ルードヴィッヒ・ユースティティア・クラストロの回想
更新失敗してしまい、遅れました。申し訳ありません。
ルードヴィッヒ・ユースティティア・クラストロにとって、兄マクラウドは憧れの存在であり、父と同じく乗り越えるべき壁であった。
ルードヴィッヒとマクラウドは5つ違いの兄弟だ。彼が生まれた時、兄はすでに次期宰相として期待され、教育されていた。王宮で王太子と共に学び、遊び、その人生のすべてを国に捧げるべく育てられていた。
兄は情愛深い反面、敵や裏切りに容赦がない。闇が深ければ深いほど、彼の愛もまた深くなった。婚約者のフローラに対しても。
兄について語る時、思い出すのはルードヴィッヒが13歳のグランドツアーでのことである。
グランドツアーは貴族の子弟が行う、大陸旅行のことである。経験によって知識を積むだけではなく、観光や美術品の購入、外国の貴族との交流など、目を養い、各国を回って顔を売り知己を得て、時には妻となる婚約者も見つけることもある。将来国を背負う貴族の子弟にとって大切な行事だ。
外国を周るからには危険がつきものだ。特にルードヴィッヒはクラストロの次男。マクラウドに万が一のことがあれば彼が家を継ぐことになる。国内でも常に護衛が必須だが、必要最低限の荷物と護衛、侍従しかいないツアーは敵にしてみれば絶好の機会である。要人暗殺など国の威信に傷がつくようなことを他国が許すとは思えなかったが、警戒は必要だった。
道中では馬車の故障や贋作をつかまされそうになるなどのちょっとしたアクシデントこそあったが、グランドツアーはルードヴィッヒに新しい風を吹き込んだ。特に帝国では国力差はもとより極東から輸入された美術品や宝石など、驚くことばかりで、マクラウドが帝国を最大日数にしろと口を酸っぱくして言っていたのを納得した。本来なら王太子の婚約者のいる国に長く滞在し、交流を深める予定だったのだ。
ルードヴィッヒは帝国で最新式の短銃を買った。貴族向けらしく装飾のほどこされた重い銃だが、一番に気を引いたのはその筒の短さと内側に掘られたライフリングである。
国で使われている銃はライフリングのない滑腔銃だ。単純な鉄の砲で、銃弾の飛距離も命中率も低かった。発射の際にでる硝煙も視界を遮り、次弾を撃つまでにも慣れない兵だと時間がかかる。集団で撃つため硝煙が晴れた頃には騎兵が目の前、ということだ。
対する短銃は鉄砲の短さで距離こそあまり伸びなかったが、照準を合わせるだけで正確に狙い撃ちできた。これは良いとルードヴィッヒは絶賛した。量産できれば今の銃を凌駕するだろう。
しかし欠点があった。ライフリング技術をもった鉄砲鍛冶がいないこと、そして、製造費用が高くつくことである。硝煙についても滑腔銃ほど改善されていない。
金はともかく技術は一朝一夕にはいかない。そもそも銃は鉄を大量に必要とするため、ただでさえ高価なのだ。一部隊作るだけで家が傾くほど高いため、クラストロ領でも虎の子扱いの四部隊が精一杯だった。このうえさらにライフリングの職人を呼ぶ、あるいは調練させるのは、父でも渋るだろう。
それでもルードヴィッヒはライフリング銃に目を付けた。これで長筒銃を作れば、飛距離が伸び、狙撃ができる。部隊指揮官だけ狙い撃ちできれば勝利が確実に近づく。
いずれ軍を担うクラストロの次男はそう読んだ。帝国金貨を積んで買い取ったそれを右腰に下げ、練度を高めるべく訓練を繰り返し行った。ちなみに左腰には剣を佩いている。ルードヴィッヒは右利きだ。
見るものすべてが新しく、時代の移り変わりを実感する日々。ルードヴィッヒのグランドツアーが充実に終わりを迎えようとしていた、ある夜のことだった。
もうすぐ国境を越え、帰国するという日。ルードヴィッヒはふと国境の街で羽目を外したくなった。
13歳からはじまったグランドツアーでルードヴィッヒは14歳になった。帰国すれば社交デビューが待っている。ならば今のうちに遊んでおきたい。そう思うのは自然なことだろう。
護衛の目を掻い潜り、侍従のみを連れてこっそり宿を抜け出した。この街で宿にしていたのは当然貴族の屋敷だが、うらぶれた貴族らしく邸内には穴が開いていた。
衣服も庶民のものを用意し、意気揚々と夜の街に繰り出す。王都生まれ王都育ちのルードヴィッヒは、肌で感じる庶民の暮らしを知らなかった。道端で客寄せをする男、飲み屋を選んでいる仕事帰りだろう人々、屋台では大声で食べ物を売っていた。早くも酔いつぶれて眠っている男までいる。
ルードヴィッヒと侍従は、比較的安全そうな、客入りの良い居酒屋に入った。
化粧の濃い色っぽい体つきのウエイターが給仕をする。お坊ちゃんとお守りと見たのか客たちが生温い目を二人に向けていた。
こういった店で注文したことのないルードヴィッヒは周囲を見回して、結局向かいの席で豪快に飲み食いしている大男と同じものを頼んだ。
雰囲気に吞まれた彼はすっかりいい気分で杯を重ねた。店を出る頃には足元がおぼつかず、同じく侍従もまた気が大きくなっていた。
気が付いた時には体を縛られて暗く狭い部屋で転がっていた。
後頭部の痛みで殴られたのかと気づく。とたん、いい気になって浮かれていた自分を叱咤したくなった。こうなる可能性があることを、兄は忠告してくれたのに、もうすぐ終わると気が緩んだ隙を狙われてしまったのだ。
侍従は、と部屋を見回すが、誰もいない。引き離されたのか助けを求めに行ったのか、それとも――すでに殺されてしまったのか。最悪の予想が浮かび、ルードヴィッヒはなんとか腕を動かそうともがいた。
剣と短銃は奪われている。こんな時、兄ならどうするだろう。必死で考える。後頭部の痛みと酒精の酔いで頭が回らない。このまま逃げられなかったら、殺されるか、それとも人質として国と家への脅迫材料にされるかのどちらかだ。
「くそ……っ」
兄なら。マクラウドならどうするか。そう思ったルードヴィッヒはハッとした。そういえば、兄は出発前、靴をプレゼントしてくれた。
靴に何かあるかもしれない。縛られた足を必死に捻り、エビ反りになりながら指先で探る。擦り減った木製の靴底と、踵の間に何かある。指で押すと痛みが走った。
ナイフだった。押し出された細い三日月型の刃物はするりと伸び、暗闇の中でわずかな光を反射した。
「……く……っ」
腕を動かし、自分を切らないように注意して縄を切った。ぷつっと解放され、慌てて足の縄も切る。
こんな時、兄なら。マクラウドならどうするだろう。ルードヴィッヒは高鳴る心臓を宥めるように問いかけた。靴にこんなものを仕込む兄ならまずこんなまぬけな事態など起こさないだろうが、危機に際しなんの反撃もしないのはありえないはずだ。冷静に、冷酷に、脱出を図り、その上で首謀者が何者かも突き止めるに違いない。
静かに、ゆっくりと呼吸を繰り返す。靴は両足とも脱いだ。足音で気づかれてはならない。
武器は靴に仕込んだ、ナイフというには心もとない刃物だけ。部屋を見回してほかに使えるものはないか探す。
窓には木枠がはめ込まれ、隙間から月明りが漏れている。暗闇に慣れた目に狭い部屋の現状が映った。
天井が低く、蜘蛛が巣を作っている。床も窓も埃だらけでとても人の住む部屋ではなかった。一つだけある扉のノブを回してみたが、やはり鍵がかかっていた。
おそらく物置に使われているのだろう。黴臭い毛布と背凭れのない椅子、古い箪笥に紐でまとめられた本、緑青の浮いた青銅の燭台があった。ルードヴィッヒは燭台を手に取った。
溶けた蝋が付着し黴が発生しているが、使えないことはない。少なくとも靴よりは長いだけ有利だ。扉の横でしゃがみこみ、曲者が現れるのを待った。
木枠を外し、外に逃げることも考えたが、ここが屋根裏部屋なら落下の衝撃で足をやられ、すぐに捕まる可能性が高い。それよりは何者かが来るのを待ち、人質にとる、あるいは意識を失ったところで衣服を奪い、変装して逃げるほうが確実だろう。ルードヴィッヒは息を詰め、耳を澄ます。
扉の向こうは異様なほど静かだった。これから誰かが来るのか、それとも放置することで餓死させるつもりなのか。ルードヴィッヒ・ユースティティア・クラストロの貴重性を知っているのなら放置はないだろう。心臓の音がうるさく、外にまで漏れてしまいそうだった。
ルードヴィッヒが凝視する先で、ノブがゆっくりと回った。
足音も床の軋みも聞こえなかった。相当な手練れだ。ルードヴィッヒは背をかがめ、いつでも燭台を突きだせる体勢を取る。
うっすらと扉が開いた。針ほどになり、指ほどになり、腕ほどに開かれる。
「…………っ」
裂帛を喉の奥で殺し、黒い影の喉を目指して突き出す。瞬間手に衝撃が走り、燭台が飛ばされ、痺れが走った。ごつ、と固く冷たい金属が額に当てられる。帝国製の短銃だった。
「っ」
ならばと隠していた靴で足を狙う。読まれていたのかすかさず蹴り上げられ、靴が後方に飛んでいった。
「ルイ、僕だよ」
「―――っ!?」
曲者が入ってきた扉の隙間から脱出しようとしていたルードヴィッヒは、かけられた声にバッと顔をあげた。
「にいさん…?」
「そう。ずいぶん楽しそうなことをしているな?」
「………ど、して…」
暗闇に浮かび上がったのは間違いなく兄だった。一気に力が抜け、ルードヴィッヒは埃だらけの床に尻をつく。マクラウドは屈みこむとそんな弟の頭を撫でた。
「話は下で。お前のアルスも無事だよ」
「アル…!アルは無事なのですね!」
ルードヴィッヒを捉えるのが目的なら、侍従は殺されてしまうはずだ。無事という言葉を聞き、ルードヴィッヒは希望に顔を輝かせた。靴を履くのももどかしく階下に降りる。思った通り、ここは3階建ての屋根裏だった。
「アル!」
「ルードヴィッヒ様!ご無事で……っ」
従者はルードヴィッヒの顔を見てたちまち涙ぐんだ。殴りつけられたのだろう、頬や瞼が腫れあがっている。血を拭ったあとが鼻から頬に伸びていた。
「申し訳…っ、申し訳ございません、私がついていながら…っ」
「アル、アルス、僕こそすまなかった。気を抜いて遊びに行こうなんて言ったのは僕だ、お前のせいじゃない」
「ルードヴィッヒ様…」
互いに詫びあい喜び合う主従をよそに、マクラウドはひと塊にされた男たちの拘束を解いた。蹴り上げて立ち上がることを要求する。
「ルイ、無事を喜ぶのは後にしろ。今はコレの始末だ」
「…………」
立ち上がった男は、どこかの屋敷の庭師か下働きといって風貌だった。苦痛に満ちた顔を諦めと絶望に染め上げ、よろよろと示された椅子に座る。残りの3人も同じような有り様だった。
ルードヴィッヒは男たちがそれぞれ足や指を折られていることに気が付いた。そっと兄を見る。マクラウドは何食わぬ顔をして、これから楽しいゲームが始まるとでもいいたげだった。
「兄さん…」
「お前もお座り」
これだけのことを声も物音も立てずにできるものだろうか。薄く笑う兄はルードヴィッヒの視線に気づくと、顎で扉を示した。なるほど、向こう側に兄の手の者が控えているのだろう。彼らも使ってのことだったのだ。
「さて、ルイ。お前はどうしたい?」
「え?」
「被害者はお前だ。コレをどうするかの話をまずしないとな」
兄が男たちから聞きだした話によると、男はルードヴィッヒ・ユースティティア・クラストロを誘拐監禁するよう依頼された、本業者だという。従者を殺さなかったのはルードヴィッヒに対する人質にするためで、依頼人も背格好のよく似た従者とセットでならば報酬を上乗せすると言った。
実際、ルードヴィッヒと従者はよく似ている。彼はそのためにクラストロに雇われ、いずれ影となるように教育されている。従者を殺されてもすぐに代わりが見つかるはずはなく、見つかってもそのように教育するのは大変な労力だ。
コツ、とマクラウドがテーブルを指で突いた。
「選択肢は三つ、ある。一つめはこのまま殺し、どこかに捨てる。あるいは同士打ちにでも見せかけて、事件そのものをなかったことにする」
死体処理の手間はかかるが、事件をなかったことにすることで、ルードヴィッヒは何事もなく帰国できる。
「二つめは通報。ここは僕らの国ではないからな。外国人同士の誘拐未遂事件としてはクラストロは大物すぎだ。センセーショナルに報道されて首謀者にも知れるだろう」
この国の法に則って裁きを受けさせる。ただしルードヴィッヒは誘拐された本人として事情を聞かれるし、滞在している館の貴族にも迷惑がかかる。足止めは必至、その後もルードヴィッヒはグランドツアーで羽目を外して失敗した貴族として叱責されるだろう。
「三つめはコレを連れかえって首謀者との取引に使う。とぼけられるだろうが、弱みを握っていることをこちらが知っているだけでも効果はある」
誘拐してクラストロを脅迫しようとしていたが失敗し、逆に実働部隊を抑えられた。クラストロがどんな反撃をしてくるか想像するだけで震えあがるだろう。
「さて、どうする?」
「…………」
ルードヴィッヒは考えた。一番楽なのは一つめだが、最も悪手なのがこれだ。こちらのメリットがひとつしかない。殺人を背負うのと帰国ではむしろデメリットだ。
二つめは法的に正しい。ここが外国である以上自分たちがでしゃばるのではなく、国際問題として扱う方が良いだろう。だがそうすればルードヴィッヒの評判、ひいてはクラストロの評判が落ち、国にも迷惑がかかる。滞在している貴族の名にも傷をつけ、ルードヴィッヒの護衛や従者も職務怠慢としてなんらかの罰を受ける。
三つめ、最も腹黒いのはこれだ。首謀者に失敗を悟らせるだけではなく、クラストロが弱みを握ったと思わせることができる。生かしたままという違いはあるが、一つめと同じくルードヴィッヒは無事に帰国できるだろう。
「…兄さん、それで、首謀者は誰なの?」
「親王家派――いや、反クラストロの一派だ。クラストロが政治を牛耳っているのが気に食わんらしい」
ルードヴィッヒの予想通りだった。親王家派は裏を返せば反クラストロ派である。王家の影であるクラストロが王を操り、自分に都合の良い政治をしていると思い込んでいる。いくらクラストロであろうとも、議会を無視して政治を進められるはずがないのだが、彼らはクラストロさえいなければ自分たちの思い通りにできると思い込んでいるのだ。
「まぬけな話だよ。慎重に慎重に事を進めすぎて、こちらの張った網にかかったんだから。外国に別荘を買うのはおかしくないけど、こんな国境付近、しかも使用人を置いたのは数日前。企んでますって言っているようなものだ」
馬鹿にしてる。マクラウドは心底呆れかえて言った。
建国以来、クラストロは宰相として国のために動いてきた。長すぎる権勢は嫉妬を買うには充分で、クラストロを排除した後、ハイエナのごとく利権を食い荒らす様が想像できるだけに、ここで引くわけにはいかない。
「できるなら3、できなければ1で」
「それでいいのか?」
「いいも何も…他に手はないんだろう」
兄はまじまじと弟を見て、長い息を吐いた。
「それでクラストロが務まると思っているのか。たしかに僕は三つある、と案を出した。だが三つしかないとは一言も言っていないぞ」
「な…っ、ずるいぞ!」
「なにがずるいだ。自分で考えなくてどうする。相手に乗せられて諾々と提案を受けるなど愚の骨頂、引き摺りこむんだよ」
クラストロの象徴は双頭の竜だ。清濁を飲み込み国に安堵をもたらす。そのためにはあらゆることを考えておかなくてはならない。
「…まぁ、お前が非情な判断も下せるとわかっただけで上出来か」
「兄さん」
マクラウドが政治を、ルードヴィッヒが軍事を、将来担うことになる。いざという時に殺せない指揮官では軍は動かせない。時に非情に、しかしどこまでも冷静に冷徹に、命令を下す。それがルードヴィッヒに求められる役割だった。
「…軍を統括する以上、必要以上に殺さないのは良い判断だ。だがもう一歩踏み出すことも考慮しろ」
「兄さんならどうするの?」
「僕なら、こうする」
言ってマクラウドは懐から葉巻を取り出した。口に咥えて火をつけると一度吸い込み、ふうと紫煙を吐き出す。そして、葉巻の吸い口を正面にいる男、ルードヴィッヒの誘拐を依頼された頭目に向けた。
「僕が君たちを雇おう。毒を飲む覚悟があるなら吸いたまえ」
「……こちらの、メリットは」
驚いたことに男は話に乗ってきた。仕事に失敗した以上、こういう裏稼業のものは始末されるか安く買い叩かれるかのどちらかだ。そんなことになるよりはクラストロに与した方が良い。賢明な判断だ。
二人の間に甘い香りが煙る。
「一家全員の保護。しかるべき報酬。これは成功失敗を問わず出す。成功すれば上乗せしてやる。衣食住の保証。それと、裏切りの自由だ」
「…裏切りもか」
「裏切ればどうなるかわかるだろう?だから自由だと言った」
「断れば?」
「ルードヴィッヒが選んだ通り、3だな」
マクラウドはちらりと男の後ろにいる、足の折れた男に目をやった。脂汗を流し、椅子の背もたれに手をついてなんとか立っている。
「…お孫さん、3歳だって?リリィちゃん。良い名前じゃないか」
黒い瞳をさらに黒く輝かせ、マクラウドはやさしく微笑んだ。隣に座っているルードヴィッヒでさえ聞いた事のないやさしい声――だが絶対零度と思えるほど温度のない声であった。
真正面から受け止めた男は暗闇でもわかるほど蒼褪め、目を見開いてマクラウドを凝視していた。
「君の名前は?」
マクラウドはどこまでも穏やかだった。男は震える手を伸ばし、不自然な方向を向いている青い指で葉巻を掴んだ。口元に持って行く。がたがたと震えが激しくなり、男は指を口で追いかけて、吸いこみ、吐いた。マクラウドの目が三日月のように細くなった。
「アーネスト。姓はない」
「では、カイエンの姓を与えよう。これからはアーネスト・カイエンと名乗るがいい」
「へ……?」
男はぽかんとし、ルードヴィッヒもぎょっとした。男の後ろにいる彼の息子と部下、侍従のアルスも驚いている。
姓を与えるのは貴族の特権だが、たいていは功績を立てた者への褒美として与えられるものだ。農民などの庶民に姓はなく、たいていは何々村の誰それだ、と名乗る。当然裏稼業の者に姓などあるはずがない。姓がある、というのはそれだけである種の尊敬を集める、いわば勲章なのだ。
「なんだ、不足か?」
「と、とんでもねえ…。けど、なんでです?俺、いや私らは裏のもんですぜ?」
「一家揃って裏稼業」
「それが?」
裏稼業、暗殺や諜報を仕事とする者は、それを家族にすらひた隠しにしている。いつ何が起こるかわからないし、仕事に失敗は死に直結するからだ。裏を知ればそれだけ危険が高くなるし、そんな仕事をしている者を伴侶にしたがる女はいないだろう。報酬こそ良いが安定しない上に、裏切りと陰謀の世界だ。そんな稼業を継がせたいと思う親もいない。
「その根性が気に入った。僕も家督を継げば自分だけの黒後家蜘蛛を持つし、どうせだったら面白いやつのほうがいいだろ」
黒後家蜘蛛――その名の通り黒い後家蜘蛛である。糸を張り巡らせて獲物を待ち伏せし、食い殺す。牙には猛毒があり時に人を殺すこともあった。クラストロ家における諜報部隊の総称である。もちろん、時と場合によっては暗殺も行う。
「そ、そんな理由で…?」
「他人に紹介された良く知らない人間より、自分で確かめたやつのほうがいい。それに…」
唖然とするアーネストに、マクラウドは今度こそやさしい瞳で言った。
「孫を出されて言葉に詰まるような、人間らしい男のほうが、信用できる」
心を失った人間はけだものだ、餌に釣られてなにをしでかすかわからない。ならばどれだけ非道であろうとも、心を持って進める人間のほうが良い。
「は、はは…っ。さすがはクラストロの坊ちゃん、俺、みてぇなやつを…信用なんて……」
乾いた笑いを漏らしたアーネストは、しだいに涙で言葉を詰まらせた。青く腫れあがった手で目を覆い、男泣きに泣きだした。見れば後ろの男たちも泣いている。
裏稼業に信用はない。あるのは成功か失敗であり、金か死である。迂闊に信用して話したことをどこで誰に漏らされるかわからないのだ、他人が信用できなくなるのは当然だった。依頼人すら秘密を握った者として、仕事が終われば暗殺しようとしてくる。誰も信用できず、誰からも信用されない。しかも彼らの仕事は誰からも褒められることも、認められることもなく、依頼人は蔑みを隠そうともしない。
「3ヶ月の試用期間を設ける。それまでにクラストロに来い。一家全員でだ。わかるな?」
「はい」
3ヶ月以内に怪我を治せということである。うなずいたのを確認し、マクラウドは懐から帝国金貨を6枚取り出した。逃げればたちまち蜘蛛の糸が絡まり、獲物を喰い殺すだろう。
「先払いしておく。一枚は怪我の慰謝料、一枚は引っ越し代、二枚で今回の賠償をしておけ、残りの二枚は3か月間の生活費だ」
「はい」
金貨二枚あれば5人家族が一年は生活できる。帝国金貨は信用が高く、取引に有利だ。帰国して彼らがクラストロに行けば、首謀者も失敗を悟り追手をかけてくるだろう。同業者ならどうすれば退けられるか知っている。金で済むなら安いものだ。ルードヴィッヒは唖然としたまま二人のやりとりを見ていた。
クラーラの執事であるアーネスト・カイエンは二代目だ。あの時に足を折られていた息子である。
「アーネスト、どうして兄さんについたんだ?」
カイエン一家はその後マクラウドの目となり足となった。国内を周り、情報収集を務めている。マクラウドがクラーラになる際、ルードヴィッヒはアーネストを誘ったのだ、軍に来ないか、と。
軍でもアーネストの諜報は役に立つ。表舞台から消える兄につくのは無駄のように思えた。
アーネストはまっすぐに答えた。
「私共はあの時マクラウド様に生かされたのです。ならばこの命、あの方のために使うのは当然のことです」
ためらわずに手を伸ばしたこと。人間として認められたこと。欲しい、と求められたこと。すべてがアーネストには感動だった。マクラウドがルードヴィッヒ救出のために突撃した時、彼は最低限の労力だけで制圧した。誰が首謀者なのか、誰が実働部隊なのか調べた時から、マクラウドはアーネストを手に入れることを決めていたのだろう。あの後かかった医者が驚くほど綺麗に骨は折れていた。おかげで後遺症もなく、今もこうしていられる。
「それに」
言葉を続けたアーネストは少年のようにはにかんだ。
「お笑いください。はじめてだったのですよ」
私を人間として扱った主人は―――
ルードヴィッヒはその時はじめて、人が人に心酔している姿を見た。
ルードヴィッヒ・ユースティティア・クラストロにとって、兄とは尊敬と憧憬の対象であり、越えるべき壁である。
だからこそ、彼からマクラウドを殺し、クラーラにした女を許すことができない。
物騒兄弟。




