碧と蒼
携帯が鳴る。
私は布団から手だけ出して充電器の上の携帯を取った。布団の中で開けて見るとメールが一件来ている。
『マユ、今日は一体どうしちゃったの?』
紗知からだ。私は、布団から顔を出して頭上の時計を見た。
PM 12:40
昼休みが終る頃合だ。お弁当を食べ終った後、一番ヒマな時間…。
『うん。カゼ…。頭痛がひどくてさ…(´`)=3』
紗知にメールを返すと、また、布団に潜り込む。
本当はどこも悪くなんかない。ただの仮病だ…。我ながら何をやってるんだと思いもするが、放課後のレクチャーの事を考えるとどうしても学校に行く気がしなかった。七瀬は登校したんだろうか…?
しかし、なんで私が七瀬のためにこんな思いをしなくちゃいけないのだろう?
そういえば、あのオーディションの日に『二度と七瀬の事なんか心配しない』と誓ったんじゃなかったか? なのに結局これ以上ないぐらいに関わってる…。副委員長という立場上仕方の無い事とはいえ、だんだん腹が立って来る。
目をつむって色々グチャグチャと考え込んでいると、枕元に放り投げておいた携帯が再びメールの着信を知らせた。手を伸ばして開けて見ると、紗知から。
『本当に、大丈夫?』
紗知の事だから、昨日の事を知ってて心配してくれてメールをくれたのかもしれない。バレー部の彼女はあの場にはいなかったけど、多分、メグか優香あたりから話は聞いていきさつを知ったんだろう…。
メグと優香…。2人の顔を思い浮かべた途端に本当に頭痛がして来た。もしかして、私に一番ダメージを与えたのは、七瀬でなくてあの2人だったのかもしれない。いや、誰も彼もだ。藤井も葛谷も綾美も…みんなみんなだ…!
だんだんマイナス思考になって来る。 …ダメだ…!
私は『それ』を追い払うためにCDをかけた。しかし、高くて柔らかい歌声は美しかったけれど、気分はまったく晴れない。もしかして眠くもないのにベッドの潜り込んでいるのがいけないのかもしれない…。
私は布団から飛び出すと、カーテンを開け、日の光を部屋の中に取り込んだ。そして、服を着替え、CD1枚とウォークマンを紺色のポシェットに入れ、階下にいる母の目を盗み、そっと家を抜け出した。
9月半ばの山道は夏と秋とが混在し、停滞する熱気の向こう側ですすきが揺れているのが見える。小川のせせらぎを聞きながら、お盆に七瀬を乗せて自転車で走ったあの白い砂利道を歩く。あの日と同じようにばあちゃんの眠る霊園を通り過ぎ、山道をどんどん登って行くと、鮮やかな緑が頭上に交差し、僅かばかりの風の音を鳴らすのが聞こえて来た。
やがて、あの見晴し台に着く。坂道を駆け上がり、杉の木の根元に腰を降ろすと、持って来たCDウォークマンを聞きながら私は遠くに広がる海を見つめた。
空から降る音楽。画用紙に落とした水彩絵の具みたいに、滲み出して世界を染めあげるイメージ。暗い物思いも、全てのわだかまりも、その色に染められ全て消えて行くような…。
どれぐらい、そうしていただろう?
ふいに、目の前に人の影が落ちた。
ぎょっとして振り返ると、なんと、制服姿の七瀬が立っていた。私も驚いたが、七瀬の方も相当驚いたみたいで、大きな目をますます大きく見開いている。
ポシェットの中からごそごそと携帯を取り出して時間を確認すると、まだ、1時半過ぎである。
「なにしてるのよ、あんた、こんな所で? 学校は?」
思わずお説教すると、七瀬が呆れた顔で答えた。
「人の事言えるの? 病人のくせに…」
あ、そっか…と、私は自分の立場に気が付く。七瀬はくすくす笑いながら隣に座り、
「学校は、午前中でフケました」
と、わざとらしく敬語で言った。
「で、吉岡さんは、なんで今日、欠席だったんですか? 風邪ですか? それとも、一見健康に見えるけど、不治の病とか…?」
「うるさい!」
あんたのせいじゃん! …と、心の中で言い返す。
七瀬は私の言葉を無視してイヤホンをひっぱった。
「何聴いてるの?」
「なんだって、いいじゃん」
ぶっきらぼうに答える。今は、そんなのどかな話をする気分じゃない。
ところが、七瀬ときたら、勝手に片側のイヤホンを私の耳から外し、自分の耳につける。そして「へえ、エンヤ!」と叫び、無邪気にそれに聴き入り始めた。
「まったく…」
憮然としながらも、私は七瀬と一緒にそのまま海を眺めた。
やがてCDが終る頃七瀬が言った。
「あ~。このまま、さっさと遠い所に行っちゃおうかな!」
「行きたいね、ホント」
海を見て答える。…本当に、このまま船に乗って行ってしまいたい気分だ。
「でも、やっぱりまだ行けない」
七瀬が私の言葉に答えた。
「レクチャー、やり遂げるまでは…」
「無理しなくていいよ」
私は膝を抱えて言った。
「あんなこと頼んで悪かったと思ってるんだ…」
「そんな事ないよ」
七瀬が答える。
「あんなの慣れっこだし…」
『あんなの』とはボイコットの事だろうか…?
「中学校の頃なんか、もっとやな事一杯あったじゃん。それに比べれば今は…今は、昔よりはマシよ。何となく上り坂を登っている感じがするもん…」
…そうなのかな…
私は、組んだ手の上にアゴをかけて考え込んだ。…確かに中学時代の事を思えば、今の七瀬の状況は、あれでもまだマシな方なのかもしれない…
黙りこくってる私に向かって、独り言みたいに七瀬は語り続ける。
「もう、2度と落ちて行きたくないんだ…。今居るこの高さを守りたいんだ」
「そっか…」
石で砂を削りながら七瀬の言葉に答える。七瀬はさらに言葉を続けた。
「でもさ…なんでだろ? そう考えた途端に、色んな事が怖くなってきたんだ。…変だよね、今まで何があったって怖くなかったのに…自分は強いと思ってたのに…」
「…」
それは、割と意外な述懐だった。昨日の放課後の、あの、七瀬の姿を思い出し…ああ、それでか、あんなに傷ついた顔をしていたの…と、やっと、納得が行く。
それにしても、人間ってそんなに変わる事があるんだろうか…? それとも、これも、コーイチの力だっていうんだろうか?
そんな事を思いながら七瀬の顔を見ると、彼女は、突然ひどく差し迫った表情を浮かべてこう言った。
「ねえ、真由美。お願いがあるの」
「何?」
ちょっと面喰らう。
「どうしたら、みんな放課後のレクチャーに残ってくれるかな? 教えて欲しいの」
「そんなの…分からないよ」
しかし、かぶりを降る私に七瀬はしつこく食い下がって来た。
そして、いつものパターンで最後に根負けした私が、七瀬のレクチャーにみんなが参加してくれるように力を貸すという事で、なんとかその場はおさまった。