。彼女はこれから盛りを迎えうつくしく咲く花だ。愛でる手を間違えなければ、いつまでも甘く香るだろう。


「昔から言うでしょう――惚れたほうが負けなのよ」

「…………」

「今夜くらいは、許してあげなさい」


 ヴィクトールをたしかに愛していた、あなたを。


 リスティアは立ち竦み、やがて震えだした。クラーラが去っていく気配を感じ、ぱちんと何かが弾ける。


「……トール…ヴィクトール……」


 酷い男だ。最低の男だ。男の風上にも置けないクズだ。人の心をこんなにも揺さぶっておいて、ぜんぶ嘘だと言ってくれた。こんなに好きにさせておいて。

 彼との愛に未来はない。わかっていたのだ。必ずどこかで破綻し、もしかしたら憎みあう結末だったかもしれない。これで良かったのだ。


「わたくしも、あなたを愛しています……」


 熱いものが頬を伝う感触を妙に頼もしく感じながら、リスティアは目を閉じた。




 翌日、ヴァイオレット・ユースティティア・クラストロ一行は領地への帰路についた。長い祝賀が終わりを迎えた、初夏のことであった。





ニコラスとヴィクトールの始末は次話で。

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