そして彼女は扉を開く 03
葛谷と綾美が、目を丸くして私を見ている。最後の皮肉が、関係ない2人にまできいてしまったらしい。
…ちょっと、乱暴だったかな? 少しだけ反省する。が、…でも、仕方ないじゃん。藤井が悪いんだから…と、携帯を置き、おにぎりにかぶりつく。
しばらくの気まずい沈黙の後、綾美がぎこちない笑顔を浮かべながら、葛谷に向かって聞いた。
「それより。…一次審査とニ次審査って、何をやったの?」
その質問に、葛谷が救われたように顔を上げる。
「うん…ああ、一次は基礎の動きがほとんどだったよ。ねえ…ナナさん」
「うん」
七瀬が頷いた。
「基礎やっといてよかったわ」
その顔には何の感情の乱れもない。私の苛立ちを知っていて、わざとポーカーフェイスを装っているのか、それとも、本当に何も気付いていないのか。どちらにせよ、自分一人で腹を立てているのが、だんだん馬鹿らしくなって来る。
「へぇー。じゃあ委員長の判断は正しかったって事だ…」
何気なくそう言ってしまってから、綾美が慌てて口をつぐんだ。
…もう、いいよ。そんな気を遣わなくても…
喉元から出そうになる言葉を飲み込み、
「詳しく聞かせてよ」
と、私は葛谷に笑いかけた。すると、葛谷はびっくりしたように口を開けてしばらく私を見ていたが、やがてポケットからしわくちゃのハンカチをだし、それで汗を拭きながらオーディションの様子を話し始めた。
それによれば、何でも一次審査は7つのグループに別れ、審査員から提示された、基本的なアップダウンを取るリズムの振り付けと、フリーアピール…つまり、自分の好きな振り付けをミックスさせたものを、流れる曲に合わせ5分間繰り返したそうだ。これで、150名が50名にまで絞られたらしい。
ニ次審査では、3つのグループに別れて、今度は初めから終わりまで審査員から提示された、一次の3倍の長さはある振り付けをやはり5分間踊らされたらしい。
「その振り付けがささ、難しいわ、覚わんないわで、大変だったよ」
よほど大変だったのか、葛谷が回想しながらしきりに首をひねる。
「けど覚える奴は、1回通しただけで覚えちゃうからすげえよ。まったく…」
「ふーん」
私は頷いた。さすがにプロになろうとすると厳しいものだ。
「結果発表は、グループごとでしばらく待たされたんだけど、待ってる間中心臓バクバクだし『発表します』って審査員がこっち見た時は、まともに顔上げられないし…」
大きな体をして、意外に小さな心臓だ。
「じゃあ、コーイチさんの顔も見れなかったんだ? 呆れられたんじゃない?」
私が聞くと、
「いや…コーイチさんはいなかったよ、ねえ、ナナさん」
思いもよらない答が返って来る。
「えー? なんでぇ?」
綾美が、大袈裟に首を傾げた。
「ナナチン、何か聞いてる?」
「ううん…」
七瀬は首を振った。
「でも、きっと仕事が忙しいんだと思うよ。最近、電話しても繋がらないし…」
1時15分
「委員長、もう来たかな?」
携帯を見ながら綾美が言った。もし、1時半前に到着できたら、男子更衣室の葛谷の所に行くようメールを送っておいたのだが…。
「まだじゃないかなあ…いくらなんでも1時間じゃ来れないと思うよ。早く着いて 2時頃じゃないかな…?」
私は、ロッカーにもたれて答えた。
七瀬は床に腰を降ろし、鞄の奥をごそごそ探っている。何してるのかと思って見てると、鞄の中から湿布を取り出した。それから、ベージュのカーゴパンツをまくり上げ、細い右足を露出させ、ぴりり…とセロファンを剥がし、膝の下に湿布をペタリと貼る。
「痛いの?」
心配そうに綾美が聞いた。すると七瀬はテープで湿布を固定しながら首を振る。
「ううん。痛いんじゃなくて、練習のしすぎで筋肉疲労しちゃっただけ。しばらく冷やしておこうと思って」
「本当に?」
「本当よ」
答えると、七瀬は立ち上がり、ロッカーに鞄を片付け、
「さ、ちょっと早いけど会場に行こう」
昼食前と同じようにさっさと歩き出した。
更衣室の一番奥。玄関側とは逆の扉から外に出ると、長い廊下が続いていた。まだ、新しいコンクリートの匂いのする、ピカピカに磨かれた廊下の左側には、人の背丈より高いガラス窓が続いていて、透き通ったガラス越しに、フローリングの広い部屋が見える。どうやら、レッスン場のようだ。レッスン場の壁には大きな鏡が貼ってあり、その前には黒い機材やスピーカーがごちゃごちゃと置かれている。それら機材の影に隠れた人影に気付き、私は、ふと足を止めた。
窓越しに、部屋の中を覗く。
…。
確かに、誰かが居る。人の背丈より大きなスピーカーの脇のパイプ椅子に、長い髪を後ろ一つに縛った男の人が座っている。引き締まった体を、黒のタンクトップで包み、紺色のジーンズを穿いた、あれは…!
「コーイチさん!」
私は思わず叫んだ。
「え?」
七瀬がこちらを見る。