ダイヤモンド 2
おばあちゃんの遺品の整理やお世話になった人へのお礼回りなど、もろもろの後始末を済ませ、精神的にもやっと日常のペースが戻って来たのは、ゴールデンウィークも終わった頃だった。
そして、ゴールデンウィーク明けの朝、白川駅の改札口を通り抜けようとした時、私は七瀬に呼び止められた。「一緒に行こうと思って、待っていたの」と、七瀬が言った。それを友人として喜ばしいと感じるより先に、私は、七瀬の姿を見て驚いた。なぜなら、赤かった筈の七瀬の髪が、真っ黒に染まっていたからである。
ホームに続く陸橋を渡りながら、
「どうしたの? その髪」
私が聞くと、
「知り合いに怒られて、染め直したの」
との返事。あの、赤い髪の事を怒られたのは分かるが…
「なんで、黒なの?」
「うん、まあ。学校で上手くやってくための第一歩…みたいな?」
「上手く?」
…ああ、そうか…私は納得した。要するに、小林達の不当な言葉に従ったという事だ。けれど、学校で上手くやりたいって? 七瀬が…? 信じられない…。
「それって、真面目に学校に通うっていう事?」
「うん…」
七瀬はうなずくと、「えへへ」と笑った。その笑顔が、とても可愛い。
「実は…知り合いに、高校ぐらいは、嫌でも出ておかなくちゃだめだって言われたの…」
「知り合いって?」
「うん、まあ、バイト先の人…?」
「へぇ」
なんだか、変な気がする。七瀬にそんなアドバイスをする知り合いがいるのも意外だが、七瀬がそれに素直に従っているのは、もっと意外だ。
喋っているうちに、ホームに付き、既に到着していた電車に乗り込んだ。早めに家を出ているせいか、比較的車内は空いていたので、私と七瀬は並んで椅子に座った。
「それよりさ、真由美。大変だったね」
椅子に座ると、七瀬が言った。
「お葬式にいけなくて、ごめんね」
おばあちゃんの事だ。
「いいよ…」
私は、短く答えた。ばあちゃんの事に触れると、胸が痛くなって来る。
「本当は、行きたかったの。でも、あんな真っ赤な髪じゃ、おばあちゃんに失礼かなと思って遠慮したの」
七瀬はあの赤い髪の事を、決して『いい』とは思っていなかったらしい。私はくすっと笑った。そんな事気にしなくてもよかったのに…。笑いながらも鼻の中がツーンと痛くなる。その時、ガタン…と音がして電車が動き始めた…。
「おもしろい、おばあちゃんだったよね」
「うん」
「真由美の家に遊びに行くと、色んな話してくれてさ…話し好きなおばあちゃんだったよね。」
そう、おばあちゃんは、とても話し好きだった。幼い私と七瀬を前にしては、若い頃に見聞きした事を、まるで目の前で起こっているかのように身ぶり手ぶりを加えて話してくれた…もっとも、脚色が多く、どこまでが本当で、どこまでが嘘だかさっぱり分からなかったが…
「今でも覚えてるわ。イギリス人青年との恋物語。幼心に胸がどきどきしたわ。真由美は覚えてる?」
「いいえ? どんな話だったかしら?」
「確か、おばあちゃんが若い頃、イギリスのダイヤモンド職人の青年と恋をして、イギリスに渡るのだけど、戦争が起きて、2人は引き裂かれるの。2度と会えないと思った青年は、愛する人の幸せを願って、自分の家に伝わるピンクダイヤモンドをおばあちゃんに渡したのよ。」
「ピンクのダイヤモンド?」
私は、驚いて叫んだ。ばあちゃんの遺品の中から出て来た、ピンク色のダイヤモンドと、セピア色の写真を思い出す。
「七瀬、あのピンクダイヤを知っているの?」
「知ってるわよ、魔法のダイヤモンドでしょ?」
「魔法のダイヤモンド?…」
「そうよ、ピンクダイヤモンド…その、ピンクのダイヤモンドは、持ち主を幸せにしてくれると言われているの。それだけじゃないわ。持ち主の願いを何でも一つだけ聞いてくれる『魔法のダイヤモンド』なのよ。」
必死で記憶の糸を手繰り寄せる…魔法のダイヤモンド…ピンク色の花びら…幸せのダイヤモンド…幸せの…。まぶたの裏に、揺れるダイヤモンドのイメージが浮かんで来た…。誰かが揺らしてる。でも、誰が…?
考え込んでいる、私を見て七瀬が目を丸くした。
「真由美、覚えてないんだ。あんなに欲しがっていたのに…」
「欲しがっていた? 私が?」
「本当に、覚えてない? ほら、小学校一年の夏休みに、真由美の家の縁側で、おばあちゃんが話してくれたじゃない。…こう、ダイヤモンドを揺らせて…」
七瀬はそう言って、親指と人さし指で輪をつくり、何かを揺らすような仕種をした。
…あっ!
ほつれかけていた私の記憶の糸が、一気に繋がった。
そうだ、あれは夏休みの事だった。
私と七瀬は、ばあちゃんの部屋の前の縁側で、寝転がったまま頬杖ついて、ばあちゃんの話を聞いていた。よく晴れた暑い日で、思い出すのは蝉の声と、庭のひまわりと、それからばあちゃんの指の先で、ゆらゆら揺れてたピンク色のダイヤモンド。
「…そして、これが、ばあちゃんがもらった魔法のペンダントなんだ」
ばあちゃんは、悪戯っぽい目を輝かせてペンダントを揺らした。
「うっそだー!」
私が、笑いながら言うと、
「おやおや、信じないのかい?」
と、ばあちゃんが、大袈裟に驚いた。
「信じないと、このペンダントは消えちゃうよ」
「信じないもん! ねえ、ナナちゃん」
隣の七瀬に同意を求める。七瀬は「うふふ」と笑った。七瀬も信じてないのだろう。
「おやおや」
ばあちゃんは目をぱちぱちさせると、ペンダントをシャラリと手繰り寄せ、グーの形に握りしめると、その手を左右に軽く振った。それから、また、パッと手を開くと、なんとペンダントは跡形もなく消えていた。
「わっ!」
私と七瀬は、驚いて目を丸くした。
「ほーら、真由美が信じないなんて言うから消えちゃった!」
今考えれば、あれはおばあちゃんの得意な手品だったんだろうけど、当時7歳の私にはそんな事は分からない。半ベソをかきながら、ダイヤモンドに訴えた。
「ごめんなさい。真由美、信じるから、戻って来て!」
「本当かい?」
ばあちゃんが、大真面目に私の顔を覗き込んだ。
「本当よ! 本当よ!」
私は何度も頷いた。すると、ばあちゃんは、ポンと膝を叩き、
「あら? 膝の下になんかあるわよ」
と、スモッグエプロンの裾をひらりとまくり上げて驚きの声を上げた。
「おや!? 見てごらん!」
私と七瀬が覗き込むと、そこに小さな桜の花みたいなピンクのダイヤモンドが、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
「そうよ、それそれ! 思い出した」
「うん、思い出したよ。2人ともよく騙されたよね。うちのばあちゃんは、ホントに人騒がせだったわ」
「本当。本当。でも、信じた私達も、ちょっと、バカよね」
そう言って、七瀬がケラケラ笑った。あと、一駅で学園前に着く。車内はいつの間にか、すっかり混みあっていた。立っている人達の目も気にせず、私も七瀬と一緒に笑った。まるで、あの頃に戻ったみたいだ。昔の七瀬は、顔に似合わずよく笑う女の子だった。
「その後よ。真由美があのペンダント欲しがって、おばあちゃんを困らせたのは」
「そうだっけ?」
「そうよ、おばあちゃんが『駄目よ』って言うのに『どうしても欲しい』って、あんたが泣くもんだから、おばあちゃんもとうとう折れて、『真由美が大人になったらあげる』って…今度はおばあちゃんの方が泣きそうな顔して…」
その時のおばあちゃんの顔でも思い出したのか、七瀬はプッと噴き出した。私は、ちょっとふくれたた。そんなに笑わなくたって…。
「真由美は『魔法の』ってところが気に入ったんでしょ? あんた昔から夢見る少女だったもんね!」
「夢見る少女なんかじゃないもん!」
私は、またふくれた。
そうこうしてるうちに、電車は『学園前駅』に着いた。
それは、まるで昔に戻ったみたいな朝だった。子供の頃、私と七瀬は、毎朝こ
うやって喋りながら学校へ行ったものだ。久しぶりに、七瀬と喋りながら歩けた
事がとても嬉しい。
ところが、私の気の小さな心臓ときたら、坂道を昇って学校に近付くにつれ、
次第に動悸を速めていった。
七瀬と一緒に教室に入ると、小林ユキと町田綾美が、きつい目でこちらを見た。
足が震えて来る…。
席に着くと、藤井が「どうなってるんだよ」と声をかけてきた。
「なにが?」
聞き返すと、藤井は目だけで七瀬を示した。
「髪、真っ黒じゃん」
「ああ、七瀬ね。あの子、真面目に学校に通うって決めたらしいの」
「マジかよ…」
「さあ…」
…無理に笑顔を作りつつ、私は小林達がどうしているかの方が気になって仕方
がない。
一方の七瀬といえば、マイペースに荷物を机に片付けている。堂々としたもの
だ。そこへ、例の大柄ノッポの葛谷が近付いていって、バカに陽気に挨拶をした。
「おはよう! 春日さん」
「…! おはよう…」
七瀬が、ギョッとして葛谷を見た。葛谷の声はバカでかいので、いきなり声を
かけられると大抵の人間は驚く。そんな葛谷が、ニコニコと腕を組み、クラス中
に響き渡る声で、
「いいなあ、その髪の色! 赤もいいけど、それも古風な感じでいいわ。いやー
、美人は何しても似合う。いい!」
と、七瀬を誉めたたえた。
「あ…ありがとう」
七瀬が、こわばった笑顔を浮かべた。内心ではあきれ返っているのだろうと思う。
「なんだ? あいつ」
藤井があからさまに嫌な顔をした。
「さあ…」
首を傾げて見ていると、小林が、葛谷に近付いて、肩を叩いた。
「ちょっと、葛谷君、あっちに行ってくれない?」
「何だよ?」
葛谷が不服そうに小林を見た。小林は、その垂らした前髪の下から、切れ長の
目で七瀬をじっと睨み付けている。しかし、七瀬はすっ…と小林から視線を外し
た。それで、小林が一方的に七瀬を睨む形になった。
「怖ぇ顔すんなよ。小林も一応、女だろ?」
たしなめるように言う葛谷を、背後から押し退けて茶髪の町田が割り込んでい
った。
「私達、春日さんに大事な話があるのよ! ねー、ユキチン!」
町田はそう言うと、葛谷に向かって思いきり舌を出した。小林は、黙って七瀬の机に手を付く。「ねえ、春日さん」
この時、七瀬は、ようやく小林を見た。そして、自分の髪の毛に手を当てると、
「この髪、似合う? あんたとお揃いの色よね」
と、笑った。小林の頬がぴくっと動く。ムッとしたようだ。小林は、不自然に垂らした前髪をかきあげた。
「後で、話があるんだけどさぁ、いい?」
小林の申し出に、いつものごとく七瀬は素っ気無く答えた。
「悪いけど、私、そういうの、もうやめたから…」
そして、それっきり、また、そっぽを向いてしまった…。
おそらく、七瀬は髪を黒く染めた事で、今までの事全てを無かった事にしようとしたのだろうけど、彼女はいつでも、周りの人間の気持ちを忘れている。髪を黒く染めたぐらいで、小林達の気持ちはおさまりはしないのだ…。
その日の帰り、下駄箱から七瀬の靴が無くなっていた。私も七瀬と一緒に、必死になって捜したのだが、教室にも、トイレにも見当たらず、結局どこで見つけたかと言えば、誰も行かない旧校舎の、トイレのゴミ箱の中だった。しかも、それはどぶの中にでも落としたかのように、真っ黒でグチャグチャになっており、とても履いて帰れる状態ではなかった。それで、仕方なく七瀬はスリッパのまま、帰る事にした。
外は、すっかり暗くなっており、山が近いせいか比較的たくさん瞬く星空の下を、私と七瀬は、黙々と歩いていた。当然の事だが、星空を楽しむ心の余裕などなかった。にもかかわらず、七瀬が笑って言う。
「こんなんじゃ、下駄箱に靴を置いておけないね。明日から袋を持っていくよ。ホラ、ゴムで口を縛るやつ。小学校の時、あったでしょ? 手造りの上履き入れ…」
「無理しなくてもいいよ…」
私は、低い声で言った。
「私だって、小林さん達には頭に来てるんだから…でも、七瀬だってちょっとは悪いと思うよ。あんな風にあからさまにバカにしたり、無視したりするから…」
私の言葉に、七瀬は顔をうつむけた。やっぱり、…本当はショックだったらしい、「あのさ、真由美」と話しかけてきた、声のトーンが落ちている。
「何?」
七瀬を見る。
七瀬は、「うん…」とうなずくとちょっと考えてから、ぽつりぽつりと、言葉を選ぶように言った。
「私の事を心配してくれるのはありがたいんだけど…もういいよ…明日からは助
けてくれなくても…私は一人でも大丈夫だから…」
「それって…もしかして、大きなお世話って事?」
ただでさえ、おばあちゃんを失ったばかりでナーバスになっているところに、七瀬この言葉はあまりにも身勝手に聞えて、私は必要以上に過激な反応を示してしまう。
「…大きなお世話って言うわけじゃないけど…」
七瀬は、私の反応に少し驚いたようだ。遠慮がちに言葉をつなげていく。
「でも、私は一人で何とかできるから、もう構わないで欲しいの…」
信じられない…私には、言葉を見つけられなかった。「一人で何とかできる」ですって? 「構わないで」ですって? 私が、今までどれだけあなたの起したトラブルの後始末をして来たと思ってるの? あまりの悔しさに、私の目から涙が滲んで来る。
「真由美?」
泣きそうになっている私の顔を見て、さすがの七瀬もただ事ではないと感じたらしい。
「ごめん、怒った?」
「もう、いい!」
私は、思いきり首を振った。
「あんたの言う通り、明日からもう一切構わないから、勝手にすれば?」
「真由美…」
驚いている七瀬をおきざりにして、私は暗い坂道を一人でかけ降りていった。気分は、もう、最悪だった。