ダイヤモンド 1
誰にでも、一生のうちに忘れられない日がいくつかある。わたしにとって、その日は、まさにその中の一つになった。
けれど、その朝は、まるでいつもと同じ顔をして訪れた。いつもと少し違った事と言えば、前の晩に鬱々と思い悩んでいたために、20分近く寝坊してしまった事ぐらいだ。私は飛び起きて時間を確かめると、慌てて制服に着替え、鞄に教科書を詰め込み、携帯を充電器から外した。メールが一件来ており、『鞄ありがとう! 怪我はもう、大丈夫。心配かけてごめん』と、書かれていた。私は、携帯をポケットに突っ込み、転がり落ちるように階段を降り、おばあちゃんの部屋に直行した。
今、考えれば、なぜ、こんな慌ただしい時におばあちゃんに会いに行ったのか、不思議に思う。もしかして、なにか私の中で予感するものがあったのだろうか?
ふすまを開けると、おばあちゃんは布団の中で寝たまま、目だけを開いていた。
「おはよう、おばあちゃん。今日は、もう、具合はいいの?」
立ったままで言うと、
「おはよう。今日は、昨日よりは良いみたいだよ」
と、私の方に首を向けた。
「真由美、髪の毛がぼさぼさだよ。出かける前に鏡を見た方がいいよ」
「寝坊しちゃったの。急がなくちゃ」
私は肩をすくめた。そして、
「いってきます、おばあちゃん。今日はおばあちゃんの好きなお饅頭を買って来てあげるから」
と、言って、ふすまを閉めると、また慌ただしく廊下を走っていった。
その時、走って行く私の後姿に向かい、おばあちゃんの
「ありがとう、真由美」
という声が、聞こえたような気がしたが、とにかく慌てていたため振り返る事もなく、玄関から外に飛び出した。
ぎりぎりで、教室に飛び込むと、教室内に異様なムードが漂っていた。クラスメート達が円陣をつくり。中央にある何かに注目していたのだ。
「?」
首を傾げながら、人垣の中に入って行きみんなの視線の先を見て私は驚愕した。そこには、七瀬が居たのだ。
七瀬は、手に包帯を巻き、目の下にはガーゼを貼っていた。それは、昨日小林ユキや、相馬綾美から受けたリンチによる、怪我の跡である。しかし、私や、クラスメート達を驚かせたのは、その、痛々しい傷跡ではなかった。クラス中の視線を浴びて、平然と窓の外を見ている、七瀬のその髪が…あの美しいプラチナベージュの髪が、赤色に…毒々しい血しぶきのような真っ赤に染め上げられていたからだ。これは、あきらかに「髪を黒く染めろ」と言った小林達に対する反抗である。
小林が七瀬に近付いて行った。
「なによ、その色…」
「似合う?」
七瀬が小林を見て笑った。それが、私には、小馬鹿にしているように見えた。
「ふざけろよ!」
小林が、怒った。すると、七瀬が包帯を巻いた腕を、小林に向けて言った。
「気に入らないんなら、また暴力で解決すれば? 私は構わないわよ」
クラス内にざわめきが走った。小林は、真っ赤な顔をして、相馬と視線を合わせる。また、一騒動ありそうだ…と、私は憂鬱になった。
「皆しゃん、出席を取りましゅ」
そこへ、松岡先生が入って来た。クラス内に明らかに異常事態が起きていると言うのに、この中年教師は全く無頓着な様子で、教壇に立った。しかし、生徒達が各自の席に付き教室内の見通しがよくなると、さすがの先生も七瀬の頭髪に気付いたらしく、
「春日さん、その髪はなんでしゅか?」
と、厳しい口調で聞いた。
「別に…」
七瀬は、いつでも、誰に対しても一緒…取りつく島もない、クールな返事をする。
「も…元に戻してきなしゃい! う…うちの学校では、その頭は禁止されていまっしゅ!」
よほど、うろたえているのか、松岡先生の声がうわずっている。
確かに…一応『進学校』と呼ばれているうちの学校では、カラーリングも化粧も禁止されている。しかし、それはタテマエで、少々の事ならば教師達も何も言わなかった。なにしろ、ことさら不良でなくたって、今日び髪ぐらい染めるし化粧もする。しかし、七瀬のは、やりすぎだ。それに、七瀬の場合、普段の生活態度が悪い上に、反抗的すぎる。当然、先生の心証だってよくない。
そういう自分をよく把握しているらしい。七瀬は、立ち上がってこう言った。
「学校で、この髪がダメだと言うなら、私はもうここには来ません。別にここに来る理由もないし…」
そして、さっさと鞄をまとめると、「帰ります」と言って、教室から出て行ってしまった。
クラスメート達は、この、七瀬の態度にかなり退いていた。口々に「なに、あれ?」「何様?」という囁きが聞こえて来る。こうして、七瀬は孤立して行くのだ。私は、そういう七瀬を見て、たまらなく哀しくなる。
「七瀬!」
私は、立ち上がって七瀬を追いかけようとした。しかし、少し歩いた所で、誰かに腕をつかまれ、前に進めなくなった。「誰よ」と、横を見ると、藤井だった。藤井が私の腕をつかんだまま、私を見て『やめろ』と言うように首を振る。「でも…」と、言うと、藤井はもう一度首を振って、独り言のように「嫌いだね!」とつぶやいた。
七瀬の髪の色…曼珠沙華のように鮮やかに赤く、野辺の送り火のように激しく燃える…。
あの赤と共に、私はこの日の事を一生忘れない…
その日、七瀬の一件で高ぶっていた私の心がようやく落ち着く頃、私は、校内放送で、松岡先生に呼び出された。 職員室に行くと、松岡先生が、どこか憔悴し切った顔で私を手招きする。私は、首を傾げて、松岡先生の席まで行く。『なにかしら? 七瀬の事かしら?』…なんにしても、憂鬱な用件に違いなかった。
「落ち着いて聞いてくだしゃい…」
松岡先生は、ずり落ちそうな眼鏡のフレームを手でささえながら、震える声で言った。
「今、あなたのお母さんから電話がありました。先程、あなたのひいおばあさんが、亡くなられたそうです」
息を切らせておばあちゃんの部屋に飛び込むと、既に連絡を受けて帰って来ていた弟の敦と、近所に住む親戚、そして、お母さんが目を真っ赤にして、おばあちゃんの布団を囲んでいた。
おばあちゃんは、胸の上で手を組み、静かに横たわっている。顔にかぶせられていた白い布を取ると、ばあちゃんはまるで笑っているような顔で目を閉じていた。おばあちゃんの死に顔を見ても、私には、不思議な程実感が湧いてこない。(信じたくなかったのだと思う)
「昨日から具合が悪いと言っていたのですが、今朝は御飯を食べたんです。そして、10時頃、やっぱり気分が悪いから眠ると言って、それきり…」
お母さんが、親戚の人達に説明した。すると、おばあちゃんの2人目の娘…つまり、母のおばに当たる乾の大おばさんが、ハンカチで目頭を押さえて、こう言った。
「じゃあ、少しも苦しまなかったのね。お母さんは、幸せな逝き方をしたのだわ」
やっと、実感が湧いたのは、お葬式が終わった次の日の日曜日の午後に、おばあちゃんの遺品の整理をしていた時だった。
私と母は、おばあちゃんの部屋の一番奥にある、大きな桐のタンスを開け、中に入っていた着物や帯や下着類を丁寧に長持ちに入れ替えた。
矢がすりの着物。海老茶の袴。ステンドグラスのように華やかな色使いの、風車模様の着物。(母が言うには、それは『銘仙』と言って、昔、若い女性の間で流行っていた着物らしい)それから、花柄の刺繍帯。そして、なんと、桃色のワンピースまで出て来た。「おばあちゃんも、随分モダンだったのね」と、母が言う。「これはきっと、おばあちゃんが女学生の頃に着ていたものよ」
私は、その、提灯袖のワンピースを手にとった。おばあちゃんの人生が少しずつ見えて来る気がする…。
インターホンが鳴った。
「お客さまだわ…」
母が、立ち上がり「一番下の引き出しも片付けておいて」と、言い残して部屋から出て行った。
言われたとおり、一番下の引き出しを開けると、そこには色とりどりの箱が入っていた。その一つ一に、櫛やかんざしや帯留めなどの小物が大切にしまわれている。きっと、おばあちゃんの宝物なんだろう。それらも、取り出して大切に長持ちにしまう。アルバムを見つけたので、開いてみる。今のアルバムとは違い、黄ばんだ台紙の上にセピア色の写真が直接貼られている。その中で、若い頃のおばあちゃんが笑っていた。
髪に大きなリボンを結び、矢がすりの着物の下に袴を履いたおばあちゃんは、結構綺麗だ。ページをめくって行くと、先程のピンクのドレスを着たおばあちゃんが、外国人の男性と写っている写真もあった。ばあちゃんは、胸に大きなダイヤモンドが輝かせ、幸せそうな顔で青年の顔を見ている。…だれだろう? この男の人。…私は首を傾げた。…そういえば、ばあちゃんは、若い頃イギリスに渡った事があると言ってたけど、その時に会った人かしら…?
私は、アルバムを閉じると、長持ちの中に入れた。…これで、全部だよね…。確認のために引き出しの中を覗く。
「あら?」
引き出しの隅に、小さな箱が残っていた。それは幅約18センチ、奥行き約10センチ、高さ9センチぐらいの漆器で、ふたの表面だけアンティークな陶器で出来ており、薔薇の花の描かれている陶器のふたをとってみると、中から茶封筒と、ダイヤのペンダントが出て来た。「これは…」私は、ペンダントを手にとってつぶやいた。銀色のペンダントヘッドにはめ込まれているのは、直径10ミリ程のピンクがかった、ラウンド・ブリリアントカットの石だ。58の面を持つ左右対称のその石は、初夏の日ざしを受け、芯から爆発するような光を放つ。目も眩むような輝き…。しかし、
「これって…」
私は、長持ちの中からアルバムを取り出し、あの外人青年の写っているページを開いて食い入るように、その写真を見つめた。
「やっぱり…。このダイヤだ…」
外人青年の横に立っているばあちゃんの胸元で光っているダイヤは、私が手に持っているダイヤとそっくりだった。どうやら、同じもののようだ。
「本物?」
ペンダントを首にかけて、鏡台の鏡を覗き込む。桃色の石は私の胸元で、きらりと花開くように輝く。その輝きは、どうみても本物だ。
「鑑定書とかないのかな?」
漆器の箱を覗き込む。そういえば、ここに封筒が入っていたはず…。もしかして、鑑定書が入っているのかも…。しかし、封筒を手に取ってすぐに、それが鑑定書ではない事に気付いた。なぜなら、封筒の表に大きな字で『真由美へ』と、書かれていたからだ。「?」かさりと封筒を破くと、中から真っ白な便箋が出て来た。私は、それを広げて、目を走らせた…
『真由美へ
この手紙を読む頃、きっとばあちゃんは、この世には居ないだろう。
分かるんだ。もう、そこにお迎えが来ている。
ひいじいちゃんの声が聞こえるんだ。
死ぬのはそんなに恐くない。娘…つまり真由美の本当のおばあちゃんや、
ひいおじいちゃんにもうすぐ会えるのだから、楽しみなぐらい。
でも、真由美は、きっと泣くんだろうね。真由美は、泣き虫だから。
だけどね、真由美、
人はいつかは、誰でも一人で生きて行かなくちゃならないんだよ。
しばらくは、悲しいだろうけど、心を強くして、頑張って生きて行くんだ。
真由美なら、大丈夫。きっと、それができると思う。
それから、一緒に入れておいたペンダントは、約束だから真由美にあげる。
ばあちゃんの形見だ。大事にしておくれ…』
「約束?」
私は、便箋から顔を上げ、鏡に映るダイヤモンドを見た。…何の約束かしら?
…そして、記憶の糸を手繰り寄せてみた。しかし何も思い出せない。…覚えてな
いわ。きっと、おばあちゃん何か勘違いしてるんだ…
私は、そう納得すると、また、続きを読む。
『ありがとう。真由美のおかげで、おばあちゃんは、素晴らしい老後が送れたよ
全部真由美のおかげだよ。
ありがとう、真由美。さようなら』
そこで、手紙は終わっていた。
私は、最後の一行を何度も目で追った。
『おばあちゃん。お礼を言うのは私の方なのに…』
やがて、来客が済ませ戻って来た母と共に、ばあちゃんの遺品をしまった長持
ちをお蔵に運び終わった時…父がタンスを運び終えて蔵の鍵をガチャンと閉めた
時…、私の胸の中にようやくばあちゃんを亡くした寂しさが込み上げて来た。
私は、風にそよぐ銀杏の木のてっぺんを見上げながら、心の中で何度も繰り返し
た。
『さようなら、おばあちゃん。さようなら』