【番外】フランソワ・ドゥ・オットー・ジョルジュの後悔
リクエストが多かった、フランソワおじいちゃんの話。
ざまぁですがスッキリはしません。スカッとざまぁを期待される方は読むのをおすすめしません。
「はじめまして。フランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュでございます」
リボンとレースのたっぷりとついた、ピンク色の可愛らしいドレスの裾をちょこんと摘まみ、淑女の礼をとった幼女に大人たちの顔がいっせいに緩んだ。
「まあ、なんて可愛らしい」
「ありがとうございます。王妃さま」
顔を真っ赤にしているフランシーヌに代わって王妃に礼を言ったのはフランシーヌの母だ。
王妃は自分と王の間にいる息子に向かって挨拶を返すよう促す。
「アルベール、あなたも」
「はい。はじめましてフランシーヌ。私はアルベール。この国の王子です」
フランシーヌより3歳年上のアルベールは年上らしくしっかりとした態度だった。王と王妃の後ろにはフランシーヌの祖父であるフランソワ将軍が護衛として控えている。
春の王宮。庭には花々が咲き誇り、テーブルには子供の好みそうな菓子が置かれている。この茶会は王に請われたフランソワが息子と嫁を説得してようやく開催された、実質的なお見合いだった。
「本日はお招きありがとうございます」
「よく来てくれたわ。本当に可愛らしいこと!アルベールにお似合いだわ」
「女の子は可愛いものですわ。王妃様、でしたらぜひ姫様をお産みになってくださいまし。陛下と王妃様の間の姫ならさぞ素晴らしい姫君になるでしょう」
春の庭には穏やかな風が流れ、日差しもやわらかく降り注いでいる。
しかし、フランソワの前ではブリザードが吹き荒れていた。
今の王妃と嫁の会話を意訳すると、
『うちの息子の嫁にしろ』
『だが断る』
であろう。二人とも見た目美女なせいで余計に寒々しく感じる。
息子はといえば、王子が必要以上にフランシーヌに接近しないよう、さりげなく間に割り込んでいる。父親というのは得てして娘に近づく男を嫌うものだが、あれはどうなのだろう。ただ単に嫉妬か、それともジョルジュ家を継ぐ者としての牽制か。フランソワにも判断しきれなかった。
エドゥアール王とフローラ妃が結婚して10年になろうというのに、この国の王家人気は下がる一方だ。理由はいわずもがな、王と王妃の略奪愛のせいだ。
マクラウド・アストライア・クラストロが宮廷から去り、エドゥアールと婚約していた王女への謝罪と賠償も済み、国内が落ち着いたのを見てから二人の結婚式は行われた。誰にも祝福されない結婚式であった。
口ではおめでとうと言うが、誰もがこの茶番に冷めた目をしていた。王女への賠償で国庫は底をつき、結婚式の為の増税が急遽行われたし、ああも堂々と不貞を暴露してくれたせいで風紀が乱れた。さらには王と王妃はこのような事態を招いた責任をとって引退、宰相のクラストロ公爵も結婚式後に引退してマクラウドに家督を譲り、マクラウドは自由を許可する免状を盾に出仕拒否した。前王と王妃はこの数年後に心労が祟ったのか崩御されている。
王位についたエドゥアールは、乱れに乱れた国内を立て直さなければならないということを理解していないのか、マクラウドが許してくれないと嘆くばかりで一向に有効な方策を示さない。今までなら事が大きくなる前にマクラウドが対処してくれたのだ。しかし、もう、彼はいない。
なんとかしたいと焦ったフランソワだが、軍人畑で育って来た彼に国策など思いつくはずもなく、年々すり減っていく国力の回復の一手になればとフランシーヌとアルベール王子との婚約を推した。息子と嫁には大反対されたが、王妃から茶会に誘われていることもあり、そして何かと理由をつけて断るのにも限界が来ていたこともあり、まずは顔合わせと相成ったのだ。
何も知らずに王と王妃、そしてはじめて会う本物の王子様に緊張しているフランシーヌだけが、唯一の救いであるように明るかった。
「王子様、素敵なお方ね」
帰りの馬車の中、フランシーヌがほぅと息を漏らした。うっとりとしたその表情からは、はじめて会う王子が彼女の期待を裏切らなかったことが読み取れる。
「そうね。王子は素敵な方ね」
「そうだな、王子はな」
そこは嘘でもいいから王子「も」と言ってもらいたいものだ。家族しかいない狭い車内だからこそ言える皮肉であるとはわかっているが、フランソワは息子と嫁の容赦のなさに嘆きのため息を漏らした。
「次はいつお会いできるかしら」
「フランシーヌ、王子はお忙しいのですよ。邪魔をしてはいけません」
迂闊に会わせるなんてとんでもない、と母が言えば、思惑など知る由もないフランシーヌは子供っぽくむくれた。
「今度は我が家で茶会を開くか。フランシーヌにも友人が必要だろう」
男などではなく女で周囲を固めよう。同時に貴族との繋がりを強固にし、いざという時には王家をも跳ね除けられるようにしておかなければ。夫の思惑を理解した妻は笑顔で同意した。
「そうね。コルベール伯爵夫人をお招きしましょう。たしか令嬢はフランシーヌと同い年よ、きっと良い友人になってくれるわ」
白々しいことを言う。上手く話をごまかされたフランシーヌは不思議そうにしているが、フランソワは苦い気分になった。黙っていられず、口を出す。
「フランシーヌ、今度狩りに行くか。王子は狩りを好むと聞いた。そろそろ馬に乗れるようになったほうがいい」
「狩り!おじいさま、連れて行ってくださるの?」
フランシーヌは目をきらきらさせて祖父を見つめた。まだ幼い者特有の、無垢で真剣な瞳だ。フランソワは愛らしい孫に喜びにいっぱいになりながらうなずく。
「ジョルジュ家の者なら女であっても馬には乗れるべきだ」
「父上、フランシーヌには早すぎます」
「そうですわお義父さま、怪我をしたらどうしますの」
「おとうさま、おかあさま、わたくし馬に乗ってみたい!おじいさま、きっと連れて行ってくださいましね!」
「いいとも」
息子と嫁は渋ったが、フランソワは有言実行とばかりにフランシーヌのために馬を用意した。女物の鞍も作り、馬具も揃え、そして本当に乗馬の練習を開始させた。
さすがに軍人の家系というべきか、フランシーヌは馬を怖がることもなく、最初こそ落ちそうになっていたが、やがて難なく乗りこなすようになった。そしてなぜか「お姉様」と呼ばれるようになった。フランソワにはわけがわからない。
王子との交流は地道に続いていた。王妃からは茶会や園遊会の招待、王からは狩りの招待と、王家もなんとかジョルジュ家との繋がりを強くしておきたいのが透けて見える。王妃はすっかりそのつもりで、フランシーヌのために家庭教師まで派遣してきた。将来王妃としてアルベールの隣に立つために、ということだ。王妃直々の申し出には、さすがに息子も断ることもできなかった。
ジョルジュ家を捕まえておきたい気持ちはフランソワにも、息子と嫁にもよくわかる。あの事件の際、もっとも王家を擁護したのがフランソワなのだ。ならばその息子にも同じことを期待する。そしてできることならアルベールのために、ジョルジュ家を繋ぎとめておきたいのだろう。
「フランシーヌは嫁になど行かず、ずっとお家にいてもいいんだよ」
でれっとした顔でフランシーヌを可愛がる息子に嘘はないのだろう。だが、政略結婚が貴族の常だとしても、王家に嫁がせるつもりは微塵もないに違いなかった。
フランシーヌにはあの事件について教えていない。いや、どこの貴族も子供たちには教えていなかった。王家の恥はすなわち国の恥である。迂闊に教えて不敬罪で処分されたらたまらない。面従腹背の徒と言われても仕方がない。そうさせるのは、王家のほうだ。
そうこうしている間になにやら風向きが怪しくなってきた。少女たちに人気のある者への嫉妬か、それとも出来過ぎる者への妬みか、フランシーヌへの王子の取り巻きたちの風当たりが強くなったのだ。彼らは次の王、つまりアルベールの側近であり、いずれ爵位を継いで政治に関わっていく者たちであった。彼らの中にはフランシーヌの婚約者として候補にあがっている者もいる。息子と嫁は、これは王家の陰謀ではないかとまで勘ぐった。
「おじいさま、わたくしいけないことをしてしまったのかしら…?」
運の悪いことに、王家が主催する狩りの場で、馬が暴走した令嬢をフランシーヌが助けた。それ自体は悪いことではない、むしろ褒められるべきであろう。
だが、ただでさえ生意気だと少年たちから囁かれていたフランシーヌだ。令嬢はフランシーヌを「お姉様」と慕う一人で、直前まで彼らと口論していた。
ちょっとした――彼らにしてみれば、ちょっとした悪ふざけのつもりだったのだ。その令嬢の馬に鞭をくれ、驚かせてやろうという、向こう見ずで無計画な悪戯。だが驚いた馬は人が考えるよりもずっと凶暴だ。いきなり鞭で叩かれ、馬上の主人の悲鳴を聞いた馬はパニックに陥った。女は男と違い跨るのではなく横座りで乗る、令嬢は振り落とされないようにしがみつくので精一杯だった。
そこに飛び出したのがフランシーヌだった。彼女は狩りに参加すべく、男鞍を用意し、服も男物の乗馬服を着ていた。少年たちや大人たちには眉を顰められていたが、少女たちからは歓声があがっていた。
馬に跨ったフランシーヌは暴走する馬に追いつくと、令嬢に向かって手を伸ばした。
「おねえさま!!」
「さあ、掴まって!!」
令嬢は怯えるばかりで馬にしがみつくことを止められない。フランシーヌは馬を寄せ、さらに身を乗り出した。
「わたくしを信じて!」
「おねえさま!」
手を伸ばした令嬢をしっかりと支え、フランシーヌは渾身の力を込めて持ち上げた。娘とはいえ二人も乗せられた馬の速度が落ちる。フランシーヌは彼女を落とさぬよう、細心の注意を払った。
騒ぎを聞きつけたフランソワたちが戻った時には、フランシーヌは令嬢の馬に悪戯をした少年を叱りつけている最中だった。被害にあった令嬢は、友人の令嬢たちに囲まれ、慰められていた。
令嬢の一人がフランシーヌを呼び、フランシーヌはいまだ怯えて泣きじゃくる彼女に近づいた。王子の取り巻きたちは今度は話を聞いた大人、特に父親から怒鳴りつけられている。
「もう大丈夫よ。泣かないで」
「お、おねぇっ、さまっ、わた、わたくし、わたくし…っ」
「あなたの大きな瞳が溶けてしまうわ。それに、わたくし、あなたの笑ったお顔のほうが好きよ」
手袋を脱ぎ、フランシーヌの細く白い指が少女の泣き濡れた頬を撫でる。
「どうかわたくしのために、笑ってくださらないかしら?」
令嬢はぴたりと泣き止み、周囲の少女たちも我知らず頬を染める。これを言ったのが社交デビューも前の少女なのだからたいしたものだ。
これでフランシーヌと王子の取り巻きとの亀裂は決定的なものになった。おまけに翌日の新聞に、フランシーヌの活躍と、取り巻きたちの失態が、風刺画付きで乗ったものだから騒ぎはさらに広がった。暴れ馬から颯爽と令嬢を救った、王子様のようなフランシーヌ。子供でもしないような悪戯をしたクソガキの取り巻き。風刺画で取り巻きは尻を出して馬に鞭で叩かれていた。
これにはフランソワも頭を抱えた。王子の側近候補があれでは、息子と嫁を説得するどころではない。王子がやらせた事ではないが、部下も上手く統率できないのでは周囲も不安になる。取り巻きの失態は王子の責任なのだ。王子は監督不行届きとして謹慎、王子の取り巻きから主犯の姿が消え、他の取り巻きも親を含めて叱責された。デビュタント前の年齢の令嬢に対する乱暴狼藉には甘いが、怪我がなかったこと、彼らの親の身分が考慮された結果だ。
反対にフランシーヌは絶大な支持を得た。さすがはジョルジュ家の令嬢よと囁かれ、助けられた令嬢の家はフランシーヌに深く感謝し、擁護に回った。あの時のフランシーヌにときめいた令嬢は多く、お姉様信者が貴族令嬢の間では一大ムーヴメントになった。
「いや、あれはお前が正しい。令嬢にもしものことがあったら一大事だ。王子も謹慎では済まなかったかもしれん」
そう、万が一令嬢が馬から落ちて骨折などをしていたら、王子も取り巻きもずっと重い処分が下っただろう。それを思えばフランシーヌはよくやった。間接的に王子と取り巻きを守ったのだ。
「でも王子はあれから会ってくれません。わたくしに愛想を尽かしてしまったのではありませんか」
「それはないな」
フランソワは断定する。アルベールがフランシーヌに会わないのは、単に見せ場を盗られて悔しいからだ。あの時驚くばかりで咄嗟に対応できず、結果としてフランシーヌに出し抜かれたと思っている。
「…王子にも男としての意地があるのだろう。フランシーヌ、お前は女なのだから、もう少し男を立てることを覚えんとな」
「男の子って乱暴なんですもの。いつも人の悪口ばかりで偉そうにして。王子の側近があれでは王子まで品位を問われますわ」
「ほら、それだ。そういう生意気はいかん。喧嘩腰ではなく、もっとやわらかく対処しなさい。男には男のプライドというものがある。年下の少女にしてやられたとあっては面目が丸潰れだ」
「…………。王子も、でしょうか…」
フランシーヌはフランソワの言い分に納得していないようだったが、いつも優しく穏やかな王子から面会を断られている現実に顔を曇らせた。
「もちろん、王子もだ。私にも覚えがある。あれくらいの年頃の男は、好きな女の前では見栄を張りたいものなのだ」
フランシーヌがパッと顔をあげた。
「王子は、どなたかを慕ってらっしゃるのですか…?」
おや、とフランソワは目を瞠る。フランシーヌは打って変わってせつなげな、恋する少女の瞳だ。
――唐突に、フランソワの胸に痛みが突き刺さった。
自分で仕組んだこととはいえ、この何も知らぬ、愛する孫娘を王子に恋させた。息子と嫁の反対をふりきり、王家側につくことの不利益も承知で、フランシーヌの恋を利用するために。フランソワは妻の顔を思い出した。貴族同士の婚姻だからと割り切った生活で、子を産み育てるうちに二人の間に芽生えたのは愛ではなく、共闘する者同士の友情だった。フランソワは、それで良かった。だが妻はどう思っていたのだろう。
仕組まれた恋。王子は自分の立場をとうに理解し、結婚についても承知しているだろう。だが、フランシーヌは、どうだろう。純粋に王子に恋をし、同じく想われて結婚したいと夢見ている少女には、フランソワの策略は心を踏みにじるものだ。
「…フランシーヌは王子が好きなのだな」
フランシーヌは顔を真っ赤に染めた。
「……はい。わたくし、王子をお慕いしています」
「王子の配偶者の苦労は並大抵ではないぞ。王子を支えるだけではなく、民に目を配り、他国へも配慮し、さらには男子を生み育てることが義務となる」
「わかっておりますわ。…愛だけでは済まない事もある、ということも」
まさかと思ってフランシーヌを凝視した。真剣な瞳のフランシーヌから王家への嫌悪感は読み取れず、一般論として言ったのだろう。
12歳のフランシーヌには、婚約者はまだいない。
いつかの席で、王妃が『うっかり』漏らしたからだ。フランシーヌをアルベールの婚約者候補として考えている、と。上手い言い方だ。考えているだけで実際に婚約を結んだわけではない。だが王妃が言ったことで、それまであったフランシーヌへの婚約申し込みはどこの貴族からも白紙となった。誰だって王家の反感を買いたくないし、どの家も王家と婚姻を望んでいない。その犠牲者がフランシーヌになるのなら、他家としてはそれでいいのだ。冷たく後ろ暗い、貴族の本音である。
13歳の誕生日にフランシーヌはアルベール王子と婚約した。息子と嫁は娘を守るため、いくつかの条件を王家との間にとりつけた。万が一王子が心変わりしても、フランシーヌの名誉だけは守るように。
14歳、いつかはあの事件の真実を伝えなければならない。若いフランシーヌでは、王と王妃を軽蔑するかもしれず、今言うのはためらわれた。
15歳、王子の妃となるべく教育が進んでいる。貴族の闇の深さに思い悩むフランシーヌには、あの事件は耐え切れそうにない。
16歳、外交の場にも行くようになった。なぜ外交官たちがあれほど熱意のない態度なのか、なぜ他国から不利な条件ばかり叩きつけられるのか、理解できず、自分の未熟さを嘆いていた。軽蔑されるほどのことを、王家がしたとはとても言えなかった。
そして恐れていた事が起きた。アルベール王子に、愛人発覚。フランシーヌは驚き哀しみ、彼女らしからぬ嘆きようで手が付けられなかった。引退していたフランソワもこれには慌てて王と王妃にアルベールを諌めるよう進言した。ここまで苦心してお膳立てしたというのに、この土壇場で破談になどなれば、国内のみならず外国でも王家が笑いものになる。
フランソワは何度もフランシーヌを慰めに行き、その度にあの事件について教えようとして、ためらった。今さら、今になって教えてもそれが何になろう。知っていたのならなぜ真実を教えてくれなかったと非難されるのが目に見えていた。あの時のマクラウドと同じ立場にフランシーヌがなる。フランソワは、耐え切れなかった。
結局それを教えたのは、一人の仕立て屋だった。クラーラと名乗るその人物がマクラウド・アストライア・クラストロ本人であると、娘のために尽力していた息子、マクラウドとも知己のジョルジュ伯爵が血相を変えてフランソワの元へと駆けこんできた。
「マクラウド!あのマクラウドがあんな姿になっていたなんて…!ああ、私たちはなんと罪深いことをしてしまったのでしょう。父上、とうてい許されない罪です」
軍人として育て、爵位と同時に将軍位を継いだ息子があれほど嘆くのを、フランソワははじめて見た。
「しかもマクラウドは、あの事件についてフランシーヌに語ったそうです。なぜ秘密にしていたのか、フランシーヌは理解しても納得はできないようでした。私たちではなく、クラーラという人物から教えられてしまった」
あの時、渦中にあり王家を守って対処に乗り出していたフランソワ、マクラウドと知己でありながら庇うことのできなかった両親、フランシーヌが衝撃を受け、王家に幻滅するのも無理はなかった。
せめて次代の若者には瑕疵のない世を築いて欲しい。そんな父たち大人のやさしさも、フランシーヌは理解できた。だが、感情は別物だ。13の時に教えられていれば、王子だけは違うと反発しても、王子と共に乗り越えようと努めただろう。
「…これがマクラウドの復讐か」
低く呻いた父に、息子が吐き捨てた。
「…復讐?クラーラ…マクラウドはフランシーヌの衣装を仕立ててくれています。調べましたがどこにも不正など見当たりません。さらにフランシーヌの友人になってくれたようです。あの男が復讐するとして、こんな甘い手を打ってくると、本当に思いますか」
そうなのだ。クラーラはクラストロとの繋がりまで利用してフランシーヌの為にドレスを作ってくれている。仕事だとしても、そこに好意がなければフランシーヌもあっさり信頼しなかっただろう。クラーラとフランシーヌの友情が本物だからこそ、彼は全力で尽くしてくれているのだ。
「料金にもおかしなところはない。クラストロ領で織られた最高の絹地と糸。そして真珠のネックレスです。非売品ということですが、特別に貸し出してくれるそうですよ」
内陸にあるこの国で、真珠は高価な宝石だ。王家でさえ滅多に入手できない。ジョルジュ伯爵は頭を抱えて首を振った。
「たったこれだけで、我が家には、フランシーヌにはクラストロが後ろについていると王にはわかるでしょう。マクラウドはフランシーヌを助けてくれるのです」
ジョルジュ伯爵はマクラウドより年上で、まだ若いエドゥアール王子とマクラウドの良き兄貴分であった。冷静沈着で聡明なマクラウドの、フローラへの愛を、貴族らしくないとからかったものである。フローラといる時だけは、マクラウドも年相応の少年であった。妻とは政略結婚のジョルジュ伯爵は憧憬と嫉妬を込めてそれを見守っていた。伯爵にからかわれるとマクラウドも顔を赤くして嬉しそうに笑っていた。
ジョルジュ伯爵はマクラウドの愛を知っていた。しかしエドゥアールとフローラの愛は知らなかった。それほど完璧に二人は秘かに想いあっていた。フローラにはマクラウドを裏切るつもりはなく、エドゥアールも略奪などする気は微塵もなかったのだろう。だが、封じたはずの想いは真白のウエディングドレスを着たフローラの姿に爆発した。目が合った瞬間、エドゥアールはフローラに駆け寄り、フローラはエドゥアールの胸に飛び込んだのだ。
祭壇の前で花嫁を待っていたマクラウドの驚愕と絶望はいかばかりだったろう。思い出すたびにジョルジュ伯爵は後悔に襲われる。興奮に赤らんでいた彼の頬から血の気が引き、二人の告白と弁解を聞くうちに青になり、最後にはどす黒く染まっていた。とても人間とは思えない顔色であった。あの時、マクラウド・アストライア・クラストロは死んだのだ。心と魂を殺され、クラーラとして蘇った。亡霊の考えることなど、常人にわかるはずがない。
「もはやこれまで。父上、ジョルジュ伯爵家はマクラウドにつきます」
「何を言うか!王を、王を守らずになにが将軍だ!」
「我が忠誠は国にあります――王が道を外れたら、命を賭けても正すのが臣下ではありませんか!父上、あの時なぜ自ら首を差し出し王を正さなかったのです。マクラウドにではありません、王に、です」
「わしが死んだらこの国はどうなる!?クラストロがおらぬ今、ジョルジュ家が王を国を守らねばらならぬ!」
「ジョルジュ家の当主は私です!」
激昂する父を、息子が抑えた。フランソワは息を荒げ、呆然と息子を見る。
彼の息子は怒りに震えながらも、将軍としての自分は忘れていなかった。軍は王の私物ではない。王が軍を私物化すれば統率がとれなくなり、やがて軍として成り立たなくなるだろう。軍とは国のものなのだ。国を守り、国民を守る。たとえ王が代わっても、軍の役目は変わらない。
フランソワ前将軍は、言うだけ言って帰って行った息子を引き留めることもできずに立ち尽くしていた。
クラーラと会ったのはその後だ。面会を申し込んだが、受けるとは思っていなかった。貴族嫌いとして知られたクラーラは、面会すら難しいことで有名だった。フランシーヌの祖父として、ひと言礼を言いたいという名目での面会である。体裁としては整っている。
だが、クラーラはフランソワがマクラウドとの面会を望んでいることなどとっくに把握していたのだろう。実にあっさりと、クラーラの仮面を脱いだ。
わしの顔に免じて、とフランソワが頼み込んだ時、マクラウドはそれはもうそっけなく、あなたの顔でフローラの代わりになるとでも?と言った。ならば首でと食い下がればクラストロ家の屈辱には安すぎると突っぱねられた。最終的に前王自らが頭を下げ、マクラウドの望みを叶えると宣言した。家督の放棄は認められず、亡命の禁止と引き換えに養蚕業の独占と完全なる自由を認めた。マクラウドが何を考えていたのか、王にも、フランソワにも、それこそ彼の家族にも誰にもわからなかったに違いない。
今もフランソワには彼の考えが読めない。元より顔に出さない男ではあったが、女装して笑みを浮かべ続けているクラーラとなった彼には、もう恨みなどないようにすら思えた。そんなことはないというのに、フランソワはわずかな可能性に縋った。
言葉を尽くし、情に訴え、頭を下げても無駄であった。恨みの欠片すらない男はしかし、エドゥアールとフローラを許すつもりはまったくないのだ。
「どうぞ」
殺気を込め、剣を向けても男はあっさりしたものだった。フランソワ・ドゥ・オットー・ジョルジュがクラーラを、マクラウド・アストライア・クラストロを殺せば全軍が牙を剥いて王家に襲い掛かるだろう。
果たして彼はどこまで計算していたのか。20年前、これを予想していたのならフランソワはマクラウドを見損なっていたことになる。王家は信頼を失い、国力は低迷し、貴族たちは国難を理解せず我が事ばかりに立ち回り、民はそんな王と貴族に失望している。唯一クラストロ公爵領だけが権勢を保っていた。沈黙を守っているのが逆に恐ろしい。いつか爆発した民衆が、クラストロに独立を求めるか、王家を打倒し公爵を王に据えようとするかもしれない。この不安定に揺れる国で、再起を図るにはマクラウドが必要だと誰もが信じている。信仰にも似た思いで待っている。
そしてフランソワには、クラーラをマクラウドに戻すことはできないのだ。
20年前を悔やむことはいつでもできる。だがこの状態を回避できたのは20年前のあの時しかなかった。フランソワは失敗を悟り、失意のまま王都を去る。
彼にはもう何もできることはない。彼の息子と嫁がフランシーヌを守るために、婚約の条件として王家に認められたものが王家と彼を縛りつけた。
婚約宣誓書に記された一文には、こうあった。
『いかなる理由があろうとフランシーヌ・ドゥ・メイ・ジョルジュと第一王子アルベールとの婚約が破棄された場合、王家とジョルジュ家は婚姻による関係を今後結ばない』
フランシーヌとの婚約があのような形で破棄された以上、どの貴族も王家との婚姻は固辞するだろう。よほど頭を下げて金を積むか、野心を抱く下位貴族くらいしか相手は見つかるまい。第二王子と王女の結婚は難しくなった。
エドゥアール、フローラ、そしてフランソワ。彼らの業はこんな形で返ってきた。もっとも愛するものを道連れにする、という形で。
愛するフランシーヌ。ジョルジュ家の至高の花。微笑む少女の裏側で、悪魔が笑っていた。
これがおじいちゃんへのざまぁになります。地位も名誉も望まずひたすら王家に尽くしてきた前将軍は、何の罪もない(無知も罪といえますが)フランシーヌを本人も知らぬうちに不幸にしました。クラストロが背後にちらついているとなれば王家は警戒しますし、他の貴族たちも勘ぐります。彼は後悔しつづけるしかないのです。
クラーラはフランシーヌの不幸を願っていたわけではありませんが、引き受けた時点で結末は見えていました。深淵を覗き込んでるやつがいたからとりあえず背中蹴飛ばしておこう、くらいの軽い気持ちです。