白の塔 01
その後、割と間をおかずにシノブはこの場に姿を現した。一番初めにそれに気付いた葛谷が、「シノブさんが来た」と店の入り口を目で示す。
その視線の先で、オリーブのメッシュキャップを目深にかぶり、ライトベージュのプリントTシャツとアイビーグリーンのジーンズを履いたシノブが、こちらに向かって手招きをしていた。
それで、飲み終えたグラスやカップを返却して、ぞろぞろと横並びになり店から出ていくと、シノブがはにかんだような笑顔を浮かべて軽く手を振る。相変わらず少女みたいな風貌で、とても、私達より5つも年上には見えないが、感心な事に、葛谷は、この自分より頭半分も小さな青年に対し、礼儀正しく頭を下げた。
「忙しい所わざわざすいません!」
葛谷のその、柄にもない大げさな言い方がおかしかったのか、シノブは「プッ」と吹き出し、それから気さくに言った。
「いいんだよ。ちょうど俺もアイツに会いたかった所だったんだ。一人で行くよりはみんなでいった方が心強いだろ」
その態度に何となくホッとする。葛谷も同じ事を感じたのか一気に肩の力を抜き、
「それじゃ、案内してもらえますか?」
と、照れくさそうに笑った。
それから、私達はシノブの後をついてぞろぞろと駅前を歩いて行った。オーディションのあったあの平たいビルの前を通り過ぎ、角を曲がって昔ながらの古い店が立ち並ぶ商店街を進む。そして、その突き当たり、自転車屋の真向かいにある club-Uの前の通りを南へ…山の見える方へひたすらまっすぐ、そのまま15分程歩くと、にわかに山の麓まで広がる田園風景が広がり、その一面の黄金色の真ん中に、白くて細長いビルがぽつんと建っているのが見える。のどかな風景にやけにそぐわない、そのシンプルな背の高い建物が、コーイチの住むマンション『クレデアコール北白川』だとシノブが教えてくれた。
マンション前の駐車場を横切り、低い階段を昇ってさっさとエントランスに進むと、慣れた手付きでシノブがオートロックに暗証番号を打ち込む。固く閉じられたガラスの扉が静かに開いた。そして、私達は人気の無い玄関ロビーを通り、狭いエレベーターに乗り込んだ。
6人乗りのエレベーターで9階を目指す。その間乗り込んで来た人は一人もおらず、グーンと昇って行くその機械音を聞いているうちに、直に最上階へと辿り着いた。
扉が開くと、目の前に空が見えた。そして、私と空を遮るように、白いコンクリートの壁が立ちふさがる。肩程の高さのその壁と、天井との間の隙間から、稲穂の匂いを含む10月の風が柔らかく通り過ぎて行くが、その心地よさに耽溺する間もなく、私達は立ち止まらなければならなかった。なぜなら通路の突き当たり、 3つ並んだ一番奥の扉の前で、膝を抱えて座っている七瀬の姿を見つけたからだ。
彼女は行方をくらました時のままの制服姿で、鞄の上に腰をおろし、身じろぎもせずに、固く閉じられた黒い扉を見つめていた。その脇にはコンビニの小さな袋、足元には飲みかけのペットボトルが置いてある。
…まさか、あの日からずっとここに居たんだろうか?
問いかけるように泳がせた私の視線を葛谷がとらえる。しかし、彼自身、その目の中に驚きと、戸惑いを隠しきれないでいるようだった。
「春日…」
最初に口を開いたのは藤井だった。
そして、彼はもう一度大きな声で七瀬の名を呼ぶと、彼女に向かい真直ぐに走り出した。つられるように綾美が走り出す。その後を葛谷が…。しかし、私は七瀬に駆け寄る藤井の姿を見たまま動けないでいた。
「おい、春日! 何やってるんだよ、こんな所で!」
藤井が怒ったように叫ぶ。けれど七瀬は何も答えようとしなかった。
「ナナチン…委員長が質問してるよ」
綾美がそう言って心配そうに七瀬の顔を覗き込む。しかし、七瀬は人形みたいに頑に口を閉じたまんまだ。
「大丈夫か? ナナちゃん?」
背中から聞こえたシノブの声で、遠い世界の出来事みたいにこのやりとりを見ていた私は、はっと我に返った。振り向くと、シノブが瑠璃色の目でじっと七瀬を見ている。
「君がそこに居るってことは、コーイチは部屋に居ないって事だよね?」
シノブが疑わしげに言った。…そういえばそうだ。七瀬があそこで座ってるって事は、コーイチはここには居ないってことになる。どこにいったんだろう? まさか早々と北海道に帰ってしまったとか…?
一方、コーイチの名前で七瀬がやっと反応を示した。
しかし、ようやく開かれた彼女の口から出て来たのは、私の予想を裏切る、
「居るよ」
という答だった。その言葉に、シノブが何故か『やっぱり』という表情を浮かべる。
「ちゃんとここに居るけど、出て来てくれないの」
七瀬はそう言って笑うような、泣くような、複雑な表情を浮かべた。
「どういうことだよ? 居るのに出て来ないって」
シノブの言葉を待たず、藤井が問いかける。すると、七瀬は藤井を見上げて、
「帰れって言われたの。もう、誰とも話す事なんかないからって。…でも、帰りたくないから、ずっとここに居たの」
…と、唇を噛み締めた。今度は泣きそうに顔が歪んでいる。
七瀬の答を聞くや否や、藤井が乱暴にインタホンを鳴らし始めた。そして、唖然として見守る私達の前で狂ったように叫んだ。
「コーイチさん。出て来て下さい。居るんでしょ? 開けて下さい」
しかし、藤井がどれほど叫んでも、叩いても、扉が開かれる事は決してなかった。
「コーイチさん。出て来てください、コーイチさん」
固く閉じられた扉をガンガンと叩きながら藤井は叫び続けた。普段の冷静な彼からは想像もつかないその姿に、顔を突き合わせるたびに憎まれ口を叩いている葛谷さえ圧倒されている。しかし、しばらくすると、気を取り直したのか、自らもドアに近付き藤井の加勢を始めた。
「コーイチさん、バカがお騒がせしてすいません。タカですよ。出て来て下さいよ」
こちらは藤井よりは冷静らしい。冗談を交えインタホンに向け呼び掛ける。その言葉で藤井もやや自分を取り戻したのか、扉を叩いていた手を止め、葛谷の顔をじろりと睨む。
幸いな事に、他の部屋の住人は留守なのか、これだけ騒いでいるにも関わらず誰も出て来ない。或いは、この階にはコーイチの他、誰も住んでいないのかもしれない…。コーイチと葛谷は根気よくコーイチに向かい呼びかけ続けた。
…しかし、やがて、あまりにも頑に閉じられた扉に葛谷が先に根負けしてしまった。
「駄目だこりゃ」
と呟くと、扉にもたれ、赤くなった手にふーふーと息をかけはじめた。藤井はそんな葛谷を横目で睨んだが、こちらも諦めたのか、憮然とした表情で手を降ろした。
「はぁ…」
大きな溜め息が聞こえる。それは、私の隣のシノブの口から洩れたものだった。びっくりしてその顔を見ると、シノブは私に向かい呆れたような笑顔を見せた。それから、真直ぐ前を向き、つかつかと歩き始める。そして、藤井と葛谷をドアの前からどかせると、その正面に立ち、インタホンを鳴らした。
「コーイチ。聞こえるか? 俺だよ。シノブだ。いつまで引きこもってるつもりだよ? ってか、こんな女の子虐めて何が楽しいんだ? ガキすぎるぞ、お前」
顔立ちに似合わぬ乱暴な口調で呼び掛ける。…しかし、それでも扉は開かれない。
「ああ、そうかよ」
物言わぬ扉に向かいシノブが挑発する。
「お前が出て来ないなら、俺はナナちゃんの隣でお前が出て来るまで待つからな」
シノブは大声でそう言うと、その言葉の通り七瀬の隣にどっしりと腰を降ろした。そんなシノブを七瀬が戸惑いがちに見る。
とその時だ。
…がちゃり…と、ロックを外す音が聞こえた。一斉にそちらに注目する。すると、やがてギーッという重々しい音とともに扉が開いた。
そして、固唾をのみ見守る一同に長い黒髪の女が姿を現した。その、思いもかけない人物の登場に、七瀬以外の皆が一様に表情を強ばらせる。
「しつこいのよ、あんた達…」
レイナは、長い前髪をかきあげるとうんざりしたの表情で、目の前の藤井達を眺め回した。…そう、レイナだ。コーイチの部屋から現れたのは、大きめのグレーのTシャツに身を包んだレイナだった。
…何で、あんたがここにいるのよ?
一気にボルテージが上がる。が、しかし、何の言葉を発する間もなくコーイチらしき声が遠くから聞こえ、皆の意識は無理矢理そちらに向かされた。
「てめえ、勝手に開けんなよ!」
どうやら、コーイチは怒っているようだ。レイナは、くるりと後ろを向いて叫んだ。
「だって、うるさいんだもん。それに、シノブまでシカトする事ないでしょ?」
すると、またコーイチの声が聞こえて来た。やはり怒っているようだが、さっきよりも声が小さく、おまけにくぐもっていて、私の立っている位置まではよく聞こえない。レイナが後ろを向いたままで言い返す。
「でも、放っといたら、どのみといつまででも粘るよこの子ら」
確かに、私達はともかく、七瀬ならいつまでも粘りかねない。再びコーイチが何かを言う声が聞こえてくる。その声に耳を傾けてから、レイナはこちらを向いて手招きした。
「入っていいってさ」
その言葉を待っていたかのように、シノブが立ち上がって部屋に入って行く。それに続いて藤井が、そして七瀬と綾美、葛谷もどんどん部屋の中に入って行く。一人、遠くに居た私だけが一人ぽつんと取り残された。…取り残されたわけじゃない、足が進まないだけだ。まるで七瀬を守ろうとするかのような藤井の姿を見て、私は動けなくなって居た。七瀬とコーイチのやりとりは十分に気にかかっていたが…ひゅうひゅうと吹き抜ける風の中で、既に閉じられたドアを見つめて私は一人逡巡する。…どうしよう、このまま帰ってしまおうか?
ギィ…
遠慮がちなドアの音が響く。目をあげると葛谷が顔だけにゅっと出して私を見て居た。
「よっちゃん、おいでよ。早く」
葛谷は心配そうな、顔で私を見ている。何故か私はそれを見てホッとしていた。
「うん…」
私は小さな声で頷くと、怖ず怖ずと部屋の中に入って行った。