閑話・クラーラの朝
クラーラの朝は、憂鬱からはじまる。
「あ゛―――………」
鏡に映る自分を直視するからだ。
起きたてでぼさぼさの髪はまだいい。だが否応なしに年齢を自覚させる肌の張り具合や脂ぎった顔がいけなかった。
なにより嫌なのは、睡眠中により伸びた、無精髭である。
「なによこれ、なによこれ!?アタシに相応しいのは髭なんかじゃないっ」
鏡に映った自分を見て、クラーラは大仰に嘆いた。毎朝のことである。が、いつ見ても見慣れることはない。このおっさん、もとい中年男性の寝起き顔。絶望する。
いったいいつの間に、髭のやつは伸びやがるのか。クラーラは真剣に考える。
やつらはいつの間にか、いる。目を凝らして顎の裏まで、剃刀の刃が届きにくい箇所も丁寧に剃っているというのに、ちょっと時間が経つと化粧をしたはずの顎にぽつんと青白いものが見えるのだ。客商売のクラーラにとって、商売相手の少女たちに男を感じさせるのは大変不本意だ。定期的に鏡でチェックするが、そしてその度に引っこ抜いているのだが、未だ駆逐するに至らない。アルコールで脱色もしてみたが、肌が荒れてすぐ断念した。酒は飲むものだ。
噂によると東洋の王宮では、王妃や側室の住まう宮殿に仕える男性はすべて男の象徴を失い、そのせいで髭も生えなくなると聞く。クラーラも検討はしてみたが、ちょっと想像した段階で心がくじけた。そして東洋の男の精神力に脱帽した。そこまでして女に仕えなければならないというのも大変だ。
話が逸れたが、クラーラを悩ませているのは髭だけではない。男にしては細い顔だと自負しているが、喉仏や肩幅、骨格も女性らしい丸みとは正反対だ。首を隠し肩をごまかし体を女物の衣装で包んで、さらには仕草も淑女のそれを倣い、ダンスも女性パートを覚えた。かろうじて女性…?と思わせることに成功している。
しかし、クラーラがもっとも厭わしく思っているのが声である。うっかり気を抜くと「うぉぉっ」とかいう声が出る。その度に反省して「きゃあ」と言えるように練習するのだが、こればっかりは習うより慣れよなのでいかんともしがたかった。クラーラの仮面をかぶって早数年。恐ろしい子…!と言われたことは、残念ながらまだない。
「おはようございます。クラーラ様、朝でございます」
毎朝の儀式のように鏡の前で首をひねっていたクラーラは、メイドの声にハッとした。こほん、と喉の調子を確かめてから返事をする。
「はぁい。入ってちょうだい」
メイドは一拍の間を置いて、入ってきた。
「失礼いたします」
クラーラの下町屋敷にいる使用人は、メイドのレオノーラ・マカン、執事のアーネスト・カイエン、料理人のマシュー・パナメーラだけだ。家を出る時についていくと言い張り、さもなくば殺せと脅してきた、クラーラがもっとも信頼する三人である。
「おはよ。レオノーラ」
「おはようございます。本日はまたさらにすさまじいお顔でございますね」
レオノーラは遠慮がなかった。
もうクラストロではないのだから遠慮するなとクラーラが言ったからだが、それにしても辛辣だ。
「うぐっ。ちょっとぉレオノーラ?レディにそれはないんじゃない?」
「でしたら下町の居酒屋で飲んだくれて帰った途端にベッドにも入らずお休みになるのはお控えになられてください。お酒くさいですわ」
「えっ!?お風呂の用意は!?」
「できています。まずお食事よりも入浴を優先させると思い、支度いたしました」
「さすがレオノーラ!ちょっと行ってくるわ!」
風呂場に駆け込んでいくクラーラを見送って、レオノーラは彼が脱いだ寝間着を拾った。
ゆっくりと入浴し、入念に肌と髪を洗い、汗と脂と体臭(加齢臭)を落としたクラーラは、風呂からあがると髭に取り掛かった。鏡の前で、一本も逃さぬと鬼気迫る勢いである。ここで手を抜くと、後で自分にダメージが来る。真剣そのものだ。
「レオノーラ、髪お願い」
「はい」
部屋に戻るとレオノーラは着替えと髪の準備を整えて待っていた。
この時代、髪を乾かすには布でひたすらに拭き取り、髪を梳き、風を当てるしかない。レオノーラは片手に櫛、片手に髪扇を持って、慣れた手つきで主人の黒髪を乾かし始めた。
「…もう歳かしらね。酒が残るようになってくるなんて」
「自覚があるのなら少しは自粛なさってください。マシューとアーネストがベッドまで運んだんですよ」
「あっちゃー…。ウチ帰ってからの記憶ないわ」
「いくら勝手知ったる王都とはいえ気を抜きすぎです」
「ごめんね、気を付けるわ」
「そうなさってくださいませ。あまり醜態をさらしてお店の評判に関わったらどうしますの。クラーラ様に憧れる少女は多いのですよ」
「アタシに憧れるようなお嬢様は下町の居酒屋になんか行かないわよ」
「油断大敵です。女の噂話を甘く見てはいけませんわ」
「ふふふ、そうね」
「そうですわ」
髪が終われば化粧に取り掛かる。化粧箱を取り出すと、クラーラはうっとりと眺めた。
「…可愛いわぁ。見ているだけでも幸せなのに、これはアタシをうつくしくしてくれるのよ。最高ね」
「本日はどのようになさいますか」
「何か予定入ってたかしら」
「午後からヒュプノ商会との商談が入っています」
ヒュプノ商会は宝石商である。貴族向けの装飾品も取り扱うクラーラの店では重要な取り引き相手だ。
「ヒュプノか。なら少し強気メイクでいきましょう」
「かしこまりました」
クラーラのメイクは少し特殊だ。顔の輪郭をごまかし、眉も細くしてできるだけ男を消す。ファンデーションで肌の透明感を出し、チークで血色を良くし、口紅で艶を出す。特にこだわるのはアイメイクで、睫毛を長く、目元に色気を出すように心がけている。いくらなんでも少女と同じような化粧が似合わない自覚はあった。大人の女性、それも男装の麗人を意識する。
化粧が終われば衣装に入る。朝昼夜といちいち服を着替えていた頃と違い、今のクラーラは好きな服を好きに着ることができた。仕立て屋クラーラの武器はなんといっても特徴的なドレスにある。クラーラ自身が広告塔となり、目立たなければならない。
黒髪にはどの色も合わせやすい。クラーラはドレスの中から濃紺の服を選んだ。襟から胸にかけて朱色の糸で編まれた繊細なレースが重ねられ喉仏を隠し、肩へ滑らかなラインを描いて続く。腕は細く、袖口を膨らませてあった。下半身はバッスル形と呼ばれる、腰は細く、お尻を布で膨らませるスタイルだ。内側にはスカートではなくズボンを穿いた。ズボンは黒。ブーツは黒だが紐を朱にした。濃紺と朱色の反対色を敢えてぶつけることで出来上がる怪しげな上品さがある。クラーラが着れば男とも女ともつかない壮絶な美がそこに体現していた。
髪は複雑な編み込みがいくつも作られ、左前は下ろし、右を後ろに流している。そうすることで毛先のグラデーションが花畑を作った。
「いかがでしょう」
「いいわ。最高よ」
「ありがとうございます」
鏡台から立ち上がったクラーラは、全身が映るほど大きな鏡の前に立ち、ひらりと一回転した。
「うん。なんってうつくしいのかしら!ねえ、レオノーラ、アタシ綺麗?」
「はい」
レオノーラは当然、という顔でうなずいた。クラーラの大きな唇がにんまりと笑みを刻む。
クラーラの朝がはじまった。
おっさん、美女に化ける。こうして書くとクラーラ妖怪か何かに見えてきた…。