トンネルの中 01
窓越しに見える空が高い。
日ごとに空気は澄み、校庭の木々も、遠くに見える山並も、徐々に秋の彩りを深めていく。
10月。私は教室の一番前、窓際に立ち、銀色のCDプレーヤーから流れる曲に耳を傾けていた。
Shake it Shake it Shake it Shake it Shake it…
緑の山の頂きに 響く我らの高き声~
流れる大河の 飛沫さえ~ 我らの夢を 語り継ぐ
ああ~ 白川の子ら 波のごとくに
とめどなく走れ 進みゆけ~
Shake it Shake it Shake it Shake it Shake it…
シャケ シャケ シャケ シャケ シャケ
銀糸のごとき白川を 望め明日行く 若人よ
見目優しき 絹川の 果ては 大海目指し行く
ああ~ 白川の子ら シャケのごとく
コイシイ彼女を 追い掛けろ
Pursue dear her. Pursue dear her. Pursue dear…
シャケ シャケ シャケ シャケ シャケ
Shake it Shake it Shake it Shake it Shake it…
怒濤のごとき人生だ!
プレーヤーの前では星野が得意げに腕を組んで立っている。流れているのは、彼がアレンジした校歌である。よくもあの曲をここまで…というほど、スピーディでノリの良い曲に変わっている。しかも、元のメロディラインは一切いじらず、リズムだけでほとんど別な曲に仕上げてしまっている。
クラスメート全員ぽかんとした顔で、彼の作品に聞き入っていた。ちなみに、担任の松岡先生はこの場にいない。もし、ここにいればこの曲のあまりの騒がしさに顔をしかめる事だろう…。
「どう?」
一通り曲が終ると、満面に笑みをたたえて星野は教室を見回した。パラパラと拍手が起こる。皆に合わせて、私も手を叩く。
「クールでしょ?」
星野は得意げに言った。
「たいした事ねえけど…まあまあいいんじゃねえ? 思ってたよりは」
山本将司が一番後ろから声をあげる。
「特に、『コイシイあの子を追いかけろ』ってとこがいいだろ? このフレーズを思い付いた時、俺は、はじめて分かったんだ。神の啓示を受けるってこういう事だとだってね…」
…と、星野はインタビューを受けた芸能人のような面持ちで語った。私はそれ程凄い歌詞とも思わなかったが…、
「ポエミィでいいかも…」
と、以前女装カフェのアイディアを出した男子生徒、佐藤ミチルが興奮気味に頷いた。
「じゃあ、こんな感じで進めると言う事でいいか?」
教卓の横で先生の椅子を借りて座っていた藤井が、腕組みしてクラスメート達に言う。『いいんじゃないの~』という空気が教室内に漂い、ひとまず校歌の件はこれで決着が付いた。
「それじゃあ、レクチャー始めるぞ!」
藤井が号令をかけるのと同時にクラスメート達が立ち上がり、ガタガタと机を下げる。そしてみんなが机を下げ切った頃合を見計らい、七瀬が赤のラジカセを片手に前に出て来た。その横顔を見て、私は複雑な気分になる。
あの夜から1週間…。
あの取り乱し方からして、もしかして学校に来なくなるのでは…と実は私は危ぶんでいた。
それであのコンサートの次の日の朝、私は七瀬に『大丈夫? 学校来れる?』とメールを送った。すると『大丈夫だよ。私はコーイチがクスリ売ったなんて信じてないから』と返事が来た。
その言葉と、それから以前「これだけはやり遂げる」とクラス中に明言した言葉の両方を守り、七瀬は淡々と日常を…そして、レクチャーをこなして行った。その姿を見た女生徒達は徐々に彼女を認めはじめてか、日を追うごとに放課後の参加者は増えて行った。…もっとも、小林と数名の彼女の友人だけは頑にそれを拒否していたが…。
「もう少し足開いて…腰も落としてね…」
七瀬の声が聞こえる。
「で、ターンした後は、前に体重を乗せて…」
指導されているのはメグだ。なかなか覚えられないメグに、七瀬は辛抱強く付き合っているらしい。そして、メグも素直に七瀬の言う事を聞いている。あの日以来、あきらかにメグの七瀬を見る目は違っている。
仮病で休んだ日、見晴し台で七瀬が言っていたように、七瀬は今明らかに上り坂を歩き始めている。私は友人として素直にそれを喜んでいた。きっと、コーイチへの信頼が揺るがない限り、彼女はこの坂道を登り続ける事ができるんだろう。だからこそ、尚更…私はコーイチの無罪を祈っていた。
ぼーっと七瀬を見ていると、誰かが背中をぶつかって来た。誰かと思って振り返ると綾美だった。
…こんな側にいたっけ…? と思いつつ「ごめん」と謝る。しかし、綾美は返事もせずに向こうに行ってしまった。溜め息が出る。
…いい加減、許してくれたっていいのに…
私は彼女の後ろ姿を見ながら思った。
あれから、少なくともメグや紗知の七瀬に対する態度は変わっている。紗知などは自分から七瀬に話しかけて行くぐらいだ。当然、いつも側にいる綾美と言葉を交わす機会も何度かあって、それを見る限り綾美は普通に喋っている。
…紗知と喋れるぐらいなら、私とだって話せるはずじゃないの?
2度目のぼんやりに入った時、横から男子生徒の歓声が上がった。びっくりしてそっちを見ると、葛谷が頭を軸にコマみたいにグルグルと回っている。
女生徒全員が、踊るのをやめて葛谷の動きに見入った。そして口々に「凄い、凄い」と叫んでいる。
しかし、その騒がしさの中、ただ一人、別な方を見ている視線がある事に私は気付いてしまった。
藤井だ。
藤井がじっと七瀬を見ている。
…胸が苦しくなる…。
PM11:40
ピリピリとメールの着信を知らせる音が鳴る。
私は机の上で頬杖をつき、広げられた真っ白なノートの上でチラチラと点滅する携帯の赤い光を見ていた。さっきから、ひっきりなしにメールが届いている。でも、それは紗知やメグや優香からの物ばかりで、いまだに藤井からのメールが来ない。
…帰ってすぐにメールしたのに…。
溜め息をつき机の上にうつ伏せる。
前はすぐに返事が来たのに、最近こうして待たされる事が凄く多い気がする。そういえばこの間言ってたっけ…この秋から藤井のお母さんがパートに出て、自分も料理の手伝いをさせられてるんだって…それで忙しいのかな?…だからってメールの返事ぐらいできるんじゃないの?
うつ伏せになったまま目を閉じると今日の放課後の、あの藤井の横顔が浮かんで来る。その視線の先には七瀬が居る…。私はパッと目を開いた。
…また始まった。私のいつもの悪い癖だ。何だって嫌な方、嫌な方に考えるんだから…。
私は胸にかけたペンダントを握りしめた。
…大丈夫。考え過ぎだよ。ねえ、ばあちゃん…。
10月の衣替えをきっかけに、私は再びこのペンダントを身につけるようになっていた。手のひらの中では、物言わぬダイヤモンドがはじめて見た時と同じきらめきを放っている。
…大丈夫だよ。このダイヤモンドがある限り…そうよ、これは魔法のダイヤモンドなんだから…。
ピリリリリ…
ふいにまた携帯が鳴った。
今度はメールの着信じゃなくて、電話がかかって来たのを知らせる音だ。
私は顔を上げて素早く携帯をとった。しかし、それは藤井からではなく、紗知やメグや優香からでもなく…何と、驚いた事に綾美からのものだった。あまりの意外さに出るのをためらっていると、あっさりとコール音はやんでしまう。
…しまった、かけ直さなきゃ…。
すぐにかけ返そうとしたのだけれど、タイミング悪くまたピリリリと着信音が鳴り出す。しかも手の中でぷるぷると震える携帯の窓に表示された名前は、さっきからずっと待ちわびていた藤井の名前だった。それで、私はすっかり綾美からの電話の事など忘れてしまった…。
次の日の天気予報は、晴れ時々曇り。
遠くに見える玖珠山の稜線に、灰色の雲がかかっている。けれど、まだとりあえず晴れた頭上を見上げ、深呼吸しながら銀杏並木の坂道を登って行く。そして、例のレンガの家に差しかかるか差しかからないかの所で、前を行く綾美の姿を見つけた。
その後ろ姿を見て、ぎくりとする。実は、あの後、2時間も藤井と喋っていたために、綾美にメールするのをすっかりと忘れていたのだ…。
…怒ってるかなあ…?
思いつつ、さっさと歩いて行くその背中に近付き、おそるおそる声をかける。
「おはよう…」
ぴくり…肩を動かし、綾美が振り向いた。そして、私の顔を見ると眉をひそめ、褐色の唇をきゅっと曲げる。…やっぱり怒ってるみたいだ…。
「…あ…あのさあ…」
そう言って私は強張った笑顔を作った。
「昨日、電話くれたよね…。ごめん、かけ返そうと思ったんだけど…その…別な子と電話してたら1時回っちゃって…」
しどろもどろ言い訳する私の顔を、綾美はしばらくじっと見ていたが、やがて
「…電話なんかした覚えないけど…」とそっぽを向いた。
「え?」
耳を疑う。
「嘘だ。かかって来たよ」
「でも、かけてないもん」
彼女があんまりはっきり答えるものだから、私は自分の記憶に自信がなくなって来た。それで、鞄から携帯を出し履歴を確認すると、確かに綾美の名前が残っている。
「履歴見せようか?」
携帯を彼女の目の前に差し出すと、
「ああ…」
と、綾美は小さく声をあげた。
「もしかして、知らないうちに勝手に掛かってたから、その時かな」
「知らないうちにって…」
絶対嘘だ。…でも、なんでそんなバレバレの嘘つかなきゃいけないんだろう?
もしかして、相当怒ってるってこと…? だよね…。
私は自分の迂闊さを呪う。同時に凄まじいまでの気まずさが漂い始め、いたたまれなくなってきた。
と、その時だ。
「よっ!」
と、いきなりバシンと背中を叩かれた。振り返ると七瀬がニヤニヤして私達を
見ている。
「珍しいじゃん。一緒に来るなんて!」
それは、彼女がもっとも得意とする『何かを企んでいるかのような』意地の悪い笑顔だった。いつもなら、ここで『いったいなあ~』と言って叩き返すところなのだが、とてもそんな事ができる雰囲気じゃない。七瀬も私と綾美の間に漂う冷気に気付いてか、何か言いかけた言葉を飲み込んだ。そして、はるか前方、校門の向こうを見て、
「あ、クズっちが居る」
と、ウルフカットのでっかい背中を指差す。
「ちょっとちょっと、クズっちなんか元気なくない?」
「え?」
七瀬に言われるまま、葛谷の背中を凝視すると…確かに…いつもポケットに手を突っ込み、ひょこひょこと跳ぶように歩いているあの陽気な男が、今日は背中を丸め、ボロボロのスニーカーを履いた足を引きずるみたいに歩いている。
「何か、あったのかな?」
七瀬はそう言うと、
「慰めに行って来る」
と、まるでこの場から逃げ出すように走り出した。
「あ、ナナチン待ってぇ!」
綾美が例の鼻にかかったような声を出して、七瀬の後を追い掛ける。走り出し様、彼女はちらりと私を一瞥したが、すぐにプイっと顔を前に向けて行ってしまった。一人取り残され、正直私はホッとする。
…それにしても、七瀬元気じゃん。コーイチさんのことからは、すっかり立ち直ったんだな…。
今まさに、葛谷に追付いた七瀬の後ろ姿を見て、私は何となくホッとした。
こうして、今日もいつもと同じ一日が始まるはずだった。が…
その日の1時間目の放課中。春日七瀬は教室から忽然と姿を消した。
『マユ。私どうしたらいい…? NANA』
夕べ、突然届いたメールを、葛谷と藤井と綾美に見せると、私は自分の携帯をコトリ…とつるつるした白い机の上に置いた。葛谷と藤井がそれを覗き込み、不安げな瞳で私を見る。綾美は、全く関心がないかのようにそっぽを向いて座っていた。しかし、その目はちらちらと机の上に置かれた携帯を盗み見ている。
「夕べ、10時頃このメールが入ってすぐに七瀬の家に行ってみたけど、誰もいる気配がなかったの」
「メールは返してみたのか?」
藤井が尋ねて来る。
「もちろん。でも返事は返って来ないし、電話しても繋がらないし…」
「町田の所には?」
と、藤井は綾美に話を振った。すると、綾美がそっぽを向いたままで、
「無い」
とだけ答えた。
「ああ…これで、もう3日だ…!」
葛谷が頭を抱えて大声で叫ぶ。
「…全部俺のせいだ!」
七瀬が忽然と姿を消したのが、木曜日の朝。土曜日の今日から数えれば、葛谷の言う通り…既に3日も行方をくらませている事になる。
1日ぐらいなら、中学の頃からしょっちゅうあった事なので、私も慣れっこになっていたが、3日ともなるとさすがに心配になる。
そして、あまりの事の深刻さに、本当は藤井とデートのはずだった今日が、葛谷の招集で急きょ話し合いに変わり、こうして裏羽根駅構内のドトールに集ることになったというわけだ。
「俺が、あんなこと伝えたから、ナナさん、またパニクっちまったんだ…!」
その声の大きさに、隣に座ってコーヒーを飲んでいたいた大学生ぐらいのカップルが、驚いて私達の方を見た。
「そんなに気にするなよ」
藤井が、珍しく葛谷の肩を叩いて慰める。
「どうせ、いつかは伝えなくちゃいけない事だったんだ。…まあ、春日に言う前に俺にひとこと言ってくれていれば、こんな事にならなかったのは確かだけどな…」
慰めているのか、落ち込ませているのか分からない。葛谷はさらに自分を責めるように激しく髪を掻きむしった。
「でもさ…それ本当なの? コーイチさんがダンスをやめて北海道に帰るなんて…」
それは、今日、ここで始めて聞かされたニュースだった。葛谷の話によれば、七瀬が行方をくらませた朝、葛谷の足どりが重かったのは、そのニュースを知ったためだったという。そして、彼を慰めようと走り寄って来た七瀬に向かい、べらべらとそれを話してしまった。その途端に、七瀬は顔色を変えそれきり黙ってしまったそうなのだ。…その後は知っての通り、その日の昼を待たずに彼女は姿をくらませた。
私の問いかけに、葛谷は顔を上げて力なく頷いた。
「…正直、俺もショックだったよ…」
だからこそ、誰かに話してすっきりとしてしまいたかったのだろうが、だからといって七瀬に話してしまうのは、やはり迂闊だったといわざるをえない。葛谷だって七瀬がコーイチに寄せる思いぐらい知っていたはずなのだから…。
「それにしても、お前そんな話を誰に聞いたんだよ?」
藤井が鋭い目をして葛谷に向ける。
「シノブさんだよ。おととい、オレ、club-Uに行ったんだけど、シノブさんも来ててさ。それで、コーイチさんどうなりましたか? って聞いたら、ダンスやめて北海道の実家に帰るって教えてくれたんだ。シノブさんもショックだったみたい。…な、アヤミンも一緒にいたから聞いたよな」
葛谷はそう言って綾美に同意を求めた。しかし、綾美は横向いたきり何も答えない。その横顔を見ながら、私はぼんやりと思った。
…おとといって、綾美ちゃんから電話のあった日じゃん。club-Uにいたのか…。
話し合いには加わったものの、綾美はここに訪れた時から、一切私を見ようとはしない。…そこまで、私に腹を立てているのにも関わらず、この場に居るのだから、よほど七瀬の事が心配なんだろう。
「なあ、やっぱりコーイチさんの所じゃないか?」
唐突に葛谷が口を開く。
「けど、2日もか?」
藤井が露骨に嫌そうな顔をする。まるで妬いてるみたいだ。
「…でも、他に行く所思いつかないよね」
私はちょっと意地悪い口調で葛谷に同意した。藤井は驚いたように私を見ると、「別に俺は…」と、口の中で何かモゴモゴと言った。けれど、それはあまりにも小さな声だったので、何を言っているのかは聞き取れなかった…。
藤井の、そんなうじうじした態度が余計に私を苛立たせる。それで、私はわざと葛谷をけしかけてやった。
「コーイチさんに電話したら? はっきりするじゃない」
「したよ。でも、全然知らない人に繋がってさ…。携帯変えたのか、解約したかしたんじゃねえ? シノブさんも何回も電話したけど繋がらなかったって…」
「…」
絶句する。シノブさんとも連絡を断つなんて…まるで、この町との繋がりを全部切ろうとしてるみたいだ。
「…ねえ。とりあえずコーイチさんの家に行ってみない?」
あれきり、黙りこくってしまった藤井に代わり提案すると、
「やっぱ、よっちゃんもそれがいいと思うよね…」
と、葛谷があっさりと同意した。
「…けど、家知ってんのかよ?」
藤井が額に手をかけてぼそぼそと口を挟んで来る。…こちらは、あまり気が進まないらしい。
「シノブさんに聞きゃ分かるだろ?」
そう答えると、葛谷は例の髑髏の柄の入った携帯を取り出し、パチパチとボタンを押した。そしてしばらく待った後、
「あ、もしもし。シノブさん? 俺です。タカで~す」
と、また大きな声で挨拶する。
「今、大丈夫ですか?…ハイ、スイマセン。…実は…」
それから、彼は七瀬が居なくなった経緯を説明し「そういう訳なのでコーイチの家を教えて欲しい」と締めくくった。その後は、携帯の向こう側のシノブの声にしきりに頷いていたが、やがて、携帯を切ると私達に向き直ってこう言った。
「シノブさんが、直接案内してくれるってさ」