黒衣の騎士―1
冒険者にとって、【小さな魔道書】はとても重要なアイテムだ。
火をつける道具や洞窟へと入る際に必要な光源の確保、なにより飲み水の確保に必要な道具を持ち歩かなくて済むのだ。
ひとつのこの小さな書物で旅をするのに必要な最低限の三つをまかなえる。
呪文を唱えればこの現象を起こせる魔術師であっても、呪文短縮に役立つこの道具を持ち歩く者は多い。
ましてや、魔術師ではない人間には欠かせない道具と言えよう。
黒衣の騎士と呼ばれるこの男、シュアン・ヘイヴァーもそれは同様であった。
シュアンは、旅を続ける中で何度も開いた手のひらより小さなその本をそっと撫でた。
冒険者として過酷な地へ向かうことの多いこの男にとって、これは無くてはならぬ道具であり、相棒でもあった。
たまたま立ち寄った街で遭遇したドラゴンを追い払い、そして街へ危険を知らせる折に出会った当時は頼りなげな少女が作ったものだ。
少しばかり乱暴に扱おうがびくともしない耐久性を、そして火をつける、明かりをともす、水を作り出す(大気中から集めている、というのが正しいが)そういった当たり前の術と一緒に、いくつかの治癒術と攻撃魔術を押し込んでもらった。
普通なら暴発の危険が恐ろしくて、このサイズの魔道書にそれだけの術を押し込めるなど、そんな無茶な真似はできない。だが、彼女は何とかしてみせる、とキラキラした眼差しで言ったのだ。
実際、どうにかしてくれた。
紙も装丁もインクも何もかも一級品を惜しみなく使い、彼女の持ちうる全ての技術を注ぎ込んで作られたこの【小さな魔道書】は、最初は半年もその能力を保てなかったというのに、毎年の更新のたび、どんどん品質が向上している。
これは彼女の腕が上がっているという証拠だろう。
最近では、【帆かけ星の街】に住むネージュという【魔道書職人】の作る【小さな魔道書】は使いやすくまた頑丈だ、と噂を聞くようになった。
【魔道書職人】の数は年々増えていると聞いているが、質に関してはピンキリというやつで、彼女は確かに腕のいい職人として成長しつつあるようだ。
シュアンはそのネージュが住む【帆かけ星の街】に向かう船に乗船していた。
外は快晴。このシーズンに海が荒れるとしたら、セイレーンがブチ切れているのか海竜が近くまで来ているかの二択以外は殆どない。
ゆえに、借りた船の一室でシュアンは痛みが目立ってきた【小さな魔道書】を見つめながらのんびりと過ごせるのだ。
さて、一年のときを経て彼女はどんな風に成長しているのだろうか。
加えて、自分の提案にどんな顔をするのだろうか。
それがひどく楽しみでならない。
十も離れた小娘に、三十を越えたいい歳したおっさんが何をしているんだ。などと言われそうだが、そこはそれ、堅物と呼ばれるような性格の自分が見つけた最高の、最高の……
「……なんなのであろうな?」
玩具、とはまた違う気がする。恋をしているか、と聞かれれば迷わずNOだ。
歳の離れた妹や、娘にしては少々頼りすぎていると思う(魔道書関連でかなり無茶を頼んだ自覚はある)それならば友人。そう、気の置けない友人に近いだろうか。
よくパーティーを組んでいた連中は仲間と呼ぶべき存在だが、彼女とはとりあえず馬鹿な話をして笑いあえたらそれでいいような、そんな相手だ。
仲間と友人、では少しだけ自分の中では方向性が違うのだ。
「まぁ、言葉に出来ぬものを無理にする必要もない、か」
言葉にできなければ困ることも多々あるのが世界だが、言葉にした瞬間安っぽくなったり、的外れになったり、そんなものは沢山ある。
それをよく知るシュアンは、魔道書をいつもと同じようにストラップの部分を使ってベルトにくくり付けると、壁に立てかけてあった大剣を手に取った。
俄かに船が激しく揺れ始める。
「どうやらクラーケンにぶち当たったようだな。まったく、たまにはのんびりさせてほしいものだ」
船の揺れをものともせず、シュアンは自身に宛がわれた部屋から素早く飛び出していった。
甲板には巨大な吸盤の足が船を引きずり込もうと乗り上がっている。
「さて、遅刻はなるべく避けたいのでな、排除させてもらう!!」
それを斬り飛ばしながらシュアンは、クラーケンに踊りかかった。