胡蝶の夢 03
けれど、七瀬が真実をさらけだしたのはほんの一瞬の事だった。彼女はすぐにまた、いつものあの少し茶化したような、そして醒めたような表情に戻ると、
「気のせいよ」
と笑い、私の手をそっと外して藤井達の方に行ってしまう。
…嘘だ…!
私は振り返り七瀬を追いかけた。
「七瀬。本当の事を言ってよ」
綾美と葛谷がびっくりして私を見ている。先ほどのコーイチとのやりとりを見ていない彼等にとっては、私の行動はさぞかし突飛に思える事だろうが、なんの斟酌せず七瀬の肩に手をかける。そして、斜前の七瀬の横顔に向かい語りかけた。
「ねえ、分かってるの? もし本当にあんたの足が治ってないなら、このまま最終審査受けたって、意味がないのよ。考えてみてよ、そんな足で例えば受かったとしても…」
「大丈夫って言ってるでしょ? しつこいのよ!」
七瀬が怒声を上げて振り向いた。頬を紅潮させ、怒りに眉を震わせている。私に対してこんな風に怒るのは初めてだ。ショックのあまり、私は思わず彼女の肩にかけていた手を離した。すると七瀬は、ふ…と気まずそうな顔をする。しばらく気まずい沈黙が私達の間に流れる。
「春日、言い過ぎだぞ」
いつの間にか、そばに来ていた藤井がやんわりとたしなめた。
「ごめん」
七瀬はうつむいた。黒髪に隠れて表情が見えなくなる。けれど、その次に顔を上げた時には、七瀬はもう笑っていた。
「だって、真由美ったら心配し過ぎるから…」
「友達だからだろ?」
「分かってる…。ごめん」
七瀬はそう言うと、私を見てもう一度「ごめん」と言った。
「別にいいよ。本当に私の気のせいなら。…しつこくしてごめんね…!」
私は醒めきった声でそう言うと、その場を離れフロアの一番はしっこに座って膝を抱えた。
…もう、どうだって良いよ…
内心ふてくされながら、笑顔で藤井と話している七瀬の横顔を見る。そのうちに自分でもうんざりするような毒々しい思いが溢れて来る。
…バカみたい…。いつも私ばっかり必死になって!…藤井もどういう気よ。七瀬の事ばかり心配して。大体コーイチさんの話し聞いてたくせに、どうして最週審査の出場止めないの?
さんざん、そんな事を思ったあげく、最後には今までにも何度も繰り返した結論に辿り着く。
…もうどうでもいいわ。金輪際七瀬のことなんか心配しないんだから…!
やがて、黒いドアの上に掛けられた時計の針が午後5時をさす頃、審査員達が部屋に入って来た。他の受験者達も戻って来て、各々ストレッチに励んでいる。ちなみに、最終審査に残ったのは、男性3名、女性3名の計6名である。受験者の人数が少ないのに比例して、付き添いの人数も少ないためか、今回は私達も部屋の中での見学を許された。ただし、さっきまでのようにパイプ椅子がないので、直接床に腰を降ろしての見学となる。私は鏡にもたれたまま足を伸ばした。
受験者の6名は、最終審査で踊るための曲を入れたカセットテープを持って、隣の部屋に行くように指示をされた。いわれた通りに、七瀬も他の5人に混じって黒いドアの向こうに消えて行く。説明によれば、最終審査では隣の部屋から一人だけがこちらの部屋に呼び出され、今朝記入したエントリーシートを元にした面接と、それから自分のダンスの披露…という手順になっているらしい。
ダンサー達が全て黒い扉の向こうに姿を消してしまった頃、藤井がやって来て私の隣に腰を降ろして、知らん顔して座ってる私に向かい、
「何、ふてくされてるんだ?」
と冗談混じりに言った。
「ふてくされてなんかいないわ」
「うそつけ」
笑う藤井からプイッと顔をそむけると、
「おいおい、マユらしくないぞ。その態度」
…またそれだ。私は怒らないとでも思っているのかな?
無視し続けていると、さすがの藤井も当惑気味になる。…少しは困れ!…心の中で呟くと、藤井が言い訳がましく言う声が聞こえて来た。
「春日の事…だけどさ。そりゃ、アイツの言い方もよくないと思うけど、アイツの身にもなってやれよ。ここまで来て今更引き返せるか?」
「…」
私は横目で藤井の顔を見た。藤井は困りきった顔で私を見ている。
「オレ、思うんだよ。たとえアイツの足が治ってなくても、最後までやらせてやろうって…」
その理屈は分からないでもないが…。
「それで、もし受かったとしても…落ちたとしても…その先の事は、またその時に考えればいいじゃないか。なんなら、俺達が一緒に考えてやってもいいし…。それがアイツの望みなら」
そこまで藤井が言った時、私の口から自分でも思いもよらない言葉が飛び出した。
「藤井は、よっぽど七瀬を大事に思っているんだね」
それは、私の今抱えている、このモヤモヤした思いを一口に明らかにする言葉でもあった。藤井が、唖然として私を見る。私は再び藤井から顔をそむけて、胸にかけたペンダントを握りしめた。
救われないドロドロした思い…そんなものに苛まれている私に向かって何かを言おうと、藤井が口を開きかけたその時、
「それでは、最週審査を開始します」
進行係の声が響く。やむなく言いかけた言葉を飲み込み、藤井は前を見た。私も部屋の正面中央を見る。そこにはちょうどコーイチがいて、エントリーシートを眺めている。その真剣な顔を、見るともなしに私は眺めた。
やがて、黒い扉が開き、ボーズ頭を赤色に染めた少年が緊張した面持ちで現れた。どうやら、男性陣から試験をはじめるらしい。彼は、コーイチの正面に立つと、審査員に向かって深々と頭を下げ、
「38番村上政男です。よろしくお願いします!」
と、大声で挨拶した。コーイチが目をあげる。回りの審査員から次々と質問が飛び出す。
「ダンスをはじめて何年?」
「どんなダンスが得意?」
「何で、このチームに入ろうと思ったの?」
「将来は、どんなダンサーになりたいと思う…?」
などなど。マサオと名乗った少年は質問の一つ一つに、はっきりと、大きな声で答える。そして、ひとしきり質問が終ると、
「じゃあ、踊ってくれるかな?」
というコーイチの言葉に続き、音楽に合わせて少年は踊り始めた。体を小刻みに揺らせ、軽快に踊る。正面ではカメラが回っていて、踊る彼の姿を映していた。そして、踊り終ると、彼は「ありがとうございました」と一礼し、隣の部屋に帰って行った。
次に現れたのは、長髪で、どことなくコーイチに雰囲気の似た三田秀という青年だった。彼は『カボエラ』と呼ばれる武術めいたダンスを披露した。踊る姿もどことなくコーイチに似ていた。
男性陣最後に現れたのは、中条イサムというドレッドの大男だった。浅黒い肌と南方系の顔立ちをした彼は、筋肉を巧みに操り、ポッピングと呼ばれるダンスを踊った。それは、稲妻にうたれたロボットのようだったり、全身に波が走っているようだったり、とにかく普通では考えられないような不思議な動きのダンスだった。
見とれているうちにあっという間に曲が終り、いよいよ女性陣の登場となった…。
女性陣の一番手は、相川カヨという目鼻立ちのはっきりした美人だった。赤色のキャップから肩まである茶色い髪を無造作に垂らした、大柄で手足の長い彼女が披露したのは、HIP-HOPと呼ばれるダンスだった。(私は、ずっとHIP-HOP という言葉自体がストリートダンス全てを表すのかと思っていたが、そうではなくて、これもストリートダンスの一つの種類にすぎないらしい。そして、もっと広義での『HIP-HOP』という言葉は、ダンスや音楽に限られるものではなく、『黒人の創造性文化そのもの』を指しているのだそうだ。まあ、そんな蘊蓄はさておくとして…)
相川カヨは、R&B調のメロディーに合わせてゆったりと踊った。大きな体を生かしたダイナミックかつ優雅な踊りだったが、正直言って七瀬の方が上手いと感じた。
その次あたり、そろそろ七瀬の出番かと思ってみていたが、残念ながら予想は外れ、出て来たのは小柄でボーイッシュな少女だった。山口リクと名乗ったその少女が踊ったダンスは、七瀬が得意とするのと同じ『ハウス』と呼ばれるダンスだった。ハウスはHIP-HOPよりは比較的テンポの速い曲で踊られる。様々に脚を使うステップや腰を回旋する動きが多く、しかも細かなリズム取りが必要になる。七瀬のステップもいつも鮮やかだった。
山口リクは小柄な体を生かし、4つ打ちのビートに合わせ、七瀬に負けず劣らず鮮やかに、軽やかに踊った。そして彼女は、見事なステップを披露するだけでなく、床に手をつきフロアムーブまで見せてくれる。その、表情からは、心底踊りを楽しんでいる事が伝わっていて、見ているこちらまで楽しくなってくるようだった。
…この子、受かるかも…
漠然と思いながら見ているうちに、曲が終り、少女はペコリと頭を下げて隣の部屋に消えて行った。
そして、ラスト…いよいよ七瀬の名前が呼ばれて、水色のタンクトップとベージュのカーゴパンツを履いた彼女が現れた。
七瀬はドアノブに片手をかけて、琥珀色の瞳を大きく見開き、口元をきゅっと締め、フロア内を見回した。そして、一歩…また一歩と審査員に近付きコーイチの正面に立つ。そして、他のダンサー達と同じように深く頭を下げる。
「77番、春日七瀬です。よろしくお願いします」
コーイチは、顔を上げて、まっすぐに七瀬を見た。彼女の後ろ姿を見ながら、私は2人の目と目が合う瞬間を想像する。…一体どんな気分なんだろう? 好きな人の前で、こんな風に踊る時というのは…