第2話『異世界アルバスニゲル』
近くで教会の鐘が鳴っている。
起床してから二度目の鐘だから、現在の時刻は九時だろう。
そろそろ掃除を終えなければならない。
バケツに浸しておいた雑巾をしぼり、ボクは屋根に立てかけた梯子を昇って、日課の窓拭きを始めた。
窓を綺麗に磨き上げると、ガラスに青空が映り込んだ。
青い空と大きな雲、白い月、そして奇妙な黒い月が見える。
白い月の名は『アルバス』と、黒い月の名は『ニゲル』というらしい。
ボクが大した混乱もなく、今自分のいる世界が元々住んでいた場所とは全く違うという事実を受け入れられたのは、ニゲルの存在による所が大きかった。
そういう経緯があって、ボクは元の世界との区別をつけるために、この世界を仮に『アルバスニゲル』と呼んでいる。
「ピルグリムくん、掃除は終わったかい?」
梯子の下から、真っ赤な短髪の男性に声をかけられた。
男性は木製のトレイを手にしていて、トレイの上でティーカップが湯気をあげている。
「疲れただろう? 降りてきて一服したらどうかな?」
「ありがとうございます、アーティスさん。それじゃあ頂きます」
軽く頭を下げ、ボクは梯子から降りてカップを受け取った。
紅茶に口をつけると、豊かな香りが口いっぱいに広がった。生前には紅茶を大しておいしいとは感じなかったが、アーティスさんの淹れる紅茶は抜群においしい。手間暇かけて淹れた本場の紅茶が、こんなに魅力的なものだとは知らなかった。
今みたいに肉体労働で疲れている時には、尚更おいしく感じられる。
「凄くおいしいです、アーティスさん。ありがとうございます」
「いやいや、君たち親子には洗濯から掃除、娘の世話まで手伝ってもらっているからね。こんなのお礼のうちにも入らないよ」
「悪魔のせいで故郷を失ったボクらに、アーティスさんは手を差し伸べて下さいました……大恩には報いて当然ですよ」
「おいおい、私が君らを助けた時、ピルグリムくんはまだ赤ん坊だったろう?」
アーティスさんが赤い髪をかきながら苦笑する。
「まだ五才なのに、会話や読み書きも達者にできて大したもんだよ」
「たはは、変にませているだけですよ。あの、もし今日時間があるのなら、例の話を……」
「魔術の講義かい? 前にも言ったけど、ウチの村では魔術の指導を行うのは十才からという決まりなんだ。いくら召使いの息子だからって、特別扱いはできないよ。申し訳ないね」
「そう、ですか……」
がっくり肩を落とし、紅茶を一気に飲み干した。
今日はこの後、ラモーナさんと一緒に薪拾いへ行かなければならない。
召使いの身であるボクに落ち込んでいる暇はないんだ。
「……これは独り言なんだけど」
空のカップをボクから受け取り、アーティスさんは小さくウインクした。
「以前私が君に教えた呼吸法を毎日続けていると、魔力の限界蓄積量が少しずつ増加していくんだ。根気のいる訓練法だけど、優れた魔術師になりたい人は試してみるべきかもしれないね」
「ア、アーティスさん……?」
アーティスさんがボクに背を向けて、ゆっくり自宅へ戻っていく。
「どんな目的で魔術を覚えたいのかは知らないけれど、私は応援しているよ。ピルグリムくんなら、きっと魔術を悪用しないだろうからね。これからも娘と仲良くしてあげてくれ」
「ありがとう、ございます……」
ボクは深々とお辞儀をし、首からかけたタオルで額の汗を拭った。
ピルグリム・クレイグ――それがボクの現在の名前だ。
一度死んだボクは、どういうわけか異世界に転生したらしい。
まだわからないことばかりだが、五年間の観察で、いくつか理解したこともある。
まず元の世界と比べて最も大きな違いが、この世界では科学が発展しておらず、その代わりに魔術を扱うための学問『魔学』が繁栄している点だ。非常に簡単な魔術ならば、この世界では道具さえ使えば子どもでも扱えるらしい(残念ながらそういった道具には、子どもが触れないよう細心の注意が払われているが)。
例えば、初めてキッチンを見た時には驚きを隠せなかった。
何とそこには、ガスコンロに近い機械が備わっていたのである。
使い方もコンロとほとんど変わらず、つまみを回すだけ。マクラッケンさんによれば、円状の魔法陣を描くことによって発動する簡易式の魔道具なのだそうだ。まだ魔術に関してはほとんど学べていないので、疑問が山ほど残っている。これからもっと研究していかなければならない。
次の特徴として、悪魔という存在が世界にはびこっている点を挙げたい。
まだ実際に目にしたことはほとんどないが、世界の大部分は悪魔に支配されており、人間の暮らしている領域は全大陸の三割に過ぎないのだという。
それほど悪魔は人間にとって脅威であり、悪魔に対抗するために生まれたのが魔学なのだそうだ。
もしかしたらこの世界では、科学が存在しないのではなく科学の発達する余地がなかったのかもしれない……とボクは考えている。
そして最後に、ボクが五年間で気付いた最も重要な事実。
それはボクの手に入れた力――
「グリムちゃん、もう出かける準備はできた?」
「ふぇっ!? あっ、あっ、も、申し訳ありません、ぼーっとしてました!」
考え事をしている最中に話しかけられてドキッとした。
振り返ると、布製の白い帽子をかぶった女性が立っていた。
年齢は二十歳前後。帽子から美しい金髪がこぼれ、翡翠のような碧眼が日差しを受けて輝いている。
その碧い目がそっと細まり、桜色の唇が微笑を浮かべた。
「もう、グリムちゃんってば。お母さん相手にまでそんな硬いしゃべり方しなくて良いのに」
「い、いえ……尊敬すべき肉親に軽率な物言いなんて、とても……」
「もう、グリムちゃんの真面目っ子。そういう所も可愛くて好きよ、愛してるわ」
彼女こそ転生したボクの母親、ラモーナ・クレイグだ。
現在ボクは彼女と共に、村の名家であるマクラッケン家に召使いとして住まわせてもらっている。召使いと言っても、この世界では身分がそれほど低くなく、家長であるアーティス・マクラッケン氏のご厚意もあって、扱いは家族も同然。毎日の労働は欠かせないにしても、生きる上で不自由をすることはなかった。
「ほら、お母さんの手を握って。一緒に薪拾いに行こ?」
「は、はい……」
言われるがままラモーナさんの手を握り、並んで歩き出す。
名実ともに彼女はボクの母親なのだが、精神的な年齢で言えばボク(二十五歳)の方が年上なわけで。そんな彼女を「お母さん」と呼んで甘えるなんて気恥ずかしいに決まっている。まぁ流石に赤ん坊の頃は一人では何もできなかったので、母乳は飲まざるを得なかったけど……内心恥ずかし過ぎて死にそうだった。
今では思い出すのも憚れる。
「そう言えば、グリムちゃんが薪拾いに同行するのは久しぶりね」
「はい。一カ月ぶり、くらいでしょうか」
「もうすぐユグドラ祭だから、今は畑がとっても綺麗よ」
「ユグドラ祭とは何ですか?」
「畑の収穫を始める日のことをそう呼ぶの。収穫の際に不正や混乱が起きないよう、世界樹の守護者であるユグドラ様の命日に合わせて一斉に始めるのよ。さもないと、この辺りを管轄する領主様に怒られちゃうからね」
茅葺屋根の家々が連なった通りを抜けると、小麦色の畑が視界に広がった。この村では人々の住まいが中心に密集し、敷地のほとんどは耕地となっていて、村全体で作物を管理している。ボクの見立てでは、この世界の文化は言語や風土、社会形態に至るまで、中世から近世にかけてのヨーロッパに極めて近い。
もちろん魔学に関することは除いて、の話だが。
「やあ、クレイグさん、グリムくん。森へ行くのかい?」
畑の間のあぜ道を進む途中、村人の一人に声を掛けられた。
「はい、ちょっと薪を拾いに」
「この時期はゴブリンがよく出るから気をつけなよ。杖はちゃんと持ったかい?」
「大丈夫、装備はバッチリです。ありがとうございます」
ラモーナさんと共に頭を下げ、村人に別れを告げた。
畑を越えたら、すぐに森の入り口が見えてくる。森とは言っても、人が通るための道が用意されているので、迷う心配はない。
ただ、低級の悪魔がよく出没するので、子どもだけで入ることは禁止しているようだ。
「あまりお母さんのそばを離れちゃダメよ?」
「ボクがラモーナさんの言いつけを守らなかったことありますか?」
「もう、生意気なんだから。でもそういうませた所も好きよ、愛してるわ」
ラモーナさんと並んで森へ入っていき、薪拾いを始めた。
二人で手分けして、手ごろな薪を見つけては、背中に背負った籠へ入れていく。
明日明後日と雨が降るかもしれないので、今日は三日分の薪を拾わなければいけない。
結構大変な作業だ。
汗だくになりながら働いて、ふと一息つくと、鳥の鳴き声や木々のさざめきが耳に入ってくる。その軽やかな音色と森を吹き抜ける風が、単純な作業の中では清涼剤に感じられる。転生して初めて気付いたことだが、ボクは案外、身体を動かすのが嫌いでないらしい。
真面目に働くことがこれほど気持ち良いだなんて、全然知らなかった。
辛いことも多いが、ボクはこの世界での暮らしを、心から気に入っている。
「グリムちゃん、疲れてない? お水飲む?」
籠いっぱいに薪を入れたラモーナさんがこちらへやってきた。
ボクはまだ半分ほどしか見つけられていないというのに、流石だ。
「体調は大丈夫です。でも……まだ薪はそれほど見つけられていません」
「半分も集められたら上等だよ。あと半分、お母さんと一緒に頑張ろうね」
「良い子良い子」と、頭を撫でられた。
ううっ……恥ずかしい。
顔が焼けるみたいに熱い。
多分今、真っ赤になってる。
気恥ずかしさでボクは思わず顔を背けた。
すると――木々の間に何か大きな影を目撃した。
「ラモーナさん、そこに何かが」
「私の後ろに隠れてて、グリムちゃん」
ラモーナさんが懐に手を入れながら、ボクの前へ歩み出た。
取り出されたのは緑色の杖。その菜箸のようなサイズの杖を構え、ラモーナさんは木々の間をじっと睨みつける。
木の影からのそりと、猿によく似た生物が姿を表した。
それはゴブリン。
猿より少し高い程度の知能を誇り、自作の装備を武器にして他の生き物を襲う低級の悪魔だ。普段はもっと森の奥地にいるはずだが、冬の前には食糧を求めて人里に出てきてしまうらしい。低級の悪魔なら、知能も習性も動物と大して変わらないということか。
よほど気が立っているのか、ゴブリンは棍棒を片手に、低い声で唸っている。
今この瞬間にも襲いかかってきそうだ。
低級とは言え悪魔……棍棒の一撃を受ければ、決して無事では済まない。
何とかして、追い払わないと――。
《6I2I2I2I244444……!》
「風の理――開放」
ゴブリンが飛びかかるのと、ラモーナさんが呪文を唱えるのは同時だった。
ラモーナさんの杖の先端に白銀の塊が形成されていく。
よく見ると、それは風の塊。
バスケットボール大の風の弾丸が杖の先端で高速回転し、地面の落ち葉を巻き込みながらゴブリンへ発射された。
暴風はゴブリンを軽々と吹き飛ばし、後方の木に叩きつけた。
「――操作を以て我が力と為す」
更に、ラモーナさんは詠唱を続けながら、杖を指揮者のように振るう。その動きに連動するように風向きが変わって、ゴブリンを木葉のように転がした。
風を操ることで、このまま無害な場所まで運んでしまうつもりなのだろう。
何度見ても信じがたい力だ。
これが魔術。
ラモーナさんのように華奢な女性でも、装備さえ整えれば悪魔を撃退できる、超自然的な力。
ボクはこの力を絶対に学ばなければならない。
どうしても自分の物にする必要がある。
「アレは……」
ラモーナさんがゴブリンを撃退している最中に、木陰からゴブリンがもう一体近づいてきていることに気付いた。
ラモーナさんは魔術に集中していて気付いていない。
――あの力を試すチャンスだ。
ボクは内心ほくそ笑み、アーティスさんから習った通りに呼吸を始める。
炎の揺らめきのごとく小刻みに、素早く何度も呼吸する『陽の呼吸』。
その特殊な呼吸法で、身体の底から不思議な力が込み上げてくるのを確認し、力を右手に集中させるよう意識した。
脳裏に想像するのは――短剣。
そのイメージを強く、強固なものとし、神経を研ぎ澄ます。
そして詠唱する。
「短剣――創造」
右手に一瞬で一本の武器が生まれた。
それと同時に、木陰からゴブリンが襲ってきた。
ゴブリンを視界の端に捉え、ボクは振り向きざまに、全力で武器を振り抜く。
手に、鋼鉄が硬い筋肉へ激突する感触が伝わった。
「413333333……!?」
ボクの不意打ちを受け、ゴブリンが情けない悲鳴をあげる。
よほど驚いたのか、そのまま大慌てで森の奥へ逃げていった。
その背中を見届けると、ボクは視線を下ろした。
右手に持っていたのは歪んだ鉄パイプ。
イメージしていた短剣とは、似ても似つかない造形をしている。
しかも、あっという間に霧散し、手の中から消えてしまった。
「やっぱり……上手くいかないか」
これが転生してからの五年間で気付いた、最も重要な事実。
ボクはどういうわけか、自分の想像を具現化できる力を身につけていたのだ。
これまで様々な実験をしてきたが、魔術に近い力だということ以外まだ詳細はわかっていない。それに、体内の魔力が足りないのか鍛錬が足りないのか、単純なもの以外は創造できずにいる。
つい先ほど剣の創造に失敗したが、これでもかなり進歩した方である。
最初は手のひら大のものしか創造できなかったし、ちょっとした衝撃で簡単に消滅していた。
創造と失敗の繰り返し、その地道な作業をひたすら続けてきた結果、最近ようやく武器となり得るものを創造できるようになったのだ。
「グ、グリムちゃん! そっちから今、変な声がしなかった!?」
「大丈夫、ちょっとくしゃみをしただけですよ」
駆けつけてきたラモーナさんへ微笑を返した。
まだこの世界について無知なボクだけど、自分の力が子ども離れしていることはよくわかる。力のことがバレて、変に注目を集めるのは好ましくない。ボクは今の穏やかな暮らしを気に入っているし、魔術師として大成したいとも思わないのだ。
ボクの目的はただ一つ――この力で『銃器』を創造すること。
情けないことに、ガンマニアの魂は転生後も健在だった。
この創造の力なら銃器だって創れる。
そして何より、この世界に銃刀法があるはずない。
つまり――銃の所持も発砲もやりたい放題なのだ!
ふはははははっ! 異世界万歳! 万歳! 万々歳――ッ!
「グリムちゃん? とっても嬉しそうな顔してどうしたの?」
「ふぇっ!? い、いえ、ちょっと考え事してて!」
「いつもの癖ね。もう、本当に変わった子。でもそんな所も好きよ、愛してるわ」
ボクは気を取り直し、ラモーナさんと共に薪拾いを再開した。
ボクの創造の力は魔力を消費する。
その点からも、プロセスが魔術に近いことは間違いない。
目的の達成――銃器を創造できるようになるためには、魔術について学ぶのが一番の近道だろう。
とりあえず魔術の指導が始まる十才までは、仕事の合間に創造の練習をしたり、アーティスさんに習った呼吸法を実践していくつもりだ。
M29やコルトパイソン、ワルサーP38まで、輝かしき名銃たちを全てこの手で創り出せるなら、ボクはどんなに辛い暮らしでも耐え切ってみせる。
「グリム! どこいってたの!」
薪拾いから帰ってくると、家の前で小さな女の子が仁王立ちしていた。
真っ赤なツインテールを揺らしながら、女の子はボクの身体に跳びつき、マシュマロみたいな頬っぺたをボクの顔にぐいぐい押しつけた。
「ひーまーーー! アシュリンとあそべー!」
「ア、アシュリン。悪いけど、今から昼食の準備があるんだよ。ご飯を食べ終わったら遊んであげるから、ね?」
アーティスさんの娘、アシュリンはボクから離れ、嬉しそうに破顔した。
「ほんと? ぜったいあそぶ?」
「うん、約束するよ。だから取り敢えず、一緒にお家へ入ろうか」
アシュリンは再びボクに抱きつくと、器用にボクの背中へ回った。
図らずも、おんぶのような形となる。
ぐっ……お、重たい。
「じゃあ、おうちまではこんで。かってにいなかったバツよ」
「勝手にいなかったって……そんな理不尽な」
頭脳は大人とは言え、ボクの身体は五才児。
同い年の子どもをおんぶして歩くのはかなり大変だ。
助けを求めるように、そっとラモーナさんに視線を送ってみた。
「あらあら、仲が良いこと」
あっ、これダメだ。絶対助けてくれない。
ボクはあきらめて、アシュリンを家まで運ぶことにした。
当のお姫様はボクの苦労も知らず、楽しそうにお馬さんごっこ中だ。
「ひひーん! ひひーん! おうまさんだぞー!」
「ナきたいのはこっちだよ……」
前言撤回。
もしかしたらこの世界での暮らし、耐え切れないかも……。
これからの暮らしのことを思い、ボクは一人ため息をついた。




