白い夜 03
冷たい風を頬に受けつつ、人通りの無い道を走る。七瀬の家が、直に見えて来る。しかし私は自転車を降りてすぐに妙な違和感を感じた。…門が開いている。確か、さっき、帰り際に藤井が閉めたはずだった。…誰か、来てるの?
私はカーポートの下に自転車を停めた。2階の電気はついておらず、1階の、先程まで私達がパーティーをしていた部屋の明かりだけが煌々とついている。七瀬は、まだ、1階にいるようだ。後片付けをしているんだろうか?
それから玄関脇のインターホンを押そうとして、私はふと手を止めた。何故なら、すぐ横のベランダ越し…ガラスの窓の向こうから、聞き覚えの有る声が二つ、はっきりと聞こえて来たからだった。
一つは言うまでもない。七瀬のものだ。そして、もう一つは…聞き間違えでなければ、それは藤井のものだった。…何かを言い争っているようだ。
それにしても、何で藤井が…?
絶望的な不安を感じる。
私は足音を忍ばせ、ガラスの窓に近付いて行った。
…帰ってよ、委員長。お願いだから…
ガラス越しに七瀬の声が聞こえて来る。…委員長? 絶望的な気分になる。…やっぱり中にいるのは藤井なの…?
聞き間違いであって欲しかった。が、その願いも空しく次にはっきりと聞こえて来たのは、紛れもない、藤井の声だった。
…お前がアメリカ行きをやめるって言うまで、帰らない。
そんなことを言うために、わざわざ戻って来たというのだろうか? 終電を逃してまで? 一体どうしてそんなバカな事を? 聞くまでもなく答は出ている。けれど、私はそれを認めなくなかった。そして思った。…これ以上、ここに居てはいけない。2人の話を聞いてはいけない。…しかし、帰ろうにも足が動いてくれない…。
…いいから、帰って。
…帰らない。
…いいから、お願い。
…いやだよ。春日。オレ、お前が好きなんだ…!
一瞬、藤井が何を言ったのか分からなかった。けれど、やけに冷め切った私のココロとは裏腹に、胸の動悸が激しくなるのが分かる。手が震えて来る。呆然とした私の耳に、まるで夢の中の声のように2人のやりとりが響いて来る。
…オレ、こんな事になってやっと分かったんだ。お前を失いたくないって。
…待ってよ。…私も、委員長は好きよ。尊敬もしている。でも、それは恋愛感 情じゃなくて…
…コーイチさんだろ?
…え?
…お前、今は、コーイチさんが忘れられないだけだろ?
………
…一生、そうやって、コーイチさんの事を思って生きていく気?
………
…オレ、待つから。いつまででも待つから。
…ダメよ。
…なんで?
…確かに、今の私はコーイチに縛られてるかもしれない。コーイチを忘れられたら、委員長を好きになれるかもしれない…ううん。そんな事ありえない…だって、私、真由美を傷つけたくないから…
…マユ…?
ハッとしたように、藤井が私の名を呟いた。
…真由美は、私にとってコーイチと同じぐらい大事な存在なの。絶対に失いたくない…
しかし、そんな七瀬の言葉も、今の私にとっては何の救いにもならなかった。それどころか、まるで追い討ちをかけるみたいに、藤井のこんな言葉が聞こえて来て…。
…マユ…。マユは好きだよ。あいつは、健気で可愛くて、大事にしなきゃと思ってた。思おうとしていた。でも、それは、お前に対する気持ちとは全然違うって気付いちまったから…だから、もう、どうしようもないんだ…。
バン…!
気が付くと、私はガラス窓をこぶしで思いきり叩いていた。
部屋の中がシーンとなった…。
カラリ…
目の前が明るくなり、七瀬が青ざめた顔をのぞかせる。
「真由美…」
血の気の引いた唇で私の名前を呼んだ。私は無言で七瀬の顔を睨み付けた。後ろに、七瀬以上に真っ青な藤井が立っている。彼自身も呆然としているようだった。
「藤井が居るのに、私が来るの止めなかったんだ…」
それは、自分でもゾッとするような冷たい声だった。
「違う…違うよ、真由美」
七瀬が首を振る。
「何が違うの? こんな夜更けに人の彼氏を家の中に上げておいて…」
「…委員長は真由美の電話の後に来たの。それで、私はてっきり2人一緒だと思って…」
「…」
必死で弁解する七瀬を無視して、私は藤井を見つめた。彼は眉を寄せ、蒼白な顔で私を見ている。その顔を見ているうちに、だんだんノドが痛くなって来る。涙が溢れて来るより先に、私はくるりと後ろを向いて走り出した。
「マユ…!」
藤井の声が追いかけて来る。その声を無視して、私は自転車に乗った。
「待てよ、マユ!」
藤井が私の腕を握りしめる。
「…離してよ!」
うつむいたまま、かろうじてそれだけ答える。
「聞いてくれよ、マユ」
「…何も聞きたくないよ! 裏切り者! 裏切り者!」
頭の中がぐちゃぐちゃで、自分でも何を言ってるか分からない。
「マユ…ごめん、マユ。オレ、お前の事大事にしたかった。…でも」
「離して、離して!」
「聞いてくれよ。自分でも分からないんだ。何で、こんなに春日に惹かれるのか…!」
「聞きたくない!」
私は、無理矢理藤井の腕を振りほどいた。そして、私の名を呼び続ける藤井を置き去りにして、猛スピードで自転車を走らせて行った。