薄暮 03
小林と綾美が出て行ってしまうと、自然にクラスメート達の視線は七瀬へと集中した。七瀬はうつむいて泣き続けている。
私は、腰を降ろし、机に手をつき、泣いている七瀬の顔を覗き込んだ。
「…七瀬、私達の所に来なよ。一人でお弁当食べててもつまらないでしょ?」
しかし、七瀬は泣きながら首を振った。
「いやなの…?」
軽い失望を伴いつつ尋ねると、
「違う…その事じゃない」
と七瀬は答えた。それから、
「どうしてなの?」
と言って、濡れた瞳で私を見た。
「何が?」
「どうして、アヤミンは私なんかに謝ったの? 悪いのは私なのに…」
…ああ。
私は心の中で頷く。
確かに、この場合、謝らなくちゃいけないのはむしろ七瀬の方だろう。もしかすると、綾美は七瀬の苦しみも知っているから、それで、自分の痛みよりも七瀬の気持ちを優先してくれたのかもしれない。あくまでも憶測にすぎないけど…。
「それに、どうしてみんな私の事を許してくれるの? 約束やぶったのに…。私、もうみんなにシカトされてもいいって覚悟で来たんだよ」
そう言って七瀬は立ち上がり教室の中を見回した。
「何でなの? 何で許してくれるの? 私なんか、サイテーの自己中人間なのに。無視されて当然の奴なのに」
誰も何も答えなかった。七瀬の嗚咽だけが響く。
やがて、その静けさを破るように藤井が言った。
「…みんな、春日の事を分かろうとしてくれてるんだよ。それは、お前が必死で一人ひとりにぶつかって行った事を覚えてるから」
七瀬が、顔を上げて藤井を見る。
「おれも、その意見に賛成」
葛谷が手を上げて答えた。
「私もそう思うよ」
そう言って、私は七瀬の腕を握った。
「だから、あんたもみんなとの約束を守ろうよ。今からでも遅くないから…」
七瀬は、まるで私達の言葉を噛み締めるように目を閉じた。徐々に彼女の嗚咽が収まって行く。そして、次に目を開けた時には、彼女はもう泣いていなかった。そして、
「分かったよ。委員長。こういう意味だったんだね…」
小さな声で呟くと、ぐるりとクラスメートを見回し、
「今まで、迷惑かけてごめんなさい。私、レクチャー必ずやり遂げます」
そう、はっきりと宣言した。
それから、彼女独特の、あの強い眼差しでまっすぐに前を見つめ、扉に向かって歩き出した。
「どこに行くの?」
私が尋ねると、
「アヤミンと小林さんに謝って来る」
と、答える。
「だって…どこにいるか分かるの?」
問いかける私に向かい、戸口から振り返り七瀬がきっぱりと答えた。
「見つける。見当ついてるし…」
「待って!」
私は立ち上がった。
「私も行く!」
…それは、頭に血が上った小林ユキが七瀬に何をするか分からない…という不安があったから…というのは建て前で、本当は事の顛末を見届けたい…という好奇心による行動だった。
必死で追い掛ける私を尻目に、七瀬はまっすぐ旧校舎を目指した。中庭の芝生の上を進み、渡り廊下を横切り、旧校舎の脇に向かって歩いて行く。そして、ようやく、あの錆びた螺旋上の階段の、地上にたどり着く一歩手前…一段目に、うつむいて座っている小林ユキの姿を私達は見つける事ができた。その横では、綾美が必死で小林になにかを話しかけている。それは、さながら、あの日白墨をかぶって座っていた七瀬と、それを力付ける私自身の姿に似ていた。
「ここだと思った」
七瀬が大きな声で言った。
小林と綾美が驚いてこちらを見る。七瀬の姿に小林が怒りを露にした。そんな小林の様子に頓着するでもなく七瀬は言葉を続ける。
「あんたら、なにかって言うとここに私を呼び出したもんね」
…ああ。そうだ。4月のころは、ここでよく七瀬が小林と綾美にリンチされて、その度に私が探しに来て…なんだか、とても昔の事のように思える。
「最初にあんたが話しかけて来たのもここだっけ?」
七瀬は小林を見たまま言った。
…え?…
私は七瀬を見る。それは初耳だったからだ。
「あん時はごめんね、シカトして。別にあんたが嫌だったわけじゃなくて、一人で居たかっただけなの」
「そんな事、イチイチ覚えてないよ」
小林が不機嫌に答える。
「アヤミンもごめん。ひどい事言っちゃって。私、コーイチに振られて、頭がどうにかなっちゃってたの…」
「もう、いいよ」
綾美が面映そうに答えた。
「…考えてみれば、アタシもユキと一緒になってナナチンの事めちゃくちゃ虐めてたもんね。恨まれてない方が変だわ。仕返しされて当然かも」
「仕返しだなんて…」
七瀬が口ごもる。
「…でも、本当の事を言うと、あの当時、…実は相当むかついてました。だって、あんたらのイジメきつかったもん。でも、コーイチに『ダンサーで成功したければ、クラスで上手くやってく訓練もしろ』って言われて、それで、クラスで上手くやってくためには、どうすればいいかなって考えた時に、一番手っ取り早い方法はアヤミンを小林さんから取る事だって思ったの。あんたら2人に組まれたら、勝ち目ないもんね。やっぱり、仕返しだったのかな?」
「やっぱり…」
綾美が悲しそうに俯いた。
「…アタシは感動したんだよ…あんなに虐めたのに、この子アタシの事許してくれるんだって」
「…ごめん…って言っても許してくれないだろうけど…。でもね、長い事付き合って行くうちに、アヤミンの事すっごい好きになっちゃった。信じてくれなくてもいいけど…」
「…」
綾美は顔を上げようとしなかった。そして、俯いたままでこんな事を言った。
「ナナチン、アタシらは確かにナナチンを虐めたけどさ、元々私もユキも、ナナチンと友達になりたかったんだよ。だって、ナナチン、入学式の時からすっげー目立ってたもん。綺麗で、可愛くてさ…。ユキがナナチンを虐めたのは、ナナチンがうちらに関心ないって分かってから…」
「もういいよ、綾美…!」
小林ユキが怒って立ち上がった。
「もー最悪! 親友には裏切られるし、クラスメートにまで総スカンされて…」
「小林さん…」
七瀬が足を進めた。
「ごめん…って言っても許してくれないかもしれないけど…」
「もう、いいって。どっか行っちゃってよ…!」
小林がそっぽを向いて言う。それは、いつものどこかふてぶてしい彼女ではなく、ごくありふれた16才の少女の姿だった。
小林の拒絶にもかかわらず、七瀬は彼女の手を握り、顔を覗き込んで言った。
「ねえ。今からじゃダメかな?」
「何が?」
小林が、キッとして七瀬を見る。
「今からでも友達になれないかな?」
真剣に自分を見る七瀬に向かい、
「…ばっかじゃないの?」
と言って小林ユキは目を伏せた。