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ローズ・ベルの難題

いつも感想、評価ありがとうございます!励みになります!

誤字脱字報告も毎回頭を抱えつつ訂正しています。どうしてなくならないのか謎。


訂正「壁の花」→「壁の染み」男女で表現が違うそうです。知らなかった。


 クラーラの店でわたくしのためにドレスを仕立ててください。それができたらあなたのもとに嫁ぎます。




 その男がクラーラの店に来た時、彼は思い切り不審だった。

 身なりはスーツにシルクハット、皮の靴、杖と紳士なのだが、顔をごまかすためだろう大きな眼鏡と、鼻から下を覆うマスクがもう不審者丸出しだ。店内でおしゃべりに興じていた少女たちが、窓から見える男に恐れ慄くのも無理はなかった。

 小さな飾り窓から何度もこちらを覗き、店に入るでもなく行ったり来たりとうろつき、また窓から覗く。男の客にはよくある反応だと放っておいたクラーラも、しだいに笑っていられなくなった。


「…あなた、店に入るの?入らないの?」


 ちりりん、とベルが鳴り、いきなり出てきたクラーラに、男は失礼なほど大げさに肩を揺らして驚いた。


「うわっ」

「失礼ねぇ。さっきからうろうろと。営業妨害ならよそへ行ってちょうだい」

「ち、違う。クラーラの店、というのはこちらか」

「看板に書いてあるでしょ。お客が怖がるから、うろつくのはやめてね」


 少しドアを大きめに開け、男を胡乱げに見て身を竦めている少女たちに、はじめて気づいたのか男は慌てて帽子を取った。


「これは、失礼した。その、どうもこういう店にははじめて来るもので」

「…まぁ男の人は二の足を踏むわよね。いらっしゃいませクラーラの店へ。さ、どうぞ」

「ありがとう」


 男はクラーラにうながされてようやく店内に入ると、警戒している少女たちに丁寧に頭を下げた。


「怖がらせて申し訳ない。慣れないもので」


 少女たちはどうやら貴族令嬢を狙った賊でも、誰かのストーカーでもないと知り、ホッとして微笑んだ。


「こちらへどうぞ」


 物珍し気に店内を眺め、宝石やドレスの見本に感心していた男は、クラーラの呼びかけに従った。


 男に席を勧め、紅茶を淹れる。

 初見の客には必ずしてもらう顧客名簿への署名を終え、男の身元を確かめたクラーラが口火を切った。


「レオンハルト・ゲードさんね。説明させていただくわ。クラーラの店はお客様ひとりひとりに合わせたドレスやアクセサリーを提供するお店です。そのお方の容姿だけではなく、好みや癖、仕草、すべてを完璧に、完成させる。それがクラーラの店です」

「なるほど。素晴らしいですね」

「ありがとうございます。それで、本日はどのようなものをお求めに?まさかゲードさんご本人用ではないでしょう?」


 このいかにも紳士な青年がオネェ趣味とか、クラーラでも勘弁してもらいたい。

 レオンハルトは、笑って否定した。


「まさか。実は私には求婚している女性がいるのだが、彼女がこちらのドレスを所望したのだ。ここで彼女に似合うドレスを作れば、私と結婚するとね」

「それは……」


 クラーラは腕を組んだ。


 レオンハルト・ゲードは大学で教鞭を執っている数学者だ。現在35歳。濃茶の髪に白いものが混じり、眉間に皺のあるその顔は、苦悩する学者そのものといったところだ。ただ、茶というよりは赤に近い瞳には、ひたむきな情熱さがあり、それが彼に若々しさを添えている。


 クラーラの店でドレスを、と望む女性は多い。しかし、そういう女性はクラーラの店がどういったものか知っている。ドレスを着る本人が店を訪れなければ、たとえ貴族であってもクラーラはドレスを作らない。レオンハルトの相手がそれを知った上で彼に買って来いと言ったのであれば、それは遠回りなお断りだろう。クラーラはそれを教えるべきかどうか迷う。


「あなたにそこまで想われている幸福な女性はどなたかしら?」

「ローズ・ベル嬢だ」


 クラーラは頭を抱えたくなった。


 ローズ・ベルは有名な子爵令嬢だ。

 

 鮮やかなハニーブロンドの髪、夏の青空のような紺碧の瞳、唇はまさに薔薇のように赤く、白い肌はまるで光を帯びているかのよう。ローズが微笑めば城が落ちるとまで言われた絶世の美女である。


 しかし有名なのは彼女の美貌だけではない。ローズは今まで3度、結婚している。そして、その3人の夫と死別しているのだ。


 一度目の夫は事故死だが、他殺説が今でも囁かれている。二度目の夫は流行病で、三度目の夫は落馬が原因で死んでいる。これほど途切れず結婚できているのだから、彼女がどれほど素晴らしい女性であるのかわかるだろう。不幸が付き纏う女性はとかく忌憚されるものだが、それでもローズに惹かれる男性は多い。当然女性からの嫉妬を集め、生まれた仇名が『喪服の薔薇』だ。酷いものだと『死神の薔薇』『呪われた薔薇』というものまであった。


 そして今、ローズに魅せられた四人目の夫候補がクラーラの前にいる。


「ゲードさん、今日のところは帰ってもらえるかしら?先程も言った通り、うちはドレスを着る本人のために作るの。ローズ・ベル嬢を連れてきてもらわないと困るわ」

「わかりました」


 作ることを拒否されたわけではない。レオンハルトはあっさりと引き、立ち上がった。怖がらせた令嬢に改めて詫びることも忘れず、また来ますとクラーラに告げ、背筋を伸ばし、規則正しい足取りで、帰って行った。




 レオンハルト・ゲードがローズ・ベルを見初めたのは、大学の理事に言われてしぶしぶ赴いた、夜会でのことだった。


 レオンハルトは男爵でありながら、その爵位が好きではなかった。もちろん爵位があるからこそ、何不自由なく教育を受け、大学で数学を研究する学者の地位を手に入れることができたと理解している。

 しかし彼はどうしても爵位が必要とは思えなかった。社交界も好きにはなれなかった。そんなことにかまけているくらいなら、数字を追っていたほうがずっと有意義な時間を過ごせる。女性嫌いのレオンハルトを、口の悪い友人たちは『数学に魂を奪われた』と言って笑っていた。


 ローズ・ベルは黒いドレスを着て現れた。黒とは、喪の色である。三人目の夫を亡くし、服喪の2年はとうに終えている。夫ではなく父に伴われ、憂い顔を隠そうともしていなかった。


 ローズが現れると、場がざわめいた。こそこそと囁かれる薔薇にレオンハルトは何事かと顔をあげる。彼と談笑していた友人が物知らずな様子に笑った。


「君の社交嫌いは知っているが、噂くらいは集めておけよ。彼女はローズ・ベル子爵令嬢だ。また実家に戻ったという話は聞いたが、ようやく復活か」

「また?」

「ああ。…彼女の経歴はすごいぞ。三回結婚して三回とも死別している」

「実家に戻された、ということは、子はいないのか」

「だから子爵も必死なのさ」


 ローズの実家である子爵家は、体裁こそ保っているものの今時の貴族にありがちな借金漬けで有名だ。子のいない未亡人は婚家に留まるか実家に戻るか本人の自由だが、婚家を継ぐのは血縁の誰かになる。


夫と死別した彼女には当然相続権がある。婚家の財産を相続した娘を子爵は手元に連れ戻し、喪が明けるや再婚させた。それを繰り返すこと三回、子爵家の借金はなくなるどころか相続分を瞬く間に使い潰し、膨れ上がっているらしい。


「名門はこれだから…」


 レオンハルトは皮肉を唇に刻みながら言った。ベル子爵家といえば代々続く名門である。斜陽の秋を迎えた名門家が潰れるのは寂しい反面、贅の限りを止められない、時勢の読めぬ貴族への嘲笑を含んでいた。


「言ってやるなよ。薔薇が望んだことじゃない」


 夫が次々と死に、実家がその財産を食い潰す。社交界の噂の中には子爵が娘を使って夫を暗殺している、というものまであるのだ。ローズ本人もうんざりしているに違いなかった。


「しかし、そのローズ嬢というのもいい歳だろう?そこまで続くのもすごいな」


 王家と違い、貴族の間で女性の処女性はそこまで重要視されないが、それでも結婚するまで純潔を保つのが男女ともに常識だ。家を守るための結婚で別の血を入れられてはたまらない。再婚は服喪も含めて潔白が証明されていないと難しい。


「見ればわかるさ」


 囁きと黒いドレスが近づき、レオンハルト・ゲードは見た。


 ローズ・ベルは、うつくしかった。

 喪を示す黒のドレスはさぞ悲痛だろうという彼の想像を裏切り、憂いを帯びたその表情はただひたすらに可憐だった。少しも彼女を損なうことはなく、それらはむしろローズを惹きたててすらいた。


 息を飲んだレオンハルトに友人が耳打ちする。


「な?29にしてあの若さだ。……いっそ恐ろしいくらいだよ」


 レオンハルトは返事もできずに立ち尽くしていた。ローズ・ベルのうつくしさ、その物憂げな表情、父親に何事か言われ、応えるために動かした唇、それらに目が吸い寄せられ、自分のすべてが彼女に向かうのを感じた。友人が気づき、肩を叩く。


「レオンハルト、しっかりしろ」

「あ、ああ」


 呆然と友人を振り返ったレオンハルトは、その瞬間心臓が激しく高鳴っていることを自覚した。頬が熱くなる。


「…レオン、まさか」

「…………あんなうつくしい女性ははじめて見た」


 子供の作文のような言葉に、友人はまじまじとレオンハルトを見つめ、大きくため息を吐く。片手で額を抑えると首を振った。


「言っておいてなんだが、レオンハルト、彼女はやめておけ。命を吸われるとまでは言わないが、子爵が数学者との結婚を許すはずがない」

「結婚?……そうか」


 その手があったか。レオンハルトは花に向かう羽虫のように、ローズを目で追いかけた。


 レオンハルトは早速動いた。夜会の翌日には子爵と接触に成功、ローズとの面会が叶っている。数学者というより、男爵という身分に子爵が価値を見出したからだろう。男爵位の収入プラス、学者の名声。貧窮している子爵にとって、稼げる人間との繋がりは悪いものではない。


 ローズはほとんど話さなかった。レオンハルトの語る数学の話を興味なさげな様子で聞き、あいまいに微笑む。あまりの手ごたえのなさにレオンハルトも苦戦する。


 だが、夜会や舞踏会など、レオンハルト自身も苦手なものに誘わないのは彼女の好感をあげたらしい。あの夜会以降降るように舞い込むローズ・ベルへの求婚者の中で、一番有力なのがレオンハルトだった。


「見てください、あの建築を。ガラスの大きさ、強度、鉄筋との組み方。すべてが数字で計算されているのです。目に見えぬ人々の努力の結晶であり、数学の粋により生み出された」

「…………」

「季節による太陽の角度もまた、数学で表すことができます。そうすることにより、我々の生活はより豊かになった。数学ほどうつくしいものはありません。あなたにも知ってもらいたい」

「…………」

「時間でさえ数学によって我々の知るところとなった。すべての物事は、数学によって証明できるのです」


 ここでわずかにローズは顔をあげた。


 王都の植物園。冬を間近に控えたこの季節に咲く花は少なく、木々は色を落とし物悲しい。奥庭の温室は鉄筋ガラス張りで出来ており、レオンハルトはそれを成し遂げた建築士や彼を支えただろう設計士が誇らしかった。何枚もの紙に記された線と数字の組み合わせ。土台の基礎から鉄筋の強度とガラスの厚みまで、すべてが計算しつくされて完成した美がここにはある。レオンハルトはその素晴らしさをローズに知ってもらいたかった。


「すべてが…証明できますか?」

「もちろんです」

「人が死ぬ確率も?」


 レオンハルトは目を丸くし、それから肩を揺らして笑った。ローズはわずかに不快を露わにする。


「人が死ぬ確率なんてわかりきったことです。100%ですよ。生命は、いつか必ず、死を迎えます」


 ローズは虚を突かれた表情になった。

それから自分が子供でもわかる理屈を質問していたことに赤面する。レオンハルトは笑いを止め、目元をやわらかくして彼女に向き直った。


「…人は、いつかは死にます。私も、あなたもです。例外はありません。ただ、早いか、遅いかの違いがあるだけです」

「…では、あなたがいつお亡くなりになるのでしょう」

「考えてみますか?」


 レオンハルトはベンチに座ると、持ち歩いている手帳とペンを取り出した。数字がびっしりと埋まっている。


「今日、私が死ぬ確率です。ここ最近の殺人発生率と、強盗傷害などの事件性のあるもの。突発性の災害が起こる確率。あるいは心臓発作などの突然死。いくらでも可能性がある」


 戸惑うローズをよそに、レオンハルトは真剣に数字を羅列していく。隣に彼女が座り、手元を覗き込んでいることも忘れているようだった。


「私の年齢と、これまでに遭遇した事件などの外的要因…持病はなし……近年の災害は地震と台風くらいです……」

「ゲード様」

「35歳男性の平均寿命と死亡率…ここから換算される数字と…いや運もあるか……」

「ゲード様、もうけっこうです」


 とうとうローズはレオンハルトの肩を揺さぶって意識をこちらに向けた。レオンハルトはすっかり没頭していたらしく、不思議そうにローズを見ている。


「ああ、失礼。どうも数学のことになると」

「いえ、わかりましたわ」

「ローズさん?」

「あなたが、…本気であることはわかりましたわ。熱意も伝わっております」

「…では?」


 ローズは立ち上がると、レオンハルトの前に立った。


「ひとつだけ、条件があります」

「なんでしょう」

「クラーラの店で、わたくしのためにドレスを仕立ててください。それができたら父がどれほど反対しようと、あなたのもとに嫁ぎます」




 レオンハルトはローズ・ベルに恋している。なんなら子爵家の借金を含めて面倒を見てもいいくらいだ。男爵家の収入などたかが知れているが、レオンハルトは贅沢を好まず、身の回りのことと使用人を含めた屋敷の管理くらいしか使うことがない。また数学というのは建築をはじめとする各界から意見を求められる。功績を認められれば、王家からの褒章も期待できた。褒章は年金付きだ。ローズに贅沢だってさせてやれる。


「レオンハルト!聞いたぞ、本当にベル嬢に結婚を申し込んだって!?」


 レオンハルトがクラブで葉巻を燻らせていると、友人が怒鳴りこんできた。レオンハルトは物憂げな目で友人を見上げる。


「――ああ」

「なんだってそんな馬鹿な真似…!いや、結婚相手ができたのなら喜ばしいことだ、だが、ベル嬢だぞ!?」

「なんだ、君、もしかして嫉妬か?」


 友人はレオンハルトをまじまじと見ると、大きなため息を吐いて向かいのソファに座りこんだ。背を丸め、膝に手を乗せて指を組む。


「噂は教えてやったろう。もしかすると殺されるかもしれないんだぞ」

「噂は噂だ。ローズ本人とは関係ない」

「子爵は曲者だ。権威と金にしか興味がない。旧態貴族そのものだ」

「知っている。金に興味がありませんという顔をしておきながら、金の工面に苦心している。今の貴族そのものだな」


 吐き捨てるようにレオンハルトが言った。数字にしか興味のない男の、嫌悪を隠そうともしない珍しい姿に友人が目をあげる。葉巻を深く吸い、ゆるやかに吐く。研究に費やしてきた歳月はレオンハルトの相貌に鋭さを与え、恋がそれに甘やかな感情を教えていた。


「………。本気なんだな」

「もちろんだ」

「ベル嬢の首尾は?」

「条件付きだが、受けてもらえた」


 クラーラの店でドレスを。それを伝えると友人は考え込んだ。

 どう考えても遠回しな断りだが、受けると宣言した以上ローズ・ベルはレオンハルトを憎からず思っているのだろう。むしろクラーラの店という条件をつけることで、子爵を納得させるつもりなのかもしれない。


「店には行ったが、本人を連れてこいと言われた」

「あの店はそれが売りだからな」


 貴族でなくとも恋人や想い人がいれば、クラーラの店については耳に入ってくる。メイドであろうとクラーラの気に入ればドレスを作り、それで恋仲になり結ばれた話は多いのだ。


「で、ベル嬢は?」

「プレゼントの中身をあらかじめ教えるのはマナー違反です、だ」


 クラーラの店を出たその足でレオンハルトはローズの元へ向かった。クラーラの言葉を伝え、同行を求めたレオンハルトへの返事がそれである。友人は先程より深いため息を吐いた。


「難題だな」


 レオンハルトは眉を上げ、唇を吊り上げた。


「燃える」




 ローズ・ベルはこの世に神様はいないと思っている。


 彼女の最初の夫は父の友人の息子で、幼馴染の間柄だった。彼と結婚するのだと思いながら育ち、実際にそうなった。すばらしい結婚式を挙げて彼女は嫁いだ。世界のすべては彼女にやさしく、このまま何不自由なく愛する人と生きていくのだと思っていた。


 だが現実は違った。結婚生活は2年で終わりを告げる。馬車同士の事故、横転した荷台の下敷きになり、最初の夫は死んだ。


 実家と同じく子爵家であった嫁ぎ先は、実家と同じく困窮していた。子はいなかったが義両親と共に喪に服そうとした彼女に現実が襲い掛かった。このままでは屋敷を手放して、ローズも身を売るしかない。そう言われ、彼女は実家に助けを求めた。父も母も、すぐさまローズを婚家から取り戻してくれた。


 幸いなことに夫はまだ爵位を継いでおらず、借金を相続せずにすんだ。彼がローズに贈ったドレスや宝石はそのまま彼女の物になり、せめてそれを売り、金を返すことで、彼女は彼との決別をしたのだった。


 二度目の結婚は喪が明けてすぐだった。今度は父も相手の経済状況を入念に調べ、問題ないと判断した。二番目の夫は裕福な新興成金で、だいぶ年上の男だった。


 彼はやさしかった。彼女の不幸にも理解を示し、ローズはやっと安心した。使用人たちも何かとローズを気づかい、最初の結婚を忘れかけた頃、夫は死んだ。流行病だった。


 子のいない彼女の元に、夫の親戚たちが押し寄せた。莫大な財産を彼女から毟り取ろうと躍起になる彼らに身の危険を覚えたローズは実家に帰る。父はローズの正当な権利を守ってくれた。


 三度目の結婚をするつもりはなかった。ローズはすべてを捨てて修道院に入り、死んでいった夫を弔い生きていくはずだった。だが、三番目の夫は半ば強引に彼女を教会に連れて行き、結婚した。


 情熱的な男だった。男爵家を継いだばかりの彼は愛するローズに苦労させまいとまめまめしく働き、彼女を笑わせようとした。古くからいる使用人たちはローズをよく思っておらず、夫が次々と死ぬ不幸の女と囁いた。喪に服さない女と言われ、そうすることも許されなかったローズから笑顔が消える。夫はますますローズのためにと励んだ。


 彼は自分が妬まれていることを知らなかった。多くの男たちを虜にしてきたローズの夫となり、それを励みにして働く男は貴族らしくないと反感を買い、しかしながら羨望を集める。男ならば絶世の美女に身を焦がしてみたいものなのだ。それを知らない夫はある日ひとりの男と口論になり、落馬して死んだ。落馬というのは表向きで、チキンレースの結果だった。ローズとの一夜を賭けて、三番目の夫は死んだ。


 ローズを絶望させたのは夫の死ではなかった。そのような賭けに乗った、夫にだった。勝っても負けても夫のためにもローズのためにもならない。本当にローズを愛しているのなら、そのような噂にならないよう配慮するものではないのか。レース相手の男は罪悪感から逃れるためにローズを責めた。突然当主に死なれた使用人たちもローズを死神と罵り、追い出されるように彼女は実家に帰った。


 服喪は2年と決められているが、ローズは黒を脱ごうとしなくなった。もうどんな色も、彼女を笑顔にすることはないと思い知らされたのだ。3人の夫に死なれたローズは今までのことを忘れたかのように悲劇の美女にされ、『喪服の薔薇』と呼ばれるようになった。


 そのように言われるようになって、ようやく父もローズを社交界から遠ざけ、静養に出した。一人目はともかく二人目と三人目の夫の財産で彼女は生きていける。本気で修道女になるのならそれもいいだろう。そう思っていた。


 この時は。


 子爵家の経済状況は、父が予想していたよりずっと悪かったのだ。負債は膨れ上がり、子爵はローズの財産――夫たちの遺産で一時賄う。肩の荷が下りた父に悪魔が囁く。娘を使え、と。


 ローズの不幸は音を立てて加速した。父はローズを使って男を操り、彼女に贈られた宝石やドレスを金に換えて借金を支払い、また借金を繰り返すようになったのだ。16で最初の結婚をして29のローズはまったく老いず、むしろ不幸が彼女のうつくしさに磨きをかけた。憂い顔の彼女が見つめれば、どんな男でも魅了された。ローズの元には贈り物が山と積まれ、噂が噂を呼び夜会や晩餐会の招待が引きも切らなくなった。彼女のベッドは瞬く間に満員御礼となった。


「お嬢様、また贈り物ですよ」


 彼女の使用人は、乳母だけが勤めることになった。赤子の頃から知っている老婆以外は信用できなかった。乳母はローズを気づかい、不幸を嘆いた。投げやりになり、笑顔すら浮かべず、人形のように男を迎えなければならないローズのたったひとりの味方だった。


「…そう」


 今もローズは黒のドレスを着て、ぼんやりと薄暗くなっていく空を見ている。

 乳母は何か言おうと口を開きかけ、一度唇を噛み、思い切って声をかけた。


「ゲード様は、なんと…?」


 ぴくり、とわずかにローズの肩が揺れた。


「…なんともないわ。いずれ、諦めるでしょう」


 レオンハルト・ゲード。四人目の求婚者。物好きな死にたがり。ローズの脳裏に様々な言葉が浮かんでは消えていく。どうせ彼も体だけ与えれば満足する。いずれ、そうなる。いずれ、そうなるはずだ。


「お嬢様…」


 乳母の気づかう声が聞こえた。


 ローズはレオンハルトのことをあえて悪く父に伝えていた。男爵位でありながら研究にしか頭にない堅物。嫁いだところで研究費をせびられるのが関の山だと。


 レオンハルトはローズにはまっすぐすぎた。眩しくて直視できないほど、情熱的であった。数学について熱く語る彼は35とは思えぬほど若々しく、ローズは久しぶりに胸に火が灯るのを感じ、慌てて振り払った。どこかでその瞳を見たことがある、と記憶を辿る。


 もう顔も思い出せないほど遠くなった幼馴染、彼と未来を語っていた頃の自分だった。まっすぐで、眩しく、未来は自分のためにあるのだと純粋に信じていられた。ひたむきな情熱をひとつのことに注ぎ、後悔もしない。若さゆえの恐れ知らずの瞳だった。


「大丈夫よ」


 ローズは繰り返す。これは、罰なのだ。あの時夫と死ねばよかったのに、おめおめ生きている、自分への罰。神様はいない。もしも神がこれを見ていたら、夫ではなく自分を死なせているはずだろう。だから、彼女に神はいない。やがて老いさらばえてひとりで死んでいく、わたくしにふさわしい罰だわ。


「ゲード様も、いずれ忘れるわ」


 少年のようなあの方に、愛されたならどれほど幸せだろう。ローズは彼が追う数字が羨ましかった。あれほど情熱的に求められたなら。だがそれは、ローズが望んではならないものだった。


「ローズ!ローズ!」


 どかどかと荒い足音がして、乳母が悲鳴をあげそうな顔になる。首を振ってそれを制し、ローズは姿勢を正した。


「ローズ!」

「お父様、どうなさったの?」

「喜べ、伯爵家から夜会の招待状が届いた!」


 ローズは驚愕と絶望が胸を突く痛みを堪えた。


「まあ。…伯爵様から?」

「あの伯爵もお前の美貌は放っておけんらしいな。ローズ、当日は一番良いドレスを着ろ。いいな」

「わかっていますわ」


 伯爵家の夜会なら、さぞやたくさんの金持ちが集まるのだろう。父の頭にもはや金策しかないことを悲しく思いながら、ローズは同意した。




 今夜は真紅に金の刺繍が施されたドレスにした。胸に詰め物をして膨らみを作り、ウエストの位置を上げて下半身はすらりと流れるままにする。首はレースで覆っているが、胸はわざと開けた。これだけでは冷えるのでカシミアショールを肩から羽織る。


 クラーラが夜会に出るのは宣伝と流行発信のためだ。だが今夜は別の目的があった。


「はぁい。ゲードさん。ごきげんいかが?」


 お目当てのひとりを見つけたクラーラが気楽に挨拶する。レオンハルトはまさかこのような場所で会うとは思わなかったのか、驚愕を隠さずにクラーラを振り返った。


「クラーラさん?こんなところでお会いするとは」

「偵察よ。彼女、来ているんでしょう?」

「はい」


 偵察、という言葉にレオンハルトが眉を寄せる。ローズをクラーラの店に連れて行くことに失敗したレオンハルトは、ドレスの受注を断られると思っていたのだ。


「伯爵様とはご縁があってね。ちょっとベル子爵を釣ってもらったのよ」

「釣る?」

「もちろん、ローズ嬢を見るためよ。どんな子なのか、見極めないとドレスが作れないわ」

「クラーラさん」


 そこにローズの名が呼ばれた。あとでね、と小声で言ってクラーラがすっと離れる。


 ローズ・ベルはレオンハルトの知らない男にエスコートされて現れた。未婚とはいえ未亡人であり、女としては老嬢の部類に入るローズが父にエスコートされるのは年齢的にありえないからである。おそらく彼女の『友人』のひとりなのだろう。脂下がった顔からは優越感が滲み出ている。


 レオンハルトは彼女の爛れた私生活について、頓着しなかった。子爵家のすることではないとは思うが、経済事情を知ればさもありなん、といったところだ。それよりも、何もかも諦めきったローズの怠惰な姿に心が痛んだ。


 ローズが気だるげな仕草でソファに腰掛けると、近くにいた女性たちが波が引くように離れて行った。代わりに蜜に誘われた蜂のように男が群がる。あれこれと話しかけ、酒をすすめたりゲームに誘ったりとローズの周りを飛び交う。レオンハルトはそれを眺めながら、壁の染みになりきっていた。


 ローズは頭上を飛び交う男の声を黙ってやりすごしていた。どうせ男たちは好き勝手に争ったあげくにローズを景品にすることしか考えていないのだ。聞いていようが無視していようが同じこと。そっと扇で口元を隠し、さてどの男の懐が一番温かいのかと計算しようと目を動かし、そこで壁の染みとなっているレオンハルトを見つけた。


「…………っ」


 頬がこわばるのを感じ、咄嗟に扇で隠す。ちらりと見るとレオンハルトはとうにローズを見つけていたらしく、まっすぐに彼女を見ていた。


 そんな目で見ないで。ローズは目をそらした。あの方のあの目に、今の自分はどう映っているのだろう。お人形のように男に操られ、いいようにされる娼婦のような女は。


「ローズ?どうしました?」

「ご気分が悪そうですな。別室を用意させましょう」

「いや、気分転換なら外に行きませんか」


 男たちの声がする。がんじがらめに絡めとられて身動きがとれなかった。ローズは首が折れそうな勢いでうつむいた。レオンハルトの目から逃れるので精一杯だった。


「一曲踊っていただけますか」


 ひときわ鋭い声がして、ローズはハッと顔をあげる。

 顔色一つ変えないレオンハルトが手を差し出していた。


「なんだね、君は」

「彼女は気分が悪いそうだ、ダンスがしたいのなら他をあたりたまえ」

「ああ、ローズに求婚している男爵は君か」

「男爵ふぜいが、彼女に近づくとはね」


 馬鹿にした、不愉快そうな物言いに、ローズは蒼褪め、次に頭に血がのぼっていくのを感じた。レオンハルトのことを何も知らないくせに、偉そうに言わないで。ローズは彼を見た。レオンハルトは手を差し出したまま、待っている。


「…ええ、喜んで」


 ローズは立ち上がるとレオンハルトの手をとった。彼はうっすらと笑い、目元を染める。初々しいレオンハルトにローズの胸は締め付けられた。


「助けてくださったの?」

「いいえ。嫉妬です」


 ぬけぬけと言ってのける。レオンハルトはそのまま中央まで行くと、ローズに向かって礼をした。ローズも礼を返す。音楽はメヌエット。黒いドレスの裾がゆったりと翻る。


「素直な方ですこと」

「仕方がありません」


 くるり、ローズがターンを決める。ローズ・ベルが男と踊っていることに、女性陣はあからさまな嫌悪を、男たちは嫉妬を浮かべていた。


「どうしても正解の見いだせない難題に挑んでいるのです。夢にまで見るほど。大声で喚き散らかさないだけの理性はかろうじて残っていますが」

「まあ」


 やめて。レオンハルト、どうかわたくしを諦めてちょうだい。お願いだから期待させないで。ローズは唇が震えそうになるのを堪えた。


「謎は謎のままにしておいたほうがよろしいのではなくて?」

「そこに謎があれば解きたくなるのが数学者というものですよ」

「分野が違うわ」

「そうです。だからこそ難しい」


 ローズの後ろに回ったレオンハルトが耳元に囁いた。


「愛は」


 一瞬体を固くしたローズをリードして、レオンハルトがステップを踏む。


「たとえば、」


 と、レオンハルトは言葉を続けた。


「磨き抜かれた柱、垂らされたカーテンの影、ソファの位置、シャンデリアが差す光。それらすべてが整っている時、私の頭には数式が浮かびます」


 完璧なものは計算しつくされている。あるべきものがあるべき位置に。クリスタルガラスの反射ですら日光や蝋燭で異なる色を作る。


「ですがあなたは0だ。ゼロ。はじまりでも終わりでもない。ひたすらにゼロ、これをどう解けばいいのでしょう?」

「わたくしにはわかりかねますわ」

「ええ。そうです。ゼロには掛けることも、割ることもできません。足しても引いても同じこと」


 それなのに。


「確実に存在する。ゼロは主張する。わかりますか、この矛盾が。あなたはゼロでありながらそこにいるだけで意味がある」

「ゲード様、わたくし数学の講義は結構です」

「いいえ。あなたは知るべきです」


 ぐっとローズを引きよせ、レオンハルトは彼女の紺碧の瞳を覗き込んで、言った。


「ゼロにどれほど魅せられた男がいるかを」


 笑うレオンハルトにローズは言葉がなかった。感情の渦が彼女を飲み込み、引きずり込まれてしまう。


 互いに礼をして、ダンスは終わった。はやる胸を抑え、男たちの手を掻い潜ってローズは馬車に飛び乗った。逃げなければならない。あの男から、一刻も早く。


 予定よりも早く、ひとりで帰ってきたローズに、出迎えた使用人は意外を隠そうともしなかった。


「お客様がお見えです」

「どなた?悪いけど帰ってもらって」


 コツ、とヒールの音にローズは雷を恐れる子供のように背を震わせた。


「失礼。約束はしていないのだけれど、約束はしていたはずよね?」

「あなたは……」

「ドレスを作りに来たのよ。あなたに似合う、とびっきりのドレスをね。はじめまして、ローズ・ベル。アタシはクラーラよ」


 名刺を差し出す男とも女ともつかないクラーラに、ローズは耐え切れずに意識を失った。



一万字を超えたので切ります。更新は明日7時を予定しています。

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