ブルークリスタル 2
全面ガラスばりのクリスタルタワーは、その正三角形の塔体に青空を映し、白い石畳の上にどっしりと立っていた。坂の下から見た時は、その名の通り、青いクリスタルのように繊細な輝きを放っていたのに、間近でみるとその存在感に圧倒される。私達は、円形に埋め込まれた薄茶色のモザイクタイルの上で、タワーに昇る人々の長い列を待った。
行列最後尾の私達のすぐ後ろでは、ザーザーと噴水が音を立てている。大理石でできた白い円形の噴水の後ろは大きな広場になっていて、散歩するカップルや、ローラーブレードを楽しむ少年達、風船を持った家族連れなんかが見える。広場中央の時計台の横には、クレープの屋台があり、屋台の前に行列を作っている女の子達の向こう側で、若い子達がダンスを踊っている。練習でもしてるんだろうか? さらに、遠くを見れば芝生が植えられていて、そこから先はサイクリングコースになっていようだ。
私は行き交う人々の中に無意識に七瀬の姿を捜した。けれど、結局彼女の姿を見つける事は出来なかった。
40分程待って、ようやく私達は塔の中に入る事が出来た。
入り口でチケットを買い、15人乗りのエレベーターに乗り込むと、正三角形の塔体に乗せられた丸い展望台を目指して昇って行く。ガラスの内側からは、遠ざかる地上が良く見えた。空へ近付いて行く。
エレベーターの扉が開くと、目の前にパノラマが広がった。私は、「すごい、すごい」と言いながら、海の見える窓に走り寄った。
海は穏やかな光を、その水面にたたえながら、西へ西へと果てしなく広がっている。沖を走る船が見える…
「このタワーって、灯台も兼ねてるらしいよ」
藤井が手もとのパンフレットを見ながら言った。私は、藤井の手元を覗き込み、パンフレットに書かれているタワープロフィールを読んだ。
『高さ:100m 展望台:90m 形状:タワー、1辺11mのチューブ構造 展望室:円形 トラス:ダイヤモンド型 灯台位置:東経○○度 北緯:××度』
「そういえば、展望室の上に、もう一つ筒っぽいの乗ってたっけ…」
そういって、藤井はしきりに頷いている。随分変な事に感心するなあ、藤井は…。
「ねえ、ねえ、それより景色見ようよ」
パンフレットばかり見ている藤井の肩をつつくと、私はさっき見えた船を指差した。
「あれって、横浜港に行くのかな?」
藤井が私の指先を見て答える。
「うーん。それっぽい気はする」
いいなあ、横浜か…。ばあちゃんが若い頃住んでた事があるって言ってたっけ。
「あれって、国道じゃない?」
藤井が、海と反対の方向を指差して言った。
「あ、そうかも」
私は、銀色に光る車の流れを見ながら頷いた。
「じゃあさ、あの道をずーっと真直ぐ行って、あの山の辺りまで走ったあの辺り学校?」
「えー? わかんないよ」
「あ、あれ、俺ンちだ!」
「うそだぁ。見えるわけないじゃん!」
くだらない話をしながら円形のフロアをゆっくり歩いて行く。展望台の中を一周すると「もう一度、南から回ろうか」といって、今度は遠くではなく、真下の地上を眺めながら歩き始めた。
南のオープンスペースでは、ピエロがジャグリングをしていて、周りを黒山の人だかりが取り巻いていた。そこから、西へ移動して行くと、さっき藤井と並んでいた噴水前が見えた。ここから見ると、地上に描かれたエントランスの羅針盤の模様がよく見える。そして、そこでは相変わらず人々が長い列を作り、丸い噴水をぐるっと取り囲んでいた。
…七瀬、本当に来るのかな?
私は、坂を昇って来る人々の中に七瀬の姿をさがした。
…大体「日曜ここに来て」だけしか書かないなんて…普通は時間と詳しい場所も指定するもんじゃないの? いつもあの子はこうなんだから。
それを七瀬に確認できなかった自分の事は棚に上げて、心の中で文句を言う。
…でも、もしかして、来ないかも…。こっちから「行く」って返事を送ったわけでもないし…
それなら、それでもいいと思った。…会えなければ、それだけの事だったのだと…でも、もし会えたら…
「おい」
突然声をかけられて、私は驚いて藤井を見た。藤井は私を見て、あきれたように笑っている。
「あ、ご…ごめん。何?」
私のバカ! せっかくの藤井といるのに七瀬の事なんか考えて上の空になるなんて!
「大丈夫か? ちょっとそこで休憩しないか?」
藤井は、そう言って後ろのカフェを指差した。
「うん、いいよ」
そういえば少し歩き疲れた。
それから、私達はカウンター席でドリンクを飲み、疲れがすっかりとれると
「さっきのピエロを見に行こうか」と、エレベーターで地上に降りた。けど、結局ピエロを見る事はできなかった。なぜなら、クリスタルタワーから一歩外に出た瞬間に、私と藤井は例の大きな声に呼び止められたからだ。
「よっちゃん! やっと、見つけた!」
説明するまでもない。葛谷だ。
レイヤードに着た黒と白のロンTの上に、赤のダウンベスト。腰穿きしたダブダブのデニムのボトムのポケットに手を突っ込み、葛谷は例のヌボーッとした顔で私と藤井を見おろしている。例のウルフカットは、紺色のキャップで隠れている。
『なんで、葛谷がここにいるのよ?』
私は、責めるように、葛谷を見上げた。もしかして、七瀬のメモと関係あるのかしら?に、してもなんで葛谷が出て来なくちゃいけないのよ。第一『やっと、みつけた』なんて…、そんな言い方したら、まるで私と葛谷がここで待ち合わせていたみたいじゃない…。
案の定、藤井はムッとしたように、私と葛谷を見比べている。一触即発のムードが漂った。そして、この緊迫したムードの中、真っ先に不満の声を上げたのは、葛谷だった。
「どうして、藤井までここにいるわけ?」
このシチュエーション下で発するには、あまりにもまずい言葉だった。
「俺がここにいちゃ、悪い理由でもあるのかよ?」
藤井は低い声で言うと、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「し…知らない、知らない」
私は両手と首をブンブンと振った。だって、正確な事は本当に知らないんだもの。しかし、藤井の私を見る目はどんどん冷たくなっていく。
「お前ら、俺に内緒で何か約束してたんだ…」
声まで冷ややかになっている。
「してない、してないって!」
なんとか言ってよ葛谷! 私は目で葛谷に助けを求めた。葛谷はしばらく首を傾げながらぼんやりと私達を見ていたが、やがてポンと手を叩くと、
「あー! 分かった。お前ら付き合ってるんだ!」
と、とてつもない大声で叫んだ。その声のあまりの大きさに、藤井は怒っているのも忘れて葛谷を見上げる。
「そっかー、そっかー、付き合ってるんだ。やだなー、よっちゃん。そう言う事は早く言ってくんなきゃ…! チクショー! お似合いだよ、2人!」
通行人が、クスクス笑いながら私達を見ている。恥ずかしさのあまり藤井の腕を取ると、
「藤井、逃げよう!」
私は叫んだ。
「え? おい!」
面喰らっている藤井の腕をつかんだまま、猛スピードで坂道を降りて行く。
「あ、待てよ! よっちゃん!」
追いかけて来る葛谷の声が聞こえた…が、途中でどこかの女子高生にぶつかったらしい、
「超いたぁーい!」
「ちゃんと、前見てよぉ!」
「あー、スイマセン、スイマセン!」
と、いうやりとりが背後から聞こえ、
「よっちゃーん、7時にタワーの前で!」
なおも私を呼ぶその言葉を最後に、ぷっつりと何も聞こえなくなった。かわいそうだが、笑ってしまう。
「ぶつかってるよ、アイツ!」
「かわいそー…!」
葛谷は振り切ったけど、私と藤井はなぜかそのまま走り続けた。やがて、白い石畳が途切れ、青い海が近付いて来る。
「ねえ、このまま海まで走ろうよ!」
振り向いて叫ぶと、藤井は笑いながら頷いた。
午後3時半の海は、まだ高い日ざしを受けて、穏やかに凪いでいた。潮風を受けながら、砂浜を駆けて行く。
「あー、びっくりしたー」
「間抜けだよなー」
口々に言っては笑う。
やがて、やっと笑いがおさまると、私達は十字型のブロックに腰掛け、目の前に広がる海を見つめた。
梅雨の中休みの今日は、夏の訪れの近さを告げるような紺碧の空と海の境目がひどく曖昧で、その差といえば、緩やかな波に反射する太陽の光ぐらいのものだった。
「けどさ…」
藤井が息を整えながら言った。
「本当に、なんでアイツはここに居たの?」
その顔は、もう怒ってはいなかった。でも、
「心当たりぐらいはあるんだろ?」
と、まっすぐにこちらを見る。
「うん…」
頷いて、歯をきゅっと噛み締めた。やはり、正直に言ってしまおう。
「まさか、葛谷君まで関係あるとは思ってなかったけど…多分…七瀬の事だよ」
「…」
藤井は『やっぱり』という顔をした。
「一昨日、七瀬から手紙をもらったの。話があるから、日曜日ここに来て…って」
「だから、俺を誘ったんだ…」
「…。それだけじゃないよ。『初めにここに来る時は、絶対に藤井と一緒に来るんだ』って、私…前から決めてたんだ…。第一、七瀬なんか、ここに来いっていうだけで、時間も場所も指定して来ないし、会えるかどうかも分からないし…会えないなら、それでもかまわないし…」
モゴモゴと言い訳がましい言葉を並べていると、藤井が「ばーか」と言って、ゲンコツで私の頭を軽く叩いた。
「最初から、正直に言えよ。そういう事は」
「だって、藤井って七瀬の事嫌いでしょ?」
「…」
それには答えず、藤井は砂浜に落ちている石を拾って、海へ向かって放り投げた。石は放物線を描き、音を立てて波打ち際に落ちる。
「ごめん…!」
私は、手を合わせて藤井に頭を下げた。
「次からは、正直に言います」
藤井があきれたように笑う。
「マユは、よっぽど春日が好きなんだな」
「そ…そうでもないよ、最近は。でも、なんか、どうしても見捨てられないんだ。自分で自分が嫌になっちゃう」
くすっと笑って、藤井が私を見た。
「中学の時のツレに、マユそっくりなのがいたよ」
「え? 私に?」
「うん、マユみたいに真直ぐで、正義感の強い奴だったよ」
なんだ、それって私が藤井に持ってるイメージそのままじゃない…。言いかけてやめた。なぜなら、藤井の目がいつになく真面目で、軽々しい事を言える雰囲気じゃなかったから…。藤井は、私から目を逸らすと、また足下の小石を拾い、手の中でそれを弄んだ。
「そいつはさ、マユみたいに苛められてる友達を一人でかばって、最後は自分が苛められるはめになっちゃった…なんか、ドラマでありそうだよな」
そう言って、思いきり小石を投げる。
「それで、その人どうなったの?」
私が、聞くと、藤井はちょっと言いにくそうな顔をしながら、答えた。
「不登校になって、それきり…」
溜め息をつく。一歩間違えたら私もそうなるんだろうか? …ううん。そんな事ないよ。私は、ばあちゃんのペンダントを握りしめる。そして、笑顔を浮かべる。
「私は大丈夫だよ。そこまで犠牲的精神強くないし…それにこう見えても、けっこう要領いいんだから」
「そっか、ならいいんだ」
藤井も笑った。そして、膝の上で手を組んでそれきり黙ってしまった。海を見ているその横顔がなんとなく寂し気に見えて、胸の中に甘酸っぱい物が込み上げて来る。
…そんなに大事な人だったの?
バカみたいだ。私は、会った事もないその人に嫉妬していた。女の人とは限ってないのに…。
…こっちを向いてよ、藤井。
横向いたきりの藤井に向かい、
「立ち直れるといいね、その人」
気持ちとは裏腹。慰めるように声をかけた。すると、藤井が私を見て頷いた。
「きっと大丈夫だよ。芯は強い奴だったから」
「そう」
私は、足で砂を掘り返した。貝殻が出て来る。桜色のその貝殻を拾おうとして背中を丸めると、潮騒に混じって藤井の声が聞こえた。
「こないだマユに貸した『銀河鉄道の夜』は、あいつが最後にくれた本なんだよ」
「…」
貝殻を手に思う。…そうか、そんなに大事な本を私に貸してくれたんだ。
その事は、もちろん嬉しかったけど、心の奥に悲しさと寂しさが込み上げてきたのはなぜだろう…?