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相死喪愛 ―闇の章―

相死喪愛 闇の章 第四話 過去の使徒

作者: 秋本 勇

   闇の章 第四話 過去の使徒


「久しぶりー!」

 煌びやかな晴れ着姿の友人たちの輪に加わった瞬間、星野小夜子はまるで高校生の頃に舞い戻ったような感覚を覚えた。当時から化粧をしていた友人たちはよりけばけばしく、まるっきり化粧っ気のなかった友人たちは別人のように華やかな姿をしていた。小夜子はどちらかといえばけばけばしいほうに入るだろう。

「ねぇねぇ、このあとの同窓会、行くでしょ?」

「行く行く!幹事誰?」

「クラス委員長だって」

「なつかしー」

高校を卒業してまだ二年しか経っていないのに、なぜか友人たちとの再会はひどく懐かしく、色々なことを思い出させる。

「あ、あれヒコじゃない?」

「あー!本当だぁ!ヒコー!」

同じクラスメートで人気のあった男が紋付袴で登場すると、それに向かって女たちがこぞって手を振る。中には近づいてきて挨拶をする者もいた。

「小夜子、トーマくんには会った?」

高校時代、いつも小夜子とつるんでいた藤岡紀子と羽野朱美が近づいてきて言った。

「ううん。来てるの?」

「来てる、来てる。ただ……ね」

紀子が表情を曇らせて朱美を見ると、朱美もその視線を避けて困ったように眉根を下げた。

「なんかあった?」

「うーん、実は……」

朱美はそう言ってからしばらく悩んでいたが、

「山城と婚約したらしーよ」

と声を低くした。

「あ……そうなんだ」

小夜子は苦笑した。自分の淡い期待が、打ち砕かれたためだった。

 トーマとは、同じクラスメートの小笠原冬馬のことで、小夜子が高校三年生の冬休み手前まで交際していた恋人だった。進路の違いや、入学当初から交際していたこともあっていわゆる倦怠期というものを迎え、一度距離をおこうと別れたきり、復縁することがなかった。卒業後、小夜子たちが三年生の時に教育実習生として一年実習をしていた女教師、山城清美と冬馬が交際している、という噂が流れ、それが在学時からだったとか、卒業を期に冬馬が告白したとか、清美のほうから手を出したとか、様々な憶測が囁かれた。だが、何一つ事実が分からないままこうして成人式を迎え、小夜子は内心あんな噂は嘘で本当は冬馬も自分のことを忘れていないのではないか、と思っていた。

「まさか今日の同窓会さ、山城も来るなんてことないよねー?」

「うっそ、ありえないでしょ」

「でもさ、うちらの学年入って実習してたじゃん?」

「私、委員長に聞いてみようか」

朱美が「委員長―っ!」と叫ぶと、遠くにいたスキンヘッド姿の紋付袴が振り返った。クラスメートだと知らなければなるべく遠ざけたいような風貌の男が三人に近づいてくる。

「あ!星野さんだ!久しぶり」

「久しぶり!委員長」

「いやー、それやめてよ。俺いつまで委員長してんの」

風貌は怖いが、中身はなかなか世話好きで、在学時から何かと頼りにされてきた。名前よりも「委員長」が板について、今でもやはり皆に委員長と呼ばれている。

「ま、挨拶はそこそこにしてさ。今日の同窓会って幹事、委員長だよね?」

「そうだよ」

「じゃあ、先生とか呼んでるのも委員長?」

「そう。手伝ってもらったけどね」

「もしかして、山城呼んでないよね」

「あー、その件」

小夜子と冬馬の交際についてはクラス全員どころか教師たちまで周知の事実だったので、委員長は一瞬小夜子を見て苦笑いしてから、

「呼んでないけどさ」

と言いにくそうに答えた。

「けどさ、ってなによ」

姉貴分の朱美が委員長の横腹をつつく。

「ついてきちゃうかも」

「はぁ?」

素っ頓狂な声が上がる。

「誰についてくんの!」

間髪入れず聞いたのは紀子だ。委員長は言いにくそうに頭を掻いてから、

「トーマだよ」

と言った。

「なんで呼んでもいないのにくっついてくんのよ!」

朱美の怒号が響くと、周りにいたクラスメートたちが四人を振り返った。

「ちょっと朱美!声が大きい」

小夜子のそれに朱美がう、と苦虫を噛み潰したような顔をした。

「ごめん……でもマジでなんで?」

「いや、さぁ。二人が婚約した話、聞いた?」

委員長は小夜子に振り返って尋ねた。ついさっき二人に、と小夜子が答えると、

「その話を、同級生に伝えたいんだと」

と委員長も半ば呆れたように言った。

「なにそれ!ただ結婚自慢したいだけじゃん!」

朱美のそれに委員長と紀子が頷く。

「やめとこーぜって俺も説得したんだけどさぁ。トーマがやけにノリノリなんだよ。そんな自慢話されたところで俺たち何にも言うことないっつの」

そしてちらりと小夜子を見て、

「それに、星野さんに悪くてさ」

とぽつりと呟くように言った。

「委員長、それってもしかして、私二股かけられてたってこと?」

小夜子の言葉に委員長はかぶりを振って、

「いや、わかんないけどさ!」

と慌てた様子だった。

「ちょっと、あんた何いってんの!」

朱美がすかさずまた委員長の横腹を突くと、

「いて!」

と叫び、委員長はそのままその場を退散した。

「小夜子、気にすることないよ」

紀子が微笑むが、

「大丈夫、大丈夫。もうすっかり忘れてたし!」

と小夜子が無理に笑うと、その微笑みはぎこちなく消えていった。

「あ、もう時間じゃない?」

気がつくと、周りのクラスメートたちがぞろぞろと移動を始めていた。成人式の開場が始まったらしい。

「中入ったら一緒に座ろ!」

その朱美の明るさが、小夜子にとっては救いだった。


「えー、前途洋洋、皆さんの前には、希望で溢れた新成人としての道が広がっていると同時に、今まで自分の責任というものの大きさを……」

 長い長い市長の挨拶。だが会場はしんと静まり、粛々と指揮は執り行われていた。小夜子たちの市は、近年よく問題視される新成人による成人式の暴動などが少ない市として有名だった。小夜子がちらりと周りを見渡すと、あの委員長も隣のクラスメートと小声で話をしているようではあるが、静かに式に参加していた。委員長の周りにたむろするクラスメートは皆、なるべくなら関わり合いになりたくないような髪色、髪型、言動の男が多い。

「あ、トーマくん見つけた」

紀子が小声で小夜子の前方を指差す。小夜子よりもだいぶ離れているが、左斜め前にその姿を確認できた。横を向いて、隣のクラスメートと笑いながら話しているようだった。その横顔は、交際していた当時とあまり変わっていなかった。

「懐かしいな……」

ぽつんと小夜子が言うと、

「あんな男、忘れちゃいな!」

と朱美が小声で、しかしきっぱりと言った。

「ま、ね」

小夜子が苦笑して返したそのとき、冬馬の少し右側で、やや遠目の席に座っていた男が振り返った。誰かを探すようにきょろきょろとしている。そして、ふと小夜子と目が合うと、彼はにっこりと微笑んで小さく手を振ってきた。

「なに、あれ」

朱美も気づいたらしく、しかめ面をして小夜子と同じほうを睨んでいた。

「うちらの後ろじゃないの?」

二人の視線を追いかけてから、紀子がそう言って首だけで振り返る。だが、彼に気がついているのはどうやら小夜子たち三人だけのようだった。そして、男もまだ小さく手を振っている。

「うちらの誰よ!」

朱美がにやりと笑って突っ込み、私?と尋ねるように自分のことを指差す。すると、男はすっと手を振るのをやめた。

「あ、失礼ね」

「私かな」

紀子が小さく手を振り返すと、男はかぶりを振った。

「じゃあ小夜子じゃん」

朱美と紀子に挟まれるように真ん中に座っていた小夜子は、二人に同時に振り返られて少し戸惑った。

「振り返してみなよ」

朱美につつかれて、小夜子が渋々手を小さく振り返す。すると、彼は嬉しそうに先ほどよりも大きく手を振って、満足げに前を向いた。

「何あいつ。知ってるやつ?」

「ううん、全然……」

「だよねー」

そのあと、彼が三人を振り返ることはなかった。市長の長い挨拶が終わると、次は市の教育長の挨拶が小夜子たちを苦しめた。


 式が終わると、学校ごとにまた集まりができて会場の周りは煌びやかに彩られた。大体の者たちが、このあと高校、大学の集まり同士で同窓会を行うのがこの市の定番だ。

「はーい!こっち、こっちー!」

小夜子たちも委員長が学校の名前と元三年B組と叫ぶほうへと集まっていた。大体の面々が揃うと、

「じゃー、同窓会会場に移動しまーす!遅れたやつはおいてくよー」

と委員長の声が響くと、どっと笑いが起きた。

 同窓会会場は、成人式会場に程近い居酒屋だった。本日貸切、と店の入り口においてある看板に大きく出ている。

 中に入ると、すでに料理や酒など、席の準備が整っていた。店内は皆が入るといっぱいいっぱいの狭さだ。だが、だだっ広いホールなどでやるよりも交流はできそうだった。上座にはすでに教師たちが並んでいた。担任、副担任、学年主任の教師が来ていて、

「お久しぶりでーす!」

という挨拶がしばらくの間繰り返し交わされていた。

「うちらはあとでいっか。これじゃ移動するのに一苦労じゃん?」

小夜子たちが陣取ったのは入り口に近いカウンターだった。理由は注文がしやすいし、こっそりはけるときにも楽だから、という紀子の提案だ。二次会には参加せず、このあと三人だけで飲みなおそうと成人式の最中に決めていたのだ。しかし、ここからでは上座である一番奥に移動するまでだいぶ人をかきわけないと進めない。

「人口密度高すぎ。暑くて死にそ」

それでなくても晴れ着姿の女にとってはこの暑さと密度は辛いものがある。賢いクラスメートは着替えてあとから同窓会会場に集合という形にしているらしい。式場で見た顔が、何人か消えているのはそのせいだ。

「うちらも飲みなおすときは着替えようね。このままじゃここで死ぬよ」

紀子が手で顔を扇ぎながら言ったのに小夜子と明美も頷く。

「はーい、挨拶はもう大丈夫ですかー?」

着々と乾杯までの準備は整い、ある程度のところで上座からクラスメートたちがはけた。委員長の呼びかけに、

「まだお酒ないよー!」

という声が少し上がる。

「じゃあカウンターの人渡してあげてー。カウンターならすぐ準備できるでしょ」

委員長のほかにも仕切りがうまいものがいるので、委員長の呼びかけにうまく答えて仕切るものが声を上げる。小夜子たちはまだグラスが行っていないクラスメートに自分たちのグラスを渡した。すかさず店員がそれを見て小夜子たちに新しいグラスを渡してくれる。

「やっぱカウンター正解だね」

グラスを受け取りながら紀子がしたり顔で言って笑う。

「大正解!あそこの店員さんカッコいーし」

カウンターの中の店員に朱美が視線を送る。向こうもそれに気がついたのか、朱美に向かって微笑みかけてきた。朱美の目がぱっと輝く。

「全員行きましたー?」

「大丈夫でーす」

まもなくして酒が配り終わり、委員長から乾杯の音頭はクラスのムードメーカーだった男に託された。

「あいつ、高校生の時の方がカッコよかったよね」

座敷で立ち上がり、グラスを持って何か演説しているらしいクラスメートに紀子が遠い目をして呟いた。

「紀子、あいつのこと好きだったんじゃなかった?」

小夜子のそれに、

「昔のことよ」

とまだ遠い目のまま紀子は言った。

「昔って!まだそんなに経ってないじゃん」

「二年以上も前のことなんか十分昔だよ」

「今でもちょっと好きだったりして」

「ないない!」

紀子がかぶりを振るのと、

「それでは!」

という音頭が掛かるのはほぼ同時だった。三人も慌てて視線を戻す。

「かんぱーい!」

「かんぱーい!」

皆のグラスが高々と上がり、それまでしんとしていた空気が一転ざわめきに変わった。友人同士で固まり思い出話に花を咲かせる者もいれば、先ほど挨拶が済んでいなかった者たちは教師たちの周りに集まって順に酌をしている。

「あ!どんなもんかと思ってたけど、料理おいしいわ。意外!」

紀子が口に運んでいたのは鶏もも肉の香草焼きだ。他にもスズキの塩釜焼き、定番の焼き鳥、だし巻き玉子、ししゃもの炭火焼、サラダプレート、他にもどて鍋、海ぶどう、鮭のちゃんちゃん焼きなどもある。

「お兄さん!オーダー追加しても大丈夫ですか?」

朱美は目当ての店員を呼んでいろいろとこまめに追加注文していた。当然、店員に話しかけるのが目当てなのだが、それに気がついた委員長が、

「ちょっと羽野さん!俺に言ってよ、俺に!」

と懐具合を気にして叫ぶ。周りでどっと笑いが起きた。

「こうしてるとさ、なんかあの頃の教室に戻ったみたいじゃない?雰囲気といいさ」

焼き鳥を口に運びながらの紀子のそれに、

「そうだねー」

と小夜子は笑った。朱美は店員と話しこんでいるようだ。紀子の言葉は耳に入っていない。

「私、なんだかんだ高校生の時が一番楽しかったかも」

「私もそうかな」

小夜子は少し考えてから、紀子の言葉を肯定した。脳裏には冬馬の姿が浮かんでいた。

 小夜子自身、冬馬と自分はうまくいっているものだと信じ込んでいた。確かに進路に違いはあったが、小夜子は短大、冬馬は就職するというだけの話で、どちらかが県外へ出るから遠距離恋愛になるとかそういった話ではなかった。倦怠期というのも、お互いに興味がないというのではなく、ただ長いこと一緒に過ごしてきたために、なんとなく馴れ合いのような付き合いになってしまっていたということだけだ。あの日、冬馬から「少し距離をおいて考えよう」という言葉出るまで、小夜子はその先もずっと、冬馬と二人で過ごしていくことを心から信じていた。やっぱり二股かけられていたのかな、と小夜子は先ほどの委員長の言葉を思い出し、苦笑してグラスの酒を少しだけ飲み込んで笑った。

「あー!思い出し笑い!何か面白いこと思い出したんでしょ」

だいぶ酔いも回ってきたらしく、紀子がだいぶ饒舌になってくる。小夜子は苦笑して、

「逆逆!」

と返事をしてから席を立った。

「あれ、小夜子どこいくの?」

店員と話し込んでいた朱美も気づいて振り返る。

「うん、ちょっとトイレ」

「いってらっしゃーい」

冬馬のことを思い出したせいか酔いが醒めてきていた。それに、よく考えてみればあまり飲み進んでいなかったのだ。クラスメートたちをかきわけて、店内の奥にあるトイレに滑り込む。中に入ると暖簾が二つあり、左が男性用、右が女性用と別れていて、手洗いの流しは一緒になっていた。

 小夜子が用をたして出てくると、手洗い場で男が一人手を洗っていた。先に入っていたのかもしれない。少し離れて小夜子も手を洗うと、男も小夜子に気がついたらしく、少し顔を上げた。

「星野さん、だよね?」

ふとそう呼ばれて小夜子も顔を上げる。手を洗い終わった男は、取り出していたハンカチで手を拭きながら、

「あ、やっぱりそうだ」

と笑った。その屈託のない笑顔は少し幼い感じの残る顔によく似合っていた。

「あ、えっと……」

「覚えてない?」

覚えのあるような、ないような。決して人数の多いクラスだったわけではないので、全員の名前と顔をまだ覚えているつもりだった小夜子は戸惑っていた。凡庸とした風貌なので、記憶も曖昧なのかもしれない。

「俺、緑川。緑川良哉」

それにふと蘇る記憶。あれは紀子の言葉だったろうか。入学式の時だ。

「わー、私の好きな声優さんと苗字が一緒」

「苗字って!珍しくないでしょ、緑川なんて」

それと同時に小夜子の口からは「あ」という感嘆符が洩れていた。

「思い出してくれた?」

「うん、緑川君」

「あー、やっぱり忘れてたんだね。じゃあ、さっき手を振ったのも俺だって気づいてないでしょ?」

「えっ?そうだったの?」

驚いて目を丸くすると、良哉は嬉しそうに微笑んだ。

「俺、すぐ分かったよー。星野さんのこと」

式中の時のように手を振り、

「星野さん、綺麗になったね。今のほうがすごくいい」

ととても自然に言って笑った。

「あ、ありがとう……」

言われたほうの小夜子が照れてしまい、少しはにかんで笑って見せると、良哉はそれが嬉しかったらしく同じようにはにかんだ。

「ごめんね、久しぶりに会っていきなり。でも、あの頃はトーマくんがいたからさ。あんまり話しちゃいけないと思って」

ふと、二人の目が合うと沈黙が落ちた。ドアの外では賑やかな声が響いている。二人のいる空間だけが、しんと静まっていた。

「ねえ」

最初に声をあげたのは良哉だった。ん、と小夜子が首を傾げると、

「俺が、ずっと星野さんのこと好きだったって言ったら、どうする?」

「え……?」

突然の出来事に小夜子は目を丸くした。

「実はここにいたのも、星野さんが入るとこ見て、話すチャンスだと思ってタイミングを図っていたとしたら……?」

良哉はふふ、と笑った。


 小夜子が紀子と朱美のところに戻ってしばらくして、

「ね、そろそろ出ようか。もうみんな出来上がってるしさ」

と紀子が言い出した。確かに会はすでにまとまりをなくし始めている。そろそろ二次会へなだれ込む時間だろう。

「いいね。私も店員さんのメアドゲットしたし」

「え!いつのまに」

朱美が嬉しそうにカウンターの中を覗いて小さく手を振ると、向こうの方で先ほどの店員がにっこり微笑んで手を降り返していた。いつのまにか、かなり親密になっていたらしい。

「じゃー、こっそり出ましょう!」

一番出入り口に近い紀子がそう言って立ち上がろうとしたときだった。

 店の出入り口が開いて、一人の女が入ってきた。気がついている者もいれば、振り返りもしない者もいる。だが、店を出ようとしていた三人ははっきりと、その女の姿を認識していた。

 茶色の、やわらかいパーマがかかった髪。猫のような瞳、すっと通った鼻、肉感的な唇、ナチュラルメイクはそれらをうまく引き立てている。細い首、派手すぎず地味すぎないスーツ、スカートから伸びた細い足。

「あっ!山城先生だ!」

男性陣がその言葉に湧いた。当時から若くて綺麗で人気のあった山城清美が、そこに立っていた。朱美は睨み、紀子は絶句し、小夜子は呆然と、その闖入者を見つめていた。

「呼ばれてもいないのにごめんなさい」

そう言って困ったように微笑んだ山城は綺麗だった。二〇になって、自分も大人の仲間入りだと、そこそこな大人に見えるようになったのだろうと思っていた自分が、いかに自惚れていたかを小夜子は思い知らされた。そして同時に、冬馬が彼女を好きになった理由も、そして婚約した理由も分かった気がした。

「清美さん、こっちこっち!」

それまで全く意識していなかった冬馬の声が耳に届いて小夜子が振り返った。酒のせいか、それとも婚約者の登場で照れているのか、頬を高潮させた冬馬が立ち上がって山城を手招いていた。男性陣から冷やかしの指笛が鳴る。

「ちょっと報告がありまーす」

冬馬はやけに上機嫌だった。黒髪のまま、高校生のときとあまり雰囲気は変わっていない。だが小夜子が知っている冬馬よりも、今の冬馬は少しだけ大人びて、そして明るかった。

「このたび、俺と山城先生は婚約しましたー!」

おお、というどよめき。知っている人間はそれなりに、知らない人間は「おめでとう!」と口々に叫び、その場は一瞬で祝い事の雰囲気へと変化した。冬馬が隣に並んだ山城の腰へ手を回し、それにピースサインで答えている。一緒に並ぶと、冬馬のほうが背が高いんだ、と小夜子は変なことを考えていた。

「おい、ちょっとはしゃぎすぎだろ。座れよ」

委員長がそうたしなめると、

「いいだろ?祝い事じゃんか」

と冬馬が山城に「なあ?」と同意を求める。だが山城は少し恥ずかしそうに下を向いて答えなかった。それを見て、小夜子は何かが急に、猛烈に心の底から突き上げてくるのを感じた。

「ごめん、私このあとパスでいい?」

「えっ、小夜子?」

紀子が振り返るよりも早く、小夜子は店を飛び出していた。着慣れない着物に脚をとられて何度も転びそうになりながら、必死で店から遠ざかろうと走った。

 あの、冬馬と山城の二人の幸せそうな姿を見て、小夜子は自分がいかに冬馬のことを忘れていないか思い知らされた。

 どれくらい走ったのか、気がつくと見知らぬ通りに立っていた。ショーウィンドウに映る自分の姿を見て、小夜子は苦笑した。走ったせいで髪は乱れ、着物の裾もはだけてきている。化粧も落ちて、自分でも見ていられるものではなかった。そして、見れば見るほど滑稽で、あの二人とは似ても似つかなくて、小夜子は込み上げて来る涙を抑え切れなかった。

「どうして……」

情けない自分がショーウィンドウの中で泣いている。しかし、そのぼやけた視界に何かが移った。それは……

「ほ、星野さん……」

息を切らし、膝に手を置いて全身で呼吸をする良哉の姿だった。慌てて小夜子が振り返ると、良哉も体を起こして困ったように笑った。

「心配で……いきなり、店……出ていっちゃったから、さ」

そういう彼のスーツもひどく乱れていた。ネクタイは曲がって緩み、シャツもくしゃくしゃで、髪の毛もひどく跳ね上がっている。でもその姿は、小夜子のことを想って追いかけてくれたことを意味し、小夜子の目にまた涙がこみ上げてきた。

「緑川くん……」

汗だくで微笑む良哉に、小夜子は思わず駆け寄っていた。そして、まだ胸が激しく上下する彼の胸の中で思い切り泣いた。みっともない姿である小夜子を、良哉は何も咎めず、彼女が落ち着くまで抱きしめて、乱れた頭を撫でていた。

「辛かったね、よく頑張ったね」

そんな言葉をかけながら。


 そんな二人が交際し始めるのに、それほどの時間は掛からなかった。

 小夜子にとって、良哉は冬馬の次に交際する恋人だった。人生二人目の彼氏である。冬馬は活発で、デートといえばカラオケやボウリング場が一緒になっている複合遊技場やサイクリングデートなど常に外を飛び回っていた。しかし、良哉はどちらかというとインドア派で、時折小夜子の提案で買い物をしたりもするのだが、ほとんどを良哉か小夜子の家で過ごした。二人とも一人暮らしを始めていたので、食事を一緒にとり、そのまま泊まることもしばしばだった。二人並んで読書をし、最新のゲーム機のある良哉の家に行けばゲームで盛り上がったりもした。冬馬のことを引きずっていた小夜子にとって、それは新しい喜びだった。

 交際が始まって三ヶ月ほどが過ぎたある日、朱美から小夜子に電話が入った。夜、仕事を終えて帰宅すると、見計らったように携帯電話が震えた。

「もしもし?朱美?」

「あ、もしもし!」

小夜子は荷物を降ろしてダイニングの椅子に腰掛けた。夕飯は外で取ってきたので、シャワーを浴びて着替えればゆっくりできる。携帯電話を耳に当てながら時計を見ると、八時をすでに回っていた。

「仕事終わった?今大丈夫?」

「うん、ちょうど家に帰ってきたとこ」

バッグの中から飲みかけだったミネラルウォーターのボトルを取って一口飲み込むと、

「そう、ちょうど良かった」

と朱美から返答があった。しかし、その声にはいつもの朱美の明るさがなかった。

「どうしたの?電話なんて珍しいじゃん」

小夜子のそれに、

「うん、実はさ……」

と朱美が声を低くした。

「トーマくんが、自殺したって」

次の瞬間、小夜子は目の前が真っ白になった。次の言葉が全く思いつかない。しばらくして脳裏に浮かんだのは、悲しいかな、最後に見た山城と二人で並ぶ紋付袴姿の笑顔の冬馬だった。

「小夜子?大丈夫?」

「あ、うん……」

やっと我に返った小夜子は、自分でも意識せずに壁のカレンダーを見ていた。この三ヶ月ちょっとの間に、冬馬に何があったのか。

「でも、なんで?」

やっとのことで出た疑問符。それに朱美は、

「わかんない。私もあんまり詳しいこと聞いてないんだ」

「そっか……」

二人の間に沈黙が落ちる。

「そういえば、ごめんね。あのあとメール返さなくて……」

同窓会を飛び出した小夜子を心配して、朱美と紀子の二人からはメールが何件か入っていた。だが、動揺してそのメールに返信できる自信がなく、そして良哉との関係も始まり、いつ連絡をしようかと悩んでいたところだったのだ。メールを返信しなかった上に、その間に彼氏ができたことなど打ち明けづらかった。

「ううん、小夜子が大丈夫ならよかった。あれがあったから、今回のこともちょっと言いづらかったんだけど……」

「ありがとう。でも、もう大丈夫だったから」

結局、良哉のことは打ち明けられないまま、告別式に紀子も合わせて三人揃って顔を出そうということにし、告別式の会場と時間を聞いて電話を切った。


「ああ、俺も昨日聞いたんだ。告別式、俺も行くよ」

 翌日の日曜日、良哉が小夜子の家にやってきていた。いつもどおり読書体勢に入っていた良哉に朱美からの電話のことを話すと、そんな返事が返ってきた。声はやはり暗かった。淹れたてのコーヒーを良哉に手渡すと、

「ありがとう」

と心なしか悲しそうに微笑んだ。小夜子も彼の隣に座る。

「どうして自殺なんてしたのかな。婚約までして、この前はあんなに幸せそうだったのに」

マグカップを両手で包むようにして小夜子が言うと、

「やっぱり気になるんだ」

と良哉は首だけ小夜子を振り返った。

「ううん、そういう気になるじゃないけど」

今は良哉のことだけを考えておこうと思うが、小夜子の心の中にはやはり冬馬の交際当時の姿や、この前の幸せそうな顔が蘇ってくる。それと同時に、あの山城の綺麗な横顔や、恥らう姿を思い出して切なくなった。

「遺書とかはなかったみたいだよ。俺が聞いた話だとね」

「そうなんだ」

「飛び降り自殺。自宅のマンションの屋上から飛び降りたんだって。夜」

「……」

黙り込んだ小夜子に、良哉がふっと微笑んだ。

「やっぱり気になるでしょ?」

「……正直、ね」

「うん、そうだよね……」

コーヒーの香りだけが二人を優しく包んだ。


 告別式当日、三ヶ月前に会ったときとは打って変わって喪服姿で再会した三人は、

「こんなことになるなんて……」

と暗い表情で囁きあった。ついこの前まではあんなにはしゃいでいたのに、まさかこんな形で再会するとは夢にも思っていなかった。集まっていた者はそれほど多くはなかったが、高校時代の同窓生もやはり数人は混じっていた。それらと一緒に受付をし、焼香を上げて、三人は少し話しこんでいた。

「ね、自殺の理由とか、分かったのかな」

「全然何も分からないらしいよ」

朱美と紀子の声が、小夜子には遠く感じていた。心の底から湧き上がる喪失感。二年離れていたのにも関わらず、三年間一緒に過ごした時のほうが昨日のことのように思い出された。

「遺書、なかったんだって」

小夜子がぽつんというと、

「え?本当に?」

と朱美が目を丸くした。

「どこで聞いたの、それ」

紀子が的確についてくる。

「実は……」

すると、小夜子の目に、三人のほうへ歩み寄ってくる人影が映った。それは、喪服に身を包んで、寂しげに笑う良哉だった。

「小夜子、大丈夫?」

それに気づいて朱美と紀子も良哉に顔を向ける。そして二人は訝しげに彼の顔を見て、

「あの、あなたは?」

と尋ねたのは紀子だった。

「覚えてない?緑川だよ」

良哉が微笑む。しかし、紀子と朱美は固まったままだ。

「あのね……二人にはどう言おうか迷ってたんだけど」

ぽつぽつと小夜子は良哉とのことを二人に説明した。その間、二人は何も言わず黙って小夜子の言葉を聞き、良哉も優しく微笑んだまま小夜子の横に立っていた。小夜子は正直、二人に責められると思っていた。連絡しないまま、自分だけが幸せになろうとしていたのだ。

 だが、紀子と朱美は説明が終わってすぐに微笑んだ。

「そっか、良かった」

紀子の言葉に、小夜子は目を丸くした。

「怒らないの……?」

「なんで怒んのよ!むしろ、うちら嬉しいよ。小夜子、口では忘れたとか昔のことだなんていってたけど、今まで彼氏ずっと作らなかったでしょ」

「だから新しい彼氏でもできれば、また少し変われるのにねって、あの同窓会の後朱美とも話してたの。だって、あのとき飛び出していったのだってトーマくんと山城のこと、許せなかったからでしょ?」

小夜子は図星をつかれて俯いた。それに朱美が苦笑する。

「口では強気なこと言ってたってさ、うちらどれだけ一緒にいると思ってんのよ!小夜子のこと、分かってるつもりだよ。だから、嬉しい!やっと立ち直れそうだもんね」

「こんな形で吹っ切られる形になっちゃったけどね」

紀子と朱美の言葉が嬉しくて、小夜子は大粒の涙を両目からこぼしていた。それにいち早くハンカチを差し出してくれたのは隣の良哉だった。

「ありがとう……」

気を利かせてくれたのか、良哉はすっとその場から離れた。朱美が苦笑して泣きじゃくる小夜子の頭をぽんぽんと撫でる。

 紀子は、その場から立ち去っていく良哉の背中を見送っていた。


 告別式から数日が経ち、小夜子たちはゴールデンウィークに突入していた。その日は良哉が小夜子の部屋へ来ることになっていたので、小夜子は家で昼食の準備をしていた。約束の時間までは一時間くらい。食事の後は出かけることになっている。珍しく、映画でも見に行こうか、という話になったのだ。夕方からの話題作を見て、夕飯は外で済ませて小夜子の家に帰宅し、良哉はそのまま泊まる予定になっていた。

 昼食はフレンチトーストのプレートだった。パンの上にベーコンエッグを乗せ、同じ皿にマッシュポテト、ブロッコリーを茹でたもの、スイートコーンのバター炒めを盛る予定だ。それにオニオンコンソメスープとサラダがつく。副菜は準備ができているし、サラダもすでに出すだけにして冷蔵庫に入れてある。あとはパンと、上に乗せるベーコンエッグを焼くだけだ。スープの様子を見ながら、小夜子は携帯電話も気にしていた。昼食の準備をするために、家に到着する少し前にメールを入れてくれるように良哉に言ってあるからだった。

 しかし、少ししてドアチャイムが鳴った。慌ててスープをかけていたコンロの火を消し、もう一度携帯電話を見る。メールも電話も着信はない。時間は約束の三十分前だ。

「連絡してっていったのに……」

口ではそう言いながら、内心は心を弾ませながら玄関へと小走りしていた。

「はーい」

笑顔で玄関を開け、小夜子は次の瞬間、その笑顔を凍りつかせた。

「こんにちは」

そこに立っていたのは、山城清美だった。

「山城……先生」

だが、小夜子を驚かせたのは山城の変貌のしようだった。あの幸せそうな空気は何所へ行ったのか、艶のあった黒髪はぱさぱさに細り、美しかった顔は痩せこけて頬骨が浮くほどになっている。目は落ち窪んでクマができ、かろうじて保たれている口紅が顔の中で異色を放っていた。その唇もぱさついて、めくれ上がったささくれに口紅が引っかかってまだら模様になっている。

「ごめんなさいね。突然。お母様に聞いたらここに一人で住んでるってお話だったから」

「あ、はあ……」

どう返答したものか迷い、小夜子の口からは妙な言葉しか出てこない。山城は一度気味の悪い笑みを浮かべてから、

「ここで話すのもなんだから、中へ入ってもいいかしら」

と図々しくも小夜子を中へ押しやって、玄関の扉を閉めた。かちゃん、という金属音がした。

「あ、あの……」

小夜子が戸惑っていると、

「少し話があるのよ」

といって山城はかまわず部屋の中へ入った。慌てて小夜子はそれを追う。彼女はリビングに入り、何も言わずにテーブルの前においてあったクッションに座った。

「あの、話って……?」

「まず座って」

鋭い声に気おされるように、逡巡したが小夜子は山城の向かいに座った。いつもなら、山城の座っているところに良哉が座っているはずだった。

「先生、あの……」

「あなたが殺したんでしょう」

山城は机に視線を置いたまま、小夜子を振り返らずに、しかしはっきりとそう言った。小夜子はそれに目を丸くして、固まったままの山城を見た。

「先生、何のことですか」

山城は虚ろな視線をゆっくりと持ち上げた。そして、小夜子の目を見て笑った。

「だって、あなたしかいないのよ。冬馬を殺す理由がある人なんて」

山城の言葉に冬馬、という響きが加わって、小夜子はなお混乱した。

「冬馬くんを、殺す?だって、冬馬くんは自殺じゃ……」

「遺書も何も残していなかったの。私にさえ何も言ってくれなかったの。そんな自殺なんてある?彼は絶対に自殺に見せかけて殺されたのよ!だから……」

山城は不気味に笑った。そして、

「あなたのことを調べたのよ」

と言った。小夜子はその形相の恐ろしさに後ずさった。

「冬馬はね、卒業してすぐくらいはあなたのことをずっと引きずっていたわ。何も説明せずに別れてしまったことも、私とのことを打ち明けずに卒業してよかったのかどうかも、ずっと悩んでいたの。でも、やっと、私のことだけを見つめてくれるようになった。だから婚約もした。なのに!」

髪を振り乱し、山城は自分で言った言葉に興奮して、そして激昂しているようだった。小夜子はゆっくりとあとずさりながら頭を振った。

「私は、何も……!」

「私が新任で就いたとき、あなたたち二人は先生たちも公認するような素敵なカップルだったものね。成績も優秀で、二人ともカッコよくて綺麗で……あのまま幸せに結婚して、ずっと一緒にいられると思っていたんでしょう?」

その言葉が小夜子の胸に突き刺さる。高校生当時の思い出が、胸の中に溢れてくる。そのとき、確かに小夜子は信じていた。あの幸せな二人の時がずっと続いてくのだと。そして冬馬の「愛してる」という言葉が、嘘ではないのだと、小夜子は純粋に信じていた。

「でもね、彼のほうから私に告白してきたのよ」

委員長のあの言葉が思い出される。自分だけが知らない。自分だけが、どこかで切り離されている。小夜子はそう感じた。

「冬馬は、あなたよりも私のことを愛していると言っていた。あなたとは別れるから、本気で俺と付き合ってほしい、ってそう言ってくれた。だけど、あなたと別れるまでに半年も掛かった……」

嗚咽が混じる声。彼女の両目からは大粒の涙がこぼれ、顎を伝ってテーブルに一つ二つと雫になって落ちていく。小夜子は内心、泣きたいのはこっちなのに、と叫んでいた。

「ねえ、本当はまだ付き合っていたんでしょ?別れたなんて嘘なんでしょう!」

山城の声が大きくなり、だん、とテーブルを叩く音がやけに響いた。小夜子の肩がびくりと跳ね上がる。

「だから、私と冬馬が婚約したことを恨んだんでしょう……?」

す、と山城が立ち上がった。そして、持っていたバッグの中から何かを取り出し、腹の前の辺りに構えた。それは、鈍い光を放つ切っ先の尖ったものだった。

「先生……?」

「あなたが冬馬を殺したのよ……」

それが果物ナイフだと気がついたときには、山城はすでに小夜子のすぐ側まで大股で駆け寄ってきていた。すんでのところで身を伏せ、転がるように山城の前から逃げ出すと、彼女はなお小夜子に迫ってきた。腹部に構えていたナイフは、今は彼女の右手にしっかりと握られ高々と掲げられている。その切っ先は迷うことなく小夜子へ向かっていた。

「先生!やめて!」

「私の冬馬を返してよっ!」

逃げようとする小夜子の髪を山城が掴み、引きずり倒してナイフを振り回す。刃先が頬をかすめて血が噴きだす。しかし痛みよりも、恐怖が小夜子を襲っていた。

「助けてっ!」

馬乗りになった山城は、にやりと笑ってナイフを構えなおし、それを小夜子に向かって振り下ろした。

「きゃあああっ!」

しかし次の瞬間、バンッという音がして小夜子に掛かっていた重さが一瞬に取り除かれた。恐る恐る顔を上げると、部屋の隅の方でうずくまる山城が見えた。

「小夜子っ!」

聞きなれた声。呆然と山城を見つめていた小夜子の視界に、黒い影が割って入る。それは、汗だくになった良哉の顔だった。

「大丈夫か!痛むところはないか!」

普段はおとなしい良哉が、息せき切って小夜子の肩を揺さぶっている。その声と顔を見て、小夜子は安心して意識が薄らいでいった。

「小夜子!」

遠くで女のすすり泣く声がした気がした。


 殺人未遂の現行犯で山城は逮捕された。小夜子が意識を失っている中で、良哉が落ち着いて通報し、救急車を手配して小夜子は一晩だけ念のために入院した。その後、警察の事情聴取などを受け、冬馬との交際のことや、山城が勘違いを起こしていたことなどを事実の通り話した。そんなことを繰り返しているうちに、否応なしに冬馬のことや山城に襲われたときの恐怖におびえたが、そんな時側にいて励ましてくれたのは良哉だった。あのあと家に帰るのが怖くなった小夜子に、

「あの家、怖いだろう?しばらくはうちで一緒に暮らそう」

と真っ先に彼は言った。


「あ、今日は遅くなるよ。夕方から打ち合わせなんだ」

 あの山城の事件から半年が過ぎていた。裁判などはまだ控えていたものの、普段の生活にやっと落ち着きを取り戻してきた。だが、やはりまだ小夜子は自宅に戻れずに良哉と一緒に暮らしていた。

「あ、この前の新企画の?」

広告代理店に勤めている良哉は新米ながらかなり多くの企画のサポートを任せてもらえており、ついに今度は新しい企画を立ち上げることができそうだといっていたのだ。

「そう。もしかしたら長引くかもしれないから、晩御飯食べちゃって。俺、外で食べてくるから」

「うん。分かった」

「夜、一人だけど大丈夫?」

「……うん」

小夜子は少し不安だったが、それを押し込めるように笑顔を作った。良哉は心配そうだったが、

「ありがとう」

と笑顔で答えた。


 その日の夜、良哉から朝言ったとおり打ち合わせが長引き、帰りが深夜になるかもしれないと小夜子にメールで連絡があった。戸締りしっかりして、先に寝てて、という言葉に小夜子は思わず微笑んだ。

『ありがとう。今夜は晩御飯食べたらすぐに寝ることにするね』

そう返信すると、すぐに『俺も終わったらなるべく早く帰るから』と返事があった。小夜子はありがとう、と心の中で返事をし、携帯電話を閉じた。

 帰宅して夕飯を一人で済ませ、シャワーを浴びてくつろいでいると携帯電話が着信を知らせた。見てみると、それは紀子からの着信だった。小夜子が入院したときに、朱美と二人で駆けつけてくれたのでそれ以来だった。

「もしもし?」

「もしもし?小夜子?元気?」

「うん、元気。どうしたの?」

「あれから大丈夫だったかなって」

「うん、だいぶ落ち着いた。ありがとう」

「朱美からは連絡あった?」

「ううん、ないよ」

「そう……」

紀子はそう言うとふと黙り込んでしまった。重たい沈黙が二人を包む。

「小夜子」

「うん?」

深い沈黙を破って、紀子が小夜子の名前を呼んだ。

「緑川君とは、まだ付き合ってるの?」

「うん、今、自分の家に帰るのが怖くて……一緒に暮らしてる」

「一緒に?」

その声だけがやけにはっきりと小夜子の耳に響いた。紀子の声が思いのほか大きくなったからだろう。

「ねえ、小夜子。あのね、私、思い出したことがあるんだけど……」

「思い出したこと?」

「うん。緑川くんのことなんだけど」

ぴく、と小夜子の指が震えた。携帯電話のストラップがそれに合わせて音を立てる。何に対するものなのか、小夜子自身も分からなかった。

「緑川くん、てさ……たしか」

そのとき、電話の向こうでドアチャイムが鳴った。小夜子の心臓が喉までせりあがってくる。あの日以来、ドアチャイムの音が苦手になっていた。あの音がすると、ドアの向こうにあの日の山城が立っているような気がしてならないのだ。良哉が側にいてくれるときはまだ大丈夫なのだが、一人の時に、たとえばテレビなどから流れてきても嫌な汗を全身にかいてしまう。

「あ、ごめん。誰か来た」

「紀子……」

「また後でかけ直すね」

「待って、紀子!」

「じゃあ、またすぐあとで」

「出ちゃダメ!紀子!切らないで!」

しかし、その叫びは届かず通話終了を知らせる電子音が耳に残った。携帯電話を耳に当てたまま、小夜子はしばらく呆然としていた。

 その後、紀子からの電話はなかった。


 紀子の通夜はしめやかに行われた。小夜子は朱美と二人、通夜と葬儀のどちらにも参列した。紀子の両親は、

「あの子が殺されるなんて……」

と、小夜子たちが挨拶をしても暗い表情で繰り返しそう呟くだけだった。それは小夜子たちも同じ気持ちだった。

 葬儀に参列していた際、紀子の殺害事件を捜査しているという刑事に声をかけられた。三人組の刑事で、

「星野小夜子さん、ですね?」

と声をかけられた。朱美が目を丸くしていたが、

「電話の件ですか?」

と小夜子の方から尋ねると、

「お話伺えますか」

と警察手帳の提示をされた。山城のことで慣れてしまい、横で感動している朱美が小夜子は少し羨ましく思った。

「藤岡紀子さんは殺害されるほんの五分前に、あなたへ電話をかけていますね」

「はい」

「そのとき、どんなお話をされたんですか」

「半年前の事件はもう知ってるんですよね?」

「ええ、もちろんです」

眼鏡の少し年配の刑事がゆっくり頷く。

「そのとき軽い怪我をして入院したので、もう大丈夫なのって聞かれました」

小夜子の話を一番若そうな刑事が手帳に書き込んでいく。

「そのほかに、何かお話は?」

強面の刑事、と顔に書いてあるような刑事がさらに質問してくる。

「他は……何も」

嘘をついたら分かるのだろうか、と小夜子は少し迷いながら、良哉のことについて話が出たことは言わなかった。それに、強面の刑事が頷いた。

「他に、何か変わったことはありませんでしたか」

「……話しているときに、誰か来たみたいでした」

それに、若い刑事が顔を上げて強面の刑事とうなずきあう。眼鏡の刑事は、静かに小夜子のことを見つめていた。

「誰が来たのかは分かりませんか」

「わかりません。チャイムの音がして、誰かきたみたいだから、後でまたかけ直すといって電話が切れて、それで……」

紀子は電話をかけてはこなかった。かけなおすどころか、紀子はもうこの世にいなかったのだから。

「その来客は確かですね?」

「はい。チャイムが聞こえましたから」

チャイムの音を思い出し、額に脂汗が浮き出る。脳裏に、あのやつれた山城が浮かぶ。小夜子にナイフをむけ、向かってきた彼女の形相が鮮やかに蘇る。

「あの!」

朱美がぐっと小夜子の体を後ろから支えた。そして、

「友達が亡くなったんです。今日はこれぐらいにしてもらえませんか!」

と鋭く刑事を睨んだ。刑事たちは三人で目を合わせていたが、

「そうですね。気がつかずにすいません」

と眼鏡の刑事が頭を下げた。それに習って強面と若い刑事も頭を下げた。

「もし、ほかに何か思い出したらこちらまで連絡いただけますか」

眼鏡の刑事が差し出した名刺。それを受け取って、

「失礼します」

とその場を後にした。

「大丈夫?ドアチャイム、まだダメなんでしょ?思い出しちゃった?」

体を支えながら朱美が尋ねる。

「うん……でも、大丈夫……」

無理して笑いながら、小夜子は紀子の言葉を思い出していた。

「緑川くん、てさ……たしか」

あの続きは、一体なんだったのだろうか。


 紀子の死から数ヶ月。未だ犯人は不明のまま、捜査は難航しているとテレビの報道で時折話題にのぼる。死の間際の電話の件や、来客があったらしいということも一部では包装されていた。おそらく、警察が情報提供を促すための手段としてマスコミに発表したのだろう。

 小夜子はこの頃になると、自宅を引き払って良哉と一緒に暮らしていた。やはりあの部屋に戻る気にはなれず、半年以上を一緒に過ごしてきた良哉が、

「じゃあ、一緒に住もうよ。荷物も運んで、部屋を引き払おう」

といってくれたのだ。時間のあるときに少しずつ部屋を片付け、荷物をほとんど空にしてから大家に事情を説明すると、

「まあねえ、あんなことがあったらねえ」

と気の毒な言い方をしつつも、その反面あの部屋をどう始末をつけたものかと小夜子を責めているような物言いでもあった。

「気にすることないよ」

良哉がそう言って微笑んでくれると、小夜子は本当に何事もうまくいくような気がして安心した。

 その一方で、紀子の最後の言葉も気に掛かっていた。あの時、紀子は何を思い出し、何を教えてくれるつもりだったのか。

 小夜子の中で、それがいつもどこかで引っかかっていた。


「あ、小夜子!」

 ある日、朱美から「会わない?」という電話をもらって、小夜子はあるバーにやってきた。看板には「Heaven」という店名。朱美から聞いていた店名と一緒だ。中に入ると、カウンターの中には髭を蓄えた中年の男性と、店の奥のカウンター席には朱美が座っていた。

「いらっしゃいませ」

朱美の隣に座ると、マスターがそう言ってコースターを置き、おしぼりを渡してくれる。小夜子がそれを取って、

「朱美、私バーって初めてなんだけど」

と小声で言うと、

「あ、そうなの?てっきり緑川君と一緒に行ってるもんだと思ってた」

と苦笑した。

「じゃあ、マティーニください」

「かしこまりました」

小夜子の代わりに朱美が頼むと、マスターは早速ジンとベルモットのビンを後ろの棚から取り出した。

「あのさ、来るまで内緒にしてたんだけど」

「?」

朱美がグラスを傾けながらそう言ったのに、小夜子は首を傾げた。

「実はね、今日もう一人来る予定なの」

「え、誰?」

「来たらすぐ分かるから」

す、と小夜子の前にマティーニが出される。顔を上げると、マスターが、

「マティーニです」

と微笑んだ。

「ありがとうございます」

朱美が黙ってしまったので、少し居辛い気持ちを抑えつつマティーニを飲んだ。とてもいい香りがして、それだけで酔ってしまいそうな気がした。

 そのまま無言で過ごしていると、ドアについているチャイムが鳴る音がして顔を上げた。そこにいたのは、黒い革のジャンパーに黒いジーンズ、革靴、夜なのにサングラスをかけたスキンヘッドの男だった。一瞬びくりとするが、

「あ、星野さん、羽野さん」

と声がすると、すぐに誰か気がついた。

「委員長?どうして?」

サングラスを外して委員長が苦笑し、

「羽野さん、マジで俺が来ること言ってなかったんだ」

と頭を掻いた。

「マスター、俺バーボン、ロックで。ボックス席移ってもいいかな」

「どうぞ」

委員長のそれにマスターが微笑んで小夜子の後ろを手のひらで指す。後ろを振り返ると、少し暗めな照明の四人がけのボックス席がある。委員長はそこへ直行し、小夜子と朱美はグラスとコースターを持って席を移った。

「あの、どういうことなの?」

バーボンが運ばれてきてすぐ、小夜子は二人に向かって尋ねた。二人は何か事情を知っていそうだが、小夜子は全く検討がつかない。

「ここに星野さんを呼んでもらったのは……」

そう言って委員長は横目で朱美を見た。朱美もそれに視線で返す。すると、委員長はまっすぐ小夜子に向き直って、

「緑川のことなんだ」

とはっきりと言った。小夜子の動悸が早くなる。紀子のあの言葉が、また耳の奥に蘇った。

「え、なに……?」

「ごめんね、黙ってて。実は、委員長と私、同窓会の後から付き合ってるんだ」

「?」

驚きと喜びが湧き上がるが、朱美と委員長の深刻そうな表情に小夜子は自分の感情がそぐわないことに気づいて不安になった。それに、それがどうして良哉のことに関係してくるのかが分からなかった。

「トーマのことも、すぐに連絡いったでしょ?あれ、俺が羽野さんにすぐ話したからなんだよ」

「ああ、そうなんだ……」

妙な過去の辻褄が合うが、それはまだ良哉のことに言及していない。

「それで?」

と先を促すと、二人はまた視線を交わした。

「トーマくんの告別式のとき、小夜子が緑川くんと付き合ってるって教えてくれたじゃない?」

「うん」

「あのあと、告別式終わってから小夜子先に帰ったでしょ?」

それに、あの告別式のことを思い出す。三人で話して、ある程度してから小夜子は先に帰宅した。良哉から、家に来て少しゆっくりしないかとメールがあったからだった。

「うん……」

素直にうなずくと、朱美は自分の頬に手をやって、

「ごめんね、こんなこと言うのは難なんだけど……私どうしても、緑川くんのこと思い出せなかったんだ。で、紀子にも聞いたの。そしたら、紀子もどうも思い出せないって」

「……え?」

その時小夜子の脳裏にはあの、良哉と再会した時に思い出した入学式の出来事が回想されていた。そして、殺される直前の電話で紀子が言っていた「私、思い出したことがあるんだけど……」という言葉。あれは、良哉のことを思い出したということなのか。

「でね、あのあと私、委員長と一緒に帰ったの。その時、もしかして委員長なら覚えてるかと思って聞いてみたんだ。でもね……」

ちら、と朱美の目が委員長を見上げる。委員長はそれに頭をさすりながら、

「俺も、その時は思い出せなかったんだよ。緑川良哉なんて」

どんよりとした沈黙がボックス席を包んだ。マスターがカウンターでグラスを扱う小さな音だけが響く。小夜子には、二人が一体何を言いたいのかが分からなかった。

「で、でも……」

小夜子は自分の心臓が早くなるのを感じながら、二人の事を交互に見た。二人は小夜子に目を合わさないように、委員長はバーボンの入ったグラスに手を伸ばし、朱美はテーブルに視線を落したままだった。

「朱美、覚えてるでしょ?入学式のとき」

「……覚えてるよ。紀子の話、でしょ?」

「そう!紀子の好きな声優と、名字が一緒だって盛りあがって……」

「私もそれで思い出したの。確かに緑川良哉がいたってことは。ただ、ただね……!」

その時、カランと小気味よい音がして三人が固まった。ゆっくりと人影が近づいてくると、まず朱美の顔から血の気が引いた。それに気づいて委員長が振り返る。そして、最後に小夜子もゆっくりと振り返った。

「小夜子」

そこにいたのは、ジャケットにジーンズ姿の良哉だった。

「遅いから、迎えに来たよ」

委員長の目が丸くなる。しかし、良哉には小夜子以外の人間など目に入っていないようだった。いつもの微笑みを浮かべ、

「帰ろう」

と手を差し伸べてきた。

「良哉、あのね、もう少しだけ……」

「帰ろう」

微笑みはそのままに、しかし口調は有無を言わせぬ力強さだった。うろたえる小夜子を見て、朱美が立ち上がった。

「ちょっと待ってよ!遅いって子供じゃないんだから!それにまだ一時間ちょっとしか経ってないじゃない!それに、こっちは話があって小夜子に来てもらってるんだから……」

すると、良哉の顔からすっと感情が消えた。無機質な無表情を朱美に向け、そして、

「一時間もかかってまだ話が終わってないの?」

と冷たい声で言った。その声は、小夜子も初めて聞いた声だった。朱美も言葉を失って固まっている。

「じゃあ、俺も聞かせてもらってもいいかな」

にこ、と良哉は朱美に微笑みかけた。だが、それに答えたのは朱美ではなく、

「ごめん。引きとめた俺たちが悪いんだ」

と委員長が立ち上がった。不穏な雰囲気を察してか、マスターがカウンターから四人の様子を窺っている。ほかに客がいないから何も言い出さないのだろう。

「ちょっと!」

朱美が小さく委員長に叫ぶ。だが、委員長の目は優しく微笑んだままの良哉を射抜いたままだった。一見すれば、一般客に喧嘩を売るチンピラのようだ。

「小夜子、帰ろう」

良哉はそう言って、小夜子の腕をとった。その手は冷たく冷え切っていた。

「良哉、待って!」

「小夜子!」

ぐいと引っ張られるようにして小夜子はバーの外へと連れ出された。その背中を朱美の声が追いかける。だが、それを遮るようにバーの扉が閉まった。

「ねえ、良哉!」

すると、それまでの力強さとは裏腹に良哉は優しく小夜子を抱きしめた。人通りのある道の真ん中で急に抱きしめられて、小夜子は抗おうとするがなかなか背中に回された両腕を振りほどくことが出来なかった。

「ちょっと……」

「小夜子、俺を裏切らないで……」

「え……」

小夜子の髪に顔をうずめて、良哉は泣いていた。そして小さく、

「裏切らないで……」

と繰り返していた。その声が子供のように震えていて、小夜子は急に彼を愛おしく感じ、自分の腕を良哉の背中に回した。一瞬、良哉の体が震えた。

「大丈夫だよ、絶対裏切ったりしないから……」

小夜子がそういうと、良哉は嗚咽を洩らした。しばらく、二人はそこで抱き合ったままだった。


 その夜から数ヶ月は何事もなく過ぎた。良哉は変わらず優しく、小夜子は心のどこかに引っかかりを感じながらも、良哉と過ごす平穏な日常に全てを預けて生活していた。

「今日はごめんね。せっかくの日曜日なのに休めなくて……」

その日、良哉は企画の立ち上げに伴う子会社との合同ミーティングで日曜日だが出勤になってしまった。朝食を作っていると、良哉が寝ぼけ眼で寝室から出てきてキッチンの中の小夜子にそう言った。

「ううん、大丈夫。それより、早く着替えないと!着替えそこに出しておいたよ」

「ありがとう」

まだスウェット姿の良哉は、キッチンに入ってきて小夜子の額に唇を寄せた。そして、

「顔洗ってくる」

と洗面所に消えていった。

 数分後、さっぱりとした顔の良哉がリビングに戻ってきた。小夜子はすでに朝食をテーブルに並べていた。今朝はトーストに目玉焼きと、簡単なミックスサラダ、コーンポタージュだった。淹れたてのコーヒーを出すと、

「うまそ」

と良哉は笑って早速席についた。

「帰りは何時ごろになりそう?」

「うーん、たぶん定時までは掛かると思うんだ。いつもどおりだと思うよ」

朝食をとりながらそんな会話をし、普段どおりの時間に良哉はスーツ姿で家を出て行った。帰る時間が定かではないので、分かり次第電話かメールをすることになった。朝食で使った皿や調理器具を片付けながら、小夜子はテーブルの上に置かれた自分の携帯電話を見つめた。今日は、絶好の機会だと思えた。

 後片付け、洗濯や掃除を終わらせるともう昼を回ろうかというところだった。小夜子は思い切って携帯電話を開き、電話帳から朱美の電話番号を出してかけてみた。数回のコールの後、

「もしもし?小夜子?」

驚いた様子だった。電話の向こうで雑音がしているので外にいるのだろう。

「ごめんね、今大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫!あ、でもちょっと待って」

がさがさ、という音から通話口を手で押さえたらしいことが分かる。小さな声で、小夜子だよ、という声が聞こえた。側に誰かいるのだろうか。小夜子の脳裏にスキンヘッドの委員長の姿が浮かんだ。

「ごめん、出先だからさ。音うるさいんだ」

「そうだったんだ。ごめんね、そんなときに」

「ううん!全然!それより大丈夫なの?」

朱美らしくない暗い声。それが小夜子を心配し続けてくれたことを意味していた。

「うん。大丈夫。今日は良哉……緑川くんもいないから」

「仕事?」

「そう」

朱美の言葉が詰まる。小夜子が話し出そうとしたとき、

「ねえ、小夜子、今から出てこれない?うちら、今駅前にいるんだけど」

と朱美が先に言葉にした。

「駅前なら近いからすぐいけると思う」

「じゃあ、エクスプレスで待ってる」

駅前にある全国チェーンのコーヒーショップを待ち合わせ場所として、小夜子は大体十分ぐらいで行くから、と電話を切った。化粧は少ししていたので、着替えてそのまま家を出た。


 約束の十分程度でコーヒーショップに着いた。朱美はやはり委員長と一緒で、コーヒーショップの少し奥のボックス席に座っていた。

「朱美!」

小夜子が近づくと、背を向けていた朱美が振り返った。その表情は少し固い。

「小夜子、連絡ありがとう」

座って、といわれ、小夜子は促されるまま朱美の向かいに座った。小夜子の分のコーヒーを買っておいてくれたらしく、座った席の前にはコーヒーショップのロゴが入った紙のカップが置かれていた。

「出てきて大丈夫だったの?呼んだのは私だけど」

「うん、大丈夫。私もそのつもりで電話したの。会って、あの日の続きを聞きたくて」

小夜子がそう言うと、朱美はちらりと委員長を見た。委員長は少し目を伏せて、小さくかぶりを振った。

「そのことなんだけどね……あれ、うちらの勘違いだったよ」

不器用な作り笑い。朱美のそれは、嘘をついている顔だった。

「どういうこと?」

嘘は承知で小夜子が尋ねると、次の言葉を継いだのは委員長だった。

「ちゃんと確認してさ、緑川良哉、いたんだよ。だから、俺らの勘違い。すっかり忘れちゃってただけだったんだ」

委員長が照れたように頭を掻いた。だが、その額に汗が光っている。二人が何かを隠しているのは一目瞭然だった。

「ねえ、それ……本当?」

小夜子の言葉に二人は黙り込む。それが余計に、先ほどの嘘を際立たせた。何故そんな嘘をつく必要があるのか、小夜子には分からなかった。

「小夜子、ごめんね。でも、これだけは言わせて」

朱美は悔しそうに唇を噛んでから、

「緑川くんとは、早く別れたほうがいい」

とはっきりと言った。

「それ、どういう意味……?」

あまりの言葉に小夜子はそう言ってから固まった。だが、二人は視線をカップに落としたまま何も言わなかった。その沈黙は、小夜子の心を折るには十分な時間だった。

「ねえ!どうしてそんなこというのよ!」

「小夜子……」

「私嬉しいって、紀子も一緒に言ってくれたじゃない。なのに、どうして別れろなんていうの……」

冬馬が死んでショックを受けたとき、そばにいてくれたのは良哉だった。過去の恋人の死にとらわれている小夜子を優しく受け止めてくれたのは良哉だった。それだけではない。山城に襲われたときも、トラウマに苦しみ続けている今も、紀子が死んだときも、一番近くで支えてくれたのは良哉だった。

「もういいよ……」

小夜子は荷物をとって立ち上がった。それを追うように朱美も立ち上がる。

「ねえ、小夜子」

「もし今二人が言ったことが嘘でも、私いいよ。良哉がどんな人でもいい。だって、いつも側にいて支えてくれたのは良哉だった!朱美も紀子も、何かあったときだけ来て、それ以外はほとんど顔もあわせなかったし、連絡だってしなかった……その上こんな嘘つくなんて、しかも別れろなんて、朱美にそんなこと言われたくない!」

「小夜子!」

涙が溢れてきて、小夜子はそのままコーヒーショップを飛び出した。大切な友達に裏切られたショックが小夜子の全身を埋めていた。そして、わざわざ電話などかけるのではなかったと、真実を知ることよりも残酷だった現実に後悔した。


 その後、朱美とは連絡をすることなく、良哉とは交際を続けた。一年後、小夜子と良哉は結婚を前提に、少し広い部屋へ引っ越すことになった。

「じゃあ、片付けよろしくね」

「うん、あとは細かいものだけだからね」

 ある休日。一人前に企画を任せてもらえるようになった良哉は、休日返上して仕事に行くことも少なくなかった。そしてその日も良哉は出勤し、残された小夜子は引越しを目前にして荷物の整理をする予定だった。

「さてと」

荷物をまとめてから掃除をすればいいか、と小夜子は早速荷物をまとめ始めた。大まかなものはほとんど片付けて使っていない部屋に詰めてあるので、あとは寝室の本棚の中身や、良哉が使っている仕事用のデスクの上をまとめ、最後の日まで必要なものを最低限出しておくだけとなっていた。

「本棚からやろうかな……」

本棚には良哉の仕事関係の本や、趣味で集めている小説がぎっしりと詰まっている。小夜子はあまり本を読むほうではないので、自分で買った雑誌などはすでに荷物にまとめてしまっていた。本棚に向かい、上から順にダンボールへと詰めていく。

 小説が終わって、仕事関係の本をダンボールに詰めていると懐かしいものが出てきて小夜子は思わず表紙を開いた。それは、小夜子たちが卒業した年度の卒業アルバムだった。自分の写っているページを見つけて開くと、全員の集合写真と、一人一人の制服姿の写真が並んでいた。そこに、自分の名前や朱美、紀子、そして冬馬の名前を見つけて心がざわつく。ついでに委員長の名前が菅原真だったことを写真の下の名前欄を見て思い出した。

「緑川、良哉……」

アルバムの中に、良哉はやはり笑って写っていた。小夜子は心の中で、やっぱりちゃんと良哉はいたじゃない、と呟いていた。しかし、違和感を覚えて集合写真を見直した。そこに写っていた良哉は、全員の笑顔の中にはおらず、写真の右端に四角く写りこんでいた。

「集合写真のとき、休みだったんだ」

だがふと思い出す。二年前の記憶だから定かではない。しかし、小夜子の記憶の中に、在学中の良哉の記憶が一切なかった。良哉の話題が上がって唯一覚えていたのは、あの入学式のときに話した紀子との会話だけだった。同じ教室で、同じことを学び、同じ催事に参加していたのに、そのときの良哉の姿が思い出せない。良哉とは在学中の思い出をたくさん話している。時折してくれる、当時の教師の物まねだって上手だった。だから今まで、一緒に同じことを体験してきたつもりでいた。しかし、よく考えてみれば。

 その場にいた良哉の姿を思い出すことができない。

 そう思って卒業アルバムを見てみると、行事の際の写真がたくさん掲載されている。入学式、部活動紹介、体育祭、文化祭……その写真に写らない生徒はたくさんいる。小夜子もその口だ。唯一写っていたのは、文化祭の合唱コンクールで歌っている写真。それも数人がアップで写っているので、生徒全員が写っているわけではない。部活の写真も掲載されているが、帰宅部であった良哉はそれには写っていないと以前話したことを思い出す。しかし、その写真を見ることで思い出されるいろいろな思い出の中に、クラスメートはたくさんいる。顔や名前もほとんど覚えている。なのに、良哉だけが、その中にいない。

「私、思い出したことがあるんだけど……」

「私どうしても、緑川くんのこと思い出せなかったんだ」

紀子と朱美の声が交互に耳に蘇る。小夜子の中で、二人の言葉の辻褄が合い始める。

 紀子の思い出したこととは、良哉が高校時代の記憶の中に全く存在していないことではないか。

 朱美が思い出せなかったのは、記憶の中に良哉がいないせいではないか。

 ただ、引っかかるのは、朱美があのあとすぐに、緑川良哉がいたことは思い出した、といったことだ。卒業アルバムには確かに写真と顔が掲載されている。朱美の言うとおり、緑川良哉は存在した。

 なのに、一体何故、良哉が記憶の中にいないのか。

 そのとき、ポケットで良哉からの着信を教える着信メロディが鳴り出した。心の違和感を抑えて電話に出る。

「あ、もしもし?俺だけど」

「うん、どうしたの?」

「仕事で必要な資料をさ、家のパソコンで編集してたからそのまま忘れたみたいなんだよ。で、それをメールで至急送ってほしいんだ。アドレスは今メールに入れたから、そこに資料添付して送ってくれる?」

「うん、分かった」

「資料の名前は……」

良哉の読み上げた資料の名前を聞いて、じゃあすぐに送るね、といって電話を切った。そこで、今話した様子が不自然ではなかったか、いつもどおりになっていたかと小夜子は少し不安になった。

 仕事用のデスクは寝室にあったので、パソコンもその上だった。本棚から移動して、パソコンを起動する。数秒してデスクトップ画面が立ち上がったので、言われたとおりの保存フォルダを開き、該当の資料を見つけてからメールソフトを起動した。良哉の言ったとおり、新着メールが一件届いており、タイトルには「会社のメアドを送信しました」と書かれていた。そのメールに返信する形で新規メールを作成し、先ほどの資料を添付して送信する。送信完了しました、というメニューが出たので良哉に電話をする。

「もしもし?今送ってくれたでしょ」

「うん!もう見たの?」

「見た見た!ありがとう。助かったよ」

「資料、それであってるよね」

「大丈夫。ごめんね。変なこと頼んじゃって。片付けはどう?」

「今、ちょっと手をつけたとこ」

「一人で荷造りさせちゃってごめん。俺の荷物は別に整理しないでそのまま箱に詰めちゃっていいからさ」

「うん、分かった」

「帰り、やっぱり遅くなりそうだよ。相手先がちょっと押しててさ。今日上がってくるはずの資料がまだ上がってきてないんだ。それがこないと話が進まないから、午前中いっぱいは待ちだね。ミーティングは午後からになりそうだよ」

「そうなの。じゃあ、夕飯はどうしよう?」

「もしかしたら遅くなるかもしれないから、五時過ぎても俺から連絡なければ先に食べちゃって」

「うん、分かった」

「あ、ごめん!相手先戻ってきた。じゃあ、また後で連絡できたら連絡するね」

「うん」

慌しい感じで電話は切れ、小夜子は携帯電話を閉じた。そして、パソコンを閉じようとマウスに手を伸ばしたとき、ふとデスクトップ上のあるフォルダが目に入った。新しいフォルダという名前のものだ。興味本位で開いてみると、そこには日付のような数字がついたフォルダが大量にあり、その一つを開いてみると画像データが大量に入っていた。サムネイル表示にして見てみると、そこには小夜子の姿があった。それは到底、本人の了解を得て写したものではない写真が、大量に保存されていた。

「なに、これ……」

そしてその数字の中に、忘れられないものがあった。それは、紀子の命日になったあの日のものだった。恐る恐る開いてみると、そこには小夜子の写真のほかに、帰宅する紀子を遠めに写した写真が並んでいた。嫌な予感が、小夜子の脳裏にこびりついて離れない。日付はさらに遡り、ある日の日付がついたフォルダを開いた。そこに写っていた人物を見て、小夜子の予感はほぼ確信へと化した。

「冬馬くん……」

紀子と同じ、望遠で撮ったらしき写真。エスカレータを降り、廊下を通り、部屋のチャイムを押し、山城に出迎えられる写真が、それぞれ一枚ずつ。最後の写真は、二人の笑顔が印象的だった。

 冬馬も、紀子も。殺されたのか。良哉に。

 背筋に冷たい汗が流れる。ぼうっとしている場合ではなかった。小夜子は慌てて、机に置きっぱなしだった携帯電話をとり、リビングに戻って自分のバッグを取った。そして、散らかしっぱなしだったがそのままにして部屋を飛び出した。行く当てはない。だが、あそこにいてはいけないという、危険な信号が小夜子の体を突き動かしていた。

 そして、小夜子は走りながら携帯電話を操作して朱美の電話番号を出していた。もうずっと連絡を取っていない。見放されていないかという不安が募る。

「もしもし……?」

不安げな朱美の声。しかし、それは小夜子にとって今一番安心できる声だった。

「朱美……ごめん、私が間違ってた」

「小夜子、今どこにいるの?」

だが朱美のそれには答えず、小夜子は一気に捲し立てた。

「私、思い出した……高校生の頃、良哉を見た覚えがないこと。それだけじゃない。高校生の頃の、彼の姿が、私一切思い出せない……!名前は覚えてるのに、彼のことを見た記憶が、三年間一緒に過ごした記憶がない!」

息を切らしながら説明する小夜子に、

「落ち着いて、小夜子!」

と朱美が電話の向こうで叫ぶ。

「ねえ、朱美もそうなんでしょ?紀子もきっと、そうだったんでしょ?紀子はきっと、もっと違うことに気がついて、思い出して……紀子、きっと良哉に殺されたんだ……!」

「小夜子、ちょっと待ってよ!話が飛びすぎ!紀子が、どうして緑川くんに……」

「紀子だけじゃない……冬馬くんも、自殺にみせかけて、良哉に……」

「ねえ、小夜子?聞いて!」

朱美がこれまでにないくらいヒステリックな声で叫んだ。唐突なそれに、小夜子も走るのをやめて立ち尽くした。

「あの日は嘘ついてごめん。でも、今小夜子の話聞いて、話す気になった。あの時嘘を言ったのは、あのバーで会ったあと、手紙が届いたの。脅迫状よ」

「脅迫状……」

日常では聞きなれないそれに、小夜子は思わず呟いていた。

「これ以上、星野小夜子に関わるな。緑川良哉の身辺を調べたりすると、藤巻紀子と同じ目に遭うって、書いてあった」

「……それって……」

「緑川くんが犯人だって言うなら、頷ける話よね?」

「……」

「だから本当のことを話すことができなかったのよ。あの日、呼び出して本当はきちんと話しておこうと思った。その脅迫状のことも。でも……知ってる?」

「……なにを?」

「あの日、エクスプレスで会ったとき、窓の外に、緑川君がいたんだよ」

「……うそ……」

「だから、私たちも怖くて言えなかった。あの時小夜子が泣いて飛び出していった後、緑川くん、笑ってこっちに手を振って、小夜子の後追って消えたんだよ」

盗み撮りされた大量の写真。それは、良哉が小夜子をずっと付け回していたということだ。

「そんな……」

「でもね、小夜子。私が話したいのはそんなことじゃないの」

朱美の声が深刻さを増す。雑踏など、小夜子の目には入っていなかった。耳に入ってくる朱美の声が、鼓膜に響く。

「緑川くんてね、私たちが入学して少ししてから、死んだんだよ……!」

小夜子の思考は完全に破壊された。思い出していなかった、唯一の事実はそれだったのだ。しかし、死んだ同級生のことを何故覚えていないのか……。

「緑川くん、入学してすぐに行方不明になってさ、何ヶ月かして、自殺してたのが見つかったんだよ。遺書が残ってて、それに、小夜子に振られたから、死ぬって書いてあったって……」

「私が、緑川くんを?」

「先生たちが気を使って、遺書のことを伏せてたんだって。委員長が緑川君のことを思い出したとき、先生に聞いてくれたの」

「そんな……だって、私、緑川君と話したことだって……」

「ないよ。話したことなんて、なかった」

そんな声がして振り返ると、そこにはスーツ姿の良哉が微笑んでいた。その微笑みは、今の小夜子にとっては恐怖でしかなかった。

「言ったじゃないか。トーマくんがいたから、話しかけられなかったって」

小夜子の手から携帯電話が滑り落ちる。通話口から「小夜子!どうしたの!」という朱美の声が聞こえた。

「あ、あなたは……一体、誰なの……?」

「緑川良哉だよ」

「だって、死んだっ……て」

「そう、みんなの記憶の中で、俺は殺されたんだ。俺は、自殺未遂だったんだよ」

「自殺、未遂?」

良哉は優しく微笑んだまま、顎を持ち上げて見せた。そこに、引き攣れた後が見えた。

「それは、アトピーの跡だって……」

「首を吊った時にできた痕」

首をゆっくりと降ろした良哉の表情は優しいままだった。

「自殺した。それだけで、みんな俺が死んだと思った。死んで、おしまい。誰ひとり、俺に連絡してくれる奴なんていなかった」

ゆっくりと良哉が近づいてくる。そして、小夜子の携帯電話を拾って通話終了ボタンを押した。

「遺書書いたのに、それを読んだのは親と、教師と、警察。教師はそれを黙ってた。遺書のせいで、学校は退学になった。俺は、殺されたんだ。みんなの記憶の中で」

良哉は自分の頭を人差し指でさし、小さく声に出して笑った。

「中学生の時、俺すごく苛められてて。必死に勉強して、同じ中学の奴らがいない学校に入ろうって決めて。その入試の時、君を見たんだ」

手が、ゆっくりと小夜子の顎に伸びる。思わず後ずさると、良哉は寂しそうだった。

「とても綺麗で、可愛くて。絶対入学して、君と一緒に過ごすんだって、ずっと思ってた。なのに、すぐにトーマなんかと付き合って、すごく幸せそうで。俺のほうが絶対早く君の事を好きになったのに、どうしてあんな奴と付き合うのかって、毎日苦しかった」

優しい微笑みが少しずつ泣き顔に変わっていく。伸びている手が、思わず体の動きを止めた小夜子の顎に触れた。

「ずっと君に話しかけたかった。ずっと君に触れたかった。トーマに向ける優しい笑顔を、俺に向けてほしかった。なのに、君は全然気がつかないで、俺のことなんて目にも入っていないくらい幸せそうで、だから……!」

指が少しずつ、顎から頬へ、鼻へ、目へ、額へ、前髪へ……。しかし、小夜子は恐怖で動くことが出来なかった。

「俺は、死のうと思ったんだ。でも、自殺した直後に見つかっちゃった」

小夜子に伸ばした手の反対で、良哉は自分の首の、引き攣れた痕をさすった。

「苦しかったんだ……すごく苦しかった。呼吸が出来なくて、目の前がちかちかして、頭がぎゅっと締めつけられたようになって、穴という穴から何かが流れて落ちていくような、そんな感覚があった。でも、意識が真っ白になって、その中で、君が笑っていて。最後に君が俺に向かって笑ってくれたことが本当に嬉しかった。だけど、現実は残酷だったよ。命は助かってしまって、ほんの一瞬だけクラスメートだった奴らには忘れられて、遺書に君のことを書いたことは教師に握りつぶされて、君も俺の事を忘れた。いや、俺は殺された……」

良哉の目から涙がこぼれた。すれ違う人たちが二人を振り返る。しかし、今二人は、二人だけの世界にいる。過去と、今を彷徨っている。

「同窓会に俺が混じっても、誰も気がつかなかった。俺の名前すら、出てこなかった。でも、君が、俺の名前を思い出してくれて、とても嬉しかった。ほんの一時でも、俺だけに微笑んでくれた。俺だけを愛してくれた。とても嬉しかった……」

「じゃあなんで……?」

小夜子の言葉に、良哉は顔をくしゃくしゃにしたまま首を傾げた。彼女の言葉は震えていた。

「なんで冬馬くんを、紀子を殺したりしたの……?」

その瞬間、良哉の顔は、あの冷たい表情へと変化した。小夜子に触れていた指が、首まで降りてくる。

「君の気持ちが、まだトーマに残っていたからだよ。あいつはあんなに幸せそうに笑ってた。隣に山城なんか連れて、あの場に君がいることなんて知りもせずに、あんなに嬉しそうに。あの時、君は店を飛び出していった。その君の気持ちが、俺には痛いほど分かった。だってそれは……」

冷たい微笑み。その手が、小夜子の首をゆっくりとつかむ。

「自殺した時の、俺と同じだから」

まるで小夜子の首に、良哉と同じ痕があるように思えた。良哉はゆっくりと、自分の首の痕をさすりながら、小夜子の首の同じ部分をさすった。

「藤岡さんはね、俺のことに薄々気付き始めてた。それだけじゃないよ。トーマを俺が殺したのかもしれないことにも、気が付き始めてたんだ。それを、君に話そうとしてた。冗談じゃないよ。せっかく君が俺のことだけを見て、俺だけに気持ちを預けてくれようとしているのに。せっかくトーマが君から消えていたのに!」

良哉の絶叫が響くと、周囲の人間が異常に気がつき始めた。二人を遠巻きに見ている。だが、二人はその視線には気が付いてなかった。二人の世界は、今数ヶ月前の過去へ、数年前の過去へ遡っている。二人の時間は、現在とは異次元にあった。

「君は俺のことを裏切らないって言ったよね?絶対裏切らないって言ったよね!」

「やめて……良哉」

「俺の気持ちは変わったりしないよ。トーマみたいに、ほかの女と浮気したりしない。絶対小夜子のことを裏切らない!だから……ずっと一緒にいてくれるよね?」

良哉はゆっくりと小夜子の首に両手を回した。そして、優しく微笑んだ。それは、悪魔の微笑みのように見えた。

「俺たち、ずっとずっと一緒だよね」

「良哉……」

「愛してるよ、小夜子。これからも俺たちずっと、一緒だ」


トゥルルル、トゥルルル……

「ただ今、電話に出ることができません。ピーという発信音の後に、お名前とご用件をお話しください」

ピー

「あ、もしもし?小夜子?朱美だけど、どうしたの?途中で切れちゃうし、かけても出ないし……何かあったのか心配です。メッセージ聞いたらすぐ電話して」

プツッ……ツーツー……


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