白の塔 02
2LDKのその部屋は、一人暮らしには十分すぎる程の広さに思えた。私達の通された10畳程のダイニングはあっさりしすぎなくらいに家具類が少なく、黒を基調にしたそれらの間には、畳みかけの服、雑誌やCD類、蓋のしていない段ボールなどが雑然と置かれ、ベランダから射し込む光を受けている。引っ越しの準備の最中だということが見て取れる。
そして、それらの真ん中に置かれたグレーのソファの上に、寝巻き姿のコーイチがだらしなく寝そべり、タバコを吹かしていた。サイドテーブルに乗せられた灰皿には吸い殻が山になっていて、心無しかやつれた顔に無精髭が生えているが、思った程機嫌は悪そうでもない。どろんとした目つきで私達を見上げると、
「ようこそ。まあ、その辺に適当に座れよ」
と、笑いながら散らかった床の上を指差した。言われるままに、私は床に腰を降ろす。一番奥のベランダ側にシノブ、その隣に藤井、真ん中のコーイチの正面に七瀬、その斜後ろに綾美。そして、私は七瀬の斜め前、ちょうど顔が見える位置に座り、私の後ろに葛谷が座った。全員が座るのを見届けると、コーイチは冗談めかして、
「まあ、こんなんだけど勘弁してな」
と、また、タバコを吹かす。
「何か、飲む?」
入り口にもたれて立っていたレイナが口を開いた。すると、葛谷が嬉しそうに答えた。
「あ、じゃあ、俺コーラ!」
「いりません!」
葛谷の言葉を遮るように藤井が大きな声で答える。
「私もいらなーい」
綾美が藤井に続いて言う。その目が葛谷を睨んでいる。その目を見て、葛谷が慌てて訂正した。
「あ、俺もやっぱ、いりません。すみません」
私と七瀬は何も答えなかった。
「あっそ…シノブは?」
レイナは私達の反応にまったく無関心でシノブに話しかける。
「ああ、ありがとう。俺もいいよ」
シノブは、静かに答えた。そして、静かにこう付け足した。
「けど、お前いつからここに居るんだよ?」
「一昨日からよ。その子のせいで帰るに帰れなくなっちゃった。大メーワク!」
同棲してるわけじゃないようだ。レイナの答に、少しだけホッとする。…でも、一昨日からここに居るって…。
七瀬は黙って俯いていたが、その肩が震えているのを私は複雑な思いで眺めて居た。…もちろん、可哀相だとは思っていた。でも、それ以上に…。
気がつくと、私はシャツの上からペンダントを握り、心の中で唱えていた。
…大丈夫私にはダイヤモンドがあるんだから…
「いいかげん、うぜえんだよ。てめえは」
それが、コーイチが七瀬に向けて最初に言った言葉だった。それは自分の気持ちを持て余して半ば上の空になっていた私を、こちら側へ引き戻すに十分なセリフだった。
…何それ?
私は、ダイヤモンドから手を離し、まじまじとコーイチの顔を見つめた。自分を師匠と慕っている人間に対し『うざい』はないだろう? それに、先程からの振る舞いを思い返してみても、とてもじゃないが常識の有る大人の態度とは思えない。
「話が有るなら聞いてやるから話せよ。それで気が済んだらとっとと家に帰れ」
「おい、そんな乱暴な言い方ないだろ? 相手は子供だぞ」
見兼ねたシノブがたしなめる。するとコーイチはじろりとシノブを見て、冷ややかに口を開いた。
「でめえの話は後で聞くから黙ってろ」
トーンは抑えていたが、その声には明らかに怒気が含まれている。怒気…? 何に対する怒りだろう? まさか、シノブのせいで私達をこの部屋に入れなくちゃいけなくなったから? まさか。
その怒りを察してか、それきり黙ってしまったシノブを横目に、コーイチ緩慢な動作で身を起こすと、床に足をつき、腰を深く曲げ、ソファの上から七瀬を見下ろした。七瀬は先程からずっと肩を震わせている。髪の毛で目は隠れていたが、赤い唇をきゅっと噛み締めているのがここからよく見える。怒っているのか…まさか、泣いてたらどうしよう…? しかし、そんな彼女に対してコーイチは情け容赦ない言葉を投げかける。
「さあ、話してみろよナナ。どーした? これぐらいで傷付く根性してねえだろ? てめーは?」
唖然とした。
『これぐらい』…ですって? 3日もあんな所で待たせたあげく、レイナなんか部屋に入れて、その上あんなに冷たい言葉を浴びせて。…それが、『これぐらい』なんですか?
何故、こんな人間を七瀬が好きになったのかがさっぱり理解できない。
ところが、コーイチの、その言葉を聞いた途端、まるで魔法にかかったみたいに七瀬の震えがおさまった。彼女は、顔を上げて真直ぐにコーイチを見つめると、まだ、震えの収まりきらぬ声で言った。
「ダンスやめちゃうなんて、嘘でしょ?」
「ああ、その事ね」
そう答え、何故かコーイチは笑顔を浮かべた。どうして、この状況下で笑えるんだろう?
「嘘じゃない。やめる」
コーイチはまるで明日の予定を言うように答えた。
「嘘よ」
「嘘じゃねえよ」
「絶対嘘。信じない」
そこで、2人の言葉は途切れた。
「あのさあ…」
しばらくすると、レイナが入り口にもたれたままの姿勢で、けだるげに口を挟んだ。
「コーイチがやめるって言ってるんだから、やめるんじゃないの?」
ムッとして七瀬がレイナを見上げる。この部屋に入ってから彼女がレイナを見るのは、これが初めてだった。
「あなたは、それで良いんですか?」
ベランダの方から藤井が…七瀬を加勢するつもりだろうか? …声を上げた。レイナが『何?』という顔で藤井を見る。藤井は真剣そのものの表情で彼女を見ていた。その視線の強さに耐えきれなかったのか、レイナは顔を背ける。そして、背けたままで言い返した。
「いいも何も…コーイチがそう決心しちゃったんだから、今更しょうがないじゃん。何言ったって聞く奴じゃないし…」
「てめえは、黙ってろ」
コーイチが眉を怒らせてレイナの言葉を遮った。
「今は、俺とナナが話してるの」
「ハイハイ」
レイナが肩を竦める。それから、コーイチは七瀬の方へ向き直り、新しいタバコに火をつけた。
「で、話はそれだけか?」
「違う…」
七瀬が首を振った。
「…何だよ、言ってみろよ」
煙りを燻らせながら、ギリギリまで七瀬に顔を近付け、挑戦的にコーイチは言う。七瀬は視線を逸らさなかった、真直ぐに彼を見つめ返し、瞬きもせずこう言った。
「クスリ売ってたって、本当?」
そして、顔を強ばらせ、きゅっと唇を噛んだ。
「売ってねえよ。馬鹿馬鹿しい…!」
コーイチは即座にそう答えると、どさりとソファに背をもたせかけた。
誰かの安心したような溜め息が聞こえて来る。私もこの時ばかりは、胸をなでおろした。…良かった…。けれど、何故か七瀬は、まだ顔を強ばらせている。
「…だろうね。でも、だったら、ダンスやめる事ないじゃん」
「何で、てめえにそんな事言われなくちゃいけないわけ?」
「だって、コーイチからダンスとったら、何が残るの?」
七瀬の言葉に、コーイチが吹き出す。
「失礼な奴だな、てめえは。おい」
「だって、そうじゃん」
七瀬は真剣そのものだ。
「っていうか、悔しくないの? やってもない罪をかぶってダンスやめるなんて…」
「決めつけんなよ、別にそれが原因でダンスやめるって訳じゃねえぞ」
「嘘だよ。他に何の理由が有るの? あれだけ踊るのが好きなくせに」
「…」
「ほら、答えられない。やっぱりそうなんだ」
「勝手に思い込んでろ」
コーイチがそっぽを向いて答える。七瀬はそんなコーイチに縋るみたいにソファの方へとにじり寄った。そして、横を向いたきりのコーイチに向かい堰を切ったみたいに喋り始めた。
「ねえ、コーイチ。お願いだからやめないでよ。コーイチは知らないだろうけど…私はコーイチの踊りに出会って生き方が変わったんだよ。…私は、ずっとずっと、自分はひとりぼっちだと思ってた。自分なんか誰にも必要とされないし、自分も誰も必要としてないと思ってた。それでいいと思ってた。それが、コーイチの踊り見て、なんか、雷に撃たれたみたいな気がしたんだ。それから、コーイチに踊りを教わるようになって、コーイチの生き方とか考え方とかを深く知るようになって、それで、私やっと一人じゃなくなった。コーイチの教えてくれた事…何よりも、ダンスに対する純粋な思いが私に希望をくれたんだよ。…ねえ、お願いよコーイチ。コーイチは、こんな事で踊りをやめていい人じゃないんだよ」
ひたむきに語る七瀬の言葉を、コーイチも初めは真剣な表情で聞いていたが、やがて、この上なく居心地の悪そうな顔をして、最後にはついにクスクスと声を立てて笑い始めた。
「何が、おかしいの?」
「いや別に。あんまりくすぐったいからさ」
「ふざけないでよ」
七瀬は怒りを越えて泣きそうな顔になった。
「冗談じゃないんだよ、コーイチ。私にとってコーイチは神様みたいなもんなんだよ。他にも同じ事思ってる人が一杯いると思うよ。だって、コーイチには凄い才能が有る。…だから、今は辛いかもしれないけどさ、負けないでよ。頑張れば、きっとなんとかなるよ。私も手伝うから…」
「あのな…」
コーイチは七瀬を見下ろして言った。
「才能さえ有ればどうにでもなるってもんじゃないの。そんなものは、ファンタジーなの。夢物語なの…よく、覚えておけよ」
「…」
「問題は俺がクスリを売ったとかそういう事じゃないの。そういう濡れ衣を着せられた事が重要なわけ。…そう思わないか? シノブ」
コーイチはそう言ってシノブの方を見た。嘲るような笑いを浮かべている。
「お前は、思い違いをしてるよ」
シノブが静かに答えた。けど、組んでいる手が震えているのを私は見逃さなかった。
…一体何を言っているのだろう? 私はシノブとコーイチの間に流れるただならぬ空気を感じながら思った。…もしかして、この2人の間に、何か口には出せない重要な事があったんだろうか?
しかし、何の追求もできぬまま、コーイチの冷たい声が響く。
「…分かったら、帰れ」
その顔には、嘲笑さえも浮かんでいない。
「いや…!」
七瀬が叫んだ。
「どうしても、コーイチが帰るって言うなら、私もついて行く。私、コーイチから離れない!」
コーイチが長い溜め息をついた。それから、彼は再び七瀬に顔を近付けると、彼女の肩に手を置き、信じられないような言葉を吐いた。
「一度やってやったぐらいで、彼女面すんな…」
七瀬がポカンとしてコーイチを見る。そしてコーイチは 大きな琥珀色の瞳を見開き、人形みたいに動かなくなってしまった七瀬に向かい、さらに追い討ちをかけた。
「帰れよ」
いやいやと七瀬が首を振る。
「帰ろう春日」
ドンと足音を立てて藤井が立ち上がった。
「これ以上、この人と話をしても無駄だ」
けれど、七瀬は動こうとせずに、またいやいやと首を振る。その強情な態度が焦れったく思える。
…なんでよ! 七瀬。こんな奴のどこがいいのよ! 人として、男としてサイテーじゃん
さすがにそれは口に出さなかったけど…私は座ったまま七瀬ににじり寄り、彼女の肩を掴んでしっかりしろとばかりに揺さぶった。
「…七瀬、帰ろうよ。悪いけど七瀬がそこまで入れ子む人じゃないよ、この人」
そして思いきり冷たい視線をコーイチに送ってやった。けど、コーイチはとっくに私達の事なんか見ていなかった。片手で頭を抱えて俯いている。その姿は、苦しんでいるようにも見えた。けれど、
『同情買おうと思って…』
私にはそんな風にしか思えない。
「さあ、帰ろう七瀬」
私は彼女の手を取った。
「そうだよ。行こうよナナチン」
いつの間にか近付いて来てた綾美が反対の手を取る。
「うん。本当に、帰った方がいいわ」
レイナの声がした。
…なんで、あんたなんかに言われなくちゃいけないのよ。…
かなりムッと来たが、無視をして七瀬を立たせる。それから、とりあえず「おじゃましました」とだけ挨拶して、まだ話の残っているというシノブを残し、私達はコーイチの部屋を後にした。
去り際に、葛谷の呟く声が聞こえた。
「コーイチさん、ひでぇよ…」
暗澹とした気持ちで、私達は黄金色の稲穂の海の中を歩いて行く。
心地良いはずの10月の風が、あの冬の日の木枯らしの寒さと「もう、来ないでちょうだいね」 と言った『あの女性』の顔を私に思い出せた。