××の祈り
暑くなってきましたね。
王都に来ればなんとかなると思ってた。
働ける場所なんかいくらでもあって、毎日おいしいパンとあたたかいスープを食べることができて、綺麗な服を着て、素敵な人と恋に落ちる。
でも、違うのね。
その夜、クラーラは行きつけの居酒屋に行き、馴染みの顔と飲んでいた。
「ちょっとクラーラ、あんた大丈夫?」
「だいじょうぶよぉ。アタシを襲ってくるやつなんかいやしないからぁ」
「そうだけど、ほら、ここいらも夜中は治安悪いからさ。あんたも一応金持ちなんだし、気をつけなよ」
「わかってるわよぉ。ありがと~さすが看板娘!愛してるわん」
「はぁ…。本当に気を付けてね!」
はぁ~い、という、実に頼りない返事をして千鳥足で店を出たクラーラを、居酒屋の看板娘は心配そうに見送った。
しっかり酔っぱらっているクラーラは、しかしこのまま帰ったらメイドのレオノーラに怒られるだろうな、と頭を働かせる。そして、少し酔い覚まししてから帰ろうと、普段は行かない裏道方面に足を向けた。遅く帰ったほうが怒られるのではないかという常識は、酔いに浸された頭から抜けている。あるのは姑息かつ小狡い言い逃れであった。
王都といえど、裏通りは治安が悪い。職にあぶれた人々が路地で倒れるように眠っていたり、あるいは強盗狙いで虎視眈々と隠れていたりする。たいていはクラーラを見て驚き逃げるが、今は酔いのまわった千鳥足だ。クラーラも多少警戒している。
「…んん?」
ガス灯の下にうずくまる少女に、ふとクラーラは気が付いた。
どこからか逃げてきたのか、下着姿だ。髪もボロボロで、細い手足が汚れた下着からひょろりと伸びている。いかにも栄養失調の子供だった。
クラーラは近づいた。進行方向だったからだ。
王都にはあんな少女はいくらでもいる。だが、こんな真夜中に外で過ごすのは珍しかった。娘であればどこかの売宿などに攫われてもおかしくない。家も宿もない少女たちは、どこかの家の軒先や、納屋でもいいと慈悲を乞い、外聞を気にした家人は仕方なしに毛布を貸して泊めてやる。軒先や納屋なのは、泥棒されるのを防ぐためだ。それすらもしないということは、あの少女はこの近辺で泥棒し、知れ渡ってしまったからかもしれない。浮浪者は悲惨だ。噂ひとつで仲間たちから外されてしまう。
せめて明るいところで恐怖をやりすごそうとしているのだろう。クラーラが近づいても、少女は顔をあげなかった。
クラーラは通り過ぎた。一時の同情で手を差し伸べても何もならないことをよく知っている。
「……………」
だが、見てしまった。うずくまり隠されていた少女の頬に、殴られた痕があった。
クラーラは足早に進むと、共同水道へと走った。なるべく音を立てないように水を出す。かぽんっという音が夜のしじまに響き、取り出したハンカチを濡らした。
「使いなさい」
来た道を戻ると、クラーラは濡れたハンカチを少女に差し出した。顔をあげない少女にため息を漏らし、屈みこんで頬に当てる。
少女の頬だけではなく、瞼や額にも痣ができていた。ぼんやりと顔をあげた少女は焦点の定まらない黒い瞳をクラーラに向ける。
「酷い顔ね。せめてこれで冷やしなさいな」
大人が怖いのだろう。少女は怯えと怒りの入り混じった表情を浮かべた。クラーラは少女の頬にハンカチを貼り付けると立ち上がった。
「じゃあね」
何をしているんだか、とクラーラは思う。こんな一時の慰めなど、少女は望んでいないだろう。頬を冷やすハンカチより明日のパンのほうがよほどありがたいにちがいない。
だからクラーラはそれ以上何も言わず、もちろん名乗りもせずに立ち去った。面倒を見ることができないのなら、手を差し伸べるべきではない。犬猫ならともかく相手は人間だ、少女の一生を背負い込むことは、クラーラにはできないことだった。
出稼ぎの馬車に乗った。お姉ちゃんの一番いい服を貰って嬉しかった。きっとどこかのお屋敷で雇ってもらえるよと村の人は言ってくれた。お父ちゃんとお母ちゃん、お姉ちゃんと弟たちは泣いていた。
生まれて初めての馬車に乗る。馬車にいた『くちいれ屋』という男の人から、酔い止めと言われて渡された臭い水を飲んだ。
結局あの後屋敷に帰りついたクラーラを待っていたのは、帰りの遅い主人を心配しすぎて怒り心頭に発したできるメイドと、あーあといわんばかりの執事と料理長であった。着替えて化粧を落として風呂に入っている間もレオノーラの説教は続き、もう寝ると逃げに走ったクラーラにでは続きは明日と引き下がられた。もちろん翌朝クラーラの言い訳など通用するはずもなく、気の済むまで叱られたのだった。
少女に再会したのは、花街への依頼品を届けた帰りだった。
花街は王都でも一種異様な雰囲気を持つ繁華街だ。客引きの男たちが店の前に立ち、女たちは窓から手を伸ばす。犯罪が起これば一蓮托生なため、意外なことに犯罪率は低い。どの店も用心棒を置き、大切な『商品』に傷を付けないか目を光らせているためだ。
クラーラのドレスやアクセサリーは、上流を目指すそんな女たちにも人気があった。貴族の目に止まれば高価な贈り物や、家だって買ってもらえる。色衰えれば捨てられる運命にある女たちは、自分たちの末路を知っている。必死で着飾るのはここで生き抜く術でもあった。
今日の客ははっきりいえばカモであった。金持ちのボンボンが娼婦に夢中になり、金にあかせてドレスを贈る。チープな恋愛小説か、オペラにでもなりそうなほどありふれた、しかし破局しか待っていない現実である。
男の前にお披露目するため、クラーラはドレスと仕上げを依頼された。その後やり手婆と呼ばれる店のまとめ役に歓待され、こんな時間になってしまった。やり手婆は引退した遊女の成れの果てだ。老いてはいるが接待は上品で、嫌味を感じさせなかった。クラーラも客商売である。裸一貫で働く女への尊敬も抱いている。気分良く接待を受けた。
今夜は酔っていない。上流嗜好の酒は大変良いもので、当然値が張る。ボトル一本くらいはたやすいが、まさか店を傾けるわけにはいかなかった。
つまり今夜、アタシは機嫌がいいの。クラーラはそんなふうに思いながら、ガス灯の下でうずくまる少女の前に立った。
少女がふっと顔をあげた。
きちんと冷やしたのだろう、痣はない。相変わらずみすぼらしく、うつくしさの欠片もないが、それでも頬が腫れあがった悲惨さがないだけましだ。
「……………」
黒々とした瞳には何の感情も浮かんでいない。下着姿の少女に王都の冬風が吹き付けた。
王都の冬は寒い。昼間なら太陽が出ていささかあたたかく感じるが、乾燥した風が吹けば肌を刺すような冷たさだ。夜になると指先が凍り付きそうなほど冷えてくる。死者がもっとも多いのは冬で、道端で凍死した浮浪者が朝になると発見されて麻袋に詰められ、共同墓地へ運ばれるのが冬の風物詩である。
よく生きていたものだ。クラーラは少女のしぶとさに呆れ、感心した。だが冬は長い。このまま道端で生活していたら、この冬を越せないだろう。
クラーラはマフラーをとった。頭ごと包めるように、広めに編んである。クラーラの手作りだ。少女の頭に乗せた。
そして、何も言わずに立ち去った。
王都は綺麗だった。見たこともない大きな建物。通り過ぎる人々もみんなおしゃれで、どこから見ても立派だった。同じ馬車に乗った同じくらいの女の子も声をあげてはしゃいでいる。すごい。見るものみんな、すごい。
3度目ともなると言い訳はできない。クラーラはわざわざ、自らの足を使い、少女に会いに行った。
昨夜、居酒屋帰りに思い余って路地を覗いたら、いなかったからだ。ずきりと胸が痛み、罪悪感が込み上げる。よくあることだ、気にしても仕方がない。そう言い聞かせても、年端もいかない少女が死んだかもしれないという事実はクラーラの心を抓るにはじゅうぶんだった。
あんな下着姿では、乞食以外の方法で稼ぐとなったらひとつしかない。少女というより幼女に見えるが、そういう趣味の男はいくらでもいるのだ。それではあまりにも憐れではないか。クラーラは吸い込んだ空気の冷たさだけではなく痛くなる喉を堪え、夜道を慎重に進んだ。
少女は、いた。
ひとり、ぽつんとガス灯の下でうずくまっている。クラーラの落としたマフラーに身を包み、足を腕で抱え込んでいた。顔は前を向いていた。
クラーラが近づくと、少女が首を動かした。クラーラは少女の前に立つと、しゃがみこんだ。何も言わずに懐から櫛を取り出す。
酷い髪だ。何日も洗ってないのだろう、土と埃と、殴られた際についたのだろう血で塊り、絡まり合っている。クラーラは毛先からゆっくりと梳いた。丁寧に、丁寧に、母親が娘の髪を整えるような気持ちで。櫛にごっそりと抜け毛がついたのを払い、何度も繰り返す。ハラハラとフケが零れた。少女はされるがままだった。
満足のいくまで梳き、最後に左右で三つ編みにした。使い道のないほど短くなったリボンの切れ端で作った飾りを止め、うなずく。これでいい。
馬車はお店の前で止まった。さっき見た広い道や大きくて綺麗な建物とは違う、薄汚れてこぢんまりとした、暗い雰囲気のお店だった。出てきたのは女将だろう女の人。どうやらここは、宿屋らしい。
次にクラーラが持って行ったのは靴だった。裸足の足はあかぎれができて出血していた。あのまま放っておいたら凍傷になってしまう。まずは毛糸で靴下を編み、それを型にして靴を作った。クラーラの店では靴は職人に頼んでいる。素人のクラーラはミトンの要領で縫い上げた。厚手のフェルト地の靴は底になにもいれていない。雨が降れば役に立たないだろうが、ないよりはましだ。
少女の足はクラーラが手にとるといっそ憐れなほどちいさく、細かった。足指は赤黒く、思った通り凍傷の前兆ができている。まずは靴下を履かせ、靴に足を入れる。想像よりちいさな足には大きかった。少女はされるがままだった。
『くちいれ屋』が出て行くと女将が服を脱げと言った。そんなに汚いんじゃお客がつかないとぼやいている。お風呂だ、とわかった瞬間ここがどういう宿屋なのかもわかった。男の人の大きな手が伸びて服を脱がされる。他の子が嫌がって暴れた隙をついて、逃げた。
走って、走って、走って逃げた。追いかけてくる足音と怒鳴り声。こわい。お父ちゃん。お母ちゃん。こわいよう。助けて。おまえはうられたんだと言われて足がもつれる。捕まえられて、殴られた。
何度も、何度も、殴られた。 痛い。 殴られた。 痛い。 痛い。
クラーラの店は王都でも高級品街にある。浮浪者の少女が着て不自然でない服など当然ながらなかった。自ら用意することもできない。新品の生地では、あのあたりでは浮くだろう。追いはぎにでも遭うかもしれない。結局、クラーラはバザーで古着を買うと、ほんの少しだけ、おしゃれにした。
襟元に四葉のクローバー。ポケットにダンデライオンの刺繍をいれる。くすんだカーキ色の、尻の部分がすり減ったワンピースなどはじめてだ。
クラーラは少女を立たせると、頭から被ったマフラーをはぎとり、ワンピースを着せた。またマフラーを頭から乗せ、首元と背中まで覆った。
三つ編みにちょこんとついたリボンと、あたたかそうな靴。全体にバランスがとれるようにしてしまったのは職業柄仕方がないが、これくらいなら目立たないはずだ。
「かわいいわよ。女の子だもの、おしゃれしなくちゃね」
言って、クラーラは微笑み、酷い顔色をした少女の頬にキスをした。寒風にさらされた頬は、氷のように硬く冷たかった。
王都に来れば何とかなると思っていた。
痛い。 涙が出てきた。 男が何か言っている。聞こえない。 痛い。 寒い。 いたい。
おかあちゃん。
それっきり、少女は姿を見せなくなった。クラーラはしばらく気にしていたが、身なりが良くなってきっとどこかで仕事を得ることができたのだと思うことにした。自分なら少女ひとりくらい救えたのではないかと思ったが、ひとりを救ったところでなんにもならない。今の王都にどれだけの浮浪者がいるだろう。
それでもつい、足を運んでしまった。昼間の裏通り。ガス灯の下に少女はおらず、ダンデライオンが咲いていた。
さりげなさを装って歩くクラーラの耳に、共同水道でおしゃべりする女たちの声が聞こえる。
「ほら、あそこの売春宿から逃げた子らしいのよ」
「ああ、あの子。気の毒だねぇ。うちの末娘と同じくらいだったよ」
「酷いことするね。あの子痣だらけだったって話じゃないか」
それがね、と女は声をひそめる。
「あったかそうないい服着て、踊ってたんだってさ」
「たしか冬の入りだったろ?おかしな話だねえ」
「あーあ。神様も幽霊にお慈悲をくださるくらいなら、うちにわけてくれりゃあいいのに」
違いない。恐々と話していた女たちは意地の悪い顔をして笑っていた。彼女たちの足元を子供が駆けていき、ダンデライオンを見つけると摘み取って、また駆けていく。
かわいい服を着て、新しい靴を履いて、あったかいマフラーもある。もう痛くない。もう寒くない。おなかもすかない。嬉しくて、踊った。スカートがひらひらして、体が軽くなる。
王都の冬。よくある風景。ありふれた場面の片隅に、捨てられた麻袋があった。
クラーラ、オカルトと遭遇する。
クラーラは決して正義の味方ではありません。少女たちの味方ですが、お仕事です。だから、見てみぬふりもします。この現状をもたらした一因が自分にあるとわかっています。すべてを救えるほど、クラーラの懐は広くなく、できることは少ない。宰相マクラウドであれば彼女を救うのも義務ですが、今の彼はクラーラです。矛盾と葛藤を飲み込み、今のクラーラがあります。