セミと猫と第三者
近頃のセミはおかしい、とある蒸し暑い夏の夜に私は思った。セミといえば早朝に鳴き出して昼を過ぎた頃には静まる、そんな律儀なイメージが昔からあるのだが、近頃の奴らは自由である。朝はいくら明るくなっても鳴き出さないかと思ったら、昼に遠慮がちに鳴き出したりする。すぐに静まったと思ったら夕方に本領を発揮したりする。そして夜中に狂ったように合唱を始めるのだ。
……ツクツクホウシ……ツクツクホウシ……ツクツク……ホウシツクツク……ツクツクツクツクイーヨイーヨジジジジ……
今夜も奴らは狂っている。大体、鳴き方だっておかしいのだ。別の虫のように、鳥のように、もしくは人のように鳴いたりする。我を忘れたかのように鳴き続ける声を聞いていると、こちらが切なくなってくる。
……ジジジッ、ダッ、ジジジジッ……ダッ、ダッ、ダッ……
しかも奴らは木で過ごすことに飽きてきたようである。隙を窺っては人や網戸にぶつかってきたりする。そんな時の奴らは本気だ。髪の毛に体中をがんじがらめにされながらも羽をもぐ勢いで羽を広げようとしたり、体が壊れて内臓が網戸にくっつこうとお構いなしにひたすら激突し続ける。近頃の奴らは狂気である。
……ジジジジッ……バッ……
耳慣れない音が聞こえて窓のほうを向くと、網戸が破れて一匹のセミが部屋に侵入している。いつも狂ったように飛び回っている奴らからは想像もつかないほど、おとなしい奴だ。おとなしく、しかしセミ以外の生き物には到底見えないセミらしい格好で、警戒するようにこちらを窺っている。この小さな侵入者に部屋を荒らされないよう、こちらも不用意には動かない。
「こんばんは」
こっそり呟いてみた。もちろん返事はない。身じろぎもせず侵入してきた時のままの格好でこちらを静かに窺っているだけだ。近所の猫の鳴き声が聞こえて、ふと気付けばセミの鳴き声は全てやんでいる。こんなに静かな夜はいつぶりだろうか、なんて考えてみても思い出せず、こんな不思議な状況で私の妄想は広がり始める。きっとこのセミは奴らの中の王様で、私に何か用があってやってきて、ほかの奴らは王が私と話をするのに邪魔にならないよう静かに控えているのだ。そこまでの願い、聞いて叶えてやらなければと思うが、セミの言葉はわからない。王は人語を話せるだろうか。毎晩、おかしな鳴き方をしていたのはもしかしたら人語を練習していたからかもしれない。いつ話すか、いつ話すかと王を見つめていると、外でまた猫の声がした。心なしか王が身じろぎをする。
……バババッ……
大きな音がして驚いてそちらを見ると、今度は猫が侵入している。出会うたびに挨拶するのにこちらのことを見てくれさえしないつれない彼女だが、私の部屋に侵入してもなお、私のことは全く眼中にないようである。普段ゆったりと優雅に歩く姿からは想像もつかないほど鋭い捕獲者の目つきで、王を見つめて威嚇している。そして彼女が右の前足を踏み出した途端、王が羽を広げて部屋中を飛び回り始めた。時々床に落ちる王の血が、先ほどまで網戸にぶつかっていたのは彼だということを主張する。王に負けじと、捕獲者も部屋をかけまわる。私の部屋だということなど気にもかけない様子で両者は派手に動き回る。そして。
「あっ……」
ついに捕獲者が王を捕えた。助けを求めるかのように一瞬こちらを向いた王は、一瞬にして息絶えた。捕獲者はまたいつもの優雅な彼女に戻り、王の羽のみを残して部屋を荒らした謝罪もなしに悠々と部屋を出ていく。
「王よ……」
恐る恐る静かに近づき、恭しく、残された羽を拾い上げる。王の唯一残された羽は血まみれで、傷だらけで、力を入れればすぐに崩れてしまいそうなほど薄い。結局、願いを聞けないままに王は逝ってしまった。せめて王の羽を奴らに返してやろう、と網戸に近づくとそこにあるものに気づいて涙がこぼれそうになる。
「たすけて」
王の血と、内臓が、網戸に文字を残していた。毎晩毎晩、執拗に網戸にぶつかってきていたのは私に助けを求めるためだったのか。昼間に私の髪に絡まってきていたのはこの言葉に気付かせるためだったのか。鳴き方がおかしかったのは仲間の死を悼んでいたからなのか。夜中に狂ったように鳴いていたのは彼女と乱闘を繰り広げていたからなのか。
羽を返そうと木を見上げても、奴らの影はない。声をかけてみても、奴らからの返事はない。
そしてその日から、奴らはいなくなった。
サークルで書いた作品です。
地味に個人的お気に入り作品だったりします。
途中まで、実話です。(どこまででしょう)