第8話『豊和M300』~前篇~
それはまだボクが転生する以前。
幼い頃、森の中で迷子になった時の話だ。
物心ついたばかりの頃の話なので、何故その日森に行ったかは覚えていない。
強烈に覚えているものは2つだけ。
1つは、夕暮れの森の中で出会った1匹のイノシシ。
イノシシは林の奥から飛び出してきたかと思うと、通せん坊をするようにボクの前に立ち塞がり、勢い良く突進してきた。その瞬間、初めて野生のイノシシと対面した興奮は消え去り、全身が一気に凍りついた。蹄で土を跳ね上げながら迫りくるその獣の双眸には、幼心にも強烈な殺意が見てとれた。
相手は100キロを超えそうな巨体だ。
体当たりされれば無事では済まない。
早く逃げなきゃ――と全神経に命令を送った。
しかし、恐怖で足が竦んで、その場から動くことはできなかった。
ボクはたまらず目をつぶり、心の中で神様に助けを祈った。
「耳をふさいどけ」
不意に背後から頭を押さえつけられ、驚いて振り返った。
そこには髭の白くて長いお爺さん――ボクの祖父が立っていた。
祖父はしなびた両手に、細長い焦げ茶色の筒のような何かを抱えていた。
それこそ、ボクの記憶へ強烈に焼きついている、もう1つのもの。
その正体に気付くと同時に、ボクは祖父の言葉の意味を理解して耳を塞いだ。
そして火薬の炸裂音。
手のひら越しにも鼓膜がびりびり震え、硝煙の匂いが鼻をつき、前方のイノシシと共に、力なくその場へ崩れ落ちた。
まるで電流でも浴びたみたいに全身がシビれていた。
今まで味わったこともない奇妙な感覚だった。
祖父が手にしていたのは愛用の猟銃『豊和M300』。
日本国内で唯一の小銃メーカーであり、自衛隊の装備も製造する『豊和工業』によって開発された、戦後初の国産ライフル銃だ。当時はまだ知らなかったが、M300はM1カービンを日本の銃刀法に合わせて再設計したもので、威力は低めなものの軽量で扱いやすく、日本で多くの猟師に愛されてきた名器らしい。
使い古されながらも美しい質感を保つその銃に、ボクは目を奪われた。
生命を絶つための武器とは思えないほど、その造形は完璧なまでに洗練されていた。
「このアホたれ。一人で山に出歩くなと言っただろうに」
祖父がボクへ手を差し出し、身体を引き起こしてくれた。
「ご、ごめんなさい……」
頭を下げながら、ボクは地に突っ伏すイノシシを眺めた。
脳天がぱっくりと割れ、完全に即死している。
威力の低いM300でも確実に射殺可能な脳天を撃ち抜くことで、弾の浪費や獲物の逃走を防いだのだろう。
今にして思えば、それは神技としか言えない射撃の腕前だった。
「ころし、たの……?」
「当たり前だ。殺す気でいかねば、ワシらの方がやられていた」
「そう、だけど……」
頭蓋を無残に砕かれたイノシシの姿には、同情を禁じ得ない。
つい寸前までこの獣は確かに生きていた。それなのにボクと出会ったせいで殺されてしまったんだ。そう思うと、罪悪感で胸がいっぱいになり、涙が零れ落ちてきた。
ハァ、と祖父は深くため息をつき、ボクの頭を乱暴に撫でた。
「分け隔てなく優しいのはお前の良いところだ。でもな、よーく覚えておけ。男が銃を手にした時には、絶対に迷っちゃあいけないんだよ」
「どうして……?」
「男のロマンだとか防衛手段だとか言い繕ったところで、銃は結局生物を殺すための道具でしかない。銃を持つということは、殺す覚悟をするということだ。その覚悟ができていたら絶対に迷ったりしない。銃はいわば、覚悟の証なんだ」
「かく、ご……?」
「そうだ。さっきワシが迷っていたらお前は死んでいただろ? 命を守ることは、命を奪う以上に覚悟がいる。何かを守ろうとすれば何かを失うかもしれない。しかし、そこで迷っていたら全てを失う。何かを守りたいと思ったなら絶対に迷うな……それが覚悟ってもんだ」
そう語る祖父の目はどこか遠くを見つめていて、ボクに対してだけでなく、自分自身に言い聞かせているようにも感じられた。
当時のボクはまだ右も左もわからないような子どもだったが、祖父がボクに一生懸命、大切なことを教えようとしてくれていることはわかった。幼心に、祖父の気持ちを裏切りたくないと思った。裏切るわけにはいかないと思った。
「おじいちゃん! ぼく、かくごする! ぜったい、まよったりしないよ!」
「あっはっは、良いぞ、その意気だ。お前が本当に覚悟を理解した日には、お前にもワシの銃を撃たせてやろう。じいちゃんとの約束だ」
あれからどれほどの月日が過ぎただろう。
今のボクは、祖父の気持ちに応えることができているだろうか。
答えはもう、一生わからない――。
◆
ヘソの奇妙な違和感で夢から覚めた。
まぶたを開けると、何故かボクは半裸にされていて、キャロルさんにへそを弄くられていた。
「ぐりぐり、ぐりぐり」
「何やってんですか!?」
ボクの怒声が狭い洞窟に反響する。
洞窟の外は闇夜で、入り口近くに用意された焚火だけが唯一の光源。
ああ、そうか。ボクは川岸の洞窟までたどり着くと同時に、マナの使い過ぎで倒れてしまったんだ……。
「起きちゃったかぁ、少年おっはよーん」
悪びれる様子もなく、キャロルさんは両手をひらひらさせた。
何故かマントをまとっておらず、丈が胸のすぐ下あたりまでしかないチュニックと、太ももが完全に露出する短さのキュロットスカートしか身につけていない。
「怒んないでよう。ただヘソ占いをしてただけだってば、この先少年がどうなるか、おヘソの形で占ってたの。これ実は、かのラタ様が始めた由緒正しき占いなのよ?」
「……結果はどうだったんですか?」
「へえ……聞く勇気、あるんだ」
キャロルさんが目を細め、急に真剣な顔つきとなる。
――まさか、絶望の未来でも見えたりしたのだろうか。
ボクは恐る恐る、結果を教えてくれるよう頼んだ。
「私好みのおヘソだね」
「感想じゃねーかッッ!!!」
顔を真っ赤にするボクを見て、キャロルさんはお腹を抱えて笑う。
「にひひひ、そっちが少年の素なのかなぁ? お姉さんの前では、無理して大人ぶらなくても良いのよん? 建前とか、かったるいだけもんねえ、うんうんうん~」
何なのだろう、この人。会話のリズムをどんどん狂わせてくる。
ムラサキとは逆で、全く人として噛み合わなさそうだ。
「……毒、無事に消えたんですね」
「うん、巨乳ちゃんのおかげでねえ、自慢のおヘソもほらこの通り」
そう言って、キャロルさんがお腹を突き出した。
傷痕も毒の痕も残ってなくて、確かに綺麗なヘソをしている。
そんなキャロルさんのすぐ横では、ムラサキが地面に突っ伏すように眠っている。
毒を1人で治すには何時間もかかると言っていたから、力を全て使い切ってしまったのだろう。気絶するまで魔術を使うなんて、お人好しも良い所だ。まだ知り合ってから一日も経っていないが、彼女の優しさはもう十分に知っている。
「そうだ、アシュリンは? アシュリンはどこですか?」
「おチビちゃんのことかい? ほら、奥で安静にして寝かせているよ」
洞窟の少し奥で、アシュリンがすやすやと寝息を立てていた。
キャロルさんの着ていたマントが、アシュリンの小さな身体へ毛布のように掛けられている。
「ほら、大きな怪我の1つもない。こんな小さな身体でヒドラの突進を受けたってのに、大した鍛えっぷりだよ。余程、負けたくない奴でもいたのかな」
キャロルさんが穏やかな面持ちで、アシュリンの頭を撫でた。
その傍らには、彼女が的当て屋で手に入れた青いフクロウの姿もあり、じっとアシュリンの様子を見守っている。
「キャロルさん……あの蛇の化物は何だったんですか? そもそも、どうしてこんな森の中に魔導士であるあなたがいたんですか?」
「アレはヒドラ。本来なら魔界の沼地に住んでいて、近くを通った生き物を見境なく喰いつくす厄介な悪魔さ。嫌われ者って奴だね」
「えっ……魔界の悪魔って、まさかアイツ」
「およよ? 気付かずに戦っていたのかい? あれは立派なV級だよ、今日歯が立たなかったからって気にすることはないわけ。あんな怪物、下手したら村一つ崩壊させちゃうレベルだもん」
V級。
村一つを崩壊させる強さ。普通の魔術師では太刀打ち不可能。
実際に戦った今なら、それらは決して誇張表現でないことがわかる。
「荷馬車が消えた事件の調査で派遣されてきたんだけど、幸か不幸か、派遣先への到着前に犯人からの襲撃を受けちゃってねえ。あっという間に馬車が森の中へ引きずり込まれて、私以外全滅しちゃったのよ」
「そういう、ことだったのか……」
荷馬車を襲ったのは盗賊じゃなくて、あの蛇だったのだ。
いくら村の中で優秀な魔術師だからって、V級では相手が悪すぎる。
あんな化物に対抗できるのは、キャロルさんのようなプロだけだろう。
「先ほど倒した3匹以外にも、ヒドラはいるんですよね?」
「ありあり? 何言ってんの? 最初からヒドラは1匹しかいないよ」
「えっ、どういうこと……ですか?」
キャロルが剣を取り出し、壁に尻尾が1本、首が10本の蛇を描いてみせた。
その絵から真実を悟り、全身がぞわっとあわ立つ。
「この絵の通り、奴は10本の首を持つ蛇なのさ。厄介なのが、首を全て潰さない限り死なないことでねえ、今日潰した頭は全部で9つだから、まだ奴は生きてる。そして死なない限り、倒された奴の首は、とかげのしっぽみたいに何度も生えてくるわけよ。今こうして休んでいる間にも確実にね」
「そ、そんな……!」
キャロルさんが立ち上がり、腰のベルトに双剣の鞘を装備していく。
「首は約2時間に一本のペースで再生する。今ならまだ4本、多くて5本だ。ここまで人里に近づけちゃった以上、今のうちに殺さなきゃ悲劇は避けられない。たとえ負傷を押してでも、奴に休む暇を与えちゃいけないんだ」
「ま、まさかキャロルさん、こんな真夜中にヒドラを探しに行くつもりですか? 無茶ですよ! ただでさえ多勢に無勢なのに、こんな暗闇でなんて!」
「後日万全の状態で戦った方が楽かもね。でも……奴に殺された中には私の後輩もいた。あの子が最後に刈り取った首2つ分を、討伐に貢献したことにしてやりたい。だから私は毒の治療より、アイツの追跡を優先したのよ。散々カッコつけといてアレだけど、要は結局、自己満足なわけさ」
面倒臭そうに頭を掻いて、キャロルさんは悪戯っぽく笑う。
しかしその目には研ぎ澄まされた殺意と、確かな正義が宿っていた。
「ヒドラを追うかどうか……キャロルさんは迷いませんでしたか?」
「迷わなかったね」
即答だった。
「戦いも人生も、迷っている暇なんてない。今自分がやりたいことを全力でやらなきゃ、後で必ず後悔する。少年、君はせっかく面白い力を持っているんだ。もっと好きにやってごらんよ」
「じゃね」と短く言い残して、キャロルは洞窟から出ていった。
このままだと、彼女とはこれっきり、もう会えない。
そんな、嫌な予感がした。
「ねえ、アシュリン……君はどうする?」
洞窟の奥に問いかけた。
「……起きてること、気付いていたのね」
「おチビちゃんって呼ばれた時に肩が反応してたよ。いつもなら寝ていても即座に跳びかかってくるのに、我慢できるなんて不自然だった」
「何よ、それ」
アシュリンが身体を起こし、キャロルさんのマントをぎゅっと胸に抱いた。
「キャロルさんは毒の影響でほとんど魔力がなかった。相打ちを狙うつもりだね」
「……わかってるわ」
「ボクたちが助けに行かなきゃ、きっと死んじゃうよ」
「わかってるわよ」
「今追いかけないと、絶対に後で死ぬほど後悔する」
「だからわかってるってば!」
アシュリンがボクの言葉を拒絶するように大声を出した。
ぐすっ、ぐすっ、と声に時折嗚咽が混じる。
泣き顔をボクに見せまいと、マントで顔を隠している。
「でも、私が一撃で倒されたのを見てたでしょ? あんな化物を相手に、私たちみたいな普通の魔術師が太刀打ちできるわけないじゃない」
「それでも、行かないと……」
背後から反論が飛んできた。
いつの間にか起きていたムラサキが、ふらつきながらも立ち上がる。
「キャロルさんだって、病み上がりで立っているのもやっとのはずです。太刀打ちできないのは、彼女だって同じはずなのですよ。それでもあの人は、みんなを守るために戦おうとしているのです!」
「――――っ!」
アシュリンが拳を握りしめ、悔しそうに壁へ叩きつける。
言葉にならない葛藤。
どうしようもできない悔しさ。
3人の気持ちを、まるで代弁するように。
がつっ、がつっと、壁を殴る鈍い音が洞窟内に響く。
「アシュリン、ムラサキ、少しの間、ボクの話を聞いてくれ」
2人は何も問いかけず、ボクに視線を向けてくれた。
「さっきの戦いでアシュリンがヒドラに襲われた時、ボクは銃を創ろうとした。あの瞬間、ボクの頭の中には銃器のイメージまで完成していた。あとは詠唱するだけで良かったんだよ。ボクの力なら、アシュリンを助けられたはずなんだ」
しかし現実は違った。
「でも、創造の失敗やアシュリンへの誤射、色んな不安が頭によぎって、気付いたら手遅れだった。もしかしたら、アシュリンはあの時に死んでいたかもしれない。余計な迷いのせいで、ボクは大切な友達を失っていたかもしれないんだ」
「グリ、ム……」
アシュリンがうつむき、拳をぎゅっと握りしめた。
「何かを守りたいと思ったなら絶対に迷うな、それが覚悟だ。ずっと昔に、大切な人からそう言われたことがある。今日ようやく、その意味が理解できたよ」
畳んであったチュニックを着て、マントを羽織り、立ち上がった。
「ボクはもう迷わない。たとえ無謀でも、キャロルさんを助けに行く。この創造の力で、ボクがあの人を救うんだ!」
洞窟内に静寂が満ちていく。
ボクの手をそっと握り、その静寂を破ったのは、ムラサキだった。
「あなたが私の夢を信じてくれたように、私もグリム君の選択を信じます。一緒に、キャロルさんの元へ行きましょう」
「ありがとう、ムラサキ」
ムラサキと一緒にアシュリンの方へ向き直り、問いかける。
「アシュリン。昼間ボクに、やりたいことをやれと言ったのはお前じゃなかったか?」
「そ、それは……」
答えられず、アシュリンは押し黙る。
それから、頭をがりがりと掻いたかと思うと――轟音。
ヒドラの恐怖を吹っ切るように壁を全力で殴りつけた。
「うがァーーーーーっ! ピッグのくせに生意気なのよ!
ご主人様に説教垂れるなんて1光年早いわ、このバカブタ!」
そう吠えるアシュリンの顔はどこまでも勝ち気で、恐怖の色は見えない。
いつものツンツンした態度で、アシュリンがボクとムラサキの手を掴み取る。
「アンタたちだけじゃ心もとないから、付いてってあげる。
あんな頭でっかちの蛇なんて、私の魔法で焼き尽くしてやるわ!」
「その答えを待ってたよ」
3人で一緒に洞窟から出て、深夜の森を見据える。
少し遠くの方で、強大な魔力のうねりを感じ取ることができた。
皆で息を揃えて、一斉に、うねりに向かって走り出す――。
「行こう、ボクたちでV級を倒すんだ!」
次回で『幼少編』は完結します。




