レオンハルト・ゲードの証明
1+1が、どうして2になるか、ご存知ですか。
アタシもいろんなお嬢さんを見てきたけど、とクラーラは言った。
「会った途端に気絶されたのははじめてだわぁ」
「申し訳ありません」
ころころと笑うクラーラに、ローズを責める色はない。
レオンハルトに男に囲まれているところを見られ、ダンスを踊り、彼の本気を見せつけられたローズは、極度の緊張がクラーラを見た瞬間頂点に達し、倒れてしまったのだ。
いきなりお嬢様に失神された使用人が慌てて人を呼び、部屋に寝かせた。ローズの乳母がやってきて気付け薬を用意している間もクラーラは何食わぬ顔をして見守っていた。あれほどの迫力の持ち主でありながら誰にも不自然を覚えさせないクラーラは見事というほかないだろう。まるでローズの親しい友人、良き理解者のような顔をして、彼女が目覚めるまで付き添っていたのだ。
ローズとしては不覚としかいいようがない。まさか客人の前で気を失ってしまうなど、ありえない失態だ。
「どうか今夜はお泊りになってください。お話は、明日ということで」
「そうね。お言葉に甘えようかしら」
クラーラは自前の馬車を持っていない。子爵家の馬車を借りるか、この時間では歩いて帰るしかないだろう。辻馬車ももう回っていない時間帯だ。
幸いなことに、子爵も外出中だった。きっとローズの稼ぎをあてにしてどこかで遊んでいるのだろう。賭け事のクラブか、場末の娼館だ。ローズの結婚が3回とも夫の死亡で終わって以来、父は身を持ち崩している。今まであった子爵家としての矜持すら捨てる勢いだ。母はもう何も言わず、すべてを諦めているようだった。
クラーラが来たのは、十中八九、レオンハルト・ゲードの依頼についてだろう。だが、ドレスを受注してもらって困るのはローズだ。無茶を言えば諦めると思ってのことだった。
「ばあや。お部屋にご案内して」
「はい。かしこまりました」
乳母もクラーラの名は知っている。有名な仕立て屋で貴族が相手だとひどく気難しいと聞くが、ローズへの態度といい言葉といい、好感が持てた。ローズより年上そうなのも良い。こういう構えない友人がいてくれたら、乳母の大切なお嬢様も立ち直れるかもしれない。期待を込めて、乳母は客用寝室に案内した。
「…ローズ嬢は、どうやら評判とはずいぶん違うようね」
クラーラが探りをいれれば、待ってましたとばかりに乳母が反応した。
「ええ、ええ。そうなんでございますよ。お嬢さまは本来気立てのよい、おやさしいお方なんです」
「不名誉な噂ばかりが飛び交って、息苦しそうだわ。お可哀想に」
「ええ、まったくですわ。お嬢様が旦那様に恵まれないのはお嬢様のせいではないというのに。世間様はなんにもわかっておりません」
「本当ね。ねえ、ばあやさん?このお家の方も、そうなのかしら?」
乳母はクラーラを振り返り、うつむいた。小声で返事をする。
「…悲しいことです。以前はこんなじゃなかったんですよ。それが、3番目の旦那様がお亡くなりになって以来、メイドたちもお嬢様を怖がるようになって。お嬢様はなんにも悪いことなんかしておりません」
「多くの殿方を惑わせている、嫉妬もあるのでしょうね」
「喪を示す黒を着ているお嬢様に手を出す男どもが悪いんですよ」
実家であるにもかかわらず、メイドたちまでローズに悪感情を抱いているのは、彼女の命令に従う者が乳母以外にいないという事実からも窺える。たしかに彼女は乳母に言ったが、それでも何人かは自分で判断して動くものだ。使用人の躾はすなわちその家の評判に直結する。使用人たちの心は子爵家から離れてしまっているのだろう。いくら突然の来客とはいえ対応してみせるのが使用人である。
そして、ローズについての悪い噂も確認できた。夜毎に男が通っている、という、貴族令嬢として大変不名誉なそれだ。乳母は否定しなかった。防ぐことのできない現状に、罪悪感があるのだろう。
問題は、ローズだ。夫に先立たれた未亡人が生活の為に体を売るのは、ある意味仕方のないことである。この国で女性が職を得るのは難しいし、借金や養わなければならない家族がいるのならそういう方法しか残っていないのも事実だからだ。そもそも貴族夫人の中には、暇と金にあかせて若い男にそういった手ほどきをすることに喜びを見出す者もいる。男女問わず、初物食いは娯楽のひとつなのだ。
だが、ローズは違う。彼女は喪に服すことを示す黒を着て、男を拒んでいる。子爵家の現状を誰よりも重く理解しているがゆえに、拒みきれないのだろう。割り切って楽しんでいるのなら、黒など着ずにもっと豪華なドレスと宝石を身に着け、自分の価値を見せびらかすはずだ。着飾ったローズを見て、男は勝手に値を吊り上げる。
男に絶望し自分に価値など見いだせないローズにとって、レオンハルトの求愛は困ったものでしかないのだろう。
「厄介ねぇ」
乳母を下がらせたクラーラは窓から空を見上げた。月は出ていなかった。
翌朝、クラーラはさっそくローズと面会した。
「おわかりのことと思いますが、レオンハルト・ゲードの依頼よ。これを受注していいのかしら?」
「それは……」
「ご存知ないかもしれませんけれど、クラーラの店はご本人に合わせてドレスを仕立てます。来てくださらないというのでこちらから罷り越しました」
ローズの表情は昨夜とは一変しまったくの無であった。クラーラが来るのはレオンハルトの依頼以外に考えられない。言い出したのは自分だが、受けるわけにはいかなかった。
「…無粋な方ですこと。贈り物は箱を開ける瞬間が一番楽しいものではありませんこと?それを、事前に教えてしまうなんて」
ローズはあえて呆れかえってみせた。クラーラは動じた様子もない。
「そうねぇ。でも、できあがっていく過程をわくわくしながら見るのも楽しいものでしてよ?」
「あいにくと、わたくしそういう時期は過ぎましたの」
少女の頃のように、生地やカタログを見ながら家族とあれこれ選んだのは、遠い過去だ。
「男なんて退屈なだけ。ドレスも宝石も、一時の慰めにしかなりません。ゲード様にお伝えくださる?わたくし、押しつけがましい方は嫌いですわ」
「それはご自分でどうぞ」
クラーラは微笑んで、言った。
「言えるのならね」
「…………っ」
「昨夜の夜会でずいぶんゲードさんとやりあっていたわね?」
「見ていらしたの…?」
「ええ。みんなが見ていたわ」
ローズは唇を噛む。あの場で取り巻いていた男たちも、こそこそと噂ばかりしていた者たちも、そしてクラーラも、全員がローズと踊るレオンハルトを見ていた。今頃は社交で噂になっているだろう。それは、ローズがもっとも恐れていたことだった。
レオンハルト・ゲードの名を、ローズはずっと以前から知っていた。3人の夫たちの口から変わり者の男爵がいると、冗談交じりに教えられていたのだ。
男爵でありながら、貴族としての生活を嫌い、自ら勉学の世界に飛び込んでいった男。年頃の娘に目もくれず、数字ばかりを追いかけている独身主義の変態。貴族はまず家の存続のため早くから結婚相手を探す。未成年で家督を継ぐ前ならともかく、爵位につけば周囲がうるさく結婚を勧めるものだ。男爵という、ちょっと頑張れば手の届く位置にいる貴族なら、たとえ貴族ではなくともそれなりの家が婚姻を望む。レオンハルトの元には多くの縁談が舞い込んだ。そして彼は片っ端から断っていた。
結婚しない男。そんな彼がはじめて自ら求めた女がローズ・ベルだと、社交界で広がってしまえば、彼はますます肩身の狭い思いをする。ローズはレオンハルトにだけは、貴族の醜さに染まって欲しくなかった。
「あの方は…男に囲まれて身動きのとれないわたくしを、助けてくださっただけですわ。そんな、噂など…」
「そうね。喪服の薔薇がどんなものか、見てみたかっただけかもしれないわよね」
ローズのごまかしに、クラーラは乗ってきた。ズキン、と鋭い痛みが胸を刺し、ローズは息を詰め、それでも言葉を紡いだ。
「そうですわ。それに、お話といえば数字のことばかり。あんな、つまらない話しかできないような方を、わたくしが相手にするとでも…?」
「あら、彼、けっこう人気があるみたいでしてよ?貴族にしては身持ちが固くてらっしゃるし、数字に強ければ家計も安心して任せられる。少し歳がいってるけど、優良物件よねぇ」
ローズなどいなくとも、いや、ローズさえいなくなれば、お節介なものたちがレオンハルトの結婚を世話してくれるだろう。女に興味がないわけでも、そういう性癖でもないとわかれば誰かが必ず強く推してくる。断れない筋からの話であれば、レオンハルトも根負けする。ローズは信じられない思いで目を固く閉じた。
「ローズ・ベル」
クラーラが呼んだ。ローズは目を閉じたまま、彼から離れろと言われるのを待つ。だが、かすかなため息が聞こえ、クラーラがふっと笑うのを感じた。
「アタシがここに来たのはね、ローズ。あなたがレオンハルト・ゲードに恋をしていると思ったからよ」
ローズは目を開けた。
「クラーラは女性の味方よ。あなたの恋を応援するわ」
「わたくしは…いけません。あの方のご迷惑になるわけには、いかないのです」
「迷惑かどうかなんて、あなたの決めることじゃあなくってよ」
「いいえ…。いいえ!わたくしは夫を殺すのです。わたくしと一緒になれば、あの方も死んでしまう…!」
ローズは激昂した。幸福な時間は一瞬で終わり、夢半ばで倒れるレオンハルトが見えるのだ。彼に、不幸な道を歩ませるわけにはいかない。
涙で視界が滲んだ。彼に愛されず、たとえ憎まれたとしても、ローズは彼の想いを拒絶するしかないのだ。
「わたくしはもう死んでいるのです。墓に入った女が、どうして結婚できましょう?お帰り下さい」
クラーラは黙って従った。
ローズはしばらくそのままでいたが、やがて嗚咽を漏らし、両手で顔を覆った。
大学構内は静かだった。赤レンガ造りの建物に広い庭が冬の遠い空に輝き、葉の落ちた木々は季節の終わりを惜しむかのように寒々しい風を素通りさせている。
「あれは手強いわ。いつものお嬢さまたちとは一味も二味も違うわね」
「クラーラさん、余計なことをしないでくれ」
「あら、ローズの気持ちが確認できたのよ?感謝して欲しいくらいだわ」
クラーラはテーラー仕立ての上着に細身のスカート、色は控えめな緑で抑えてある。大学という最高学府への敬意だろう。それでもクラーラが来た時は学生たちもざわめいた。
「クラーラの店とはそんなお節介までするのか」
「まあね。アタシのドレスを着たお嬢さんが不幸になるのは許せないのよ。ま、これも職人のプライドだと思ってちょうだいな」
はーっと大きなため息を吐くと、レオンハルトはマホガニーの執務机から葉巻を取り出した。先をナイフで削り、マッチで火をつける。吸い込んで、吐く。白い煙が視界を遮った。
「彼女が手強いのは承知の上だ。だからこそ好きになった。結婚したいと思ったんだ」
「あら、熱烈ねぇ」
「熱烈にもなる。…自分が生涯かけて追い求めている数式に出会ったような気分だよ」
「残念ながらその気持ちはアタシにはわからないわ。でも、本気なのね」
「もちろん、本気だ」
だが、レオンハルトのローズは彼に応えることができないという。金も地位も名誉も、ローズは求めない。八方塞がりだった。
「…墓に入った、か。彼女は本当は、最初の夫を愛していたんだろう」
「ひとつの愛が終わろうと、次の愛に飛び立つのが女ですわよ」
「それが本当なら男には絶望しかないな」
「ええ。だから女は強くなるの」
しばらく二人は黙り込んでいた。
やがてクラーラが口を開いた。
「死と乙女、絵画などでは人気のテーマですわね。悲劇は悲劇であるからこそよりうつくしく演出される」
「現実はいっそう残酷だ」
「レオンハルト」
執務机に手をつき、クラーラがレオンハルトの赤茶色の瞳を覗き込んだ。
「あなたは愛を知っていて?何もかもを焼き尽くし、滅ぼしてしまうような。誰も幸せにならないような愛に身を焦がす覚悟がおあり?」
「ローズが望んでいるのはそれだと?」
「さあ?そんなことアタシが知るわけがない。でもね、あなたのお得意の数学では紐解けない、それが、愛よ」
言うだけ言って、クラーラはレオンハルトの教授室を出て行った。
扉を潜る寸前、振り返ったクラーラが、
「荒療治が必要なのは薔薇ではなく獅子のようね」
意味深に笑ってそう言い残した。
レオンハルト・ゲードはベル子爵家に馬車を走らせていた。
彼は苛ついていた。クラーラに言われたこともそうだが、なによりもローズの存在が彼の心に魚の骨のように引っかかって取れずにいる。彼は、それを恋だと思った。心の中に棲む、大切な女性。それこそが恋だと。
しかし、愛とはなんなのだろう?結婚を申し込めば、恋が愛へと変化するのか。それはどういう公式を当て嵌めれば解けるのか。レオンハルトにはわからないままだ。
「まあ、ゲード様。いきなりどうなさいましたの?」
ローズ・ベルはいつものとりすました顔で彼を出迎えた。レオンハルトの苛立ちがピークに達する。
「あなたに結婚を申し込んだ件について、お伺いしました」
ローズは見るからに緊張し、細い手が拳を握るのが目の端に映る。
「…ようやくお諦めになった?」
「はい」
はっきりと肯定すると、ローズは傷ついた、という顔をした。なぜそんな顔をするのだ。遠回しに断っておいてそんな顔をするなど、卑怯ではないか。レオンハルトは彼女をさらに追い詰めようと言葉を続ける。
「色々な人から話を聞いて、私も考えを改めたのです。あなたの不幸に私が巻き込まれることはないな、と」
「それは…賢明なご判断ですわ。良い友人をお持ちですのね」
「まったくです。散々恋をしろと人を唆しておいて、いざ恋をしてみればやめろと言う。――ああ、最終判断を下したのは私です、こんな思いに囚われているくらいなら、数式のことを考えている方がよほど有益だ」
「あなたに本当の恋がおわかりになるのかしらね?」
「もしその時が来たら、まっさきに紹介しますよ」
「光栄ですわ。でも、わたくしに関わるのは嫌がられるのではないかしら」
レオンハルトはソファに座り、向かいのソファにいるローズを睨みつける。ほら、それだ。その顔が気に食わない。まるでこの世の不幸はすべて自分のものだと言いたげな顔。
ローズは全身でレオンハルトを見つめていた。かすかに震える指先、強く握りしめて白くなった手の甲、固く緊張した肩、黒いヴェールの向こうで潤んでいる紺碧の瞳、湿り気を帯びて熱い吐息。何もかもが失恋の痛みを訴えている。それなのに、なぜ。
「……あなたは、」
低く唸るような声が出た。代わりに嘲るような笑みが浮かぶ。
「まるで、不幸を愛しているようですね。愛するものを独り占めしたい、偏執的な女そのものだ」
「なんですって……?」
「違いますか。自分の元に不幸を集めて自慢したい。そうでしょう?」
ローズは信じられない思いでレオンハルトを見つめた。彼はひどく傷つき、怒っている。酷い言葉を投げつけられているのはこちらなのに、彼はそれを否定してほしくてたまらないかのように叫んだ。
「ふざけるな。不幸なんて誰だって味わっている。自分が不幸になれば私が幸福になれるとでも思っているのか!」
「ゲード様……レオンハルト様!」
レオンハルト・ゲードの生まれは不幸だった。彼が家督を継いだのは5歳の時。母は彼と引き換えに命を落とし、男手ひとつで育てた父はある朝冷たくなっていた。後見人の叔父は良い人であったが彼の財産を守ることばかりに苦心し、心は育ててくれなかった。
そんな彼が寄宿学校で出会ったのが数学だった。式さえあればどんなものでも答えの見いだせる、単純明快な爽快感にレオンハルトは夢中になる。数学は彼をひとりにしなかった。仲間ができ、彼の世界は広がった。
反対に、恋は彼に冷たかった。叔父をはじめとする親戚に勧められるまま貴族令嬢とつきあってみても、数学ほどの情熱は見いだせず、最後には振られて終わった。内心で安堵している自分に気づき、レオンハルトはあきらめた。自分はこういう人間なのだ。数学に囚われ、答えを見出せる物事しか理解できない。孤独を実感するのが恐ろしく、彼はますます数学にのめりこんでいった。
もしかしたら、ローズに惹かれたのは彼女につきまとう死の匂いに誘われたからかもしれない。ローズはレオンハルトの憧れであり、崇拝にも似た感情を抱くはじめての女性であった。それは、母に対する憧憬にも似て、触れるのが恐ろしく、しかし強烈な衝動でもってレオンハルトを苛んだ。
たまらず、ローズは彼に駆け寄ると頭を抱きしめた。濃茶の髪に指を埋める。
「レオンハルト、どうかわたくしを許して。わたくしはもう墓に入った女。3人の夫と共に、土に埋められているのです」
「私と共に死のうと言ってください。そのためだったら何でもできる」
「墓暴きは悪魔の所業ですわ。わたくしに触れれば、穢れましょう。あなたを守りたいの」
3人の夫も、それ以降にローズに触れた男たちも、社交界で何と言われているか。ローズが知らないはずがない。そこにレオンハルトの名を刻むわけにはいかないのだ。
レオンハルトの手が、そっとローズの背を撫でた。触れるなと言いながらこうして抱きしめてくる、ローズの矛盾がいとおしくてならなかった。
「ローズ、あなたを愛しています」
背から腕、腕から肩、肩から頬を撫でてもローズは拒まなかった。黒い壁の向こうで揺れる紺碧を見つめ、レオンハルトは顔を近づける。
ローズは、拒まなかった。
やわらかなコットン。
繊細なオーガンジー。
艶やかな綿サテン。
かわいらしいレース。
華やかなリボン。
「ふさわしいのは、どれかしらね?」
クラーラは依頼に取り掛かっていた。ローズ・ベルのためのドレス。シンプルで、それでいて華があり、誰もが幸福に目を細める。彼女にふさわしいのは、まさにそんなドレスだ。
レオンハルトとローズの驚く顔が目に浮かぶ。クラーラはひとり、くすくすと笑った。
「まったく、どなたも素直じゃないんだから」
レオンハルト・ゲードは多忙な日々を送っていた。愛するローズと結婚するため、彼はあらゆる手を打った。
まず、男爵位を返上する。これは親役である伯爵家に認められなければならないので、すぐにとはいかない。貴族が平民に降るにはそれなりの理由がいる。男爵位に付随する年金その他の始末もあった。あいにく役所は24時間営業ではなく、役人というのはとかく融通がきかない。時間が必要となる。
次に屋敷の売却。これには家財道具も含まれる。先祖代々の品を手放すのは惜しいが、付加価値を求める新興成金が喉から手が出るほど欲しいのはまさに歴史と伝統だ。こちらは予約がついた。
そして親戚の説得。これがもっとも難航した。「あの」ローズ・ベルと結婚したいから爵位を手放し屋敷を売るなど、反対するに決まっている。特にレオンハルトの後見人であった叔父は大反対し、なんとしても認めないと言い切った。絶縁覚悟ではあったが、叔父の気持ちを思えば当然のことである。レオンハルトは叔父の元に足繁く通い、いかにローズが素晴らしい女性であるか、自分が必要としているか、説得した。
しかしもっとも難しかったのは、ローズの父、ベル子爵だった。彼はレオンハルトとの面会を拒否し、ついでにローズと会うことも禁止した。門は固く閉ざされ、手紙さえも届かず、レオンハルトは屋敷の外からローズの姿を探した。ローズは窓際に立って彼の姿を求め、レオンハルトを見つけると何度も手を振った。レオンハルトはせめてと薔薇にタイを結んで高くそびえる塀の向こうに飛ばした。乳母が拾って届けてくれるだろう。
レオンハルトのクローゼットからタイが消える頃、クラーラから連絡があった。
「はぁい。レオンちゃん。ずいぶん苦戦しているらしいわねぇ?」
開口一番実に軽い口調でからかわれ、レオンハルトはむっとした。
「そんなことを言うためにわざわざ呼んだのか」
「まさかぁ。ご依頼のドレスが出来上がったのよ」
レオンハルトは眉を顰めた。あれ以来、クラーラは何も言ってこず、依頼は宙に浮いたままのはずだ。ローズが店に行ったという話も聞かない。
クラーラはレオンハルトに椅子を勧め、紅茶を淹れた。
「…レオンちゃん、ベル家の内情は知っていて?」
「莫大な借金がある、ということくらいは」
「そうね。そういう噂ね。では、ローズが何番目の子供かはご存知?」
「……?」
カップに伸びた手が止まる。レオンハルトの知る限り、ローズに兄弟も姉妹もいないはずだ。
「9番目なんですって」
「どういう……」
言いかけて、止まる。9番目の子しか子爵家にいない、という事実から導かれる答えは。
クラーラはうなずいた。
「…そう。流産と死産を繰り返し、やっと生まれてもすぐに死んでしまう。そんな中、唯一大人になれたのがローズなのよ」
珍しい話ではなかった。医療技術が発展してきているとはいえ、未だに出産は命がけである。レオンハルトも出産の際の産褥で母が死んでいる。
「ご両親は、とくにお母様はどれだけ苦しんだのでしょうね。子爵はなにも贅沢で散財を繰り返していたわけではなかったの。ドレスや宝石、絵画に演劇など、さまざまなもので妻の心を慰めようとした」
貴族の夫人となったからには跡継ぎを産むことが当然のこととみなされる。産めない女は実家に返され、不名誉な烙印を押されたまま生涯を過ごすこともあった。だが、子爵は妻を手放さなかった。
「愛情深い家系なのね。もう無理かと思われた時、生まれたのがローズよ」
「…知りませんでした」
子爵は娘を売り飛ばした悪徳な女衒扱いだ。嫌がる娘を3回も結婚させ、その後も娘の寝室に男を送り込む。金に狂った男だというのがもっぱらの噂である。
「問題なのは、彼女のお姉さんの名前もローズだった、ということなの」
「え?」
レオンハルトは紅茶に落としていた目をあげた。
「そしてここからは秘密なのだけれど…姉の死亡届と、あの子の出生証明書が、出されていないのよ」
「な……っ」
レオンハルトは腰を浮かし、しかしありえないと座り直した。首を振る。
「だって、彼女は結婚している。そんな、それじゃ…」
「子爵の苦肉の策ね。産まれていないから、死にもしない。神様を騙そうとしたのよ。死んでいった3人の夫たちは、姉のローズと結婚したことになっているわ」
悪魔にも祈るような気持ちだったのだろう――貴族でありながら出生証明書を出さないという事は、庶子、つまりいない子供ということになる。ローズには子爵家にまつわる何の権利も持たないのだ。あえてそれをした、ということに、子爵の苦悩が窺える。今度こそ、この子こそは、この子だけでも、生き延びて欲しい。痛切に訴える声が聞こえる。
「子爵夫人は、今のローズの不幸はその罰だと、神経衰弱して倒れているそうよ」
「子爵は、何をしているんですか?父親でしょう…!」
「そうよ。娘をもっとも愛するのは父親よ。同じ女を愛する男として、あなたと同じことをしているわ」
は、とレオンハルトの口からかすれた息が漏れた。
「私財をかき集めて借金の返済。子爵位の返上とローズ・ベルの死亡届。そして愛する薔薇を実在にするために、あちこち奔走しているわ」
もはや駄目かと思っていた時に授かった、大切な命だった。死なせないために生まれたことを秘匿し、死んでしまった娘を身代わりにした。
幻の薔薇。いくつもの命を土台に咲き誇る。誰もが彼女を求め、手折ろうとした。しかし伸ばした先にいたのは枯れた薔薇であり、触れた男たちは散っていった。
「…どうして、そんなことを知っているんです?」
レオンハルトはもはや力なく背もたれに寄りかかっている。あまりにも非現実的すぎて頭がついていけなかった。
「依頼人から聞いたのよ。新しく生まれた子供のベビードレスを作ってくれとね。やっと生まれてくれた子供だから、何者からも守るよう、獅子にあずけることにしたそうよ」
馬車の音が近づき、店の前で止まる。
ちりりん。
場違いなほど涼やかなベルが鳴り、くたびれて枯れ果てた老人が扉を開けて入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「…ドレスが、できたと」
「ええ。最高のドレスに仕立てたと自負しておりますわ。さ、どうぞ」
老人はレオンハルトを見つけると目を潤ませ、帽子をとった。
レオンハルトは立ち上がり、胸に手を添える。
「レオンハルト・ゲードです」
「デヴィルモン・ベルだ。さっそくだが、娘が生まれてね。ぜひ、君にも祝福してもらいたい」
「…はい。義父上」
ベル子爵は首を振った。
「私は、あの子の父ではない。此度の件で伯爵様に叱責され、責任を取るために領地に戻ることになったのだ。娘は伯爵様の知り合いの、養子になることが決まった。…もう、父ではないんだ」
子爵は繰り返し父ではないと言った。自分に言い聞かせているかのように。
戸籍の改竄は重罪である。国民の規範となるべき貴族がそれを犯せば、国民はこぞってそれに倣うようになるだろう。特に地方の農民は、子が生まれても戸籍を登録せず、税逃れをしようとする。
国に限らずどこの家庭でも、予算というものが存在する。家庭であれば年間、月間、週間にわけて予算を決め、なるべく赤字にならないようにやりくりし、予期せぬ事故や災害などのための保険や、子供の養育費などを預金しておく。だが、それはあくまでも家庭で成立する予算配分だ。
国は家庭とは違い、不測の事態にそなえてもどこかで必ず足りなくなる。農村で日照りや虫害が発生すればその補填をしなければならないし、川が溢れれば整備しなければならない。それらは国民のためだからまだ良いが、毎晩のように開かれる王宮での晩餐、王家の――王妃のドレスと宝石、王子と王女の予算など、王家や貴族が消費した金額が予算を上回れば、当然のことながらつけは国民にやってくる。国家予算は、税金なのだから。
税率は同じだが、徴収は貴族によって違う。だが、たいていの領主は搾り取れるところから搾り取るのが普通だった。農家であれば子が生まれれば労働力とみなされて税が加算される。王家が追加で税を徴収すれば領主の貴族が支払い、請求を与力の貴族にする。与力はその下の役人から徴収し、役人は最下層となる一般庶民から搾り取る。もちろんそこには手数料が含まれ、結果として農民は食うや食わずの日々を余儀なくされるのだ。そこに家族の病気や怪我などで労働力が減れば、さらに貧しさは加速する。なるべく税を軽くしたい農民は、子が生まれても戸籍を作らず、孤児院や教会に捨ててしまう。もちろん役人が目を光らせているが、ならばと子供を間引いてしまう者も現れるだろう。負のスパイラルだ。
そこに貴族が戸籍を改竄したと発表されれば、領民の税逃れに正統性を与えることになってしまう。ベル子爵の親役である伯爵家がなんとかしようと重い腰をあげるのも、無理なからぬことであった。
加えて子爵本人の帰還命令は、死を命じられるよりきつい。贅の限りを尽くし、搾取し続けた領主を民は心底怨んでいる。領主の役目はなによりもまず、民を守ることなのである。子爵領がどうなっているかは現地へ行かないとわからないが、少なくとも今のこの国の状況で良いとは思えなかった。農村では労働力である若者が王都に流出し、農地は荒れて閑散としている。王都へ行ってもなんのつてもないのではろくな職につけず、仕送りもできない。守ってくれない主を守る民などどこにもいない。立て直すのは、並大抵の努力ではきかない。
「取り潰したんじゃ苦労をしょい込むことになるからね。伯爵も上手いことやるわ」
子爵家取り潰しの場合、領地は親である伯爵家に吸収される。わざわざ再興費用のかかる土地を欲しがる貴族はいないだろう。
「いや、あの子を引き取ってくれただけありがたい」
「ローズは、…どうなるのです」
レオンハルトは呆然と呟いた。いないものにされた彼の愛するローズは、子爵の手を離れ、どこに行かされるのか。伯爵本人でないだけましだが、養子先によってはもはや手の届かぬ人になるかもしれない。
「養子と言ったが、正確には猶子だ。相続や身分は与えられない、一時預かりとなる」
猶子は養子よりも立場が弱い、一時的なものだ。たとえばどこかの貴族に見初められた庶民の娘が、結婚するための身分を得るためにどこかの家の猶子となり、そこから嫁ぐ。男であればあえて猶子として預かり、都合が悪くなれば他家にまた養子になったりもする。人質より上だが、養子よりも下、という、なんとも曖昧で不安定な立場だった。
「伯爵夫人がたいそう同情してくれて、伯爵家のお抱えである医者のところだ。そちらが責任を持って、嫁に出してくれる」
子爵はレオンハルトをまっすぐに見つめると、ゆっくりと頭を下げた。
「ろくな持参金も持たせてやれない、生まれたばかりの子だ。どうか、…どうか、あの子を頼む」
「子爵」
クラーラが包装されリボンで飾られた、ドレスの入った箱を持って来た。
「どうぞ」
「ああ…ありがとう」
「お支払いは分割という事で、よろしいですね?」
「ああ。感謝する」
「子爵、私が」
レオンハルトに皆まで言わせず、子爵は寂しく笑った。
「いや、あの子にしてやれるのは、これが最初で最後なのだ。私に見栄を張らせてくれ」
「……はい」
正真正銘、ローズに贈る、最初で最後のドレス。今まで彼女に贈られたすべてのものは、泉下にいるローズのためのものだった。
子爵の屋敷は閑散としていた。主が領地に帰り、戻る予定もないため、売却されたのだ。使用人たちも暇を与え、この広い屋敷にいるのは子爵と夫人、そして、生まれたばかりのローズだけだった。
「レオンハルト様」
ローズは泣きはらした顔でレオンハルトを出迎えた。
黒ではなく、青のドレス。若い頃のものだろう、ずいぶんと古く、流行遅れだった。
「ローズ」
子爵は妻にドレスの箱を渡すと、妻は娘を促して隣室へと入っていった。
レオンハルトと子爵がふたりきりになる。
しばらくどちらも無言だった。
「…何度やっても慣れんな」
やがて、子爵が自嘲気味に呟いた。
「娘を嫁に出すのは、何度やってもせつないものだ」
レオンハルトは緊張を解き、薄く笑った。
「男親は婿を憎むと聞きますが、あなたもですか」
「もちろんだ。かわいい娘だ。あの子が産まれた時の感動は忘れられんよ。どんなことがあっても守る、命に代えても生かすと決めた」
「誓いは私が引き継ぎましょう」
「…やはり、癪だ」
レオンハルトは葉巻を取り出すと、子爵に勧めた。
「おひとつ、どうぞ」
「すまんな」
「いえ。…煙が目に染みた、ということにしておきます」
「小癪な男だ」
子爵の咥えた葉巻に火をつけて、マッチを振って消す。燐の燃える臭いが紫煙に混ざり、室内を満たしていった。老いた父親の目の端に光るものを見つけ、レオンハルトは見ないふりをした。
「1+1が、どうして2になるのか、ご存知ですか」
レオンハルトが言った。いや、と考えることもせずに子爵が答えた。
「そういうものだと思っていたが、違うのか」
「1が何であるのか、説明するのが難しいのです。たとえば私が1で、あなたも1だとする。私とあなたを足して、2になりますか」
「…私と君をどうやって足すのだ?私は私で、君は君だ」
「そうです。1が何に属する1なのか。本当にそれは1であるのか。1であることをまず証明しなければならない。非常に難問です」
「数学者はいつもそんなことを考えているのか」
「まさか。そんな疲れることなんかしませんよ」
理解できないというように首を振る子爵に、レオンハルトは笑う。数学はわかりやすいが、躓きやすい。子供の頃に苦手とすると、大人になっても苦手意識を抱く。何の役に立つのかさっぱりわからないくせに、数学がなければ何もはじまらないのだ。
「さあ、ローズ」
母がドアを開け、手を引かれてローズがやってきた。子爵がさっと葉巻を灰皿に押し付ける。
「ローズ」
子爵が感極まったような声で娘を呼んだ。
ローズは純白をまとっていた。全身を覆うコットンのやわらかなドレスに、薄いオーガンジーのケープがふわりと重なって透けている。どこも締め付けず、それでいて赤子のものを大人が着ているような滑稽さはなかった。中央に細いリボンがつき、そこから線を引くようにレースが伸びている。ケープにはちいさな刺繍があちこちに散らばっていた。化粧も施さぬ顔は涙に濡れている。
「お父様」
子爵は首を振った。私は、もう、父ではない。言おうとして喉を詰まらせる。
手を伸ばし、いとおしそうに頬を包み、肩を撫で、腕を撫でると、また頬を包んで娘の顔をじっと見つめた。
そして、言った。
「元気な、良い子だ」
その言葉に万感が籠っていた。わっと夫人が泣きだす。子爵はローズの手を引いてレオンハルトに預けた。
レオンハルトはローズの手を取ると、二人に向き直った。
「お父様、お母様、今まで育ててくださりありがとうございました」
「妻を生んでくださってありがとうございます」
揃って頭を下げた。
ローズは首で留めていたケープを外すと、頭に乗せた。留め具の飾りはそのままティアラになり、ヴェールになった。たちまちベビードレスがウエディングドレスに変化する。
「ローズ、私のうつくしいゼロ。あなたは今、1になった」
「また数学のお話?」
「そうとも。君と一緒に数えていこう」
レオンハルトは微笑んだ。ローズも微笑みを返す。二人は手を組んで、はじめの一歩を踏み出した。