胡蝶の夢 02
レッスン場に消えて行ったコーイチを追いかけて、藤井が尋ねた問いへの答えを聞きたいようにも思えたが、それ以上に、今は七瀬の合否と、七瀬の足が気になる。私と藤井は踵を返してオーディション会場に向かった。釈然とせぬ思いを抱えたまま…。
会場に戻ると、廊下には誰も居らず、整然と並べられた椅子だけが残っていた。部屋の中を覗くと、後ろの鏡張りの壁にもたれて葛谷と綾美が雑談している。それ以外に、2、3人の男の人の姿が見える他はがらんとしていた。
一歩部屋に入ると、その気配に気付いてか綾美と葛谷がこちらを見た。手を振ると、向こうも振り返してくれる。私は、足早に2人に近付き、
「七瀬は?」
と尋ねた。
「ナナチンはトイレに行ったよ」
そう答えた綾美の横に、チャックを開けぱなしの青いボストンバッグがだらしなく置かれていて、中からペットボトルがはみだしているのが見えた。七瀬のバッグだ…。私は、それを移動させず、綾美の横に腰を降ろした。そこへ、藤井がゆるゆると歩いて来る。
「それで、審査結果はどうだったんだ?」
藤井は、綾美の真正面に立つと早速そう尋ねた。すると綾美は藤井を見上げて、何故だかひどく残念そうな顔をする。
「遅いよ委員長」
「遅い?」
それはまた随分とネガティブな言葉だ。藤井が眉をひそめる。私も不安を隠せぬまま綾美を見た。『遅い』ってどういう意味? なんだか嫌な予感がする。「それ、どういうことだよ? まさかダメだったって事か?」
「うん」
綾美がきっぱりと頷いた。
正直言って信じられなかった。…絶対受かると思ってたのに…。やっぱり、振り付けを変えたのがいけなかったんだろうか? それとも、足が痛くて実力を発揮できなかったとか? あんなにうまく踊っていたのに…?
しかし、考えてみれば、いっそこれで良かったのかもしれない。もし、コーイチの言った事が本当なら…つまり、七瀬の足が治ってないと言うのなら…だ、最終審査に通ったとしても、そのまま踊り続けるわけには行くまい。床に映る自分の影を見ながら、そんな風に自分を納得させていると、隣から綾美の低い声が聞こえて来た。
「本当に残念だよ委員長。もう少し早く来れば、クズのダンス見られたのにね」
…クズのダンス?
私は顔を上げて綾美を見た。
「落ちたって、葛谷君の事?」
「そうだよ」
綾美はそう答えると、自分の隣でしょぼくれている葛谷の肩を叩き、まるで子供をあやす母親みたいに、
「残念だったね、クズ。あんなに頑張ったのにね」
と、この上もなく優しい声で言った。『なんだ…』葛谷には悪いが、少し拍子抜する。てっきり七瀬の事かと思ったのに…。
すっかりしょげきっている葛谷の姿に、さすがの藤井も同情したようだ。
「そんなに落ち込むなって。ここまで残るなんて、やるじゃん。正直、見直したよ」
「そうだよ。葛谷君すごいよ。冷やかし受験でここまで残るなんてさ。才能あるんだよ、きっと」
私も一緒になって慰めた。すると…
「本当? よっちゃん。本当にそう思う?」
今までしょげ返っていたはずの葛谷が、なぜか嬉しそうに顔を上げてこちらに身を乗り出して来た。
「う…うん。思うよ」
「本当? 本当に?」
そう言って葛谷はにじり寄って来る。その異様な迫力に怖くなって後ずさりすると、「はい、そこまで」と藤井が割り込んで来て、葛谷の頭を思いきり叩いた。葛谷が頭を押さえて藤井を睨み付ける。しかし、藤井は葛谷の視線をまるっきり無視して、もう一度綾美に尋ねた。
「それで、春日は? 受かったのか? っていうか、受かったんだろ?」
質問と言うよりは断定である。しかし綾美は驚いたらしい。
「委員長、なんで、分かるの?」
大袈裟に叫んだ。すると、藤井はごく冷静にこう答えた。
「だって、失格したんなら、いつまでもこんな所にいないで、さっさと帰ってるはずじゃん」
「なるほどね」
綾美が肩をすくめる。
「じゃあ、本当に合格したの?」
横から私が念を押すと、綾美はにっこり笑って頷いた。
「うん」
「そっか…」
私は、複雑な思いを抱きつつ答えた。
…合格だ! 七瀬が合格したんだ!
葛谷には申し訳なかったが、素直に嬉しかった。藤井や綾美も嬉しそうだ。葛谷までもが、自分が不合格だったのを忘れたような笑顔を浮かべている。それはそうだろう。みんな、あの9日間を支えた仲間なのだから…。けれど一方で暗い気持ちになる。言うまでもなく、それは先ほどのコーイチの言葉のせいだ。
もし、七瀬の足が治りきっていないなら、この後の最終審査の出場は止めなければいけないのだろうか? しかし、果たして七瀬が素直に言う事を聞いてくれるのだろうか? 考えるだけで気が重くなって来る。
と、その時…
「あ、委員長。来てくれたんだ!」
と、弾むような七瀬の声が聞こえた。全員でそちらを見ると、七瀬はは片手にハンドタオルを持ち、はち切れんばかりの笑顔を浮かべてドアの所に立っていた。 3次審査まで通ったのが、よほど嬉しいんだろう。笑いながらこちらに走って来る。その足どりはしっかりしていて、先ほどのコーイチの言葉などとても信じら
れない。
…けれど、確かめなければ。
私は、立ち上がり、七瀬の元に駆け寄って行った。そして、その両腕を軽く握りしめて七瀬に尋ねた。
「ねえ、七瀬。あんた、足、痛いんじゃないの?」
「何言ってるのよ。さっき言ったでしょ? 痛くないって」
「本当に?」
「本当よ」
「けど、私知ってるのよ。さっきの審査中、最後の方のステップで、あんたすごく辛そうな顔したじゃない。本当は右足が痛かったんでしょ?」
「…!」
この時始めて七瀬の顔色が変わった。
「やっぱり…」
コーイチの言葉の正しさが証明される。