表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/27

A.D.2007 日本

※【 / 】内の記述は好きな方をお選びください。



 【僕 / 私】こと刈羽(かりば)(すばる)大英吸血帝国ヴァンパイア・キングダムにやってきたのは、こういうわけだ。




 姉が死んだ。16歳だった。

 事故死である。飲酒運転のトラックにはねられたのだ。慌てふためいて逃げようとした間抜けな運転手のおかげで、トラックに引っかかった姉の身体は数百メートル引きずられることとなった。


 遺体は原形を留めない、見るも無惨な状態だった――らしい。というのも、【僕 / 私】は姉の死を知った瞬間に意識を失い、我に返ったとき既に姉は小さな壺の中に入ったカルシウムの塊になっていたからだ。親戚の話では亡霊の如き様相で葬儀に参列していたらしいが、全く記憶にない。


 そして今、【僕 / 私】は姉の部屋にいる。正確には2人部屋の、姉が使用していたスペースにいる。2人で使っていたときは狭苦しさしか感じなかった室内は、1人で使うとなると無駄に広く感じた。


 もう小一時間、立ちっぱなしだ。姉の遺品を片付けるために入ったのだが、死者とはいえ姉のプライバシーに踏み込むのは気が引けた。そもそもまだ姉を喪った実感が乏しい。今にも本人が帰ってくるような気がしてならない。

 それが気のせいでなければ、どんなによかったか。


 だがいつまでもそんな悠長なことは言っていられなかった。【僕 / 私】の復調を待たずに姉の遺体が荼毘にふされてしまったように、時の流れはいつだって【僕 / 私】達を待っていてはくれないのだから。


 そして、時間の流れ以上に父の気は短い。あの男に、姉の形見を荒らされたくはなかった。


――ねえ、すーちゃん。もしお姉ちゃんが病気や事故で死んじゃったら。


 姉は時折、自分が死んだときどうすべきか【僕 / 私】に指示してくれていた。


――お葬式のことなら心配ない。あいつは外面が良いから、完璧にやる。表面上は。内心、金の無駄だの余計な手間だのって腸が煮えくりかえってるだろうけど。


 姉の言葉はいつだって正しい。まるで予言者のように。

 【僕 / 私】は学習机の2番目の引き出しを開く。二重底になっていて、上蓋を外すと封筒が1つ入っていた。中を覗くと10人の福沢諭吉が現れる。

 姉があの男から必死に隠してきた全財産だ。何があってもこれだけは手に入れろ、あの男に使われたら浮かばれない、と冗談交じりに厳命されていたのだった。命令を果たせたことに安堵する。


 事故の賠償金はどうなったのだろう、とふと思った。いや、考えないことにしよう。どうせ手に入らない金である。それよりも形見だ。さっきの金とは別に、何か形として残る、形見らしい形見が欲しかった。【僕 / 私】にとっても姉にとっても馴染み深い、できれば姉の体温を感じられるような何か。ポケットに入るくらいならなお良い。

 幼い頃に姉と取り合いをした、小さな熊のぬいぐるみを思い出す。【僕 / 私】の言うことには大抵の場合最終的に折れてくれる姉も、あれだけは譲ってくれなかった。出て行った母に買ってもらった物だったからだろうか。

 あれはどこに行ってしまったんだろう。ああそうだ、八つ裂きにされて燃えるゴミに出されたのだった。父は母の残り香の一切を許さなかった。おかげで【僕 / 私】は母の顔を知らない。


「おい、まだ終わらねえのか」


 突然背後から声が投げつけられて、心臓が縮み上がった。条件反射的に噴き出た汗でシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。強張った首の筋肉を動かして振り返れば、階下で酒を呑んでいたはずの父が部屋の入口に立っていた。


「と――とー、父さ、さん」


 【僕 / 私】の声は情けないほど震えていた。いくら殺してやりたいほど憎い相手でも、長年の暴力と恫喝によって本能に刻み込まれた恐怖は拭えない。


 父は不機嫌に狭い室内を見回す。すぐ、床に置かれたままの空っぽのゴミ袋に気がついた。


「いつまでかかってんだグズ!」


 受け身を取る暇もなく、飛んできた鉄拳によって【僕 / 私】は吹っ飛んだ。倒れた拍子に姉と【僕 / 私】の使用領域を隔てるカーテンを掴んでしまった。安っぽいカーテンは音を立てて裂けた。その向こうに置いていた小物入れが倒れ、中身が散乱する。


「なにやってんだ、散らかしやがってよぉ!」


 腹を蹴られる。顔を蹴られないということは、まだ今日は理性が残っている方だなと思った。


「てめえがやりますって言うから任せたのに、何もしないで油売ってただけか? 使えねえな、ああ!? でかい方が生きてりゃまだ使い道があっただろうによ!」

「……ごめんなさい。これからやりますから……」


 終わるまで飯は喰わさねえぞ、と吐き捨てて父は出て行こうとした。だが、急に立ち止まる。振り返ってある一点を見つめる。その視線の先にあるものを見て、【僕 / 私】は心底絶望した。


 なんということだ、倒れた拍子に封筒を手放してしまった! しかも、よりにもよって部屋のど真ん中に落とすだなんて!


 父は封筒を拾い上げる。中身を確認し、下手糞な口笛を吹いた。


「あのクソガキ、ため込んでやがったな」


 まだ起き上がれない【僕 / 私】を、父は踏みつけた。


「ネコババしようと思ったか? 駄目駄目、悪の栄えた試しはないんだよ。どうせおまえが持ってたって、くだらないことに使うだけだ。それじゃ死んだお姉ちゃんも悲しむぞ。これはお父さんが有効活用しておくからな」

「――――!」


 死んだ姉さんが、悲しむ? それはおまえに使われることだ! そしてそれは、【僕 / 私】が命に替えても阻止しなければならない。それが姉さんの命令なのだから。


「出かけてくる。帰ってくるまでに終わらせとけ、いいな」


 父は鼻歌を歌いながら部屋を出て行く。階段の手摺りに手をかけた。

 駄目だ、行かせては。【僕 / 私】は起き上がろうともがく。手が何かを掴む。それが重いものであることを察した瞬間、【僕 / 私】は行動を起こしていた。


「へやあああああああああああ!」


 ゲームに出てくるザコモンスターだってもっとかっこよく力強い咆哮をあげるだろう。自分のあげた叫び声の情けなさに、かえって勢いが削がれてしまった。


 それで、【僕 / 私】の振り下ろした腕は軽々と受け止められてしまった。


「ハハッ、何してんの、おまえ」


 父が左手に力を込める。右手に激痛が走り、【僕 / 私】は手に持っていた『武器』を取り落とした。床にドスンと落ちたそれは、武器としてはあまりにも頼りない、ただの国語辞典だった。


「おまえ、こんなんで俺をどうにかできると思ったの?」


 確かに何故こんなものが人を殺せそうな武器に思えたのか、自分でもわからない。


「こんなはした金にそこまでムキになっちゃって、まあ。馬鹿だね、おまえ馬鹿だね」


 父に腕をひねられて、【僕 / 私】は情けない悲鳴をあげてしまった。振り解こうとして藻掻いてみたが、余計に痛みが増すばかりで全く脱出できそうにない。学生の頃はラグビーをやっていたのがこいつの自慢だ。対する【僕 / 私】は運動音痴の欠食児童である。


「厳しく躾けてきたのにな。父親に暴力を振るうような不良息子になってお父さん悲しいよ。まあ、あのアバズレの血を引いてたんじゃ無理もないか。でも喜べ、お父さんおまえを見捨てたりしないよ? 将来犯罪者にならないよう、きっちり躾け直してやるよ」


 くっひっひ、とアルコール臭を撒き散らしながら父が笑う。大義名分の元に弱者をいたぶることこそが、人間にとって最大の快楽――父と数年間過ごした中で【僕 / 私】が学んだ真理の1つだ。


 もう駄目だ。【僕 / 私】は固く目を閉じて身構えた。涙がもうにじみ出てきた。苦痛はもはや避けられない。頭の中は悲しみと絶望でごちゃごちゃで、打開策なんてどうやっても見つけられっこなかった。


――その時、姉に呼ばれたような気がした。


 幻聴だろう。だがその瞬間、【僕 / 私】は打開策を『発見』した。父親に対する本能的恐怖は最初からなかったかのように消え失せる。

 右手1本で宙吊りにされた状態で、【僕 / 私】は膝を曲げた。

 狭い廊下だ。階段とは反対側の壁に足裏がくっついた。水泳でターンをするときのように、力いっぱい、蹴る。


 頭の中で人を殺すことを罪に数えるなら、【僕 / 私】はシリアルキラーだ。被害者の9割は父。暇さえあれば父殺しを無双するのが数少ない趣味だった。できるだけ現実的に、可能な限り具体的に。

 その中の1つが現実に実行される時が、ついに来たのだった。


 何度も何度も何度も何度も何度もシミュレートしていたので、自分でも驚くほどスムーズに実行することができた。てこの原理だのなんだのは、もはや意識するまでもなかった。姉が死んだ今、自分自身の安全を考慮する必要すらない。


 父は踏み留まろうとして、しかし突然ぐらりと体勢を崩した。【僕 / 私】は駄目押しにもう一度壁を蹴る。

 【僕 / 私】と父の身体は階段を転げ落ちていった。




「……畜生」


 不幸にも、2人とも生きていた。そして幸いなことに、【僕 / 私】よりも父の方が重傷だったようだ。父の頭から血が出ている。起き上がろうとして、だが奴は叫び声を上げてまた寝転がった。あちこち骨を折ったらしい。


 【僕 / 私】はといえば軽傷だった。右腕が痛む。落ちる直前まで掴まれていたからなのか、落ちていく途中で折れたからなのかはわからない。

 だがどちらにせよ、先に立ち上がって、玄関に置いてあるゴルフクラブを握りしめ、寝転がる父へ振り下ろすのに支障はなかった。


 振り下ろすたびに父はみっともなく悲鳴をあげた。カラスのようだ。一際高く鳴く場所があったので、そこを重点的に攻める。きっと骨が折れたところなのだろう。

 幸い、今は平日の昼間だった。両隣は共働きなので誰もいない。いるのは忌引き中の【僕 / 私】達と、向かいに住む引きこもりのオジサンくらいだ。オジサンは絶対に部屋から出ない。警察に通報することもないだろう。夜になれば母親経由で文句をつけてくるかもしれないが。


「信じられねえ……この畜生……」


 ベソをかきながら、血まみれの男は呻いた。


「普通、親を殺そうとするか……? これっぽっちの金のために……? 畜生、恩を仇で返しやがって……」


 何か面白いことを言うかと思ったから待ってやったのに、期待を裏切られた。攻撃続行。男は動かなくなった。息はしているようだが、目の錯覚かもしれない。どっちでもいい。


 終わってみれば不思議だ。何故、もっと早くこうしなかったのだろう。


 以前、友人の1人に父親からの暴力を打ち明けたときは「さっさと家を出るか、寝込みを襲えばいい」という有難いアドバイスをいただいた。それができれば苦労しない、おまえは東大に入りたいと思えば明日にも入れて、空を飛びたいと願えば今すぐ翼が生えてくるのか――と思ったものだったが、きっかけさえあれば、難関校に合格したり鳥類に生まれ変わったりするより、ずっと簡単だった。


 まあ、やろうとしてできるものではない。半分以上、運というか巡り合わせの賜物だ。シミュレーションはシミュレーションに過ぎない。父の酔い加減によっては【僕 / 私】の蹴りなどではびくともしない可能性だってあったし、落下時に【僕 / 私】の方がダメージを受けていた可能性だってあった。


 姉の遺産は階段の途中に落ちていた。1枚も抜き取られていないことを確認する。

 父を倒した今なら事故の賠償金も手に入るのではと、欲の心が身をもたげる。少考、のちに断念。どうせ現金化はされていまい。カードの暗証番号はわからないし、わかっても子供が大金を引き出せば怪しまれる。

 だから、この金だけは死守する。1円だって渡すものか。


 自分の部屋に戻って、ボストンバッグを引きずり出す。中には数日分の衣類と保存食、その他日用品などが入っている。父に復讐を果たせる果たせないにかかわらず、姉の遺産を持って家を出るつもりだったのだ。


 バッグに引きずられるようにして玄関まで降りる。父を殺した高揚感で脳髄がハイになっているのだろう、身体の痛みはむしろ心地いいくらいだった。

 だがふと鏡を見て、【僕 / 私】は自分が血で真っ赤なのに気付いた。まったく、【僕 / 私】はこれだから――。自分の鈍くささに辟易しながら引き返してシャワーを浴びる。いつもはお湯や石鹸を使えば殴られたが、もうかまうものか。父だけが使うことを許されたシャンプーから必要以上に中身を出す。なかなか泡立たなかったが、数回洗い流すとコマーシャルでやっているような状態になって、満足した。


 ぬるぬるした金気臭い汚れが落ち、身体が温められていく心地よさにうっとりする。もしかしたらいつか見たドラマみたいに、血の汚れが取れない妄想に囚われるのではないかと不安だったのだが、そういうことは全くなく、数分もすれば少なくとも主観的には綺麗になった。やはりドラマはドラマに過ぎないのだな、と思う。


――すーちゃん知ってる? 海の向こう、そのまた向こうにはね、吸血鬼の国があるの。


 ずっと幼い頃、姉が読み飽きた童話の代わりに語ってくれた話を思い出した。海の向こうどころか家の窓から見える範囲だけが世界の全てだった【僕 / 私】にとっては奇想天外の話だったが、それはこの世界にとって当たり前の一般常識だった。


――すーちゃんが生まれるずっと昔に、とても怖い病気が流行って、沢山の人が死にかけたのね。そこである国の王様は悪魔と契約して、国民全員を吸血鬼に変えてもらった。ああ、元々は人間だったから鬼と呼ぶのはよくないわ。吸血人(きゅうけつびと)と呼ぶの。吸血人は長生きで、病気に罹らないうえに腕力がものすごくて、そう、お父さんよりもずっと強いの。それで1度は吸血人の国が世界を支配しそうになったけど、吸血人は物語の中の吸血鬼と違って、最強ではあっても決して無敵ではなく、不死でもなかった。それで今は、人間と折り合いをつけて仲良く暮らしているんだって。


 そして姉は言ったのだ。


――いつかお姉ちゃんと2人でそこへ行こうね。


 当然、【僕 / 私】は血を吸われる心配をした。


――昔は兎も角、今は吸血人と人間は仲良くしてるの。そりゃ血は採られるけど、その代わり援助があって、お姉ちゃんとすーちゃんだけでも充分暮らしていける。お父さんもお母さんも要らない。ね、そうしましょう?


 姉は本気だった。渡航費と当面の生活費を貯めるだけでなく、現地の言葉を話せるように勉強も欠かさなかった。英語だけなら学年トップクラスというのが姉の自慢だった。ただ父殺しの夢想に逃避していた【僕 / 私】と違い、姉は現状から抜け出そうと足掻いていたのだ。


 けれど現実は残酷だ。父、そして【僕 / 私】という重荷を抱えながら我慢して、努力して、頑張って頑張って、その果てにくだらない事故に巻き込まれて彼女は死んだ。あるいは理想郷の実態に打ちのめされずにすんでラッキーだったのかもしれないが、何という甲斐のない人生だろう。


 姉の堅実な努力は水泡と消え、それを嘲笑うかのように【僕 / 私】の非生産的な逃避は現実に活かされた。

 この世界は、なんて理不尽なのだろう。


 こうしてのんびりしている間に父が起き上がってくるかもしれない。だけど【僕 / 私】はあえて、1度はあきらめた姉の形見探しを再開した。最終的に、姉が子供の頃愛用していたヘアゴムに決めた。


 ヘアゴムには翡翠色の蝶が飾られている。ただしその右羽は大きく欠けていた。なのに捨てられもせず大事に仕舞われていたところをみるに、姉にとっては思い出深い一品だったのだろう。大きさ的にも申し分ない。ポケットに入れると壊れそうな不安があって、【僕 / 私】は自分の髪にそれを結んだ。


 今までずっと【僕 / 私】は姉に守られていた。姉におぶさって生きてきた。だからこれからは【僕 / 私】が姉をおぶって生きていこう。【僕 / 私】が彼女を夢の場所に連れて行こう。もしかしたら、自分の努力の成果を横からかっさらった【僕 / 私】を姉は天国から呪うのかもしれないが。




 【僕 / 私】こと刈羽昴が大英吸血帝国ヴァンパイア・キングダムにやってきたのは、そういうわけだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ