ダイヤモンド 3
ありがちな話だけど…
次の日の朝、七瀬の机の上が腐乱した生ゴミでぐちゃぐちゃに汚されていた。異臭が鼻をつき、重い気持ちが、ますます重くなる。
「誰がやったんだよ! 汚ねえな!」
男子生徒が鼻をつまんで叫んだ。誰がやったのか、大方の見当はついていたが、皆関わりあいになりたくないらしく、その名を口にはしない。
七瀬が入って来て、この有り様を見て小さく声をあげた。さすがに、参ったのか僅かに肩が震えている。小林達が、七瀬を見て笑っていた。陰湿なやり方に反吐がでる程腹が立った。しかし、昨日の七瀬の言葉通り、私は黙って見ていた。
七瀬は教室の一番後ろにおいてあるゴミ箱を持って来ると、机の上のゴミを集めてそこに捨てた。すると、
「生ゴミはそこに入れないで下さい」
と、見た事のない女生徒がゴミ箱の中身を七瀬の机にぶちまけた。他のクラスの生徒らしい。前に七瀬がリンチにあった時に言っていた。『他のクラスの子も混じってた』って。
七瀬は、黒髪を震わせるとバンッと机を叩いてその女生徒を睨み付けた。
「どうする気よ? また、殴る気?」
女生徒が冷笑した。
「…」
七瀬は、きゅっと唇を噛み締めると、後ろにある掃除道具箱からほうきとちり取りを取り出した。
小林達が、またクスクスと笑う。
見ていられない…。私は、七瀬から目を逸らすと、鞄から雑誌を出して広げた。そこに書いてある記事に没頭する事で、七瀬や小林の存在を消し去ろうとしたのだ。しかし、無視しようとすればする程、小林の嘲笑と七瀬が机を引きずる音がごちゃ混ぜになって頭に響いてきて、直に飽和状態になった。
…ガタリ…
私は、音を立てて立ち上がった。藤井が私を見た。ほっておけ、と言いたいんだろう。私は首を振った。『ほっておけないよ』
そして、掃除道具入れから雑巾を出し、「手伝うから」と言って七瀬の机を拭き始めた。七瀬は何も答えない。その時、
「吉岡、うぜぇよ」
誰かの声が胸をえぐった…。
「よっちゃん、よっちゃん」
校門の前で、私は例のバカでかい声に呼び止められた。振り返ると、案の定葛谷だ。しかし、私は返事をする元気もなかった。
「あれ? どうしたの? 冴えない顔して」
「冴えない顔してる? きっと、色々有りすぎて、疲れちゃったせいよ」
私は、そう言って溜め息をついた。
「ふーん…」
葛谷は、ポケットに手を突っ込み首をぽきぽきと鳴らした。それから、辺りを見回すと、
「ところで、春日さんは?」
と、聞いて来た。私は、もう一度大きく溜め息をつく。その、春日七瀬が疲れる原因なのだ。 「知らないわ。一緒に帰ろうと思ってたのに、気付いたらもう、姿が見えなくなってたから…一人で帰ったんじゃないかしら?」
「そうか、じゃあやっぱり…あれ、そうだったのかな?」
葛谷はポケットに手を突っ込んだまま、首を傾げた。
「何が?」
「さっき、オレ見たんだよ、春日さんに似た人が町田綾美と旧校舎に向かって歩いてるとこ」
「え?」
私は、葛谷の顔を見上げた。まさか、またリンチじゃ…。
私と葛谷は、旧校舎に続く古い渡り廊下で七瀬達を見つけた。薄汚れた窓の向こうに見える、錆びた鈍色のあの非常階段の下で、七瀬と町田綾美は熱心に何か話している。…ケンカをしている雰囲気ではないようだ。私と葛谷は、窓のこちら側で顔を見合わせた。…一体何を話しているんだろう?
渡り廊下は旧校舎に辿り着くまで後5メートルと言う所で、いきなりコンクリートの壁が消え、トタンの屋根が貼られているだけの簡単な造りに変わる。そこから、七瀬達の居る非常階段までは、簡単にたどり着ける。ところが、葛谷は変に慎重になり、
「大丈夫? やばくねぇ?」
と、不安そうに私の顔を見た。
「大丈夫よ。険悪なカンジじゃないもん。行こうよ」
「でも、女の争いはこわいからなあ…。聞かない方がいい話をしてたら嫌じゃねぇ?」
「じゃあ、ここで待ってて。私一人で行くから…」
私はそう言うと、葛谷を残してコンクリートの階段を降りた。
側溝沿いに非常階段に近付く。しかし、あちら側を向いている2人は、私に気付かないようだ。聞くとも無しに2人の会話を聞いてしまう。
「だから、お願い…私には悪気はないって伝えてよ」「そっちの気持ちは分かったけど、ユキチンが分かってくれるかどうかは、別だよ」「それでも、いいから、頼む」「うーん…いいよ。そこまで言うなら…聞くだけ聞いてみる」
なんだろう? 七瀬は町田に何かを頼み込んでいるようだ。…ケンカの仲 裁だろうか…?
「七瀬…」
思いきって声をかけると、町田がびっくりして褐色の顔をこちらに向けた。
「吉岡…」
白いリップを塗った唇が開かれる。
「こんな所で、何をしてるの?」
私は、町田に尋ねた。知らず知らず口調がきつくなる。
「相談よ」
七瀬が振り返った。
「綾美ちゃんに、小林さんとの仲を取り持ってくれるよう相談したの」
綾美ちゃんですって? いつからそんなに仲良くなったの? …なんとも言えない不愉快な気持ちが込み上げて来る。私は、七瀬に詰め寄った。
「よくそんな風に変われるわね。あんな目に合わされといて…あんた、悔しくないの?」
すると、七瀬は迷惑そうな顔をした。しかし、それを口には出さず、困った顔でこちらを見ていた町田を気づかうように
「綾美ちゃん。ごめん。真由美と話したいから、先帰ってよ」
と、言った。
「分かった。じゃあね。ユキとは話つけとくから」
町田はあっさりと立ち上がる。七瀬は町田に向かって手を振った。
「ありがとう、ごめんね、今度クラブ行こーね」
七瀬の言葉に「うん」と答えると、このギャル系少女は短いスカートを手で押さえながら、バタバタと走り去って行った。
「一体何よ、今のは?」
町田の姿が見えなくなると、私は七瀬に尋ねた。
「別に…誠意を持って謝っただけよ。高校生活を楽しくやりたかったらそうしろって、師匠に言われたの」
「師匠って誰よ…」
「うん、まあ」
七瀬は言葉を濁した。 師匠が誰かも気になるが…そんなことより、誠意ですって? あんた、本当に誠意の意味分かってるの? …思わず突っ込みたくなる。そこへ、葛谷が走って来た。
「どうしたの? どうなったの? 今、町田が走って行ったけど…」
「どうもこうもないわ。春日さんは、町田さんとお友達になったみたいよ! めでたし、めでたし!」
私は、吐き捨てるように言った。
「え? マジ? あの町田と?」
葛谷が目を丸くした。そして、口を滑らせる。
「よく、丸め込んだね」
「丸め込んだなんて言い方…」
七瀬は少しムッとしたようだ。葛谷が「ごめん」と謝る。どうも、葛谷と言う人間は、大雑把なのか、悪気なく失言をしてしまうタイプのようだ。
「話し合ってみたら、結構いい子だったのよ。話してみないと人って分からないものね。勉強になったわ」
七瀬は事も無げにそう言うと、「じゃあ、私は行く所が有るから…」と言って、私達を取り残してさっさと消えてしまった。
町田と小林の仲がギクシャクし始めたのは、それからすぐの事だった…
「何様のつもりだよ! あの女」
クラス中に町田綾美の声が響いた。
「結局、ナナチンがもてるのが気に入らないだけじゃん」
「おちつきなよ、アヤミン! あいつは、ああいう奴なんだって」
町田の友人森山千尋が、綾美の肩を抱いて大袈裟に言う。
2人とも、教壇の前で数人の仲間と弁当を食べている小林を睨んでいる。どうやら、わざと聞こえるように喋っているらしい。
「もう、いいよ」
七瀬の小さな声が聞こえた。
「そのうち、小林さんも分かってくれるわよ…」
「だめだよ、そんなんじゃぁ! ナナチンは本当に人が好いんだから。戦わなくっちゃ!」
まるで三文芝居みたい…。大袈裟に叫ぶ綾美の声を聞きながら、机の上にナフキンを開くと、私は、窓の外を眺めながら一人で黙々とお弁当を食べ始めた。
6月の景色はいつも雨模様。水にけむるグランドを見ていたって、おもしろくも何ともない…。
「なんで、一人で食べてるんだよ?」
藤井が心配そうに、声をかけて来た。
「別に…」
私は、窓の外を眺めたまま仏頂面で答える。
「別にって顔か? 春日達と食えばいいじゃん」
「あの子達の話についていけない」
私はそう言って、ミートボールを口にほうりこむ。
あの放課後を境に、町田と七瀬は急速に仲良くなっていった。町田は七瀬との約束を守って小林と七瀬の仲を取り持とうとした。しかし、小林ユキは、よほど七瀬が嫌いらしく、町田の事を『七瀬に寝返った裏切り者』と言って、口もきかなくなってしまったらしい。
それをきっかけに、小林、町田のグループは二つに別れた。と、言っても4人だったのが、2人、2人に別れただけだが…なぜ2人、2人かというと、元々、小林に反感をもっていた森山千尋を、町田が味方につけてしまったからである。そして、小林・町田のグループ分裂により七瀬に対する嫌がらせはなくなった。
七瀬はあの言葉通り、本当に自分で『なんとか』してしまったのである…
町田は、小林と縁を切ると、私と七瀬に近付いて来て新しいグループを作った。しばらくは、私もこのグループに加わっていた。なぜなら、入学以来ずっと、七瀬の面倒ばかりみていた私が、いまさら行ける場所が他になかったからである。
しかし、七瀬と町田の会話と言えば、クラブとか洋楽の話ばかりで、私には、さっぱり分からなかった。だからといって、2人に合わせるためにクラブに行ったり、彼女達好みの音楽を聞いたりする気になれなかった。私は、町田が七瀬にやった事を許したわけじゃないのだ。
だから、もう、一人でもいいや…と、覚悟を決めて一人でお弁当を食べる事に決めた。
藤井は、町田達と笑いながらお弁当を食べている七瀬の姿を、複雑な表情で眺めた。七瀬に対しては藤井なりに色々と思う所があるようだ。藤井は気の毒そうに私を見ると、
「だから、春日の事はほっておけって言ったのに…」
と、ボソリとつぶやいた。
分かってますよ、そんなこと。私だって後悔してるんだから。…でもね、こうして一人ぼっちでも平気なのは、この教室に藤井がいるからなのよ。
「…かわいそうだと思うなら、これから、毎日一緒に食べてよ」
冗談まじりで言うと。
「バカ」
と、藤井が私の頭を叩いた。それから藤井は自分の席に戻ると、鞄の中から肌色の背表紙の文庫本を出して、私の机の上にポンと置いた。
『銀河鉄道の夜』
「なに?」
首をかしげると
「貸してやるよ」
藤井がにこっと笑った。
「…? ありがと…」
なんで、こんな物を? そう思いつつ、私は鞄にそれをしまった。
「本日水曜日は、PM4:30より委員会があります。各クラスの委員長、副委員長は、遅れないように、会議室まで集まって下さい」
校内放送が流れる。放課後の教室は、帰り支度をする生徒達の声で、落ち着きなくざわめいていた。
雨の音を聞きながら、鞄に教科書を入れていると、
「真由美」
めずらしく七瀬が話しかけて来た。
「話があるの、一緒に帰れない?」
七瀬は、こわばった顔に無理矢理笑顔を作っている。…何よ、いまさら…私は、冷たい目で七瀬を見た。
「悪いけど、委員会があるから…」
嘘ではない。私は、心ならずも、副委員長などと言うポストについている。ちなみに、委員長は藤井だ。私達は、一緒に委員会に出たのがきっかけで、仲良くなった。
鞄を持って立ち上がろうとすると、七瀬が私の手首をつかんだ。
「じゃあ、待ってる」
そう言って、七瀬はまっすぐに私を見る。私は、その琥珀色の瞳に、少しだけ心が動いたが、
「ごめん。遅くなると思うから、先に帰って」
と、冷たく言い放ち、鞄を持って教室を出た。
廊下に出ると、藤井が待っていた。
「春日、何って?」
今のやりとりを見ていたらしい。
「一緒に帰ろうって。でも、断った」
「ふぅん…」
藤井は、頷いた。その時、
「よっちゃん、よっちゃん!」
また、例のバカでかい声が聞こえた。
見ると、葛谷が窓にもたれてにこにこと手を振っていた。ナンパ師丸出しジャン…と、思いつつ、私も笑って手を振り返した。何回か話すうちに、私は葛谷の事が結構好きになっていた。…もちろん、藤井に対する思いとは違う、単なる友情だけど…。手を振り返すと、葛谷はポケットに手を突っ込んで近付いて来た。
「よっちゃん、ナナさんの、話聞いた?」
「…」
いつの間にか、葛谷は七瀬の事を「ナナさん」と呼ぶようになっている。随分仲良くなったものだ。まあ、それはそれとして、七瀬の名前が出た途端、私の顔から笑顔が消えた。
「知らないわ…」
私は冷たく言うと、さっさと葛谷の前を通り過ぎた。
「あ! 待ってよ、よっちゃん!」
葛谷が追いかけて来る。
「ちょっと、冷たいんじゃない?」
葛谷は、かなりしつこかった。廊下ですれ違う生徒達が、笑いながら私達を見る。
「しつこいなあ、もう」
私がつぶやくと、一緒に歩いていた藤井が立ち止まった。そして、自分より大きな葛谷を睨み付け、氷のような冷たさでこう言った。
「悪いけど、もうすぐ委員会なんだ。用事は明日にしてくれないか?」
「そうよ、明日にして頂戴」
「分かったよ…」
私達の言葉に、葛谷は憮然とした表情をして去って行った。