1、変わらぬ習慣と新たな習慣
土御門家に送られてきた妖退治の依頼を片付けた護は、父である翼の書斎へと足を運んだ。
「父さん、ちょっといい?」
「入れ」
ドア越しに問いかけると、翼の声が聞こえてくる。
入室を許可されたので、ドアを開け、中に入ると護の視界に大量の書物で築かれた山が入りこんできた。
――すっげぇ書類の山……これ、どっかからの報告書か?
そんなことを思いながら翼の姿を探すと、大量に積まれた報告書の間から、まだまだ黒い部分が多いが、その中から白い光がちらほらと見える髪の毛が見えてきた。
そんな翼の視線は、護の方ではなく下を向いている。
――報告書、読んでるのかな?
翼の姿勢でそう考えた護は、できる限り、中身を見ないように配慮しながら、護は翼が座っている机の前を目指す。
机の前にたどり着くと、翼は書類を伏せ、護の方へ視線を向けてきた。
もうそろそろ五十代半ばに差し掛かろうという年齢であるにも関わらず、若々しい顔つきだが、疲れからなのだろうか眉間にしわが寄り、眼付きも鋭くなっている。
不機嫌な様子がうかがえるほど威圧的な状態だったが、護は臆することはない。
翼は不機嫌そうな顔のまま、護が書斎にきた用事を察し、簡潔に問いかけてきた。
「終わったか?」
「はい」
「結界は?」
「周囲に一般人はいませんでしたが、念のため、人払いの結界を結んでおきました」
「そうか」
「それと、穏健派の妖たちにはひとまず終わったことと後日、後始末に術者がくることを伝えてあります」
「そうか。なら、後のことはこちらで処理しよう。今日はもう休みなさい」
「はい。おやすみなさい」
翼から退出の許可をもらった護は、翼に背を向け、書斎を出ようとした。
ふと、ドアノブにかけた手を止め、護は振り向かないまま、翼に声をかける。
「あまり遅くならないようにしなよ? どうせ、また徹夜するつもりだったんだろうけど?」
「……わかっていたか。しかし珍しいな。お前が他人にあからさまな気遣いを示すのは」
気遣われた翼は、珍しいものを見たかのような顔でそう返す。
実際、護は赤の他人となると言葉や態度、行動にすら気遣いを示すことはない。
それは、護の小学生の頃に体験したいじめが原因である。
翼もそれは経験したことであるため、とやかく言うつもりはまったくない。
だが、ここ最近は気恥ずかしさが出てきたらしく、家族に気遣いを示すことも珍しくなってきた。
――まぁ、それは口にしないだけということは十分知っているんだがな
口ではああは言ったものの、翼と雪美は息子が自分たちを気遣ってくれていることは十分知っている。
だが、こうもはっきりと気遣いを向けることは珍しいため、思わず口に出してしまった。
そのことに、護は照れ隠しなのか、半眼になって翼のほうへ視線を向けてくる。
「いや、まぁ……ちゃんと家族がいるんだから、健康を気遣うくらいのことはしないとかな、と思ってさ」
「なるほど、彼女の影響か」
「良くも悪くも、そうなるかな?それじゃ、今度こそおやすみ」
苦笑するでもなく、かといって不機嫌そうな顔をするでもなく、照れくさそうな半眼を向けたままの状態でそう返し、護は今度こそ部屋から出た。
ドアが閉められると、翼の顔に優しい微笑みが浮かぶ。
――やれやれ、家族以外の理解者が多いというのは、やはりいいことなのだな……本当に、あの娘には感謝しなければならないな
術者というのは、いわば異端の存在だ。
特に、普通の人間には見ることができない存在を視認でき、聞くことの出来ない声を聞き取ることができる「見鬼」の才覚を持つ術者は。
――人に見えないものを見て、その声を聞く才能。多くの術者が必要とするものだが、それ故に異端視される能力……護も、並外れた才覚のせいで色々苦労してきたからなぁ
翼はそっとため息をつきながら、幼いころの護の姿を思い出す。
護はあまり友人が出来ず、周囲の大人たちから心ない言葉をかけられることも多かった。
それが並外れた見鬼の能力ゆえであることは、翼も理解している。
――あれの心根が歪まずに済んだのは、理解のある人間が近くにいたという幸運からだろうな
むろん、翼と雪美も護の心根が歪まないよう、努力した。
だが、一番の幸運は、客人として迎え入れている月美の存在だろう。
土御門家とのつながりがあるとはいえ、月美は護が最初に出会った同い年の術者。
客人とは言ったものの、十年来の付き合いがある彼女は、土御門家にとってすでに家族のような存在だ。
護との仲も良好であるため年齢が年齢であれば、ぜひとも本当の家族として迎え入れたいとすら思っているのだが。
――さて、それはいつになるのやら
いつか来るであろうその日を想像すると、翼は笑みを深めずにはいられない。
ふと、その視界に、まだ読んでいる最中だった報告書の表紙が入りこんできた。
せっかくこんないい気分になったというのに、頭が痛くなるような内容の報告書を読む気にはなれない。
「……今日はもう寝るか」
そうつぶやくと、翼は報告書の山を崩さないよう、細心の注意を払いながら、自身の書斎を出た。
翼が書斎を出た頃、護は自分の部屋に戻っていた。
部屋に入ると視界に一人の長い黒髪の少女の背中に気づく。
うつらうつら、と船をこいでいるその少女の前には、最近になって買った折りたたみできるちゃぶ台があり、その上には学校が配布したテキストが開かれている。
どうやら、ここで勉強しながら護の帰宅を待っていたらしい。
護はその後ろ姿に、やれやれ、とため息をついて、彼女の肩をそっと叩き、声をかけた。
「月美、ただいま」
「ん……あ、おかえり。護」
寝ぼけ眼ではあるが、かなり整った顔立ちの少女が護の姿を見るなり、そう返してきた。
ただいま、と護が返すと、微苦笑を浮かべる。
「まったく、眠いなら待ってないで部屋で寝てればよかったのに」
「けど、護におやすみって言いたかったし……」
とろん、とした眼差しで月美が言い訳をしてくる。
寝る時間まで一緒に勉強してから就寝するというのが、ここ最近、護と月美の新しい習慣となっていた。
おそらく、その習慣を守ろうとして、こうして遅くまで護の部屋で待っていたのだろう。
それを思うと、護は少しばかり申し訳なく思ったが、それ以上にいじらしくも思えてしまっていた。
「そっか、ごめんな。遅くなって」
「ううん、無事に帰って来てくれてよかった」
「そうそうあの時みたいなことになってたまるかよ……それじゃ、俺ももう寝るから、月美も自分の部屋に帰りな」
「うん」
護に部屋へ戻るように言われた月美は、素直にうなずき、立ちあがる。
だが、部屋から出る気配がまったくしない。
それどころか、まるで護が何か出してくるのを待っているかのように、じっと護の顔を見つめてくる。
護は首を傾げたが、すぐにその理由に思い至り、かすかに笑みをこぼした。
「おやすみ、月美」
「うん、おやすみ」
護からその一言を聞いた月美は、可憐な笑みを浮かべながらそう返し、護の部屋から出ていく。
ドアが閉まると、月美の背中を見送った護の顔には少しばかりの寂しさが影を見せたが、それもすぐに薄らぎ、眠気が襲い掛かってくる。
「ふぁぁ……寝るとするか」
そうつぶやき、護は寝間着に着替え、そそくさと布団の中へ潜っていく。
それから数分としないうちに、護の意識はまどろみの中へと落ちていった。