薄暮 02
次の日、七瀬はほぼ1週間ぶりに学校に戻って来た。
藤井の説得がきいたんだろうが、けれど、完全に立ち直ったという感じではなく、口を固く結び、視線は斜下に落とし気味。どこか、近寄り難い雰囲気を漂わせて教室に入ってきた。
「ナナさん…!」
葛谷が叫び声を上げて駆け寄った。
「来たんだ、ナナさん。待ってたんだよ」
「ありがとう…」
そんな葛谷に対しては少しだけ笑顔を見せだが、また、すぐに口を固く結び、教室の真ん中あたりの自分の席に座った。それでも、満足なのか、藤井が嬉しそうに見ている。私も、紗知達と話しをしながら、ホッと安心していた。けれど、そんな七瀬をきつい目で見つめる綾美と、その横にいる小林のニヤニヤとした顔が、心に一点の影を落とす。
そして、昼休み。
七瀬は、自分の席で一人でお弁当を食べ始めた。いつも、一緒にいる綾美と千尋の姿は見えない。彼女らは、教壇の前に集っている小林ユキ達の輪の中に居るからだ。
…それにしても…
私は小林とともに笑っている綾美の姿を見て思った。
…昨日の今日で、もう小林さんと仲直りしてるなんて…
それ程、彼女がゆうべのあの七瀬の言葉に傷ついたという事だろう。でも、本当に綾美はこのまま七瀬との付き合いをやめてしまうつもりだろうか? なんだか悲しくなって来る。
幸いと言っていいのか、ほとんどのクラスメート達は七瀬に無関心で、七瀬が長い間学校を休んだ事をとやかく言う事もなかった。しかし、同時に七瀬を心配して傍に近寄る者もおらず、要するにこの教室の中で彼女は一人ぼっちだった。その様子は、まるで4月の初めに戻ったようだ。
…振り出しか…
思いつつ、紗知達とお弁当を食べていると、
「呼んであげなよ」
隣に座っていた紗知が唐突に言った。
「え?」
「春日さん…ここに呼んであげようよ」
私は、驚いて紗知を見た。紗知が真顔で頷く。
「でも…」
私はメグと優香を見た。2人とも紗知と同じように頷く。
「…ありがと」
小さな声でお礼を言って立ち上がり、私はゆっくりと七瀬に近付いて行った。
七瀬は、…いつもの事だけど…自分の置かれた立場に全く無関心らしく、文庫本を相手に黙々と弁当を食べている。私は、そんな彼女に片手を伸ばせば届く程の距離まで近付いて声をかけようとした。と、その時…。
「今更、来なくたっていいんだよ…!」
斜後ろから大きな声が聞こえた。振り返ると、小林のあの切れ長の目と視線がかち合う。そのまま小林は、ピンクのリップを塗った唇を開いた。
「文化祭まであと、何日だと思ってるんだろ? 今更レクチャーするとか言われたって迷惑なだけ」
明らかに七瀬の事だ。聞こえよがしに言っている。私はムッとして小林を睨み付けた。しかし、小林は視線を逸らそうともしない。クラス中が小林と、そして七瀬に注目した。
「アイツの自己中な行動で、アヤミンがどれだけ迷惑したと思ってるんだろう?
アヤミンがレクチャーの穴埋めしてくれたって言うのに…」
小林の言う事は、確かに当たっている。綾美は来なくなった七瀬の変わりにずっとレクチャー役をやってくれていたのだ。
「なのに、あの女、アヤミンに『あんたなんか友達と思ってない』って言ったらしいじゃん。『小林ユキがムカツクから、取っただけ』だって…」
「言いたい事が会ったら、本人に直接言ったら?」
私は小林に負けない大きな声で言い返した。
「綾美ちゃんも、なんでこんな事言わせるの? まさか、昨日の仕返しとか?」
綾美の気持ちは分かるが、こういうやり方は気に入らない。しかし、私の言葉に綾美は不快感を露にして横を向いた。
「吉岡さんは黙っててよ」
綾美のかわりに青井京美が言った。
「何で、イチイチあんたが春日の肩持つわけ? どう考えたってそっちが悪いんじゃん。綾美が可哀想とか思わないの?」
「…それは…」
私は口ごもった。はっきり言って、向こうの言い分が正しく思われたからだ。
「『友達と思ってない』なんて言ってない」
七瀬が立ち上がった。私はびっくりして七瀬を見た。今まで無関心に思えていた七瀬が頬を紅潮させている。綾美も褐色の唇をきゅっと結び、七瀬の顔を睨むように見た。
「『小林さんがムカツクからアヤミンを取った』…とは言ったし、他に…ひどい事も言ったけど…、それは謝るよ。…でも『友達と思ってない』とは言ってないし、思ってないよ。アヤミン」
その言葉で綾美はまた肩をぴくりとさせたが、頑に口を開こうとはしない。そして、じっと七瀬の顔を見つめている。しばらく、そんな風に睨み合いが続く。
「ねえ、綾美ちゃん、綾美ちゃんの気持ちは分かるけど…、昨日の事なら七瀬も普通じゃない精神状態で言ったんだと思うし、それに、謝ってるんだし…」
見兼ねて私が口を挟むと、
「マユちゃんは、黙っててよ」
ようやく綾美が口を開いた。
「マユちゃんだって、あの場でナナチンの言葉を聞いてたでしょ? なのにどうしてナナチンの味方なんかするの?」
泣きそうな目で私を見る。そんな綾美の姿に、私は胸が締め付けられそうになった。
「別に誰の味方もしてないよ」
私は首を振って答えた。
「だけど、綾美ちゃんは本当に七瀬と友達やめちゃう気なの? こんな事しちゃったら、そうなっちゃうよ。本当にそれでいいの? 私は嫌だよ。私は、七瀬も、綾美ちゃんも好きだもん…」
私はあらん限りの気持ちを込めて、綾美に語りかけた。気のせいか綾美の表情が一瞬和らいだような気がした。が、
「吉岡は黙ってろって言ってるだろ? いちいちうぜえんだよ」
と、小林に怒鳴られる。
「大体、なんなんだよ吉岡は。普段は春日の事放っとくくせして、こんな時ばっかり出しゃばってきて。春日の保護者のつもり?」
「おい」
葛谷が怒った。
「いいかげんにしろよ! お前らガキか? なんだよ、アヤミンまで…」
そう言って彼は綾美の横顔を見つめる。
「アヤミンだって、分かってるだろ? ナナさんが今どういう気持ちでいるか」
「クズもイチイチ出てくるな。関係ないだろ。アヤミンの事だけじゃないよ。絶対やり遂げるって言ってたレクチャーも投げ出したじゃん。むかつくんだって、あの女。人の事なんかどうでもいいって思ってるのが見え見え。自分は特別とでも思ってるわけ?」
小林が葛谷に言い返す。と、
「特別なんて、思ってない」
七瀬が叫んだ。
「私は一度だってそんな風に思った事ない。あんた達が勝手にそういう目で見てるだけ!」
教室内がシーンとなる。七瀬も、小林ユキも真っ赤な顔をして睨み合っている。
「もう、やめなよ、2人とも…」
紗知が立ち上がった。
「ユキの気持ちも分かるけど、春日さんだって…何か辛い思いしてるんだと思うよ。だから、もう、そういうのやめようよ」
小林が驚いて紗知を見た。
「うん。もう、やめようよ」
鈴木愛香も声を上げた。
「春日さんに何があったかは知らないけど、また学校に出てきてくれたんだからいいじゃん。レクチャーやってくれるって事でしょ? だったら任せようよ」
「そうだよね。頑張ろうってしてくれてるんだよ…きっと」
クラスメート達が次々に声を上げ始めた。小林と綾美…そして葛谷までが驚いて彼女達を見る。私も、信じられない思いで教室内を見回した。そして夕べの藤井の言葉を思い出す。
『春日は本当に、あの人から何ももらわ なかったかな?』
怒りで身を震わせた小林の手を握り、綾美が低い声で言った。
「もう、いいよ。ユキ。こんなやり方、やっぱり間違ってたんだ。私もあんたに謝らなきゃいけない。ナナチンにあんな事言われたのがショックで、あんたの事を利用した…」
小林が綾美を見た。目が真っ赤になっている。綾美は小林の手を握ったまま何度も謝った。
「ゴメン。本当にゴメン…」
小林は、綾美の手を振り払い、真っ赤な目をしたまま教室を飛び出して行った。
「ユキ…!」
綾美は小林を追いかけようとして、一瞬立ち止まり七瀬にも一言「ゴメンね、ナナチン」と謝った。そして、小林を追いかけ走り出して行った。
その間、七瀬は何も答えなかった。ただ、うつむいて肩を震わせていた。
彼女は泣いていた。