白い夜 01
頬に冷たい物が触れ、思わず見上げた薄桃色の雲の間から、綿毛のような雪がふわりふわりと舞い降りて来る。
「…初雪…?」
思わず声を出して、手を開きそれを受け止める。真っ白な雪は、指先に触れるや否や溶けて消えてしまったけれど、私は軽く手を握り、クスリと笑って、それから、なんというわけもなく、目の前に広がる夕暮れの商店街を眺めた。すっかり葉を落とした街路樹の枝々にイルミネーションが飾られ、すずなりの光を零している。電柱に備え付けられたスピーカーからは、クリスマスソングが流れて来る。
ピリピリピリ…
携帯が鳴った。
斜がけにしたグレーのボアのバッグから、ピンク色の携帯を出す。七瀬からメールが来ていた。
『今晩大丈夫そう? NANA』
『うん。大丈夫。今、白川駅前でみんなを待ってる マユ』
返信する。
12月12日。
文化祭が終り、後期生徒会選挙に体育祭と慌ただしく時は流れ、気が付けば冬になっていた。ちなみに、後期クラス委員は田中という男子生徒と紗知に決まった。私は重荷から解放されてホッとしている。
そして、今日は、あの夏、七瀬を助けたメンバーだけで一足早いクリスマス会をやる事になっていた。提案者は珍しくも七瀬。このメンバーに来て欲しいといったのも七瀬だった。
あれ以来七瀬は、憑き物が落ちたように明るくなった。クラスメートもうまくやっている。
けれど正直なところ、この招待に対して、私はかなり複雑な思いを抱いていた。何故なら、このメンバーの中に藤井が含まれていたからだ。別に、藤井と七瀬の距離が目に見えて近付いているというわけではない。むしろ、学校では2人ともまったく接点を持っていなかった。けれど、時おり藤井がふ…と七瀬に向ける眼差しを私は見逃していなかった。それでも、頑に藤井は七瀬との距離を縮めようとはしなかった。…不自然なぐらい距離をおいている。その態度がかえってますます私を不安にさせる。そして不安になるたびに、私はダイヤモンドを握りしめ「大丈夫」だと自分に言い聞かせるのだ。それが、滑稽だとは分かっていたけれど…。
「よっちゃん」
名前を呼ばれ、振り返ると、オレンジのダウンジャケットを着た葛谷が、両手にロフトの大きな紙袋を持って走って来るところだった。
「早いじゃん、クズっち!」
大袈裟に驚く。
「ひでぇな、その言い方。まるで、遅刻常習犯みたいじゃん」
私を真似て、葛谷が大袈裟に拗ねてみせた。
「その通りじゃん」
笑って言い返すが、その後の葛谷の答は無かった。何故なら、彼が暗くなった空を見上げ、ガラにもなく感傷的に、
「雪…降ってるんだ」
と呟いたからだ。
「うん。どうりで、ここしばらく寒かったわけだよね」
白い息を吐きながら答える。
「ていうか、これ、初雪よね…」
なんか変な感じ。この冬一番の雪を、葛谷と一緒にこうして眺めるなんてさ…。
「まゆちゃん、クズー!」
いきなり大きな声がして、バンと背中を叩かれる。振り返ると、茶色のファーコートを着て、綾美が冷やかすように私達を見ている。
「あれー。アヤミンも今の列車に乗ってたの?」
葛谷が素頓狂な声を上げた。
「乗ってたよお。気付かなかった?」
「気付かないって。そっちもだろ?」
「そっか。で、委員長は?」
綾美はキョロキョロと藤井の姿を探した。既に委員長をやめた今でも、藤井のアダナは委員長のままだ。
「さーなー。アイツ、反対側の列車で来るだろ? 5分でも遅れたら、置いて行ってやろうか」
「意地悪言わないのー」
綾美が笑う。
「だってオレ、時間にルーズな奴嫌いだし」
「よく言うわ」
葛谷の言葉に私達は思わず突っ込みを入れる。
と、警報機が鳴り、遮断機が降りた。そして、私達の目の前に、藤井が乗って
いるはずの銀色の列車がすべるように走って来た。
pm:6:00
『White Christmas』を聴きながら、半月型のテーブルに頬杖をつき、居間の真ん中に置いてあるクリスマスツリーを眺める。金や銀のモールで飾り付けられた小さなツリーは、電気を落とした薄暗い居間の真ん中で、赤や黄色や緑色の電飾をチカチカと瞬かせていた。隣の綾美もうっとりとそれを見つめている。テーブルの上には七瀬が用意してくれたチキンやパスタ、そして、私達が買って来たケーキやお寿司なんかが置かれ、私の正面に藤井、斜前に葛谷が座り、七瀬だけが一人立って、テーブルに置かれたグラスにシャンパンを注いでくれた。
全員に注ぎ終ると彼女は、私と綾美の間に無理矢理割り込み、琥珀色のグラスを片手に、「乾杯」と言う。
「何の乾杯よ」
私は七瀬に尋ねた。
「…色々な事に」
七瀬が答える。
「色々な事って?」
もう一度尋ねると、
「クリスマスだろ?」
藤井が言った。
「なんか、ヘンな感じ。まだ、クリスマスまで10日以上あるのに」
綾美が笑う。
「まあ、気にしないって事で」
葛谷がグラスを差し出した。それで、私達はチンとお互いのグラスを鳴らした。
それから、私達は用意した食べ物を各々のお皿に取り、シャンペンを飲みながら他愛の無い話に興じた。七瀬のお気に入りのCDを聴きながら、葛谷が持って来たゲームなんかをして、あっという間に夜は更けて行く。
私達は気付いていなかった。なぜ、七瀬が今日私達をこんな風に呼んだのかを。そして私達は、ただ、純粋に少し早いクリスマスを楽しんでいただけだった。だから、夜の11時を過ぎ「そろそろ帰らなきゃ」と藤井立ち上がった時に、七瀬が「待って」とやけに真面目な顔をして引き留めても、何の疑いも無く彼女の顔を見ただけだった。
私達は、その時の彼女の決意を察する事はできなかった。もちろんそれは決して私達の罪ではないのだけれど…。
「何?」
藤井は、上げかけた腰を降ろしてソファの上の七瀬を見た。片付けを済ませ、帰り支度を始めていた私達も七瀬を見る。
「うん。ちょっと、みんなに聞いて欲しい事が有るの…」
…聞いて欲しい事? なんだろう?
訝しげな私達の視線を浴びながら、彼女はCDを止めた。そして、一言ひとこと選ぶようにゆっくりと話しはじめた。
「実は、今日みんなに集ってもらたのは、この話をするためだったの」
そう言って目を伏せる。
わざわざ、このメンバーを呼んで話したい事? 何だろう? ダンスの事? まさか、コーイチの事とか?
七瀬はなかなか話し出そうとしなかった。
「大事な話って、何?」
焦れて、私が口を開くと、
「うん…」
小さな声で頷き、やっと七瀬は言葉を続けた。
「あのね、私、実は、アメリカに行くの」
「え…?」
誰からともなく声が上がる。予想もしなかった言葉に私も耳を疑った。なんですって…? アメリカ?
「…パパがね、仕事の都合で向こうで暮らす事になって、私にも来いっていうの…。だから、みんなとはもうすぐお別れなの…」
「いつ…?」
藤井の乾いた声が聞こえて来る。
「年が明けたら、すぐ…」
…つまり、1ヵ月後だ。
「そんな…急な…」
葛谷が唖然として呟く。彼の言う通りだ。急すぎる。
「…うん。実はね。急でもないの。夏には、ほぼ決まっていた話なの。今まで黙っててごめん。でも、どうしても、誰よりも先にこのメンバーに言わなきゃって思ってた…」
「夏って…」
私は、七瀬の足の包帯が取れた日の事を思い出す。
「もしかして…おじさんが帰って来たあの日?」
あの日、七瀬は、まだ治り切らない足で必死に踊っていた…。
「うん」
七瀬が頷く。
「パパ、しばらく向こうで暮らさなくちゃいけない事になったんだって。何年になるか分からないから、私にも来いって…」
「そんな。今更…」
思わず叫んだ。
「今まで一人きりでほったらかしておいて、今更一緒にも何もないんじゃないの?」
そんな言葉が口を付く。だって、余りにも身勝手な感じがしたから…。すると、七瀬が泣きそうな顔で私を見て言った。
「私だって、同じ事を思った。絶対行きたく無いって反抗したの。一人でだってやっていけるって。今までだってそうだったんだから。そうしたらパパが言ったの。『向こうに行ったら、今のように年中家を開ける事はなくなるから、きっとナナの傍にいられる。それで、今までバラバラだった分を取り戻したいんだ』って…でも今更そんな事言われたって納得が行かなくて、私パパに言い返してやった。私には、どうしても日本を離れたく無い理由が有るから離れないって。そのうちの一つはダンスよ。将来はダンサーになりたいの…」
七瀬はそこで言葉を切り、それきり黙ってしまった。
「…もしかして、…だからあんな無理してオーディションを受けたの?」
私は七瀬に聞いた。
「うん」
七瀬が頷く。
「パパは、ダンサーなんかになれないって言った。でも、オーディションに受かれば、ダンサーとしてやっていける。日本を離れられない理由にもなる。私、あのオーディションにかけてたの。でも、落ちちゃった」
「それで、アメリカ行きを決心したって事?」
私の質問に七瀬が頷く。これで納得した。あの日の直前、『私、オーディションあきらめるよ』と言っていた七瀬が、あっさりとその言葉を翻した理由をだ…。それにしても、そんな決意を胸に秘めつつ、ずっと沈黙を守り続けていたなんて…。軽いショックを受ける。
「水臭いよ。七瀬…」
私の言葉に、
「ごめん。マユ。言い出せなかった…」
七瀬がすまなそうな顔をする。
「でも…」
葛谷が叫んだ。
「ナナさん、あん時は確かにダメだったけど…でも絶対にプロになれるよ。あきらめちゃダメだよ。ずっとここで踊り続けようよ」
「ありがとう。クズっち。でも、あのオーディションは私にとって賭けだったの。潔く負けは負けと認めないと…」
「負け? 負けてねーよ。まだ、17才じゃん。これからだろ?」
七瀬は首を振った。
「オーディションの時、コーイチに聞かれたでしょ? 『君にとって踊るってどういう事なの?』って。あの時、私は答えられなかった。でも、本当は答は分かってた。私にとってダンスはコーイチと自分を繋ぐ糸だった。でも、肝心のコーイチが居なくなっちゃった…踊る理由がなくなっちゃった」
「それじゃあ、もう、ダンスはやめるって事?」
私は七瀬に聞いた。七瀬は答えた。
「そう、なるかも…」
「信じらんねえ!」
葛谷が立ち上がった。
「ナナさんにとって、ダンスってその程度のもの?」
「分からない…」
七瀬が首を振る。
「どれだけ考えても分からないの。ダンスの事を考えると、どうしてもコーイチの事を思い出して、冷静になれなくなるの。…踊り続けたいのかどうかさえ、分からなくなっちゃう」
「何だよそれ…」
葛谷が溜め息をついた。
「せっかく色んな事がいい方向に向い出したのに…」
「そうだよ。ナナチン」
綾美が泣きそうな顔で葛谷に同意した。
「せっかく仲良くなれたのに…。ユキともさ…」
「そうだよ。オレらじゃ…オレらじゃ日本に残る理由にならないの?」
葛谷の言葉に七瀬が首を振った。
「誤解しないで。みんなの事も大事に決まってる。何よりも大事よ。みんなのおかげで私は……でもね、同じぐらいパパも大事だってことに気付いたの。…それは、みんなと付き合って行くうちに気付いた事で…どう言っていいのか分からないけど…。みんなと過ごしてるうちに、私の中のイヤな考え方がどんどん小さくなってきたみたいなの。なんだか、昔みたいに、パパの事を冷たい目だけで見る事ができなくなったの。パパが言った『今までバラバラだった分を取り戻したいんだ』って言葉が痛い程胸に突き刺さって来たの…。それで…ごめん。自分で何言ってるのか分からなくなって来た」
「…」
葛谷は黙ってしまった。綾美も私も何も言う事ができなかった。
そして藤井は、このやりとりの間中、青ざめた顔を七瀬に向けたまま終始無言だった。