花火
8月29日。
夏休みの終わりを目の前に迎えるその日、玖珠山の麓、白川の広い河川敷で、毎年恒例の花火大会が開かれた。いつもは閑散とした商店街も、この日ばかりは近隣の町から訪れた人々で賑わい、坂道の両脇に立ち並ぶ露天を見ながら、華やかに飾り付けられた吹き流しの下を、私も白い浴衣を着て、綾美や葛谷、そして藤井と共に歩いて行った。
正面の玖珠山のどっしりとした黒い影の頂上あたりでは、河川敷から打ち上げられた花火が、ドーン、ドーンと音を立てて鮮やかな円を描いている。しばらくそれを見ながら、緩やかな坂を登って行くと、やがて玖珠山の中腹の白川病院に続く登り道と、白川の堤防へと降りる幅広の階段とに分かれ、もちろん私達は階段を降りて行った。
階段を降り切って堤防に辿り着くと、そこには既に多くの人がつめかけており、座る場所を見つけるのもひと苦労だった。草の生えた斜面には、もう座る隙も無いので、仕方なくアスファルトと、草むらの境あたりにビニールシートを敷き、 4人で並んで座る。幸い雲一つない空に、菊や牡丹、色とりどりの勾玉、土星などが生まれては消えて行く。空一杯の光の滝が、闇に混じり、やがて巨大な銀のオーロラに姿を変えて行くのを見ながら思う。やっぱり花火は間近で見るのがいい。
「ナナチンも来ればよかったのにねえ」
綾美が大声で叫んだ。
「本当だよなあ。その方が気が紛れるだろうになあ」
葛谷が答える。
「仕方ないわよ。よっぽどショックだったんでしょ」
私が言うと、
「だね、あれだけオーディションに賭けてたもんね。落ちたのはショックだろうね…」
と、綾美が答えた。
そう。七瀬は落ちたのだ。彼女がコーイチとともに踊ることは許されなかった。
「でも、仕方がないだろ? 転んじまったんだし」
藤井の冷静な声が聞こえた。…とても、七瀬が転んだ時に我を忘れて立ち上がった人が言うセリフとは思えない。
「けどさ、シノブさん言ってたじゃん? 転んだ事自体は問題じゃなかったって。
それに、面接官の印象も悪くなかったって…なのに、なんで落ちたんだろう?」
「さあな」
葛谷がそう言って、手にしていた草を投げた。
確かに、シノブさんはそんな事を言っていた。ついでに「俺はナナちゃんをプッシュしたんだよ」とも言っていた。にもかかわらず、七瀬は落ちたのだ。『どうしてか?』なんて、聞くまでもなく私には分かっていた。理由は一つしかない。
「コーイチさんが反対したからよ」
憶測のまま口を開くと、
「え?」
と、綾美がこちらを向いた。
「コーイチさんが? なんで?」
私はうっかり出してしまった言葉を後悔しながら、しどろもどろ答える。
「それは…多分、七瀬の右足が治っていない事を知ってたから…」
…もっと言えば、コーイチが七瀬を遠ざけたがっていたから…。私は心の中でそっと付け足した。
「やっぱり、足、治ってなかったのかな?」
綾美は膝を抱えて呟いた。
「転んだのは足が縺れたせいだってナナチン、言ってたけど…」
本当の事は七瀬自身にしか分からないだろう。けれど今の私にとっては、もう、どうでもいい事だった。今度こそ七瀬の心配はやめると決めたのだから…!
「ノド乾いちゃった。ジュース買って来るよ」
この会話を終わりにしたくて私は腰を上げた。すると、
「俺も行く」
と、一番向こうに座っていた藤井が立ち上がった。私はちょっと驚いて藤井を見る。
「あ、俺も俺も」
続いて立ち上がった葛谷を、
「2人で十分。お前の分も買って来てやるよ」
と、藤井は無理矢理座らせて「さ、行こう」と、私の手を引き歩き出した。それでもついて来ようとする葛谷を、綾美が叱りつける声が聞こえる。なんか、示し合わせているみたいだ。
涼やかな風を受けながら堤防の道を歩いて行く。ドーン、ドーンという花火の音を聞きながら、しかし私達は終始無言だった。実は、私と藤井はオーディションの日以来、ほとんど言葉を交わしていない。なぜなら、私があの日の(あまりにも七瀬を気にしてばかりいた)藤井の態度に腹を立てていたからだ。
カランコロンと下駄を鳴らして歩いて行くと、すぐに露店が見えて来た。が、その前はうんざりする程混んでいた。どこが最後尾かと列を探すが、並んでいるというよりは押し寄せているという感じで、どうやって近付けばいいかが分からない。特に浴衣を着ているので気を使う。困惑していると、藤井が「ここで待ってろ」と少し離れた木の側に私を立たせて、自分は人込みの中に入って行った。しばらくそこで待っていると、両手に2本ずつ缶ジュースを抱えて、藤井が人込みから飛び出して来る。そして「そら!」と言って、その中の1本を私に向かって放り投げた。
青色の缶が、放物線を描く。
慌てて手を出しそれを受け止めたまではよかったが、バランスを失い、思いきり尻餅をついてしまった。すると藤井が笑いながら近付いて来た。
「カッコ悪ー!」
私は頬をふくらませて藤井を見上げた。
「急に投げるなんてひどいよ」
そして、砂を払って立ち上がろうとすると、藤井が開いている右手を差し出した。
「つかまれよ」
「…」
膨れっ面のままでその手を握ると、「よいしょ」と言って、藤井は私を立たせてくれた。そして、手を繋いだまま歩き始める。
「ちょっと…」
私は繋がれた手を離そうとしたが、ますます力強く握りしめられ、すぐに抵抗をあきらめた。驚く程の温もりが伝わって来た。
「ありがとうは?」
藤井が振り返った。
「え?」
「起こしてくれてありがとうは?」
顔が笑っている。どうやら、ふざけているらしい。
「なんで、お礼を言わなくちゃいけないの? 藤井が転ばせたんじゃない。慰謝料が欲しいぐらいよ!」
冗談で返すと、
「バカ」
と、頭をごつんとぶつけて来た。「いた~い」と言いつつ笑ってしまう。
気がつくと正面に藤井の顔があった。真剣な表情で私を見ている。
「何…?」
小さな声で聞くと、首を振り、繋いだ手を離して、私の肩を抱き寄せた。驚いて藤井の顔を見ると、藤井は空を見上げている。
空では今年最後の花火が光の乱舞を続けていたが、それを見る事もせず、私は瞳を閉じて藤井の胸にそっともたれた。