第11話『鞭打ち』
肖像画の前を通り過ぎ、角を曲がった突き当たりにラマイカさんの父、ドーンレイ・ヴァンデリョスの部屋はあった。
「旦那様、【坊ちゃま / お嬢様】とカリヴァ様が」
「入ってもらえ。ああナローラ、電気を点けてくれ」
「かしこまりました」
真っ暗な部屋に弱い光が灯る。雑食人が使うには暗すぎるが、【僕 / 私】がドーンレイ伯爵の姿を見るには充分だった。
伯爵は執務机に座っていた。それまで目を通していた書類を机に置き、パーティの時にはかけていなかった眼鏡の奥からじろりと【僕 / 私】をねめつける。
「どこかで会った……そうか、懇親会でチープWGに乗っていた子か」
「覚えていただいて光栄です、伯爵」
「まず、私は君に謝っておかねばならない。今回の件は全て、愚かな我が【息子 / 娘】の責任だ」
「…………」
知っているのだな、とドーンレイ伯爵はため息をつく。はい、と【僕 / 私】が答えると、隣に立つラマイカさんが気まずそうに身をよじる気配がした。
「【僕 / 私】の命を狙ってきた男達から聞きました。貴族にとって血婚相手というのは目障りなものらしいですね。犯罪を犯してでも殺したいほどに」
「下級貴族の暴走は我々も頭を悩ませている。権力を持つ者が自ら社会秩序を無視すれば、自らが拠って立つ権威を損なうと彼等は理解しないのだ」
凍った湖の上で足元の氷を割ってかき氷を作るようなものだ、と伯爵は補足した。喩えの出来はともかく言いたいことは理解したが、それは社会を動かす上級貴族様がなんとかすべき問題で【僕 / 私】には関係ない。
それを口には出さなかったが、【僕 / 私】の不満は表情にありありと浮かんでいただろう。伯爵は複雑な顔をした。
「君の怒りはもっともだ。今回の件を有耶無耶にするつもりはないが、それでも君の憤懣は収まるまい。ラマイカよ、何か申し開きはあるか」
「……はい、ありません、父上」
「ならば、おまえは罰を受けねばならない」
ラマイカさんが緊張した面持ちで前に出る。伯爵は立ち上がった。机の引き出しを開け、何かを取り出す。
「ナローラ」
「はい、旦那様。……失礼いたします、カリヴァ様」
ナローラさんが背後から【僕 / 私】を抱きしめ、部屋の隅に運ぶ。彼女の柔らかい膨らみが後頭部に押しつけられたが、ヴァンデリョス親子の間に流れる張り詰めた空気はその感触に浮かれることを許してくれなかった。
ラマイカさんは足をやや開いた状態で腕を腰の後ろで組み、胸を張る。ドーンレイ伯爵は手の中の物を振った。その先端が床に当たり、大きな音を立てる。
それは鞭だった。それも銀色の鋭い棘がついた、イバラのような鞭だ。ラマイカさんの顔が強張る。
躾や体罰の本来的な目的とは、決して保護者の嗜虐心を満足させることではない。痛みと恐怖を与えることで、より大きな苦痛を伴う危険や堕落から子供を遠ざけることだ。
だが吸血人は並大抵のことでは痛みというほどの痛みを感じないし、傷もすぐに治る。
よって、罰を与える道具もそれに合わせて強化されていった。
伯爵の持っている鞭は人間に使えば致命傷を与えうるほどのものだ。更に棘を形成する銀は吸血人の回復能力を阻害する効果がある。
それが、容赦なくラマイカさんに叩きつけられた。
1発、2発――。伯爵は【息子 / 娘】を殺すつもりだろうか? 衣服など紙切れほどの護りにもならない。当たった部分の肉が弾け、骨が削れ、血が噴き出す様は、まるで体内に小型の爆弾が埋め込まれていたかのようだった。
それでも4発目までラマイカさんは立っていた。しかしそれも膝が半分以下の太さになってしまっては無理だった。
伯爵はそれでもやめなかった。ラマイカさんは身体を丸め、ただ終わるのを待つしかできない。
胸が締め付けられる。喉が焼け付くように痛み出した。
「――やめ――やめなさいよ!」
ナローラさんの腕を振り払い、【僕 / 私】は親子の間に飛び込む。伯爵が目を見開くのが見えた。
彼の鞭さばきは実際たいしたもので、でなければ【僕 / 私】の身体は真っ二つに裂かれていただろう。死の鞭は寸前で軌道を変えて【僕 / 私】を避け、壁にヒビを入れて止まった。
「何をする、危ないじゃないか」
「それはこっちのセリフですよ! もういいでしょう!?」
「……ナローラ、抑えておけと言ったのは通じていたと思ったのだがな」
「申し訳ありません。まさか、あれを見た上で止めに入るとは予想しておりませんでしたので。……私にも罰をお与えいただけますか……?」
何故かナローラさんはうっとりとして言った。
伯爵は苛立ちを抑えるためか、大きく息をついた。
「カリヴァ君、これは君のためでもある。馬鹿【息子 / 娘】のせいで、君は殺されていたかもしれないんだぞ」
「わかってますよ……! でも、目の前でラマイカさんが血だるまになれば、【僕 / 私】の溜飲が下がるって思いましたか? 【僕 / 私】は、【僕 / 私】は――」
視界がぶれた。今更死の恐怖を覚えたのか、【僕 / 私】の足はガクガクと震えていた。
自嘲しようとして、ふっと気が遠くなる。
そのまま、【僕 / 私】の意識は闇に呑み込まれていった。
ノックの音がした。
「スヴァル君、起きているか?」
名前を呼ばれたことが、意識の覚醒を促す。【僕 / 私】はベッドの上に横たわっている自分に気づいた。姉と使っていた2段ベッドや、宿舎のそれとは比べるのもおこがましい高級な寝台だった。広いし、シーツはすべすべだし、なによりマットレスが柔らかい。ナローラさんの胸ほどではないけれど。
「――カリヴァ君?」
「あ――はい、ラマイカさん」
ドアの向こうから【僕 / 私】を呼んでいるのはラマイカさんの声だった。
「今、開けます」
「いや、いい。このままで話をさせてくれないか。今の私の顔は、まだとても人様に見せられる状態まで回復していないのでね。悪夢が見たいなら話は別だが」
「わかりました、やめときます。……あの、なんで【僕 / 私】、こんなところで寝てるんでしょう?」
「おぼえていないのか? 私をかばって倒れたんだ。二重三重に迷惑をかけてしまったな」
【僕 / 私】は自分の身体を見る。私服は寝間着に替わっていた。誰に着替えさせられたのかは考えないようにした。
「どうか父を憎まないでもらえるだろうか、カリヴァ君。彼は父親として、ヴァンデリョス家当主として当然の行動を取ったまでだ。私が悪かったのだ、私が……」
ドアの向こうから聞こえるラマイカさんの声は普段の【彼 / 彼女】とは一転して弱々しく、本当に扉の向こうで喋っているのがラマイカ・ヴァンデリョス本人かどうか、確認したい欲求をおぼえた。
「なんであんな馬鹿な真似をした?」
「一晩のうちに、2度も目の前で人に死なれるのが嬉しい人、いるはずないでしょう?」
「それが君の不幸の元凶だったとしてもか?」
「…………」
「なあカリヴァ君、実は私は、別に君のことが好きで血婚を申し込んだんじゃないんだ」
花婿候補といっても、彼等はラマイカさん個人に興味はない。伯爵家の利権が欲しいだけに過ぎなかった。貴族同士の結婚とはそういうものだ。だけどラマイカさんはそれが嫌だった。臨時講師として積極的に『平民の世界』に接していたことや、20年前に嫁いだ2番目の姉があまり幸福ではない結婚生活を送っていることがそれに拍車をかけた。
「だから、貴族としてあるまじき振る舞いをすれば気持ち悪がって向こうから逃げてくれる、なんて思ったんだ」
それがこんなことになるなんて、私はもうどうやって償ったらいいかわからない。とラマイカさんは絞り出すような声で言った。
【僕 / 私】はといえば、どういう言葉をかけたらいいのかわからないでいる。
「懇親会のことは記憶しているか?」
「……はい」
思い出そうとすれば必然的にシスターや宿舎のみんなのことも思い出してしまう。【僕 / 私】は何も考えまいとした。
「君のチープWGの操縦はよかったよ。仕事で実機に乗っている身としても惚れ惚れするくらいだった。それと、その後で偶然にも少し話す機会があったから、私はもう、この子でいいやと思った。その程度の気持ちだったんだ。つまりは誰でもよかったんだ」
「知ってました」
「そうなのか?」【彼 / 彼女】は笑ったようだった。「……君はすごいな」
「は……?」
「そんな相手のために身を投げ出す勇敢さと高潔さを、君は持っているのだな。敬意に値する」
「…………」
「……なあ、もし、一連のゴタゴタが片付いたら、私と……」
「ラマイカさんと?」
「……いや、何でもない。今口にするのは破廉恥だったな。忘れてくれ」
「?」
「もう私は寝るとするよ……寝られたらの話だが。明日以降のことは起きてから考えよう。おやすみ、カリヴァ君。良い夢を」
規則正しさとは縁遠い、這うような足音が遠ざかっていく。
【僕 / 私】の心の中は罪悪感で満たされていた。
違うんだ、違うんだよラマイカさん。【僕 / 私】があそこで割って入ったのは、勇敢だからでも高潔だからでもないんだ。あなたを助けようとしたわけですらない。
鞭打たれるあなたに、姉の姿を重ねてしまったからなんだ。
それがどんな理由であれ、親に暴力を振るわれる子供を見るのが耐えられなかっただけなんだ。
姉が父親に暴力を振るわれている間、【僕 / 私】は自分に被害が及ばないように息を殺してうずくまっていることしかできなかった。姉に何もしてやれなかった。
助けたかったのは本当だ。けれど事実として何もできなかった――何もしなかった。
あの鞭に比べれば父の拳などたいしたものではなかったはずなのに、何故あの時の【僕 / 私】は飛び出していけなかったのだろう? いつ自分があんな蛮勇を習得していたか知らないが、今更それが何の役に立つ?
ラマイカさんや、あるいは今後何人も救ったとしても、もう、姉を助ける機会は永遠に訪れないというのに。シスター・ラティーナもそうだ。チャシュマもフメリニツキーもトリーリョも――死んでしまった者は救えない。伊久那だってたぶんもう会えない。【僕 / 私】の助けたかった人達は、もう。
こんな勇気なんか、今更何の役に立つというんだ。
この先何度巡り会えるかわからない上等なベッドなのに、それを楽しむ気分にはなれなかった。上質な薄い夏用の布団を頭まで被って、【僕 / 私】は静かに泣いた。