黒衣の騎士―3
シュアンの言葉に硬直したネージュは、とりあえず、と停止した思考を動かすためにスコーンをひとかじりし、ゆっくりと咀嚼、飲み込んだ。
クスクスと笑いながらその様子を見つめてくるシュアンに、一瞬殺意というかぶん殴ってやろうかと物騒な思考が浮かぶが、そもそも彼に肉体面で勝てる要素はゼロだった。
シアノも、なんとか硬直から回復したらしく、ネージュとシュアンの攻防を、勝気な彼女としては珍しく静かに傍観者として見つめている。
「……理由を聞かせていただいても?」
「ああ、それは当然だろう。まぁ、なんというか、疲れた、というのが最初の理由だな」
疲れた。その言葉に彼に降りかかるギルドからの高難易度依頼の数々を思い浮かべたネージュはさもありなん、とうなづいた。
工房を建てるときに協力してもらっておいてなんだが、彼は少々お人よし過ぎる。
普通、驚かせてしまったからという理由で16かそこらの小娘に協力しようなどと思うわけがない。普通ならば。
「シュアンの依頼の受け方は常人ならば死んでいるレベルですから、その言い分はわかります。ですが、ここに居候するよりは山奥に引っ込んだほうが面倒事に巻き込まれなくて済む気がするんですが?」
「すでに一回やった。一ヶ月待たずに厄介事に巻き込まれたがな」
「ご愁傷様です」
これはもう不幸体質というかトラブル吸引体質と言っても過言ではないのではなかろうか。とネージュは本気でシュアンに同情した。
「巻き込まれた以上身を守らねば死んでしまうのは私も常人と変わらんのでな。その厄介事に首を突っ込んでやった。そうしたらな、不思議なことに厄介事はその事件以外やってくる気配がなかったのだ」
「厄介事が厄介事を引きずってくる、いわゆる芋づる式にならなかったってことかい?」
やはり傍観者に徹し切れなかったシアノが首をかしげた。
その言葉に頷くシュアン。
「物は試しだ、といくつか私から厄介事に首を突っ込んでみた。するとどうだ、目の前に降りかかる依頼という名の厄介事以外まったくトラブルはなくなった」
「不思議なトラブル吸引体質もあったものですね。というか今まで気が付かなかったのですか貴方は」
「昔はそれを楽しんでいた節があるからな、私も。血の気が多かったとでも言っておこうか」
まだ三十を二つばかり過ぎたくらいで何を大げさな。
とネージュは呆れた。シュアンと同じような年齢でいまだに血の気が有り余っている様な冒険者連中はゴロゴロいるのだ。能力の上下は置いておいて。
「つまり、シュアンはこの工房に居候もしくは護衛、その他諸々の用事を引き受けることで一時的にでもトラブル吸引を抑えて、休みたい。ということですか?」
「流石ネージュだ。話の飲み込みが早くて助かる。宿代として、魔道書製作に必要な材料の採取や、魔道師への伝手、護衛を引き受ける」
「というかそうしなくてはトラブルが喜び勇んで貴方のところへやってくるでしょう?」
ネージュはため息を吐いた。
なんともまぁ、一年ぶりの再会だというのにこんなことを話しているのだろうかと呆れるやらちょっと切なくなるやら。
友人の頼みを聞くのはやぶさかではないが、自身がこの工房に住まうことによって発生するネージュたちにとって少々面倒なことが起きる可能性をわかっているのだろうか。
「わたしはかまいませんけどね?面倒な噂が発生することは覚悟してくださいよ?」
「面倒な、噂?」
分からない、と言ったシュアンに、ネージュ、シアノ二人そろって呆れたようにあからさまなため息を吐いた。
「ねー、ネージュ。この人、すっごく鈍い?」
「鈍いも鈍い、超鈍いですよ?堅物ですけど、こういった方面は一切役立たずです」
「あっちゃぁ、頭痛いね、こりゃ。あたしは別にいいんだけどさぁ、ネージュの方が問題じゃない?」
「まぁ、この工房を開いたときの事を知っている人も多いのでそう派手な被害にはなりませんよ。せいぜい、何も知らない新米冒険者さんたちにやっかみをもらうだけです」
「大問題じゃん、それ」
「大丈夫ですよ、魔道書の卸先の方々は分かってますし、それくらいで依頼を断られるようになってしまうような杜撰な関係なんてしてませんから」
ごにょごにょ、と会話する二人に、シュアンは本気で首をかしげた。
言ってる内容が正直分からない。別にこの工房に自分ひとり増えたところで、そこそこ有名な自分が護衛をする店ということで箔がついたりそれ故にちょっとしたやっかみが発生したりはするだろうとは思うが、彼女たちにとって面倒な噂とはなんだというのだ。
シュアンはそのまま二人にそれを伝えたが、呆れたようなネージュのため息に、あ、これは少々まずったかと腰が引けた。
この少女は怒らせると怖いのだ。
「シュアン、貴方はハーレムという言葉をご存知ですか?」
「あ、あぁ、王族の後宮のことだろう?」
「意味としては合っています。そうですね、若い女の二人暮らしの所へ男が転がり込んだ。そう端的に聞いたならば、どう思いますか?」
「?………っ!?そ、れは」
「世間様から見れば、立派に羨ましい状態でしょうね?男一人に女二人。どちらも花盛り。逆に、女から見れば、見目のよろしい高名な冒険者の男を囲い込んだ、とも受け取れるのですよ。貴方とわたしの関係を知る街の人間はともかく、この街に通りがかっただけの人間にしてみればわたしたちの事情などどうでもいいのです」
そう、ネージュだけだったならば問題なかった。せいぜい、付き合い始めたのか、とか、やっと互いを意識してとか、下品な話のネタにされてもそんなに派手な被害にはならなかっただろう。だが、そこにもう一人加われば、面白おかしく喋るための下品な話のネタがパワーアップするのだ。
ハーレム羨ましい、位ならまだいい。女二人に取り合いされるというのは男のロマンらしいので。実情は泥沼だが。
それより面倒なのが、女二人が男一人を交代でごにょごにょ、とか。共同でごにょごにょとか、そういう系の噂だ。
そしてシュアンが本人はそこそこだと言っているが世間一般からしてみれば高ランク冒険者である彼は有名人もいいところだ。憧れている人間も惚れている人間も多い。
それが、女二人にうんぬんかんぬん、となればやっかみが酷い。特に、彼に憧れる女性冒険者からのやっかみが。
そこに尾ひれに背びれ、胸びれまでくっついた噂が混じればどうなることか。
「……すまん、そこまで、考えが至っていなかった」
「いいんですよ、そもそもシュアンがこの手の思考に長けていたのなら、今頃どこかの貴族のお嬢様にひっ捕まってるはずですし。こういった考えが及ばないからこそ、スルーし続けることができたんだと思いますよ」
苦笑して、ネージュはそう言った。
だが、シュアンにとってそれは納得できるものではなかった。
船内で彼女の反応が楽しみだと浮かれていた自分自身を〆てやりたい程度には。
「それでも、本当にすまない。……この話は」
「無かったことにはしなくてもいいですよ。大丈夫です、ギルドにお願いして少しそういった噂が広まらないようにしてもらいます。正式な依頼としてならば、誰も文句なんて言えないでしょう?」
「そーだねぇ、なんだったらあたしからも依頼を出して、ダブルブッキングって形にすれば落ち着くでしょ。それでも下品なこと言うような奴はギルドからも周囲からも信頼度の低い馬鹿ばっかりだろうから、相手にもされないでしょ」
「それに、シュアン。魔力を見る限り殆ど限界に近いじゃないですか。このままこのペースでトラブルに巻き込まれていれば、貴方死んでしまいますよ」
苦笑しながらそう対策を述べる少女たちに、シュアンは深く頭を下げた。
ネージュの指摘するように、シュアンの体は限界に近いのだ。道中クラーケンを張り倒したりしていたが、本来の力を出し切れていなかった。
それでも、一流の冒険者だと周囲に賞賛を貰えるほどの力だったが。
だが、張り詰めた糸はいつか切れるものだ。
シュアンのそれが切れる日は、近い。
「シュアン。ああは言いましたが、五年前の恩返しを、そろそろさせてくださいな。貴方から貰ったものは、今のわたしにとってとても大事なものになったのです。あの日の貴方がいたから、わたしはこうして工房を切り盛りしていられるのです。ただ、貴方にはここに居ることでどう思われる可能性があるか、知って欲しかっただけなんですよ」
ネージュは深々と頭を下げ続けるシュアンのつむじをつついてそう笑った。
シュアンは能力値としては本当にバケモノじみています。とはいえ、休み無く動いていれば限界だってくるのです。