ロッテ・マイヤーの遅い春・後
クラーラ、全力で楽しむの巻。
住み込み家庭教師というのは通わなくていい分苦労もある。使用人たちの噂話などその最たるものだ。
クラーラの店に行ったロッテは教わった通り化粧水と美容液を付けて肌を整え、時間があれば化粧の研究をした。もともと勉強が好きなのに加え、目に見えてわかる化粧というものは思いの外楽しかったのだ。
堅物家庭教師の変化に噂好きのおしゃべり雀が黙っていられるはずがない。ロッテに恋人ができたという話はあっという間に広がった。
「オスカル様、お待たせしました」
喫茶店で待ち合わせ。ありふれたことだがロッテには新鮮に感じられた。
今日はきちんと化粧をしている。とはいえ服と顔のつり合いがとれないようで、やはり地味だ。申し訳程度のアイメイクも施した。
オスカルは気づいてくれるだろうか。ドキドキしながら彼の反応を待つ。
「ロッテさん、……」
振り返ったオスカルはロッテを見ると言葉を失った。やった、と思うと同時に彼がどう思うかが気になってくる。
「今日は良い天気で良かったです」
「あ、ああ。そうですね」
オスカルはコーヒーを飲んでいた。コーヒーはかつて薬として扱われ、一般的な飲み物となった今でも精力剤として知られ、一部、特に潔癖な婦人方の間では不評だ。ロッテがコーヒーを見ていることに気づいたオスカルが言い訳のように苦笑する。
「帝国ではコーヒーが飲めないんですよ。帝妃が嫌悪していて」
「そのお話は聞いたことがあります。本当でしたのね」
コーヒー忌憚の発端となった話である。なんでも帝国の帝妃が毛嫌いしている相手が大のコーヒー党で、しかも女好きで有名だった。一夫一婦制の帝国において女好きを公言してはばからないだけで帝王を軽視している。夫を心から愛する帝妃は怒り心頭で、しかし相手が高位貴族なことからそれだけで取り潰しにするわけにもいかず、コーヒー禁止令を布くことで鬱憤を晴らした。とんだとばっちりであろう。
あまりにもくだらない理由での法の発布に、嘘だろうと思われている。無理もない。
「コーヒーがお好きですの?」
「はい。飲むと頭がすっきりするんです。はじめて飲んだ時は苦いだけだと思いましたが、慣れると香りやほのかな甘みが癖になりますよ」
飲んでみますかと勧められ、ロッテは慌てて首を振った。コーヒーなど男の人の飲み物だ。
「いいえ!私は紅茶をいただきます」
慌てた様子がおかしかったのか、オスカルが笑った。
ひとまず喫茶店でお茶をして、ロッテとオスカルは今日のメインである植物園へと向かった。王都では定番のデートコースである。
植物園はその名の通り、植物が植えられた国立公園だ。一番の目玉である奥園の温室は別料金で値も張るが、外を一周するだけなら子供の小遣い程度で入園できる。気楽さもあってカップルだけではなく家族連れも多い。採集は禁止だが観察やスケッチは自由なので学者がやってくることもあった。
「懐かしいな。子供の頃はよく来ていました」
「オスカル様も?私もここにはよく遊びに来ましたわ」
ただ植物を見るだけなら子供には退屈だが、空から鳥が飛んで来たり、小動物が顔をのぞかせたりもする。夏になれば浅く作られた噴水で子供が遊ぶ。子供向けの娯楽施設など少ない王都では植物園でも立派なレジャーなのだ。
「噴水がどうなっているのか知りたくて、外してみようとしませんでしたか」
「しました!水がどうやって上に行くのか不思議でしたわ」
変な形をした壺から水が噴き出しているのが不思議で、覗き込もうとして父に怒られたこともある。似たようなことをオスカルもしていたと知り、ロッテは嬉しくなった。
「冬には鳥が渡って来て、春になると去って行く。いったいどこへ行くのか、一日にどれくらい飛べるのか知りたくて、本を読み漁ったものです」
「『コルベイル博士の鳥類学』ですか?」
「はい。先生にお借りして…楽しかったな。好きなだけ本が読めて、わからなければ教えてくれる師がいて、励ましてくれる人がいた」
「…オスカル様が弁護士を目指そうと思ったのはなぜですの?」
「私のような子供にも機会を与えたいと思ったのです。先生にいただいた恩を、形にして返したいと思っています」
オスカルならば弁護士ではなく学者にもなれそうだ。ロッテの疑問にオスカルは答える。
「…私は孤児なのです。教会付属の孤児院で育ちました。先生に出会えたのは本当に幸運です」
「…………」
この国は孤児が一定数いる。望まない妊娠や育てられなかった子供が教会に預けられ、孤児院に行く。貴族や裕福な商家などからの寄付金で成り立つそこでは教育はほとんどされず、生きていくだけの必要最低限しか与えられない。運よくどこかに引き取られていく子はまだ良いが、ほとんどの子供たちは成人したら孤児院を出て、日銭を稼ぐような職にしか就けないのが現状だった。もちろん彼らが貧しさから抜け出す日は一生来ないだろう。
弁護士のマイヤー家に引き取られたオスカルは間違いなくその幸運を掴んだひとりだ。何と言っていいかわからず、ロッテはただ彼を見つめた。
「知識は財産です。知識だけは誰かに左右されない。私は先生にいただいたこの力で弱い人々を救いたいのです」
「オスカル様……」
「…すみません。こんな話をして。ここは辛かった時の逃げ場だったので、つい思い出してしまいました」
「いいえ。…いいえ、お話しくださってありがとうございます」
ロッテはためらった後、そっとオスカルの腕に触れた。それで精一杯だった。
オスカルはその微かな触れ合いにロッテを見て、目元をうっすらと染めて微笑んだ。
このところのお屋敷は妙な空気だ。植物園でのデートを誰かに見られていたらしく、恋人の話が現実味を帯びたせいである。
そして、マルクスとアナベルも妙に怒っている。いやアナベルは兄の怒りに釣られているのだろう、ロッテとマルクスを交互に見て、兄に同調している。それなのに授業は真面目に受けている。宥めればいいのか放っておけばいいのか、ロッテも迷った。
どっちみち話してくれるのを待つほかない。意固地になった子供を諭しても逆効果だ。ロッテは自分の仕事に専念した。それより他に気にかかることがある。
「噂じゃ相手の弁護士は親の弟子だってよ」
「行き遅れ娘を憐れんで仕方なーく結婚?」
「うわあ、かわいそ」
「孤児だったのを引き取ってもらったとか」
「それじゃ逆らえないよねぇ。優秀な弁護士サマが気の毒だわー」
メイドたちの噂話だ。いちいち相手にすると疲れるだけなので放置しているが、面と向かって言われるのならともかくこそこそと陰で言われるのは本当に苛々する。
行き遅れ。恩師の娘。孤児院出身。どれも事実であり、ロッテが気にしていることだ。父の顔を立てるために結婚して、帝国についたら捨てられるかもしれない。オスカルはそんな人ではないと思いつつ、不安が胸に圧し掛かる。催促せずにロッテの返事を待っているオスカルに申し訳なかった。
「いい加減にして欲しいです。本当に!」
クラーラの指導名目で愚痴を吐くのが唯一の気晴らしだ。どれだけ不利なのか自覚しているのだから、人の恋路なんか放っておいてほしい。
「あらあら。ずいぶん敵を作っちゃってるのねぇ」
ロッテの怒りもクラーラはどこ吹く風、楽し気に笑うだけだ。
「敵って…私はそんなに反論していません」
「したことがあるのね?女が女を嫌うのに理由なんかいらないのよ。家庭教師というだけで旦那様にも直言できるし、反感を買う要素はあるわね」
「必要なことをお伝えしているだけですわ」
「そこじゃないのよ。ロッテさんは旦那様に直言した時、メイドに何か言われなかった?」
「ずうずうしい、とかは言われました」
「それに必要なことだから、なんて言われたらカチンとくるわよ。そういう時は「お子様の相手は大変で~」とか言っておけばいいの」
「マルクスたちを悪く言うのはよくありませんわ」
「悪ガキ相手に苦労しているのはあなただけじゃないのよ。普段身の回りの世話をしているメイドのほうがよっぽど振り回されてるわ。長年勤めているならなおさらね」
女の場合、必ずしも正論で納得するとは限らない。必要なのは説得ではなく共感なのだ。
「マルクスちゃんやアナベルちゃんがどんな子供だったのか、どんな悪戯をされたのか、どんな苦労をしてきたのか。愚痴だろうと話を聞くことも必要でしょう?メイドのほうがあなたよりずっと二人と過ごしてきたんだから」
ロッテは反論しかけ、クラーラが微笑んでいることに気づき、ハッとした。こういうことか、とすとんと腑に落ちた。確かにクラーラは正論だ。しかし自分を否定されたような気分になる。
はぁ、と大きなため息が出た。
「勉強ばかりで他人の心に無関心だった報いですわね……」
「日々是勉強、よ。気づいたのは悪いことじゃないわ。お友達だっているんでしょう?」
「はい。…でも、自信がなくなってきました」
もしかすると今までも友人に対し無意識に失礼をしていたかもしれない。そう思うと落ち込んでしまう。クラーラにちょっと言われただけでもイラッとしたのだ、長年の付き合いのある友人なら尚更だろう。
「これから変わっていけばいいのよ。人生長いんだもの、なんとかなるわ」
「はい……」
結局この日は服選びのアドバイスを貰うだけに終わった。化粧品から立て続けに買い物できるだけの予算はロッテにはない。クラーラもそのあたりは配慮した。
変わっていけばいいとはいうものの、今まで与えた悪感情はそう簡単には消えてなくならない。ロッテはメイドとの対立姿勢をなくそうとしたが、メイドたちは笑って遠巻きにするだけで近づいてこなかった。
マルクスとアナベルも相変わらずだ。クラーラの店に行くときとオスカルに会う時くらいしか気を抜くことができなかった。
「どうしましたか?」
オスカルが訊いた。目に見えてわかるほどだろうかとロッテは無理して笑う。
今日のロッテはクラーラのアドバイスに従い、いつものかっちりとした服の胸元に花を飾った。あなたの服は戦闘服、とクラーラに言われた通り、ロッテはいつも家庭教師であると自覚を持って行動している。
だが、こんな時くらいは。オスカルとふたりでいる時くらいは家庭教師のロッテではなく、ただのロッテ・マイヤーでいても許されるだろう。
「いえ、ちょっと」
心配をかけたくなかっただけなのだが、オスカルはなぜかむっつりと黙り込んでしまった。
「…オスカル様?」
「あなたが」
オスカルは顔を背けると、吐き捨てるように言った。
「毎週男と会っているというのは本当ですか」
「…………は?」
たっぷりと間を開けて、ロッテはようやくそれだけを言った。わけがわからないという顔をしたロッテを見て、オスカルが気まずそうに続ける。
「あなたの勤め先のメイドに聞きました。毎週どこかへ行くたびに綺麗になっている、と」
「……ご、誤解ですわ!私はクラーラの店に行っているだけです!」
「…クラーラ?」
クラーラという名前は女性名だ。勘違いだったかとオスカルはほっとしたものの、会うたびにロッテが綺麗になっている事実に疑いが晴らしきれない。
「店、ということは、そこで逢引きを?」
「どうしてそうなるんですか!?」
とんでもない誤解だ。クラーラは男ではあるが誰よりも女らしい人で、そもそもそういう目で見たことはない。ロッテの先生であり、良き友人である。店の客層は少女たちばかりだ。
「百聞は一見に如かず、そこまで言うのならわかりました。クラーラの店に案内しますわ!」
そうしてクラーラを見て度肝を抜かれるといい。ロッテは憤然とオスカルの手を引き、クラーラの店へと向かった。
「クラーラ様!ごめんあそばせ!」
ちりちりちりん!乱雑に開けられたドアのベルがロッテの心境を示すように激しい音を立てた。
「いらっしゃーい」
出迎えたクラーラはロッテと、腕を引かれているオスカルを見て、笑みを深くした。
「あなたがロッテさんのお相手の方ね?そろそろいらしてくれると思っていたわ」
ロッテは目を見開いた。それではまるで、クラーラにはこうなることがわかっていたようではないか。
まあ座って、といつものように席を勧めるクラーラに疑問を抱きつつ、二人は座った。
「あなたがオスカル・ウィルザーさんね?ようこそクラーラの店へ。アタシが店主のクラーラよ。よろしくね」
「名前を?」
「新聞で拝見したわ。帝国帰りの若手弁護士、ってね」
新聞には紳士淑女の行動が載せられる。誰がどこに旅行に行った、どこの舞踏会で誰と誰が良い雰囲気だった。貴族の動向はもちろんのこと、店の広告や伝言など、あらゆることがニュースになる。帝国での留学を終えて帰ってきた弁護士など、格好のネタだろう。
「…気づかなかった」
「まだまだ甘ちゃんってことね。弁護士なら商売相手は富裕層でしょう、新聞くらいは読むわよ」
学校が一般的ではないこの国では庶民の識字率は低い。教会が読み書きくらいは教えるが、勉強に時間を取られるくらいなら家の仕事をしろという親がほとんどだ。特に女に学があっても無駄だ、行き遅れになるといわれている。庶民であっても商売をしている家なら読み書き算数くらいは教えるが、それもある意味家の手伝いだ。
弁護士を雇う人々は富裕層だ。金さえあればより優秀な弁護士を雇える。そしてそういう人々は、どんな物事にも耳目を張り巡らせ、不利益を被らないように警戒する。
「故郷に帰ってきたからって気を抜いてると足元をすくわれるわよ」
「仰る通りです」
恥じ入るようにうなずいたオスカルだが、ロッテとしてはそれどころではない。
クラーラがオスカルのことを知っていたのはわかった。だが、なぜロッテの恋のお相手がオスカルと思ったのかだ。ロッテはクラーラに詳しいことは言っていなかった。お見合いについても「知人の紹介」とごまかしたくらいだ。
「クラーラ様、それで、オスカル様が来ると思ったのはなぜですの?私、オスカル様のことは言わなかったはずですが」
クラーラはロッテに微笑むと、次に笑いを堪えきれないというように店の奥を振り返った。
「そろそろでていらっしゃい」
クラーラの呼びかけに奥から現れたのは、マルクスとアナベル、それからどこかふてくされた顔のメイドだった。
「ロッテ先生、勝手なことしてごめんなさい」
「アナベルは悪くないんだ。…僕、先生が結婚するって聞いて。最近綺麗になったのはそいつのためだって聞いて…。それで」
メイドの噂話を聞き付け、追求したのだという。クラーラの店についても強引に聞きだし、案内させてやってきた。
「マルクス、アナベル……」
まさか子供たちがこんな思い切ったことをするとは思わなかった。ロッテは呆然と名を呼ぶ。
マルクスはぎゅっと拳を握りしめ、次にキッと顔をあげると、オスカルの前に立った。
「本当は僕が先生をお嫁さんにしたかった。でも、僕じゃだめだ。父様も母様も笑って相手にしてくれない」
そんな話までしていたのか。先生への恋など子供の戯言と、ヨークシャー夫妻が笑って流したのが目に見えるようだ。
「おまえ!」
「オスカル・ウィルザーという。君がマルクス・ヨークシャーだな」
「そうだ!」
精一杯の背伸びをして睨みつけてくるマルクスを、オスカルは一人の男として見た。立ち上がり、背を伸ばし、恋敵と対峙する。
「オスカル・ウィルザー!ロッテを幸せにするって誓え!できないのなら決闘だ!」
「マルクス…!」
なんということを。決闘などと、子供が気軽に言うものではない。ロッテが叱ろうとしたのを手で制し、オスカルは重く誓いをたてた。
「誓おう。オスカル・ウィルザーは生涯かけてロッテ・マイヤーを幸せにしてみせる。ウィルザーは教会の神父様がつけてくれた姓だ、神に誓って違えることはない」
マルクスはしばらくオスカルを睨んでいたが、見る見る目に涙を溜めた。ぐいっと袖で拭う。
「ぜったいだぞ」
「ああ」
「ロッテ、不幸にしたら、僕が攫いにいくからな」
「心しておく」
とうとう肩が揺れ、マルクスは泣きだした。オスカルがそっと小さな肩を抱く。
マルクスを慰めようと立ち上がったロッテを引き留めたのはアナベルだった。兄に釣られたのか大きな目いっぱいに涙を浮かべている。
「…先生」
「はい」
「アナベル、先生が好きよ」
「ありがとう…。とても嬉しいわ」
「だから本当は、先生がいなくなっちゃうのはイヤ。でも、先生が幸せになるのなら、許してあげる」
「まあ、アナベル…」
兄と比べてずいぶんと小生意気なことを言う。子供の成長は早いものだ。ロッテは胸が熱くなった。
いつの間にか伸びているアナベルの背に驚きながら抱きしめる。
「ありがとう、アナベル、マルクス。先生は幸せよ」
ひとしきり泣いたマルクスはお茶を飲んで落ち着いてから、メイドに連れられて屋敷に帰って行った。
思いがけない恋敵の登場にぐったりとしていたオスカルだが、子供は侮れないなとぽつりと呟いた。
「…ロッテ」
「はい」
「あなたは覚えていないかもしれないが、私を拾ってくれたのは先生ではなく、ロッテ、あなたなんだ」
「……はい?」
「はじめて会ったのは植物園でした。こっそり忍び込んでいた。…孤児院は本当に最低限のことしか与えられません。わずかな食事や衣服を奪い合うのはしょっちゅうでした」
喧嘩に負けて泣きたい時、捨て子と大人たちに言われた時、オスカルはあの植物園に忍び込んだ。小銭を稼いで飢えをしのいでいた孤児にとって、小遣い程度の入園料すら払えなかったのだ。
「噴水が、どうなっているのか外そうとして、足を滑らせたのが私です」
「あ……、あっ?あの時の!人に濡れ衣着せて逃げた悪ガキ!!」
ロッテはついオスカルを指差して叫んだ。思い出した。
噴水をよじ登っていた子供が足を滑らせて池に落ち、助けようとしたロッテのせいにして逃げたのだ。おかげで両親には叱られ植物園の管理人にまで怒られ、さんざんだった。
ロッテは見る間に真っ赤になった。その子との思い出はそれだけではない。やり返してやると何度も足を運び、噴水の中を覗いてやったと言ってそそのかした。もちろんそんな企みはばれ、またも両親にこっぴどく叱られた。
ロッテの叫びにオスカルは目を丸くすると、肩を揺らして笑い出した。
「まったく。いつ思い出してくれるかと期待していたのに、あなたときたらすっかり忘れているんですから。薄情な方だ」
「だ、だって、お父様のところにいたお弟子さんと全然繋がらなかったんですもの…!」
「髪や服は奥様が世話をしてくださいました。先生の事務所で何度も会っているのに全然気づいてくれなくて。それなら思い出すまでこちらから言うまいと意地になりましたよ」
「まあ…、なんて方かしら…。そんな、人の心を弄ぶような……」
「嫌いになりましたか」
「いいえ!…残念ですけれど」
「それは素晴らしい」
オスカルはロッテの前で跪くと、そっと彼女の手を取った。口笛を吹く真似をしたクラーラをちらりと見て、奥へと消えたのを確認して告げる。
すでにロッテの顔は赤かったが、さらに赤くなった。
「ロッテ。私の希望の光。あなたに会った日から私の心はあなたのものです」
オスカルも緊張している。この日のためになりふりかまわず必死になってやってきた。
「私と結婚してください」
ロッテは自分が震えていることに気がついた。目が熱くなり、頭がくらくらする。オスカルの言葉が何度も木霊した。
「……はい」
ようやくそれだけ返すと、オスカルは微笑み、指先にキスをした。
婚約から間を置かずに結婚式をあげ、ふたりは帝国へと旅立つことになった。
帝国に行くのなら早いほうが良いと言ったのは、意外なことに母ではなく父だった。
「新しいことをやるなら若い方が有利だ。若さは時に無茶をするが、度胸がある。それに歳を取るとな、どうにも覚えが悪くなる。あちらとは言葉だけではなく風習も違う、行っておいで、ロッテ」
母はいざとなると娘が遠ざかるのが寂しいようだ。もう何年かこの国で実績を積んだ方がいいのではと言い、父にたしなめられていた。
ヨークシャー家のメイドは最後まであいかわらずだった。
「あーあ。あんた全然堪えないんだもん。まったく可愛くないったら。お幸せに!」
マルクスとアナベルは泣いて別れを惜しみ、ロッテを困らせた。
「先生、いつでも帰って来ていいですからね!」
「旦那さんがふがいなかったらアナベルが叱ってあげる!」
マルクスは寄宿学校に、アナベルは屋敷から通える女学校に行くことになった。次の家庭教師を二人が拒否し、両親も大丈夫だと判断した結果だ。
もしかしたら一番ロッテとの別れを惜しんだのは、クラーラかもしれない。
「あーあ、ロッテさんを磨くの楽しかったのになぁ。ほんっと残念。オスカルちゃんちょっといらっしゃい、この子に似合う服デザインしといたから」
「クラーラさん、なぜロッテがさん付けで私はちゃんなのですか」
「んー、なんとなく?それよりほら。カタログ持っていって参考にして。ロッテさんのことだから、仕事があると服に頓着せず働きまくるわよ」
「クラーラ様、あちらへ行ってもしばらくは忙しくて服にかまう暇はないと思いますわ」
「ロッテさんは忙しくなくても仕事見つけて働くタイプでしょ。いいことオスカルちゃん。女を綺麗にするのもみすぼらしくするのも男の腕しだいよ。夫のために綺麗でいたいと思わせるのよ!」
「はいっ」
お餞別、と言ってクラーラが渡したのは、紹介状だった。
「これは……」
「ほら、王子の婚約破棄騒動の時、帝国からも貴賓が来たでしょう?あの時フランシーヌ嬢のドレスを作ったのがうちだと知って、何人かお見えになられたの。とはいえ一介の仕立て屋の紹介だからね、気休め程度だと思っておいてちょうだい」
「クラーラ様……」
ロッテは両手でクラーラの手を握った。大きな手だ、頼りがいのある魔法の手。
「本当にありがとうございます。お世話になりました」
「お幸せにね」
ロッテ・マイヤーの遅い春は慌ただしくやってきて、花を咲かせて新たな季節を迎えた。
コーヒー禁止令は実際の話です。某女帝が大嫌いな敵国の王が愛飲しているという理由で禁止したそうです。印象に残っていたのでネタにしてしまいましたが、ルール違反でしたらこの部分は書き換えます。
帝国はこれからも出てきます。