魔道書職人ネージュ
魔道書職人である少女の、のんびりまったり時折ドタバタな日常風景。
ルリユール【reliure】
フランス語でもう一度〈糸で綴じる〉という意味。
製本、装丁のこと。特に工芸品としての装丁やその技術のこと。
ルリュールとも。
魔道書職人(grimoire reliure)は、魔道書専門の製本職人。
この世界で、魔道書というものは重要な位置を占めている。
冒険者ならば、呪文を唱えずとも【キー】となる言葉と、ほんの少しの対価となる魔力さえ支払えば、威力はなくとも焚き火などに火を付けられる最低レベルの魔法を詰め込んだ書を。
魔道士ならば、長い詠唱をして発動する魔法を、短縮した呪文詠唱と【キー】の言葉を連ねるだけで、相応の魔力を対価に発動できる書を。
魔道機器を扱う技師たちも、魔道式機関車や魔道式飛行船の制御に用いるために使用する。
呪文を封じ込めてしまえば誰でも使える。そう見える魔道書。だが、ひとつだけ問題があった。
暴発である。
自身の力量以上の書を扱えば当然、そうでなくとも、数多くの魔術をひとつの書物に押し込むのだ。
魔道書製作に必要な皮、紙、糸、糊、金属。
そのどれをとっても質の悪いものであれば、記された術式が暴走をはじめ、使用者やその周囲の人間を巻き込んで大惨事を引き起こす。
そして、それを製作する職人にもそれ相応の腕前が求められた。
専門職【魔道書職人】グリモア・ルリユールの誕生である。
同じように、魔術をアクセサリーや武器、防具に込める【魔道細工職人】アミュレット・アルチザンや体や武器防具に直接魔術紋章を彫りこむ【魔術紋章彫師】エクソン・スカルプターなどの専門職も存在するが、やはり扱える魔術の数が圧倒的な魔道書が一歩先を進んでいる。
【魔道書職人】の一人で、大陸西南の港町【帆かけ星の街】スパイカズ・スパンカーに店を構える、ネージュ・プラントンは青味がかった灰色の髪を太い一本のお下げにした少女である。
瞳の色は少し薄めの緑で、小柄。年齢は二十歳を二つばかり超えた。
とはいえ、小柄なことと、童顔気味のため正しい年齢に見てもらえた試しはない。
【魔道書職人】としては、数年前やっと一人で工房と看板をかけられるようになったくらいだ。
請ける仕事としては、冒険者たちだけでなく一般人にも需要が高い、魔道書としてはかなり簡単な火を付けたり水を出したり明かりを点したりなどの魔術を詰め込んだ、極小タイプの魔道書【小さな魔道書】プティ・ダリアをメインにしている。
「ネージュ、郵便だよ」
魔道書用の紙の選別をしていたネージュは作業の手を止めた。
とんとん、と樫の木で作られた扉をノックして現れたのは、ネージュの魔道書工房である二階建木造住宅の一部屋に滞在している鳥使いの女性だ。
褐色の肌、新緑の髪、瑠璃の瞳というどれもこれも強い色彩を放つ長身のこの女性の名はシアノプティーラ・シアノメラーナ。通称シアノ。
【帆かけ星の街】からさらに西にある密林地帯にある街【蛇の頭部の街】セルペンティス・カプト出身だ。
郵便ツバメ(速達担当)や伝書鳩(書類専門)、九官鳥(街中伝言板)などの斡旋や管理、調教が仕事である。
「ありがとうございます!この作業が終わったらすぐに昼ご飯の準備をしますね」
ネージュへとシアノが差し出してきた手紙には、羊の切手。
どうやら普通郵便のようだ。普通郵便は郵便ひつじ(普通郵便担当)が配達するので、それぞれ配達者が間違え無いように切手が目印になる。
郵便ツバメならば切手の絵はツバメになるし、伝書鳩なら切手と封蝋に鳩とオリーブの絵と刻印が入る。
ネージュが封を裂き手紙を読むと、ああ、そろそろそんなシーズンだったかと顔を綻ばせた。
「で、なんだった?」
「わたしが独立した時の最初のお客様からです。冒険者の方で年に一回、お作りした魔道書のメンテナンスにいらっしゃるんですよ」
「へぇー、ずいぶん気に入られたんだね」
「ふふ、本当にお世話になったんですよ。この工房を建てるときも、木材の調達をしていただきました」
ネージュの工房はいわゆるログハウス形式で建てられている。紙や皮の保存を考え工房部分は漆喰で壁を塗るなどしているが、居住部分に関してはその限りではない。
冬暖かく、夏は涼しく。だがそれも上質な木材あってこそだった。
ネージュが所属していた王城のあるここから東の【魔道書職人】の大工房の親方の一人から合格をもらい、一人前の【魔道書職人】となったものの、当初伝手はまったく無かった。
共同住宅の一室を借り、冒険者ギルドに所属して、そこから下請けの仕事で初心者冒険者用の【小さな魔道書】を製作して稼ぎながら工房制作費の足りない部分を稼ごう、としていた矢先だった。
真っ黒な鎧を着込んだ騎士のような男性冒険者が、ギルドに飛び込んできたのだ。
「最初はびっくりしましたよ。真っ黒ですし、血みどろですし」
「それはあたしでもびっくりする。ネージュのことだから、気絶でもしたんでしょ」
「……そうですよ正解ですよギルドで登録中だっていうのにその場で気を失いましたよ」
拗ねたように唇を尖らせるネージュ。だが、彼女が気絶したのも別段珍しいものでもない。
【魔道書職人】は大魔術師でもなんでもないのだ。
魔道師協会お抱えの魔術師たちが魔道師以外でも使用できるような魔術を編み出し、その内容を販売している。それを彼女たちは購入し、専用の術や道具を駆使して専用用紙に転写し、一冊の本に仕立てるのだ。
人によってはオリジナルの術を持ち込んでくるのでそれを仕立てる。
【魔道書職人】は冒険者ギルドに登録していても、あくまでも生産者側である。
材料は買ったり、持ち込んでもらったり(その分割引。ただし難易度の高い素材の場合追加料金発生)で材料はまかなっているし。
「それでしばらくたって目が覚めたら、甲冑を脱いで手当てを受けたその人が、本当に申し訳なさそうにわたしの側で座っていたんです。後でギルドの方に聞いたら、自分の怪我もそっちのけで驚かせたお詫びに自分で介抱すると言って聞かなかったそうなんですよ」
「はー…そりゃまた、堅物というか律儀というか」
「それから、わたしが工房を建てる資金を貯めているということを知って、資金集めの手伝いと、木材と大工さんの手配をしてくれたんです」
それから半年ほど、資金集めのために彼と行動を共にした。
最初は正直信用できるのかと思ったのだが、この街のギルドマスターが言うには、これ以上信用に値する人間は知らない、とのことだったのでありがたくその申し出を受けたのだ。
実際、今では彼はネージュの中で信頼できなおかつ尊敬できる人間として上位に君臨している。
十も歳が離れた、黒衣の騎士の冒険者。
冒険にも連れて行ってもらったし、そこで取れる様々な素材に直に触れることができたおかげで、今でも素材などの目利きに役立っている。
「本当なら一年以上かかって貯める予定だった資金も、冒険に同行させてもらったおかげで、報酬の一部を貰うことができたので、半年かからず貯められたんですよ」
冒険者の報酬は個人単位で支払われる。過去、パーティー単位で払っていたのだが、そのパーティー内部で金銭トラブルが発生する事態が多く見受けられた。
そのため、一人当たりの金額で依頼の報酬は提示される。当然、パーティーを多くすることで大量の報酬を貰おうという不届き者も存在したので、依頼ごとに参加可能人数が定められている。
なお、ネージュの場合は冒険者補佐、という扱いで正規報酬の半分に減額されていた。
それでも、彼が受けた依頼はどれも高額であり、その半分ともなれば十分な収入だ。
「あれ、でもおかしくない?その騎士様、相当強いんでしょ?なのになんであんたに会った日血みどろだったの?」
シアノは首をかしげた。
ネージュの口ぶりからするに、同行した彼女は殆ど危険な目に会う事も無くそれでいてそこらへんの冒険者がもらえる報酬以上の報酬を稼いでいたようなのだ。
試しに一度の冒険で手に入れたネージュの報酬を聞いてみると、一回の依頼で節約すれば一般家庭半月分の生活費になるような金額だった。
黒衣の騎士はその倍を貰っていたことになる。
「街の外にドラゴンが出たんです。たまたま彼とそのご友人が遭遇して街に来ないように追い払ったそうなんですが、その時に怪我をしてしまったそうです。けれど、自身の怪我をどうにかするより先に、その情報を街に伝えるために駆け込んだのだそうです」
ドラゴン。
大陸最強の生物。
出会ってしまったのならばいいから何が何でも逃げろ。
そんな生物を仲間と共に満身創痍になりつつ追い払い、そして危険を告げるためギルドに駆け込んだ。
それならば納得できるというか納得できない理由が無い。
事実シアノがこの街に来た当初、パン屋のおかみさんからその話を聞いた。
数年前ドラゴンがでた。追い払ったが、いつまた出現するかわからないので、城から騎士と魔道師たちが交代で来ている。という話だ。
「ネージュもすごい人と一緒にいたもんだね。で、その人がここに来るのかい?」
「はい。いつも到着三日前程に手紙が届くように出してくださるんですよ。あの人の【小さな魔道書】はフルオーダーなので、材料も手間隙も他の【小さな魔道書】と比べ物にならないんですよ」
今すぐにでも準備を始めなければならない。
材料は本人が持ち込むので問題は無いのだが、加工するための薬剤や綴じ糸などはこちらで揃えなければならない。
「楽しそうだね、ネージュ」
「はい、楽しいです。さぁ、張り切って準備をしますか!!」
気合をいれて立ち上がる。
だが、その弾みで整理していた紙が見事にテーブルの上から崩れ落ちた。
「……その前に、片付けと昼飯だね」
「………あう」