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ロッテ・マイヤーの遅い春・前


なんと日間ジャンル別1位、総合2位を頂きました!こんなにたくさんの人に読んでいただけるなんて、とても嬉しいです!ありがとうございます!



 家庭教師、というのは、あまりイメージのよくない職業だ。

 結婚できなかった、あるいは夫に先立たれた未亡人。そういった、頼るあてのない妙齢を過ぎた女性が就く職業。一般的にはそう思われているし、一部事実でもある。

 ロッテ・マイヤーもまた、家庭教師であった。だが彼女は世間のそんな評判は女性に対する蔑視であり、ひどく屈辱だと常々思っていた。確かに女性の就ける職業が限りなく少ないこの国で、家庭教師は行き場のない女性の救済措置ではある。だが、そんな女に自分の大切な子供の教育を任せているのは誰だと問いたい。ロッテ・マイヤーは生粋の家庭教師、天職だとすら思っているのだ。


 ロッテの実家、マイヤー家は知識階級だ。弁護士の父と、育児についての本を何冊も出している教育研究家の母との間に生まれた。兄ふたりもそれぞれ弁護士の職についており、ロッテは幼い頃から教育の大切さを叩きこまれて育った。

 特に母はロッテの教育に熱心だった。貧しい村の教会でひととおりの読み書きを教わっただけの母だが、頭の良さを領主に認められて学校に入学まで許可された。貧民出の母は貴族たちに馬鹿にされ散々な目にあったが、両親、つまりロッテの祖父母の期待もあって退学せず、根性で頑張った。踏まれれば踏まれるだけ強くなる、麦のような性格は貧しさゆえだろう。そこで出会った弁護士一家の父にその能力と根性を見初められて結婚。女だからこそ知識は力になる、というのが母の口癖だった。


「よろしいですか、何事も勉強です。遊びたい、それは素晴らしいことです。けれどそこに発見がなければ楽しいだけで終わってしまいます」


 ロッテは自分で希望して家庭教師になった。10代の頃はメイドだけではなく生徒である子供にまで侮られていたが、20代の半ばを過ぎた今ではもうそんなことはない。ロッテが黙って一睨みするだけで、メイドも子供もしゅんとなる。

 午前の授業をすっぽかし、街に遊びに行っていたと白状した家庭教師先の子供、マルクス・ヨークシャーとアナベル・ヨークシャーもすっかり肩を落としていた。


「反省文と感想文を書いてもらいます。できなかったら旦那様からお尻を叩くようお願いしますからね」


 ロッテの授業は特別厳しいわけではない。だが遊びたい盛りの子供だ、悪友に誘われて断れなかったのだろう。気持ちはわかる。しかし、かといってただ許してしまえば勉強しなくても良いのだと勘違いされてしまう。ここはきっちり叱る必要があった。


「…………」

「返事は?」

「はい」

「はい。…先生、ごめんなさい」


 こういう時、女の子は素直だ。妹のアナベルは今にも泣きそうになるのを堪えながら謝った。ロッテはにっこり笑う。


「はい。よくできましたアナベル。謝るべき時に謝るのはとても大切なのですよ」


 そう言って、マルクスを見やる。マルクスはしばらくむっつりとロッテを睨んでいたが、彼女の態度が変わらないのを見て不承不承謝った。


「…ごめんなさい」

「はい。よくできました。執事もメイドも、あなたたちがいなくなって心配して探し回ったのですよ。みんなにもちゃんと謝りなさいね」

「はい…」




 今まで3人、ヨークシャー家に家庭教師がやってきた。そして3人とも辞めていた。この兄妹に手を焼き、匙を投げられた結果だ。

 4人目となるロッテは、マルクスとアナベルに、なぜ勉強が必要なのかを最初に教えた。


「ヨークシャー家は貿易商です。我が国だけではなく、他国の情勢によって経営状況が変わってきます。もしも我が国で戦争が起これば他国は好機と見て、国を乗っ取ろうと画策してくるでしょう。そうなればヨークシャー家はどうなるか。貿易商の生命といえる交通が遮断され、あっという間に破産してしまうでしょう。お屋敷も財産も差し押さえられ、旦那様、奥様、使用人、もちろんあなたたちも路頭に迷うことになるのです。そうなった時、何が残るか。知識です。知識だけは誰にも奪うことのできない最良の財産なのです。知識があれば再興することも可能でしょう。私がこれから教えることは、人生で役に立つ立たない、必要か不必要か、そんなことは関係なく知っておくべきことなのです。良いですか、豊かな人生を歩むも、他者に搾取される人生を歩むも、あなたたち次第という事を覚えておいてください」


 はっきりいって、ロッテの言うことはマルクスにもアナベルにもちんぷんかんぷんだった。

 だがその時のロッテの表情や口調は真剣そのもので、今までの家庭教師の子供だからと馬鹿にした態度とはまったく違っていた。なにもわからない子供だからこそ、基礎となる教育の大切さを彼女は語った。熱い語り口にはマルクスとアナベルへの期待と愛情がたしかに感じられた。




「…はい。とても丁寧に書かれています。良い文章です」


 反省文と感想文を読んでいたロッテに及第点を与えられ、マルクスとアナベルはホッとした。


「ただお二人とも、終わりのほうでは文字が雑になってしまっています。手紙にしろ書類にしろ、最後こそ丁寧に書かねばなりません。添削しておきますから、後で自習するように」

「はい」

「はいっ」


 これで尻叩きという名目の父の説教を免れた。ロッテはたびたびこの手を使うが、父が本当に尻を叩いたことはない。代わりに本気で叱ってくる。これもロッテの指導方針だった。


『体罰や食事抜きは躾ではありません。虐待です。健康な心身を育てるのには食事は大切です。体罰を簡単に行えば、大人になった時、簡単に暴力を揮うようになるでしょう』


 今までの家庭教師は罰として拳骨を落としたり、食事抜きにされたりした。マルクスとアナベルは仕方なく従ったが、育ったのは反発心だけだ。

 ロッテは違う。厳しくもやさしい、信頼できる家庭教師だ。ロッテが来てから父も母もマルクスとアナベルと話す時間が増えた。

 とはいえ父の説教は恐ろしい。ロッテの進言なのだろうが、説教の時の父はマルクスを子供ではなく一人前として扱うので容赦がないのだ。


 赤インクで感想文に花丸を貰ったアナベルは嬉しそうに笑った。どこが良かったのか具体的に褒められ顔が真っ赤になっている。

 アナベルは消極的な性格で、人見知りが激しく、いつもマルクスの後ろに隠れている少女だった。それがロッテが来て以来良く笑い、マルクスの友人――もちろん男の子だ――にも付いて遊び回るようになった。時には口喧嘩でやりこめたこともある。

 ロッテのおかげだと感謝する一方で、妹が離れていくような寂しさをマルクスは抱いている。


「…先生」

「はい。どうしたの?マルクス」


 アナベルが刺繍を習っている時、マルクスは読書の時間だ。なにかわからないことがあったかとロッテは顔をあげた。


「先生は結婚しないの?」


 本から目を離さずにマルクスが訊いた。

 すぐに返ってくると思っていた返事がなく、マルクスは目だけを動かしてロッテを見た。

 ロッテはどこか困ったような顔をして、マルクスを見ていた。


「…そうね、結婚は、したいとは思うけれど、相手のあることですもの、そう簡単ではないわね」

「す、好きな人とか、いる?」

「昔は、それなりに」


 ぽっとロッテの頬が染まった。


「でも、やっぱり私は家庭教師が天職だと思っているの。理解のない男性と結婚はできないわ」


 嘘ではない。ロッテは家庭教師という職に誇りを抱いている。親の中には自分の子供を育てたこともないくせにと言う者もいるが、自分の子と他人の子ではまったく別の話だ。彼らにしたって我が子以外を育てたことはなく、教育さえ家庭教師任せにしているのだから人のことを言えた義理ではない。


「それと、マルクス。話題によっては相手を不快にさせることもあります。特に私のように適齢期を過ぎた女性に向かって結婚の話をするのは、一種の侮辱と受け取られかねません。先生は不愉快です」

「…………はい。ごめんなさい」


 どんなに職を愛していても、傷つかないわけではない。行き遅れと言われるのは覚悟していたが、実際に陰でこそこそ噂されるのはロッテだって悲しく、辛いものがあった。

 これからいろんな女性と会うだろうマルクスには、迂闊に繊細な話をしないよう教えておかなければなるまい。なにしろ買い物客というのは大半が女性なのだ、嫌われたらやっていけない。




 ロッテにとって、結婚は悩ましい問題だ。10代の頃には恋人がいたが、家庭教師を辞めて家に入って欲しいという彼と喧嘩別れしている。何度か紹介されて会った男性は皆そんな人ばかりで、ロッテは半ばあきらめていた。

 別に、男と張り合うつもりはないわ。結婚話が消えるたびにロッテは思う。職業婦人にまだ理解のないこの国では、妻を働きに出すのは恥だという考えが強固に残っている。理解しろというのは難しいだろう。

 だが、家庭教師というだけで見下してくる男のなんと多いことだろう。マイヤー家は貴族ではないが裕福で、だからといってドレスやお茶会のことだけ考えていろというのはいかにも女性を馬鹿にしている。そういう男と一生を伴にする気にはなれなかった。


「――お見合い?」


 両親に呼ばれて久しぶりに実家に帰ってみれば、にこにこ顔の母にいきなり言われた。

 見合い話なんて20代に入ってから途絶えて久しい。来るのも妻に先立たれた鰥夫か、調べてみれば借金か犯罪歴のある訳あり男ばかりで、すっかり嫌気がさしていたのだ。


「…それで、今度はどんな方?騎士爵の四男か、それとも駆け落ちしたはいいけど資金が尽きて帰ってきたとか?」

「あの時は悪かったわ。でも今度こそ大丈夫よ!」


 駆け落ち男は最後の見合いの時の話だ。劇団の男性歌手と歌姫が恋に落ち、思い余って駆け落ちしたが途中で逃亡資金が尽き、ついでに愛想も尽かせて別れたという。劇団というのはパトロンが付きもので、彼らの機嫌をとるのも歌手の大事な営業のひとつだ。パトロンのほうも自分の気に入った歌手に盛大な贈り物をする。張り合い合戦で贅沢になれた歌手が、貧しい逃亡暮らしに耐えられるはずがなかったのだ。


「顔は良いし性格も良かったし、誠実に見えたんだけどね…」

「俳優なんだから素人を騙すのなんてお手の物でしょ。ごめんなさい、言いすぎたわ。お母様」


 母の心配がわかるだけに、ロッテは素直に謝罪した。こんなことが言えるのは家族くらいなのだ。

 家を継ぐ長男はとうに結婚し、子供もいる。次兄も子供はまだだが夫婦仲は非常に良好らしい。だからこそ最後に残った娘が気にかかるのだ。いつまでも独り身では、老後がみじめになるだろう。親というのはありがたいものだ、いつまでも子供でいさせてくれる。


「それで、どんな方?」

「ロッテも知ってる方よ。オスカル・ウィルザーさん。お父様のお弟子さんの」

「お弟子さんといってもいっぱいいたから…。オスカルさん、オスカル…」


 父の弁護士事務所には書生として見習い弁護士がたくさんいた。ロッテも勉強を見てもらった記憶がある。だが彼らは弁護士になると独り立ちのため去って行き、入れ替わるのでいちいち覚えていない。


「会えば思い出すかしら?」

「そうね。オスカルさんは28歳なのだけれど、まだ誰とも婚約してないんですって。それでお父様が、あなたはどうかと持ちかけたそうよ」

「お父様のお弟子さんなら余計な心配いらないとは思うけど、28歳まで独身だった理由は?弁護士って人気あるのに」

「帝国に留学していたのよ」

「帝国に…」


 ロッテは息を飲んだ。


 帝国はこの国から遠く離れた、文化の先進国だ。歴史も伝統も芸術も文化も、当然ながら教育も比べ物にならない。国力が違いすぎるのだ。絶大な権力と軍事力を背景に、帝国は広大な領土を支配している。


「…結婚相手の条件がね、安らげる家庭を築けて、料理も美味しく、話の合う女性ってことでね、他のお見合い相手にことごとく駄目出ししたらしいの」

「その条件に私は当てはまらないんじゃないの?」

「そんなことはないわ。ロッテは私の育てた自慢の娘ですもの。家政については教えこんだし、難しい話にもついていけるでしょう」


 そう言われると悪い気はしない。母に言われずとも、ロッテにはロッテなりの矜持がある。人に教える者は教わる者の3倍の知識がいるという格言のとおりに人の3倍勉強してきた。外国語も教えられるくらいにはなっており、その中には帝国語も入っている。


「…帝国のお話が聞けるかしら」

「あそこの国は何もかもが新鮮でしょうね」


 ロッテが言えば、母も憧れるように呟いた。




 話をするだけのつもりだったお見合いで、ロッテはオスカルとの会話を楽しんでいた。


「ええ、そうですの。最初は反発もありましたが、マルクスはとても素直な子なんですよ。大人への不信感があったのでしょうけれど、貿易商の家がどれだけ大変なのか理解していくうちに、後継ぎとしての自覚が芽生えたようなんです」

「むしろアナベル嬢のほうが手強かったのでは?女性は子供とはいえ感情的になりやすい、メイドの噂話など、聞かずとも耳に入ってくるでしょうし」

「まあ、おわかりになります?アナベルは不信感というより、思い込みに近かったですわ。他人は怖いという一種の刷り込みですね。ご両親はお忙しいし、致し方ないところもあったのだと思います。でも、忙しいからといってないがしろにされ続けたら子供の心は傷つきます」

「その通りです。家内が収まっていない家は何かとトラブルが多い。子供の非行の原因は家庭内不和がほとんどですよ」

「やはりそうですか…」


 弁護士なだけあってオスカルは聞き上手だった。ここまで否定せずわかってくれる相手との会話はしたことのなかったロッテはつい熱が入る。ぜひ、弁護士としての意見を聞いておきたいところだ。


「ウィルザー様は」

「オスカルと呼んでください」

「えっ」


 突然の申し出にロッテは目を丸くした。

 オスカルの緑色の瞳にはやわらかい感情が浮かんでいる。思わず頬が熱くなった。


「失礼。ですが、あなたには名前で呼んで欲しい。ロッテ」

「あ、あの……」


 そういえばお見合いだったことを思い出し、ロッテは焦った。お見合いということはつまり、結婚を前提として、だ。友情を感じ始めていたオスカルが男であったことを今更ながら意識してしまい、顔が見られなくなる。


「実は、留学で世話になった弁護士会で仕事をしないかと誘われています」

「え……」


 帝国。オスカルの言葉にロッテは驚いた。帝国に留学するだけでもすごいというのに、仕事の誘いまであるとは、オスカル・ウィルザーという男はロッテが考えているよりも遥かにできるのではないか。


「私は受けるつもりです。だが、妻はやはり自国の女性が良い。ロッテ、あなたには探求心も向上心もあり、なによりも強い信念がある。ぜひ私と帝国に行っていただけませんか」

「ウ、ウィルザー様」

「オスカルです」

「オスカル様、私はたんなる家庭教師です。とても帝国になど…」

「たんなる、ではありません。健全な精神を養うのはやはり幼児からの教育です。…正直、帝国に行っても苦労をかけるでしょう。あなたとならば、きっと乗り越えられる。どうか私と共に戦ってください」


 ロッテはオスカルの結婚条件を思い出していた。安らげる家庭。美味しい料理。話の合う女性。それらすべては帝国でやっていけるかどうかの基準だったのだ。


「今すぐ答えを出す必要はありません。ゆっくり考えてみてください」


 私との結婚を。そう言って微笑むオスカルは、挑戦者の瞳だった。彼に認められたと知り、ロッテの胸が高鳴る。真摯で誠実な理解者。パッと視界が開けたような気分だった。




 はたしてどうすればいいのか。ロッテははじめての気持ちにうろたえた。母にはとても相談できない。母は諸手を上げて賛成するだろう。父は帝国行きに渋るかもしれないが、結婚したとなれば連れ添うのが妻というものだ。認めなければ結婚はなしになる。結局は認めてくれるだろう。

 では友人に相談すればと思うが、彼女たちは全員が既婚者だ。独身のロッテを常々心配していた友人たちなら迷わず嫁に行けと言うに違いない。

 お屋敷のメイドはもってのほかだ。家庭教師のロッテを見下しているメイドに弁護士との結婚に悩んでいると相談しても、妬まれてからかわれるに決まっている。


 オスカルと再び会う日が近づき、思い余ったロッテはクラーラの店に行くことにした。


「し、失礼します…」

「はーい。いらっしゃい」


 とはいえクラーラの店といえば少女の憧れと評判だ。25歳のロッテには敷居が高く、小窓に飾られた綺麗なアクセサリーのあまりの自分とかけ離れた世界にめまいがした。店の前でうろうろと迷っているロッテを見かねたクラーラが店に招き入れたというのが正しい。

 店内には貴族の令嬢と思わしきドレスを着た少女と、どうやら庶民らしい服の少女がお茶をしながらのおしゃべりに興じていた。店のルールがあるらしく、彼女たちはロッテを見て、おそらく薹の立った女性を見て驚いた顔をしたものの、目礼をしてまたおしゃべりに戻った。ロッテはほっと息を吐く。


「ロッテ・マイヤーさんね。もしかしたら『マイヤー夫人の育児書』のマイヤーさんかしら?」


 クラーラについてはメイドたちの噂話で知っていたが、実物を見ると迫力がすごい。男の顔立ちに化粧を施し、服装も女性的なレースや刺繍がそこここについている。こまめに手入れをしているのか、髭剃り痕なども見られなかった。


「あ、はい。母ですわ」


 クラーラを不躾に見ていたことに気づいたロッテは慌てて返事をした。慣れているのかクラーラは気にした様子もなくにこやかに微笑む。


「母の本をご存知ですの?」

「ええ。特に『男女別育児指導法』は面白かったわ。10代の頃を「春を患う」なんて、素敵な表現よね」


 育児書を読んで面白かったという感想を貰ったことのないロッテは面食らった。このどう見ても未婚の男性?がどういった動機で読もうと思ったのだろう。

 考えが伝わったのか、クラーラは苦笑した。


「アタシはこんなんでしょう?男と女のなにがどう違うのか、知りたかったのよ」

「そ、そうですか」


 しかしいくら育児書でも、女になりたい男の心理など書いてあるはずがない。なにをどうすればこうなるのか、ロッテのほうこそ知りたくなった。


「ごめんなさい、話が脱線してるわね。ひとまずクラーラの店について説明するわ」


 一見の客には必ずしているクラーラの店についてひととおりの説明を受け、もてなしのお茶を飲み、ロッテは重い口を開いた。


「なるほどねぇ。マイヤーさんはそれでどうしたらいいのか悩んでる、というわけか」

「そうなのです。お相手の方が嫌なわけではないのですが、その…なんと言ったらいいか……」


 25歳にしてこのような感情を抱くようになるとは思ってもみなかったロッテは、ひたすら戸惑うばかりだ。


「そうねぇ…」


 クラーラは椅子の背もたれに寄りかかり、目を細めてロッテを見つめた。

 第一印象はいかにも家庭教師、といった、いかにも地味な娘だ。濃い茶髪に同じ茶色の瞳。しっかりとしていそうな気の強そうな顔立ちと、それに合ったかっちりとした服。襟と裾に申し訳程度につけられたレースくらいしかないそれは女性らしさが薄かった。化粧も最低限といったところだ。

 クラーラは立ち上がった。


「アタシを見てどう思う?」

「え……」


 いきなりのことに面食らったロッテはクラーラを見上げ、目があってしまい一度うつむく。クラーラが待っているのを感じ取り今度は思い切って観察をはじめた。

 パッと見は男か女かわからない。背の高さや肩幅から男だとわかりそうなものだが、体格の良い女性などいくらでもいる。声を聞かない限り見分けるのは難しいだろう。

男の部分を隠すように、首にはレースが重ねられ、肩の部分を膨らませたジゴ袖だ。袖口とスカートにはあえて膨らみを入れず、すっと伸びている。スカートに切り込みを入れたスリットからズボンが覗き見えていた。

 色は黒だが両肩から中央、スリットまで一直線に刺繍が施されている。縁取りは赤だが内側は白、全体的に落ち着いた華やかさがあった。

ロッテは次にクラーラの顔を見た。

濃くもなく薄すぎもせず、実に見事に化粧をしている。つい顎に目が行ってしまうが髭はやはり見当たらない。青い髭剃り痕も見えなかった。

目元を特に念入りにしているのか、黒で縁取られた目は大きく、睫毛が長く見える。衣装と合わせてあるのだろう、目元にほんの少しだけ赤が乗せられていた。口紅も同じ赤だ。大きな唇は微笑んでいる。

なによりクラーラからは自信が溢れていた。これだけ迫力のある美形をロッテは見たことがない。

 そんな人に微笑まれて見つめられて、赤くならずにいられるだろうか。ロッテは再び手元に目を落とした。


「あの、こんなこと言って良いのかどうか」

「良いのよ。言ってみて?」

「とても色気のある方だなぁ、と」


 まあ、とクラーラは大げさに驚くと、ころころと笑った。ロッテはますます赤くなった。


「つまり、そういうことなのよ。マイヤーさん、あなたに足りないのは色気、女性らしさね」

「必要ありませんわ」


 ロッテは咄嗟に否定した。家庭教師として、男に媚びるような真似はできない。

 座り直したクラーラはゆっくりと首を振った。


「マイヤーさん、何も男に媚びろと言っているんじゃないの。ドレスや化粧なんかはっきり言って見栄と張りよ。大切なのは、誰のためにそうしているか、なのよ」


 わかるかしら?と小首をかしげるクラーラは年齢を感じさせない可愛らしさだ。


「あなたの戸惑いは、男によって変わっていく自分を認めるのが怖いから。必要なのは勇気だわ。化粧や衣装は一番手っ取り早くてわかりやすい表現なのよ」

「変わっていく、勇気?」

「そうよ。お相手の方に恋してるんでしょう?素敵ね」


 お茶が切れたのを見て、クラーラが店の裏に入って行くと、ロッテは呆然と椅子に深く座った。

 恋。ロッテはその単語のあまりのインパクトに頭を抱えた。今更、この歳になって、恋なんて。どんな顔をしていいかわからず、クラーラが戻ってくる前に店を出ようと席を立った。


「恋って頑張ってするものじゃないのよね。うっかり落ちちゃうものなの」


 クラーラだった。後ろでは別席の少女たちも心配そうにロッテを見ている。


「そして、溺れるものでもない。…恋に落ちたのなら、最後まで泳ぎ切りなさい。それが誠意ってものでしょ」


 叶うにせよ破れるにせよ、自分の心に嘘をついて見てみぬふりをするのが一番悪いことだ。閉じ込めた想いはいつか必ず決壊する。


「誠意…?」

「そうよ。あなたの心を裏切るの?自分で自分に嘘をつく人を、誰が信用できて?」


 後ろの少女たちが全力でうなずいている。ロッテは反論しようと口を開き、言葉が出てこずに閉ざした。唇を噛む。


「年齢や階級、親。いろいろしがらみがあるわよね。でもきっちり決着をつけないと、周囲を巻き込んでとんでもないことになるわよ」


 クラーラの言葉には実感がこもっていた。彼がこのような姿になるまでに、きっといろいろあったのだろう。

 恋をしたのは今は遠い過去のことで、ロッテには正直よくわからない。もっと楽しかったような気がした。大人の恋とはこうも悩ましいものなのだろうか。

 うながされて席に戻ったロッテは考える。はじめて会った人に、いくら気が合ったとはいえ恋に落ちるのだろうか。

 出されたお茶は先程のものとは違うハーブティーだった。爽やかな香りが気持ちを落ち着かせる。


「…まあね、まだよくわからないって気持ちもあるのでしょうし、いきなり相手を落とせというのは無理よね」

「落とせって…クラーラ様、下品ですわよ」

「あら失礼。ロッテさん、次に彼と会うのはいつ?」

「5日後です」

「5日ね。それなら間に合うかしら」


 ふむ、と少し考えて、クラーラが持って来たのは余計な飾りのないシンプルな小瓶だった。


「こっちが洗顔後の化粧水、こっちが化粧水の後の美容液。これは寝る前につける美容液。とりあえず試供品で試してみて。あとは、お化粧ね」

「3つもあるんですか?」

「序の口よぉ、こんなのは。ご婦人方はもっとたくさん使い分けしてるわよ」


 次にクラーラが出したのは化粧箱だった。がばっと開けられたそこにはロッテが見たこともないほどの化粧品が入っていた。


「こ、こんなに、何に使うんですか?」

「お化粧に決まってるじゃない」


 やあねえ、というクラーラは意外なほど丁寧な手つきで次々に取り出して行く。肌色を整えるファンデーション。頬の色を出すチーク。目に力を入れるアイシャドー。そして口紅。ロッテの目には同じ色にしか見えない口紅が何本もあった。


「発色が違うのよ。肌の色も人それぞれだし、季節によっては日焼けするでしょ。それになにより、」

「なにより?」


 わざわざ区切ってまで言うのはどんな理由が。息を飲むロッテに、クラーラは真剣な顔で言った。


「可愛いのよ!化粧品って!見て、この入れ物の細工!最近流行の螺鈿をイメージしているらしいの!」


 チーク用のコンパクトを前にはしゃぎまくるクラーラに、ロッテは脱力した。

 購買層が女性なだけあって、化粧品はどれも可愛らしい装飾が施されている。購買意欲を上げるために各社も必死だ。そしてそういう化粧品というのはたいてい値が張る。こだわりのないロッテは手の届く範囲のものしか使ったことがなかった。


「冗談はさておき」


 いや、どう見ても本気だった。こほんとわざとらしく咳払いまでするクラーラにじとっとした目を向ける。


「ロッテさんの化粧はファンデーション、チーク、口紅といったところかしら」

「…はい」

「アタシと同じだけ揃えろとは言わないけど、もう少しあったほうがいいわね。特にアイメイクひとつで印象が変わるから、覚えておいたほうがいいわ」

「お屋敷で教えている時は化粧をしないんです」

「ああ、なら余計にしなくなるわね」


 普段化粧をしないのには理由がある。どうせ無駄になるからだ。外でスケッチの時など、どんなに注意しても子供は走り回り泥だらけになる。怪我をしないか、無茶をしないか、ロッテはいつも子供の後を追いかけなくてはならない。アナベルは女の子だからまだいいが、マルクスは男の子だけあって体力と好奇心が半端ない。外の授業はハラハラし通しだ。


「しないでいるうちに、なんだか面倒になってしまって」

「それならなおさら良い機会だわ。こんな面倒なこと、見せたい男でもいなきゃできないでしょ」


 たしかに。

 基礎化粧品だけでも最低3つ、下地やファンデーション、チーク、アイメイク、口紅と使い分け、時と場所によって変化させる化粧はもう女性のマジックだ。すっぴん見た男が騙された!となる話は古今東西転がっている。

 ロッテは深く深くうなずいた。




感想・評価ありがとうございます。励みになります。


家庭教師=お堅い女性というイメージからぽんと浮かんだ名前です。どこかで聞いたことあります。

長くなったので前後編にしました。

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