10話 お母さんの思い出 後編
わたしはお母さんの顔を見ているととても落ち着く…
お母さんに似ている自分の顔を最近は好きになりつつある…
お母さんの名前からもらった茜という名前がとても好きだ。
TS症候群は俺の全てを変えてしまった。
それでも正気を保っていられるのはそのおかげでもあるだろう。
だから、ここから先を思い出すのはツライ…
できればここで止まってくれればいいのに…
お母さんの手を握りながら心配そうに見つめている自分のなかで私は必死にこの回想を止めようと努力した。
それでも時間は無情にも流れていく…
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「橙くん…まだいたの?…
こんな時間じゃ…お家帰れないわよ?…」
心底不思議そうな顔をしてお母さんはそう言う。
後から聞いた話によるとこの時には脳に酸素が足りなくなって記憶障害を起こしていたのではないかとのことだった…
「いきなりどうしたの?
さっき今日からはみんなで交代でお母さんに付きっきりになるって言わなかったっけ?」
俺はちょっとおかしいなと思いながらも笑顔でそう返した。
「あら…そうだっけ?…
なら…よかったわ…
帰れないのかと…お母さん…心配しちゃった…」
お母さんが心底安心した顔でそう言った。
お母さんは本気で言っていたんだとここで確信した…
「大丈夫だよ。
もっとお母さんの近くに居たいから帰るなんて考えられないよ」
俺は真剣な眼差しをお母さんに向ける…
「そっか…
でもごめんね…少し休ませてね…」
お母さんの声がだんだんと弱くなってきてる。
「大丈夫。心配しないで。
側にいるだけでいいから…」
俺はお母さんを安心させるためにそう言った。
「わかったわ… おやすみ…」
そう言ってお母さんは目を閉じた。
お母さんはなかなか寝息をたて始めなかった…
それでも俺はお母さんの手を握り続けた。
きっとこの時の俺は柊先生の一週間という言葉を履き違えてしまっていたんだ。
柊先生はもっても一週間と言ったのであって一週間も時間があるとは言ってなかった。
でも、俺も雪ねぇも一週間もあると履き違えて安心しきっていたのだ…
交代なんかせずに二人でお母さんの側にいればよかったのだ…
そうすればみんな傷つかずに済んだのではないだろうか…
そんな思いがこみ上げてくる。
今思ってもどうしようもないことなのに…
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そんなことを考えてわたしは橙哉の身体の中からお母さんを見つめる。
目を閉じたまま静かになったお母さんの頬を見るとだいぶこけてしまっていて肌もガサガサである。
いくら夢でもこんなに鮮明に思い出せるものなのだろうか…
そう疑いたくなる…
もうこの先なんて見たくない…
この先を見たところで現実は何も変わらない…
だったら辛いものは見たくないよぉ…
でも無情にも時は刻まれていく。
なぜか急に視線が壁に掛けられた時計へ向かう。
時間はもう深夜の1時を回って30分は経とうという時間だった…
「あら…緋くん…どうしたの?…
こんな…時間に…ここに…いるなんて…」
いきなりお母さんがそんなことを言い出した…
緋くん?誰だよそれ…
ここにいるのは橙哉だよ…
「お母さん?
何言ってるの?
俺は橙哉だよ!しっかりしてよ…」
俺は必死にお母さんの言葉を否定する。
お母さんが間違えただけだと信じきって…
「お母さん?…やーねぇ…
わたしは…あなたの…お母さんじゃ…ないわ?
あなたの…嫁でしょ?…
緋くん…よく言ってる…じゃない…俺の嫁って…」
お母さんの口から衝撃の言葉が出てきた。
お母さんじゃ…ない?…
どーゆうこと?
あなたの嫁?…
ってことはお父さんと間違えてる?…
「お母さん!
俺は父さんじゃない!
お母さんの息子の橙哉だよ?」
俺は嘆くようにお母さんに問いかける。
「息子ぉ?…
やーねぇ…私たち…最近…結婚したばかり…じゃない…」
お母さんの記憶は俺たちが生まれる前まで戻ってしまっているのだろうか…
「緋くん…身体…痛い…
身体が…おかしいよ…苦しい…」
お母さんが心細そうにそう呟く…
「お母さん!大丈夫!?
今お医者さん呼んでくるから!」
俺は苦しむお母さんの様子を見てナースセンターに走ろうとした。
「いや、…
緋くんが…近くに…いなきゃ…いや…」
そう言ってお母さんは俺の手首をその細腕からは想像もできないほどの力で握った。
動かそうとしてもビクともしない。
「お母さん!
離して!このままじゃお母さん死んじゃうよ!」
俺は自分で聞いても悲痛な声で叫んだ。
「もうわかってるの…
わたしは…もう…死んじゃうんだよ…」
悲しそうな声でお母さんはそう言う…
「だから…最期くらい…緋くんと…いさせて…」
今まで俺に見せたこともないような顔でお母さんはそう言う…
きっとお父さんにしか見せない表情なのだろうなんだか色っぽい…
「わかったよ、お母さん…
こうしてずっと手を握っててあげるから…」
俺はいくら悲しくてももう否定せずにお母さんについててやることにした。
お母さんの荒い息が整う頃には30分以上が経過しようとしていた。
ガラガラ…
「橙くん?お母さんも、起きてる?」
そこに雪ねぇがやってきた…
「あら…どなた?…
緋くんとこの…妹さん?…」
お母さんが雪ねぇにそんなことを言った。
ガタンッ!
雪ねぇは持っていた飲み物を床に取り落とした。
「お母さん!?
ねぇ、橙くんっ!
どういうことなの?」
雪ねぇはベッドサイドでお母さんの手を握る俺に問いかけてきた。
お母さんには聞かれたくない話だったので手招きして雪ねぇに近くまで来てもらう。
「お母さんは記憶がおかしくなってるみたいで、俺のことも父さんだと勘違いしてる…
だからか離してくれないんだ…
最期の時くらいお母さんの一番会いたい人と一緒にいさせてあげたい。
例え本物じゃなくても。」
雪ねぇにそう耳打ちすると雪ねぇは驚いた顔を浮かべる。
そして涙ぐみ始めた。
ただ、すぐに俺の方を見直して何か決意したような表情をして頷いた。
「わかった…
橙くんの決意を尊重する。
わたしも手伝うよ…」
強い光を持った瞳で雪ねぇが言ってくれた。
「緋くん…妹さんも…呼んでくれてたの?…」
お母さんがそんなことを言い出した…
さっきまで普通に会話できてたのに…
そんな思いが俺を悲しくさせる…
「そうよ…茜菜さんお久しぶり…」
雪ねぇがお母さんに話を合わせる。
「あら、ありがとね…
あんまり…構えなくて…ごめんね…
んぐうっ…」
家族の会話をしているところでいきなりお母さんが苦しみだした…
「お母さんっ!?
早く先生呼びに行かなきゃ!」
雪ねぇが急いで先生を呼びに行こうとする。
「待って…
どうせもう…ダメよ…
わたしの…身体くらい…わかるわよ…
うぐぅっ…
だから、最期の時は…緋くんの…腕の中で…過ごしたい。
もう、苦しいから…
最期は…緋くんの手で…」
お母さんはそんな懇願をしてくる。
その目は人生を諦めた目ではなく、有終の美を飾るかのように幸せに満ちていた。
「いやっ!
最期まで生き抜いてよ!」
俺の口からはそんな言葉が漏れていた…
「ごめんね…
最期の…願いくらい…叶えて…欲しいな…」
悲しい顔をして悲しい声でお母さんはそう言う。
「でも、そんな…」
俺はこんな大事なとこで決心がつかないでいた…
「橙くん…
あなたに任せるわ…
じゃあ、茜菜さん…
わたしは席外しますね…
最期は二人っきりで過ごしてください…」
雪ねぇは俺に耳打ちした後お母さんに向けてそう言って部屋を出て行った。
「緋くん…苦しい…早く…
わたしの…人生を…最高のものに…して…
わたしの…人生は…あなたの…おかげで…最高…だったわ…ありがとう…」
お母さんの笑顔は俺に決心をさせてくれた…
「わかったよ…
ありがとうね…じゃあ…またね。」
俺はそう言って心臓補助スイッチの電源を切った。
「うん、またね…
子供達によろしくね…
緋くんのおかげで楽しかったよ…」
そう言ってお母さんは微笑んだまま息を引き取った。
「おかあさぁぁぁぁぁぁん…
ごめんね…
ごめんねぇぇぇぇ…
ぐすっ…ぐすっ…」
俺はだんだんと冷たくなっていくお母さんに抱きついたまま泣きじゃくった…
「橙くんは悪くないんです!
お母さんがそれを望んだんです!
橙くんを責めないでください!」
雪ねぇの声が遠くに聞こえる。
「それはわかってます。
とりあえず部屋に入れてください。
最期の診察をしなければなりません。」
柊先生と雪ねぇが押し問答でもしてるのでしょう…
実感がわかない…
感覚がない…
なにも考えたくない…
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気がついたら日が照っていた。
すこしすると自分がベッドに横たわっているのがわかった。
「橙くん…
気がついた?大丈夫?」
雪ねぇの声が聞こえた。
俺を覗き込む顔は三つあった。
慌てて身体を起こすと顔に衝撃が走ってまたベッドに押し戻された。
「お父さん!
なにやってるのよ!」
雪ねぇの悲鳴のような怒号が聞こえる。
ほっぺたが痛い…
とても痛い…
「雪菜から話は全部聞いた!
俺が戻っていればと後悔したよ…
お前に辛い役目をさせたのは悪いと思う。
ただ、お前のことを許せない…
本当に許せない…」
お父さんが涙ながらにそう言い放った。
そう言われてお父さんに失望した。
「お前が居なかったせいでお母さんは俺にお前の幻覚を見たんだよ!
お母さんの気持ちを考えろ!
自分の最期の時に愛する人がいないのを確信してしまったお母さんの気持ちを!
お前の口からそんな言葉が出てくるのが心底許せない!
お母さんは心底幸せそうに死んでったよ…
お前のおかげで最高の人生だったってさ…
最期にお前はいなかったけどな。」
俺はこんがらがった気持ちを全てお父さんにぶつけた…
「じゃあどうすればよかったんだ
俺はどうすればよかったんだよ!
茜菜との約束を守るしかなかったじゃないか!
俺だって最期の時くらい一緒に居たかったよ!
でも、それを奪ったのはお前なんだよ!」
そう吐き捨ててお父さんはどこかへ消えてしまった。
お母さんとお父さんの最期の時を奪ったのは俺?
嘘だろ…。
お母さんの最期を幸せにしてあげたかっただけなのに。…
「橙くん!
気にしちゃダメ!
あのままお母さんを苦しませ続けることよりよっぽどいい選択だった!
意識あるままお母さんは最期を過ごせたんだよ。
橙くんは間違っちゃいない!」
雪ねぇの必死の弁護も俺には届かなかった
だんだんと虚ろな顔をしていく俺を雪ねぇとひゆちゃんが抱きしめてくれた。
「橙くん。
ツライよね…
ごめんね…わたしは逃げちゃったから…」
雪ねぇは俺に抱きついたまま下を向いてただただあの瞬間について悔いていた。
「お兄ちゃん。
最初わたしは結果だけ聞いた時お兄ちゃんを許せかなった。
でも、お姉ちゃんからことの顛末を聞いた時お兄ちゃんが一番可哀想だってわかったよ…
だってお母さんに他人と間違えられたまま手をかけなきゃいけなかったんだもん…
わたしだったらおかしくなっちゃうよ。
ごめんね、わたしも一緒だったら違ったかなぁ?」
ひゆちゃんが優しくそう言ってくれたのも俺の心には届いてこなかった。
そして感覚がだんだん薄れて意識も薄れていった。
俺たち三人はこの日を境に家族として一層絆を深めていくことになる。
この日からお父さんはなかなか家に寄り付かなくなり、金だけを稼いで俺たちを食べさせることだけしかしなくなった。
もちろん親らしいことはほとんどせずに…
何よりお父さんのこの行動が一番許せなかった。
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「茜ちゃんにこんな悲しい過去があったなんて…」
わたしの声よりすこしだけ低くて落ち着いたあかちゃんの声が聞こえる…
「あかちゃん?…
ここって…」
そう言ってあたりを見回すと玉座にある真っ白な部屋とわたしと全く同じ姿をした緋ちゃんが見えた。
「そう、心の部屋だよ。
ごめんね、茜ちゃんの過去をちょっと見させてもらっちゃった…
みんながなんであんなにお父さんに冷たいのか知りたくって…」
あかちゃんがそう言って申し訳なさそうな顔をした。
「ううん、大丈夫…
お母さんのこといっぱい感じられたし何より自分のことをもっと大事にできそうだよ…
悲しさやツラさなんかよりもっと大事なものを手に入れた気がする。」
あかちゃんの目を見てそう答えた。
「ありがと。
そう言ってくれると助かるよ。」
あかちゃんは照れ臭そうにそう言った。
「どうせあかちゃんお風呂とかも見てたんでしょ?
だったら楓さんのこともわかるだろうし一回外出てきなよ。
わたしは一回ここで一人になりたい。」
そんなあかちゃんをみてわたしはそんなことをこぼしてしまった。
「いやー実はそんなに見てなかったんだよね…
本当に眠りこけちゃった。
でも、見ていたとしてもわたしは出ないよ…
今の茜ちゃんに必要なのは二人に会ってくることだと思うから。」
最初は頭の後ろに手を当てて茶目っ気たっぷりに言い放ったあかちゃんであったが、後半はとても真剣な口調でそう言った。
そしてわたしの肩を後ろから掴んで玉座に座らせようとする。
「ちょっと待ってよ!
わたしは一人で心を整理する時間が欲しいの!
だから放っておいてよ!」
わたしは初めてあかちゃんに強く当たってしまった。
「ダメっ!
ダメったらダメ!
こんな時にここに籠らせたらずっと茜ちゃん出てこなくなっちゃうじゃん!
外でだって一人で考えることくらいできる!
だから、いっぱい家族の愛を感じてきなよ」
緋ちゃんは駄々をこねるようにそして優しく諭すようにわたしに言い、玉座に座らせた。
「退院するくらいに一回外に出ようと思ってるから!
それまで女の子教育頑張ってねぇ…」
ニヤニヤしながら手を振るあかちゃんの顔は意地悪さMAXだった…
しばらくして視界が開け始めた。
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「ううん……ふぁぁ…」
わたしは大きくあくびをしてあたりを見回した。
するとベッドに肘をついて寝ている雪ねぇが目に付いた。
「うふふっ…
小さい雪ねぇも可愛らしかったけど今の雪ねぇの方がよっぽど素敵だな…」
雪ねぇの寝顔を見つめながら俺はそんなことを呟く。
ガラガラッ…
「あれっ、あ〜ちゃん起きたの?
昨日からずっと眠りこけてたのに…
大丈夫?
お風呂とかで疲れちゃったのかと思ったけど起こしても起きないから心配しちゃったよ…」
ひーちゃんはちょっと驚いたような安心したような表情でそう言った。
なんだかさっきまでベッドサイドでお母さんを見ていたのに今はベッドで寝転がっている。
それがとても変に感じる…
まあ、実際にはこの体はずっとここにいたのだけれど…
「そっか…
あかちゃんがお母さんについての記憶を見てたらしくて…
ずっとその夢を見てた…」
わたしはそうひーちゃんに返した。
「そっか…
辛かったね…
ぎゅっとしてなでなでしてあげようか?」
ひーちゃんがちょっと意地悪そうにそう言った。
そんなひーちゃんが愛おしくって仕方なくって涙が溢れてくる…
やっぱりこの身体は涙もろいな…
「ううっ…
うん…ぎゅーってしてなでなでして?」
わたしは素直にひーちゃんにやってもらうことにした。
『なにこの生物…可愛すぎる…
お目々うるうるで上目遣いでこんな可愛いセリフ言ってる…
これはおねぇちゃんみたいに目覚めちゃうよ…』
そんなことを考えながら緋雪は茜を抱きしめた。
「ううっ…うわぁぁぁん…
ひーちゃぁぁぁぁぁん…
つらかったよぉ…」
「よしよし…
あ〜ちゃんはなんにも悪くないからね…
辛かった時はいっぱい私達のとこに吐き出してね。」
そう言ってひーちゃんはなでなでしてくれた。
やっぱりなでなでされるのは気持ちいい。
「ううん…
あれ?あーちゃん起きた?
ってなんで泣いてるの?」
このやり取りで騒がしくなったせいか雪ねぇも起きだしてきた。
「なんかお母さんの夢をみて辛いんだって…」
ひーちゃんがそういう風に雪ねぇに伝えた。
なんだかなぁ…
なんかお子ちゃまみたいじゃないか…
「そっか…それなら仕方ないね…
お父さんとその話するのが少し心配 だけどね…」
雪ねぇが心配そうな瞳でそう言った。
「まあ、大丈夫だよ。
今のあ〜ちゃんにはあかちゃんもついてるわけだし…」
ひーちゃんがそう返した。
「そうね、今はそんな心配せずにあーちゃんの女の子教育頑張っていかないとね!
もっと教えなきゃいけないこといっぱいあるしね。」
雪ねぇは遠くを見つめて先のことを呟いた。
「そうだね…
あ〜ちゃんはまだまだ女の子初心者だもんね…」
そうしてひーちゃんはわたしを抱きしめたまま雪ねぇと一緒に窓の外の夕日を眺めた。
ってかわたしに丸聞こえなんですけど…
泣いてても聞こえてますからね!
そんなこんなで今日も過ぎていく。
茜過去編いったん終了です。
次回からはまた日常編に戻ります。




