ブルークリスタル 1
灰色の空に、ベールをかぶった太陽が浮かんでいる。
今日は、曇り。学園前駅の改札口を出ると、昨日まで降り続いた雨が残した水たまりが、駅前のアスファルトにいくつも模様を描いているのが見える。私は、それらを慎重によけながら歩いて行った。胸に、ばあちゃんのダイヤモンドが揺れている。
「おはよう、よっちゃん!」
タクシー乗り場を過ぎ、駅前の喫茶店『待夢』の前に差しかかったあたりで、私は、また、あのバカでかい声に呼び止められた。説明するまでもない、葛谷高志だ。
しかし、声は聞こえるのに、姿が見えない。私は、きょろきょろと辺りを見回した。
「どこよ、葛谷君」
すると…
「呼ばれて、飛び出てじゃじゃじゃじゃ~ん!」
と叫んで、『待夢』の前に設置してある、自動販売機の影から葛谷が飛び出して来た。
…あっけにとられる。
「あれ? つまんなかった?」
葛谷は、驚いてる私の顔を見て言った。
「つまんないっていうかさ…まさか、それやるために、ずっと待ってたわけじゃないよね?」
私が答えると、葛谷は、図星って顔をした。私は、ウルフカットのこの大きな男が、自動販売機の影にコソコソ隠れながら、どうやって登場しようかとか、何を言おうかとか、一生懸命考えていた様子を想像して、吹き出しそうになった。が、込み上げる笑いを押し殺しながら、
「やっぱり、そうなんだ…目的はなに?」
と、真面目に聞いた。すると、葛谷は、私以上にに真面目な顔をしてこう答えた。
「逢いたくてさ…」
…え?…
一瞬ドキッとした…が、すぐに、嘘だと気付く。同時に、自動販売機の影から飛び出して来た時の、葛谷の顔を思い出して、私は、吹き出してしまった。
「やめてよ…! 似合わない」
涙を流して笑っていると、情けない声で葛谷が言った。
「ひでぇよ、よっちゃん…笑うなんて」
「ごめん、ごめん! だっておかしくて」
私は、涙を拭いた。
「もしかして、俺の言う事、全部冗談だと思ってる?」
「思うわよ。だって、葛谷君、同じ事七瀬にも言ってじゃない? 私、隣で聞いてたのよ」
「…!」
葛谷は、絶句した。
その時、ちょうど、ロータリー前の信号機が点滅するのが見えた。私は、葛谷の腕をつかむと、
「それより、ほら、信号が変わっちゃうよ! 急ごう!」
と、言って、猛スピードで走り出した。
「あ…おい、よっちゃん、よっちゃん。待って! 水たまり! 水たまり!」
背後から、葛谷の慌てふためく声が聞こえる。が、私は知らん顔で、走り続けた。
本当の事を言うと、私は初めから、葛谷が何を言うために待っていたのか分かっていた。きっと、昨日の放課後に言っていた…「ナナさんの話聞いた?」…の続きだ。「用事は明日に」って約束(?)したものね。でも、昨日だろうと、今日だろうと、悪いけど…七瀬の話なんか聞きたくない。
横断歩道を渡り終えると、その先は石垣に両脇を挟まれた坂道が続いている。濡れた坂道には、雨に打たれた若葉が落ちていて、湿ったアスファルトからは、雨上がりのあの独特の匂いがしている。
私は、坂の手前で振り返ると、息を切らせている葛谷に向かって意地悪く言った。
「それで、本当は、何の用なの? 七瀬の話以外なら、なんでも聞いてあげるわ」
「よっちゃーん…」
葛谷が、泣きそうな声を出す。
「そりゃないよ! 俺がナナさんの話するつもりなの知ってるんだろ?」
やっぱり! と、思いつつ、
「あら? そうなの? 全然分からなかった」
と、しらばっくれる。
「意地の悪い事言うなよ…!」
追いかけて来る葛谷をはぐらかしながら、緩やかな坂道を昇って行くと、やがて道なりに続く石垣が姿を消し、かわりに、色とりどりの花で飾られた、あのレンガの家が見えて来た。その前を通り過ぎる時、私は、家の脇の露地へと視線を送る。その先には砂利道が続いていて、毎朝、そこを歩いている藤井と出会うのだが、今日は、まだ家を出ていないようだ。姿が見えない。少し待ってみたかったのだけど、葛谷がいるからあきらめて、まっすぐに学校に向かった。
その日の藤井は、朝から様子が変だった。…変というか、冷たかった。
いつもなら、朝、教室に入ると必ず声をかけて来てくれるのに、今日は黙って本を読んでいる。目が合えば、視線を逸らすし、昼も、一人でお弁当を食べている私を無視して、男友達とどこかに行ってしまう。どうしてだか、さっぱり、分からない。
放課後、『銀河鉄道の夜』を手に、勇気を出して藤井に話しかけてみた。藤井は、自分の席で部活に行く準備をしている。
「これ、ありがとう」
私は、藤井の目の前に文庫本をすっと差し出した。藤井が私を見る。
「お…おもしろかったよ、それ。っていうか、感動した」
苦し紛れの笑顔を浮かべると、藤井は無言で私の手から文庫本を取り鞄にしまった。それから、また黙って体操服や水着を畳みはじめる。私は、気まずさから逃れるために、必死で喋った。
「なんか、小さい頃読んだ記憶と違った。色々、考えさせられちゃった。ほら、幸せになるためには、どうしたらいいのか…みたいな事書いてあったじゃん。結構深いよね」
「…」
藤井は、やっぱり無言のままだ。さらに、気まずい沈黙が流れる。
「…あの? なんか、怒ってる?」
おそるおそる、聞いてみると、藤井が冷たい目で私を見た。そして、
「屋上行こっか…」
と、言って立ち上がると、荷物も持たないで、さっさと教室を出て行った。
「ちょっと…藤井君!」
私は、慌てて藤井を追いかけた。
「っていうかさ…」
落下防止用の柵にもたれて藤井が言った。
「葛谷って、吉岡のなんなの?」
藤井は灰色の空を背に、怒ったような目で私を見た。
屋上の入り口で、首を傾げる。
「なんでもないよ…? でも、どうして?」
と、言ってしまってから、ハッとする。
…もしかして、ヤキモチ?…
それにしても、目が怖い。藤井は低い声で言った。
「もしかして、葛谷が、好きだったりするわけ」
…やっぱりそうだ!… 私の顔が、カーッと熱くなった。
「ちがう、ちがう」
私は、思いきり首を振った。
「葛谷君は、友達! いい友達なの」
「けど、朝楽しそうに歩いてたそうじゃん。俺、知ってるんだからな…と…友達から聞いたから…」
それで、怒ってたのか…。私は、プーッと吹き出した。
「ちがう、ちがう。誤解もいい所! 葛谷君は、七瀬の伝言を伝える為に、必死で私を待ってたのよ。きっと葛谷君は、七瀬が好きなのよ」
…多分、おそらく、きっとそうだ…。じゃなきゃ、七瀬の為にあんなに必死になるはずがない。
すると、藤井が柵から手を離し、こちらに歩いて来た。
「本当に?」
「本当よ!」
私は深く頷いた。
「そっか…」
途端に藤井の目が優しくなる。…でも…
ありったけの勇気を振り絞り、私は藤井に尋ねてみた。
「なんで、そんな事を聞くの?」
「え…」
藤井の表情が固まる。やっと、自分の言葉の意味に気付いたらしい。
「それは…その」
藤井は、気まずそうに濡れたコンクリートを見た。そして、しばらく何かもぞもぞとしていたけど、やがて小さな声で呟いた。
「好きだから」
Q.1
2x + 3y = 1
3x - 4y= -7 の交点を通り、点(1、-1 )を通る直線の方程式を、求めよ。
机の上に、数?氓フ参考書と白紙のノートを開いたまま、私はぼんやりと、窓ガラスに映る自分の顔を見ていた。
つり目で、おたふく。かわいいって形容詞からは程遠い大きな体。生まれてから一度だって好きだと思った事のない『ワタシ』。胸元には、あのピンクネックレスが、相変わらずキラキラと輝いている。
告白された時は信じられないくらい嬉しかったけど、藤井は一体こんな私のどこを好きになったんだろう?
かわいそうな『ワタシ』は、頭の中でこんな問いをつくり出した。
Q
これは魔法のダイヤモンドの力でしょうか?
紫陽花の咲く庭に、優しい雨が降る。
次の日の朝、私はサーモンピンクの傘をさしてあのレンガの家の前で藤井を待った。ここへ来るまでに随分迷ったけれど、でも、私はやっぱり藤井の事が好きだから…
しばらく待つと、さくさくと白い砂利を踏みながら、藍色の傘をさした藤井がやって来るのが見えた。藤井は、アスファルトと砂利道のちょうど境目で私の姿に気付き、傘を背中に傾けて立ち止まった。
私は、傘をまっすぐに空に向けたまま、
「お…おはよう」
と、ぎこちなく笑った。
「お…はよう」
真正面に私の顔を見ながら、藤井もぎこちなく答えた。どうしようもなく胸の鼓動が速くなる。言葉が出て来ない、出て来ないけど…
「き…昨日の屋上の話の続きだけどね…」
あらん限りの力をふりしぼり、かすれた声を出す。すると、藤井が「うん」と頷いてごくりと唾をのんだ。私は、今一番この場に相応しく、気のきいた言葉を捜した。けど、捜せば捜す程、何も思い浮かばず、結局ろくに藤井の顔も見ぬまま、
「オ…OK…」
などと、ぶっきらぼうに言ってしまった。
…ああ、なんて、ありきたりを通り越して、無愛想なセリフ…。きっと、呆れられたわ…
そう思いながらおそるおそる顔を上げると、意外な事に固まっていた藤井の顔がみるみる笑顔に変わっていくのが見えた。私はその笑顔に吸い寄せられるように、藤井の隣に立ち、そして私達は、傘を並べて歩き始めた。
藤井の笑顔を見ながら、勇気を出して、自分の気持ちを伝えてよかったと、心から思った。
昨日の夜、ひとりネガティブなクエスチョンを白紙の上に綴った『ワタシ』はもういない。
※ ※ ※
『真由美、よかったら、今度の日曜クリスタルパークに来て NANA』
パステルブルーのハイビスカスのプリントの上に、ピンク色のマーカーで書かれた文字を目で追いながら、私は溜め息をついた。
今日は金曜日だ。
鞄の中にいつの間にか入れられていたメモ帳の切れ端を、乱暴にポケットに突っ込むと、ベットの上の時計を見た。
PM10:15
七瀬はまだ起きているだろう…。
私は携帯を充電器から外し、アドレス帳から七瀬の電話番号を呼び出した。
が、発信ボタンを押そうとして手をとめる。そして、画面に表示された七瀬の携帯番号を眺めたまま、しばらく動けないでいた。
正直、今でも七瀬に対するわだかまりが消えたわけではない。学校では相変わらず口もきかないし、町田と話しているかつての彼女からは考えられない程の生き生きとした笑顔を見るたび、言葉に出来ない不快感が込み上げて来るのも、変わらない。
(その度に私は、ばあちゃんのダイヤモンドをブラウスの上から握りしめ、『消えろ! 消えろ! こんな気持ち!』と、唱えるのだ)
けれど、こんな手紙を貰うと、とても気になる。…何か悪い事でもあったのだろうか?
「…」
私はさんざん迷った末に、二つ折りの携帯を閉じた。
…やめておこう。七瀬に振り回されるのはもうやめようと、決めたんだから…
私は、携帯を充電器に戻すと、部屋を出て一階のリビングでソファに座りテレビをつけた。テレビの中では私と同じくらいの子達が熱く討論をしていた。七瀬にちょっと似た女の子が夢について語っている。その少女の顔を見ているうちに、私の頭の中にハイビスカスとピンク色の文字が点滅はじめた。
…ああ、だめだ、あの手紙が気になって全然集中できないわ。
私は、自分の部屋に戻りると携帯を手に取り、藤井にメールを送った。
『あさって、クリスタルパークに行かない? マユ』
クリスタルパークは、白川町から電車で15分程度電車に揺られた所にある、海沿いの町、碧南町に昔からある大きな公園である。
蒼い海を望む小高い丘の上に、南北に広がる緑豊かな公園の、その中央部には、この春建てられた高さ100m程の『クリスタルタワー』があり、同じくこの春オープンしたショッピングモール『クリスタル・タウン』と併せて、海沿いの新名所として週末は賑わっているらしい。
その日の私は、淡いピンク色のサマーセーターの下に白いプリーツスカートをはき、ライムグリーンのトートバックを持って、待ち合わせの改札口に向かった。時間には、まだ少し早かったけど、改札口にはすでに藤井が来ていて、私を見ると軽く手を上げた。私は藤井に駆け寄った。
「待った?」
「ううん。俺も今来たとこ」
「行こっか」
「うん」
モノトーンのTシャツと黒のパンツの上にグレーのロングベストをだらっとはおって、床に置いたカーキ色のリュックを「よっ」と持ち上げると、藤井は私の少し前を、駅の外に向かって歩き始めた。
駅の外に一歩出ると、白い防波堤の向こうに蒼い海が広がっていた。
「うわぁ、海だぁ!」
潮風を受けながら、私は叫んだ。七瀬のメモが気になって、ここに来た私だけど、この海を見ると、くだらないわだかまりも何もかも忘れて、ただここに来てよかったと思う。
「信じられない! 青いよぉ、藤井!」
はしゃいでいる私の耳元で、囁くように藤井が言った。
「後で行ってみようか」
「うん、絶対!」
それから、私達は丘の上の公園に続く坂道を手を繋いで歩いて行った。
坂道の両側には、低層で瀟洒な白い店がずっと続いている。碧南駅から丘の上の公園に続くこの町並みが、ショッピングモール『クリスタル・タウン』である。歩行者天国になっている白い石畳の道は、買い物客でごった返していたが、私と藤井は上手にその間をすり抜けながら、ショップを覗きつつ、坂の上で空の色を映しているクリスタルタワーを目指した。