リスティア・エヴァンスの初陣
そろそろ動きはじめます。
春が近づいた王都は例年より華やかな雰囲気に包まれていた。
現国王エドゥアールの在位20周年。その記念祝賀会がはじまるからだ。
一ヶ月におよぶ祝賀は、連日の夜会、園遊会、舞踏会、晩餐会と、豪華な行事が並ぶ。なかでも一番のメインは、王族一家が馬車で王都を周るパレードだ。王と王妃を一目見ようと群衆が詰めかける。この時ばかりは大盤振る舞いで、王都の民にもパンとミルク、布地が配布されるらしい。
大通りは祝賀の客を迎えるために綺麗に掃除され、花が飾られる。観光客のための屋台や宿屋も気合が入っていた。
もちろんクラーラも例外ではなかった。祝賀会のための夜会用ドレスや舞踏会ドレスの注文がひっきりなしに入ってくる。ここが儲け時と、クラーラも張り切っていた。
「クラーラ様、ルードヴィッヒ様から手紙が届いております」
手を抜くことを許さないクラーラは、このところ断酒して店も早めに閉めている。集中して針と糸を持つクラーラに、執事のアーネストが銀盆に乗せられた手紙を出してきた。
「ルイから?」
クラーラは手を止めるとドレスを丁寧にテーブルに置き、手紙を取り上げた。ずっと目を使っていたせいか霞んで見える。目元を揉んでからひっくり返し、裏のサインを確認する。
ルードヴィッヒ・ユースティティア・クラストロ。見慣れた署名は間違いなく弟のものだった。封を解き、中を見る。
「…あら、ドレスの注文だわ。奥様のお気に入りの令嬢が社交デビューでこっちにくるんですって」
よくよく見てみれば、あて先は『クラーラ』になっていた。大貴族であり軍を統率する身分のルードヴィッヒが堂々と手紙など出せば、またぞろうるさい連中が嗅ぎつける可能性がある。王家の暗部を背負っていたクラストロが沈黙していても、他のものたちが目敏く動いているだろう。
「今からか…間に合うかしら。どっちみち会ってからじゃないと決められないけど……」
ただでさえ注文が殺到し、厳選した令嬢のドレスしか引き受けていないのだ。いくらクラストロ家と繋がりのある令嬢とはいえ、ぽっと出の相手を新規に受けたら、反感を招きかねない。
主の懸念を読んだ執事が進言した。
「クラーラ様の修行先はクラストロ領です。恩ある方の紹介では断れないのでは」
「それもそうか。しかしアタシも年取ったわ、目と肩の疲れが取れないのよ…」
ぼやいたクラーラはとんとんと肩を叩いた。目と肩と指先の使い過ぎで疲労が溜まっている。ゆっくりとお風呂に浸かり、寝る前にマッサージもしているが、年には勝てなくなってきた。実感するのは地味につらい。
「祝賀会が終わったら、しばらく静養に出てはいかがでしょう。クラストロの施設は充実しておりますし」
「そうね。考えとくわ」
まずは本人に会ってからだ。あの弟の奥方が気に入る令嬢ならば、必ず自分とも気が合うだろう。それは少し楽しみだった。
リスティア・エヴァンスは緊張を隠せずにいた。夢の王都は祝賀ムードに湧き、クラストロの中央都市よりもずっと大きい。建物も行き交う人々も、比ではなかった。
「リスティア、大丈夫?」
気づかうやさしい声色に、リスティアは我に返った。彼女の女主人、ヴァイオレット・ユースティティア・クラストロ侯爵夫人が微笑まし気に見ている。
「大丈夫です。奥様、王都はすごいのですね」
ヴァイオレットの夫、ルードヴィッヒはマクラウド公爵の実の弟だ。彼自身は軍人で、辺境軍元帥の地位にある。国境での監視や匪賊の討伐などの任務が多く、今この国でもっとも実戦経験があるのが辺境軍だ。マクラウドの弟でありながら王都から遠ざけられているのは、万が一にもクーデターを起こされないようにするためである。クラストロ領の代官であり、実質的な領主。独立を防ぐためルードヴィッヒにも侯爵の地位が与えられている。王家がどれほど彼らを恐れているかがわかるだろう。
リスティアもそんな裏事情を聞いてはいるが、それでも王都の華やかさには目が惹かれた。この王都を見て国に誇りを抱かない者がいるだろうか。わかりやすい華やかな見た目に浮かれる少女にヴァイオレットも苦笑いだ。
「…王家を悪くいうわけではないけどね、」
と、前置きして言った。
「一時の大盤振る舞いの後には必ずツケが回ってくるものですよ。夢は楽しければ楽しいほど、目覚めた後のむなしさは大きくなるものです」
「奥様」
「王宮の華やかさはこんなものではなくってよ。リスティア、しっかりね」
「…はい」
尊敬するヴァイオレットにやんわりたしなめられ、リスティアは気を引き締めた。ここは王都。はじまりの舞台。もしかしたら、もう二度とこの地を踏むことはないのかもしれない。予感めいたものが、リスティアの胸によぎった。
ヴァイオレット・ユースティティア・クラストロ一行が王都に持つクラストロ公爵の屋敷に辿り着くと、噂はいっせいに広がった。
ヴァイオレットの元には夜会や晩餐会の招待が舞い込み、彼女が連れてきた令嬢が社交デビューと知られるとお茶会や遊びの誘いがやってきた。あっという間の出来事に、リスティアは驚くほかない。ヴァイオレットは慣れた様子でさばいていた。
「ほらリスティア。あなたも読みなさい。こういうものを厳選できるようになることも貴族夫人の役目ですよ」
「はい、奥様」
16歳のリスティアは、聡明さがヴァイオレットの目に止まり、領主館で行儀見習いとして13歳の頃から仕えている、子爵令嬢である。だいたいの貴族の名は頭に入っているが、招待状は多く、時に紳士録を手繰りながらすべてに目を通していった。
「あれ…?奥様、これは?」
リスティアが手を止めたのは、一通の招待状だった。紙の質は良く、筆跡も綺麗なことからおそらく貴族なのだろうが、ただ名前があるだけで肝心の姓が書かれていない。筆跡だけなら代筆もある。忘れたのか故意なのか、リスティアには判断できなかった。
「ああクラーラ様!お友達よ」
「奥様の?」
「そうね、わたくしの、ね」
―――晩餐にご招待いたします。ご都合の良い日に。 クラーラ
肩を揺らして笑うヴァイオレットに首をかしげるリスティアは、一番上に乗せられたクラーラからの招待状にどんな方なのか想像を膨らませた。
当日、ヴァイオレットとリスティアは一番いいドレスを着てクラーラの晩餐に臨んだ。
いつになく気合いの入っているヴァイオレットに、クラーラとはさぞや素晴らしい貴族に違いないと思っていたリスティアは、無紋の馬車が止まった家を見て絶句する。なにかの間違いでは、と周囲を見回すも、それらしいお屋敷は一軒もなかった。暗く細い通りにぽつぽつと立つガス灯の灯り。クラストロの屋敷がある通りとは一段も二段も違う、下町だった。
「リスティア」
「あ、はいっ」
「失礼のないようになさい。わたくしのお友達ですが、旦那様の大切な方です」
家を見て予想と違うとあからさまにうろたえるようでは、淑女として失格だ。どんなものが現れようと笑顔を崩さず、泰然と受け止める。それくらいの腹芸くらいは心得ておかなくては、少なくともヴァイオレットの傍ではやっていけない。
カンカン、と扉についたドアノッカーで叩くと、間を置かずに開かれる。きちんとした身なりの執事にリスティアは内心でほっとした。
「お待ちしておりました」
「久しぶりね、アーネスト」
「奥様も、お変わりなく」
メイドがコートを受け取り、控えの間に案内される。
リスティアはさりげなく室内を見回した。壁紙も床も統一され一体感があり、調度品も古いがよく手入れされている。掃除は行き届き、客によけいな気遣いをさせない雰囲気がある。外観からはほど遠い、ちいさいけれどよく手入れされた屋敷だった。
ノックの音が響き、館の主人が現れる。ヴァイオレットに続きリスティアも立ち上がった。
「ヴァイオレット、よく来てくれたわ」
「お久しぶりですわ、クラーラ様」
言葉を交わすふたりをよそに、リスティアは立場も忘れて口を開けた。ヴァイオレットもクラーラも慣れているのか気にした様子はない。
ヴァイオレットがクラーラ様と敬称をつけて呼ぶのに対し、クラーラはヴァイオレットを呼び捨てだ。いったいどういう立場の人なのか、その外見からは想像もつかない。
「それで、その子が?」
「ええ。リスティア、こちらがクラーラ様よ。クラーラ様、この子はリスティア・エヴァンス」
「はじめまして。リスティア・エヴァンスでございます」
紹介されて慌ててリスティアは礼をとった。ふぅん、とクラーラの目が楽しげに細くなる。
今夜のクラーラは黒髪を染めず、右の前髪を流し左は後ろに撫でつけるいつものスタイルだ。青薔薇の髪飾りをつけている。
ドレスは大きく肩を開けてデコルテを作り、袖を丸くしてレースが重ねられている。薔薇よりも青いドレスの胸元にも大きなレースが付けられ、腰で絞り細さを強調していた。スカートは大胆にスリットが斜めに入り、そこからもレースが覗く。スリット部分に薔薇が飾られていた。
首も肩も隠されておらず、クラーラが男であることをリスティアに教えている。だが、化粧を施した顔、ドレスを見事に着こなし颯爽とした姿は淑女そのものだった。
「はじめまして。といっても一度だけお会いしたことがあるのだけれどね」
「え?」
「エヴァンスの末の令嬢でしょう?あなたが、そうね、1歳くらいだったかしら?抱っこしたことがあったわ」
リスティアが慌ててヴァイオレットを仰ぐと、初耳だったのか彼女も意外そうにしていた。
「まあ、本当なのクラーラ様。わたくし知らなかったわ」
「エヴァンスといえば桑畑でしょう。養蚕にはかかせない事業だわ。調査に行ったのよ」
「ああ、それで…」
ヴァイオレットも合点が行った。リスティアの父エヴァンス子爵は親役であるクラストロ公爵の命で桑畑を主要産業としている。蚕の餌となるのは桑の葉のみで、エヴァンスは重要な任務を任されたのだ。子爵がどれだけ公爵から信頼されているか、その表れであろう。父が認められたようでリスティアも誇らしい。
「クラーラ様は仕立て屋なのよ。クラストロの絹を宣伝する王都の総責任者といったところね」
「やだわ、おおげさよ」
そこにレオノーラがやってきた。
「みなさま、お支度がととのいました。どうぞ食堂へお越しください」
クラーラがリスティアのエスコートをすべく腕を出した。ヴァイオレットには執事のアーネストだ。
「今夜はごく身内の晩餐会よ。練習にもならないでしょうけど、楽しんでいってね」
「はい。ありがとうございます」
館の料理長マシューは、滅多にない晩餐会に喜びおおいに腕を揮った。人数はたった3人と少ないが、前菜からメイン、デザートまであるフルコースだ。食材選びから調理まで、マシューは張り切った。
晩餐会は夜会へと繋がる、貴族同士の見極めの場である。
女主人が指揮を執り、客の選別から料理の選定、招待客の席順や音楽まで決める。晩餐を盛り上げられないと女主人は名を下げ、会話の弾まない招待客もまたの機会を失う。いわば前哨戦となるのが晩餐会である。
クラーラの晩餐に音楽はなかった。代わりに美味しい料理と会話で満たされ、リスティアはすっかりこのクラーラという人物への信頼と尊敬を抱いてしまった。見た目は迫力ある女装の麗人(?)だが、中身はれっきとした貴族だ。しかも、物凄く事情通の貴族。仕立て屋と言われても信じられなかった。
クラーラの館を辞す時、彼は笑って握手をしてくれた。
「今度はお店に来てね。リスティアちゃんのドレスを作りましょう」
リスティアが振り返るとヴァイオレットが笑ってうなずいた。クラーラが自ら作ったという今夜のドレスはため息が漏れるほど素晴らしいもので、お世辞でも宣伝でも嬉しかった。
行きと同じく無紋の馬車に乗ったヴァイオレットは、背もたれに体をあずけ、ふうと息を吐いた。
「良かったわ。どうやらあなたを気に入ってくれたみたい」
「本当に作っていただけるのですか?」
「うちを出る前に依頼だけはしておいたのよ。クラーラ様は貴族相手だと気難しくてね、受けるかどうかはドレスを着る本人を見極めてからなの」
「まあ……」
リスティアも父が事業をやっているから、客ありきの商売がどれほど難しいのかわかっている。どんなにいやな相手でも、時には取引をしなければならないこともあるのだ。
そう考えると、クラーラのやり方でよく商売が成り立っている。よほど腕が良いのか、それともコネやツテがあるのか。あるいは、両方か。
クラーラの店に行ったのは晩餐会から数日後だった。
「いらっしゃいませ」
ちりりん、と軽やかなベルを頭上に扉を潜ると、乙女の憧れの宝石箱のような世界が広がっていた。
「こんにちは、クラーラ様」
「クラーラ様、こんにちは」
「はい。どうぞ座って。お茶を出すわ」
ヴァイオレットとリスティアが来るのがわかっていたのか、店内には他の客がおらず、静かだった。
まずはこちらに署名を、と差し出された顧客名簿にサインする。クラーラの淹れた紅茶の匂いが漂ってきた。
「それで、どこの招待を受けるか決まった?あまり目立っても良くないでしょう?」
「ええ。でも大事なデビューだもの。さりげなく、かつ華やかに演出したいわね」
リスティア自身は子爵令嬢だが、後見するのがヴァイオレットだ。嫌でも注目を浴びる。
「リスティアちゃんは、婚約はまだ?」
「はい」
「うーん。そうするとこんな感じかしら」
クラーラが取り出したスケッチブックには、リスティアのためのデザインが描かれていた。たちまち少女は顔を輝かせる。
「まあ…!なんて素敵な…まあ!」
王都の最新流行がクラストロまで届くのは遅い。商人が馬車で行っても3週間はかかるのだ。戻ってくる頃には季節は変わり、また新しいものが発信されている。
「今の流行はこんな風なのね」
「控えめに、かつ華やかに。…流行を作ってるのは王妃じゃないわ。このクラーラよ」
本人の良さを引き出す。それがクラーラの店の最大の売りだ。少女はその宣伝文句に惹かれてやってくる。自分だけのもの、自分にこそふさわしいもの。付加価値を与えることで、クラーラは余計な部分を削っているのだ。
「派手な衣装もいいでしょう。豪華なドレスに輝く宝石。それはとても素晴らしいものだわ」
でも、とクラーラは続ける。
「自分の分を弁えていないのはダメ。似合わないもの。肝心のお嬢様がかすんでドレスだけが目を惹くなんて悪趣味だわ。アタシはねぇ、その子がとっても喜ぶドレスを作りたいの。ドレスだってそのほうが幸せよ」
王家に対する、痛烈な皮肉だった。どんなに豪華なパーティを開こうと、王と王妃が着飾ろうと、この国の土台はもう腐っている。王家の見せる眩しい夢から覚めた時、この国はどうなるのだろう。
「さあ、リスティアちゃん。あなたに似合うドレスを作りましょうね」
王宮は権謀術数と陰謀渦巻く魔窟だ。リスティアは緊張から喉を鳴らした。戦うための鎧を少女は纏って王宮に赴く。
リスティア・エヴァンスは金に赤の混じった髪と、新緑の瞳、白い肌。アーモンド形の目は気品と知性を感じさせている。立ち居振る舞いも貴族令嬢にふさわしく優雅で、軽やかな足取りでステップを踏む彼女は多くの男性の目を惹いた。
王都で開かれるデビュタントは、王と王妃との謁見からはじまる。
とはいえひとりずつ名乗りをあげ、ふたりが軽くうなずく程度だが、畏れ多くも国王陛下と王妃との対面に、少女たちは緊張と感動を隠せずにいた。
リスティアもそのひとりだ。領主が引き籠る原因になったふたりとはわかっているが、それでも王と王妃である。失敗しないようにするだけで精一杯だった。
その後は舞踏会に移る。たいていの男女はパートナーとなる相手を見繕って出席する。どうしても相手がいない場合は女主人が男性を女性に紹介し、女主人に令嬢を紹介された男はその相手と踊ることがマナーとされている。これは舞踏会が一種のお見合いであるからだろう。令嬢を壁の花にするのは大変な失礼にあたるのだ。
恋人も婚約者もいないリスティアは、ヴァイオレットから紹介された青年と踊っていた。ヴァイオレットの実家の親戚筋の、こちらも子爵だ。
デビュタントのドレスは白と決まっている。頭にはティアラを乗せ、リスティアをはじめとする令嬢たちはまさにお姫様気分を味わった。ヴァイオレットの面影を持つ青年がリスティアに微笑みかけている。音楽はワルツ。夢心地で踊るリスティアをよそに、貴族たちは品定めを開始する。
「あの子が?…そう、ヴァイオレットの…」
それぞれが。
「ルードヴィッヒが来るのなら彼も……?」
それぞれの思惑で。
「クラストロと交流を持つのは我が家の利に…」
戦いがはじまる。
ドレスまでいかなかった…無念。