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A.D.1353 モラヴィア


 地獄への入口――。


 その洞窟を前にして、チャールズ・ブルフォードは幼い頃聞かされた昔話を思い出していた。

 死せる恋人を黄泉から連れ戻さんとする吟遊詩人の物語。だがこの洞窟の奥で彼が会わねばならない相手は、そんな甘酸っぱい相手ではなかった。


 松明(たいまつ)のみを頼りに闇の中を往く。途中何度も蝙蝠の群れに襲われた。装備したプレートメイルが傷だらけになるほどの手荒い歓迎。軽装で来ていたら、と思うと胃袋がキュッとしめつけられる。だがそれ以上に、自分自身の心が暗闇に描き出す恐怖の方が恐ろしかった。男はひたすら無心で先を急いだ。


 最下層に辿り着くまで、主観時間で3時間は歩いただろうか。彼の眼前には天然の大広間が広がっていた。王宮のそれよりずっと広大だ。天井には鍾乳石のシャンデリアが松明の灯りを反射してきらめき、床には氷の絨毯が敷き詰められている。地上は真夏だが、地底湖は凍結していた。


「王よ!」


 ブルフォードは呼びかける。吐息は白い靄となって舞った。


「偉大なる闇の王よ! 私はチャールズ・ブルフォード! イングランドの王エドワードの命により、参上いたしました! どうかお姿をお見せください!」


 声は地下空洞にこだましたが、それに応える者はいない。

 ブルフォードは呼びかけを繰り返した。かの吟遊詩人は恋人の蘇生に失敗したが、彼に失敗は許されない。彼の肩にのしかかる命の重みは百人や千人ではないのだ。


「闇の王よ、深淵を統べる時の覇者よ――、どうかこの哀れな小さき者の呼びかけにお応えください! 貴方様がここにおわすことは知っております! 死の病に滅ぼされんとする我々ヒトの子をわずかでも哀れと思ってくださるのであれば――」


 冷たい大気が容赦なく喉をひりつかせ、ブルフォードは何度も咳き込んだ。


「どうか――」


――やかましい。


 脳髄を揺さぶるような声が轟いた。ブルフォードは恐怖のあまり逃げ出しそうになった。本心では返事がこなければいいと願っていたことに、彼は気付いた。


――悪魔だのなんのと忌み嫌って地下に追いやっておきながら、都合が悪くなると頼るのか、人間は。


 ククク、と声は喉を鳴らした。


「私めの呼びかけに応えていただき恐悦です。ですが、できればお姿を――」


 声はすれども姿は見えず、どうにも落ち着かない。ブルフォードはあちこちに視線を走らせたが、影さえ見つけることはできなかった。


――声を聞かせろと言うから応えてやれば、今度は姿を見せろときた。口ではへりくだっているが厚かましい奴だ。


 咎めるような口調だが、その声には面白がるような響きが含まれている。声の主は退屈していたのだった。


――そもそも、姿なら初めから見せているではないか。


 突然、夜空が動いた。

 群生したヒカリゴケが淡い光を放つ岩天井が露わになる。今まで闇だと思っていたものがまるごと1つの生物だったと知って、ブルフォードは悲鳴をあげた。


 神や悪魔にもたとえられる伝説の魔獣、ドラゴンの名がブルフォードの脳裏に浮かんだ。


 窮屈そうに折り畳まれた蝙蝠の羽。黒曜石のように煌めく鱗に覆われた肌。長い首の先にある、爬虫類めいた頭部。眼球は比喩ではなく光を放ち、生臭い息を吐く顎には鋭い牙が並んでいる。

 そして何よりも、広大な空間のほとんどを占有する巨大な体躯。しかもよく見れば、その下半身は氷の下に封じられていた。全体でどれくらいの大きさになるか、想像するだけで畏怖と絶望がブルフォードを狂気に引きずり込もうと手を伸ばす。

 彼は辛うじて思考を振り払い、うやうやしく頭を垂れる風を装ってドラゴンから目を逸らすことでなんとか発狂を免れた。


「……闇の王の、ご、御配慮に、かか、感謝します」


 地下空洞は今にも凍え死にそうなほどの冷気に満ちていたが、ブルフォードの背中は汗でじっとりと濡れていた。


――今のおまえ達の王はエドワードとかいうらしいな。グヴェンドリンは息災か?


 口を動かすことなく、ドラゴンは実在したかも疑わしい伝説の女王の名を呼んだ。

 思えばこの生物はただ大きいだけではない。人間の言葉を解し、会話をする知性を持つのだ。それこそが最も恐怖すべき部分だった。


「……お亡くなりになられました」


 女王が実在したとして、それはブルフォードの生まれる何百――ひょっとしたら千年以上――前のことだ。

 そうか、とドラゴンはさして気にした風もなく言った。


――それで、私に用とはなんだ、ヴルフォード?


 ブルフォードです、と訂正する勇気など、か弱い人間にあるはずがなかった。


「あ、貴方様の――貴方様の血を、いただきたいのです」


 ドラゴンがいぶかしげに目を細める。


――その意味、わかっておるのか?


 もちろんです、とブルフォードは平伏する。


「我々人間を――イングランドの民を、あなたの眷属にしていただきたい!」


――我が血を取り込み眷属となれば、おまえ達は人の枠組みから逸脱した別の生命種となる。それは、おまえ達の神に背く行為ではないのか?


「……神は死にました」


 ブルフォードの脳裏に、黒いあざを全身に浮かばせた無惨な屍の山が甦っていた。そしてその前で無力にうちひしがれる医師、僧侶、学者、そして遺族達の姿も。


 激しい憤りがブルフォードの心から束の間、恐怖を消し去った。ドラゴンの目を真っ向から見据え、彼は叫んだ。


「神は死んだ――でなければ我々の敵になったのです! 勝手な願いであることは百も承知です、しかしどうか、どうか我々をお救いください! 代償として我々が貴方様に捧げられるものがあるならば、何でも捧げましょう!」


 ドラゴンは困ったように首をもたげた。応じる理由はない。人間が捧げられるものでドラゴンが必要とするものなど、何もあるはずがなかった。


 だが、ブルフォードにとって幸いなことに、ドラゴンは常々暇を持て余していたし、その日はたまたま機嫌が良かった。


 まあいいか――。ドラゴンは鼻を鳴らす。血を与えるだけならば、そこまで面倒なことではない。ここで恩を売っておけば、将来何か役に立つこともある、かもしれない。



  ◆ ◆ ◆



 西暦1355年、イングランドは和平条約を破棄しフランス領へと侵攻を開始。それまでの膠着状態が嘘のような一気呵成の大攻勢でフランス軍を一蹴、瞬く間にその領土のほとんどを支配下に治め、数年後にはフランスそのものを世界地図から消してしまった。

 一夜にして見違えるほど精強になったイングランド軍は、しかし何故か夜間のみ活動し、昼間に姿を見せることはなかった。そして闇夜の戦場を灯火もなしに駆け回る兵士達の口からは、肉食獣のように鋭く大きな犬歯が生えていたという。


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