赤い靴 04
『一体、今日はどうしたんだよ?』
ピンク色の携帯の向こうから藤井の声が聞こえて来る。私は自分の部屋のベッドに寝転がり、指先で銀色の鎖を弄びながら、天井の明かりを見ていた。鼻先でダイヤモンドが光っている。
『最近電話しても全然繋がらないし…。なんか、マユらしくないぞ』
藤井は怒っている。…なによ。あれぐらいのことで…。心の中で言い返す。…大体、じゃあ『マユらしい』ってどんな感じよ? …そんな思いを「…」無言で返す。
『なんとか言えよ』
藤井が苛立って来た。…これ以上怒らせるのはまずいかも…。そう考え、私はしぶしぶ口を開いた。
「ごめん…でも…」
『でも、なんだよ?』
「私の気持ちも考えて欲しい…」
なるべく、感情的にならないように言う。ゆらゆらと、ダイヤモンドを揺らしながら。
「私だって嫉妬ぐらいするんだから…」
『…』
今度は藤井が無言になった。私も無言で返す。しばらく2人とも黙ったまま、時計の針の音ばかりがやけに大きく響いた。私は、藤井の言葉を待ちながら、ぶんぶんとダイヤモンドを回転させる。目の前に、キラキラと光の輪ができる。『悪かったよ』
随分長い沈黙の後、藤井がボソリと言った。
『そんなつもりなかった。俺はただ、春日の力になりたかっただけで…。お前だって思いは同じだろ? 友達なんだから…』
「友達ね…」
私は光の輪を見ながら答える。
「そうね、分かったよ。友達に対して嫉妬なんかする、私が我がままだったんだ」
『真由美…』
藤井の声が終らないうちに、私は電源ごと携帯を切った。そして、布団の上にそれを放り投げた。
私はダイヤモンドを手に握りしめ、ぼろぼろと涙を流した。我ながらサイテーだと思った。けど、あれだけ七瀬を嫌っていた藤井と七瀬の距離がどんどん近付いている。そして、2人の距離が縮まれば縮まる程、私ははじき飛ばされて行くにちがいない。だって、七瀬は綺麗だもの。彼女に惹かれない男の子なんて、今まで1人もいなかった。藤井だけが違うなんて、どうして言い切れるの?
私は泣きながらダイヤモンドを頬に寄せた。
…ばあちゃんの嘘つき
心の中で、ばあちゃんに文句を言う。
…魔法のペンダントなんかあったって、幸せになんかなれないじゃないか!
ルルルル…
その時、階下の電話が鳴った。
時計を見ると、既に11時を回っている。
こんな時間に誰が…?
私は部屋を出て、パタパタと階段を降りて行った。しかし、一階に辿り着くより先にコールは終り、かわりに眠た気な母の声が聞こえて来た。おそるおそる居間を覗くと、こちらを向いた母とタイミングよく目があった。母は、私に受話器を差し出し「藤井君から」と言った。私はそれを受け取る。
「もしもし…」
ぶつぶつ言いながら部屋を出て行く母の後ろ姿を見送り、私は受話器を持って話し掛ける。
『お前、携帯の電源まで切ることないだろ?』
向こうから、藤井の呆れたような声が聞こえた。
「だって…」
私は、泣きそうな声で言う。携帯に繋がらないから、わざわざ家の電話にかけてくれたの?
『だって…じゃねえよ。お前がそんなガキっぽいとは思わなかった』
「ごめん」
小さな声で答える。本当、私ガキっぽい。自分でも驚いたぐらい。藤井は軽蔑したかな?
『分かったよ。そんなにマユがいやがるなら、春日の練習付き合うの、もうやめ
るよ』
「え?」
私は驚いた。そして、次の瞬間にはこう叫んでいた。
「だめよ、そんな」
『だって、お前、嫌なんだろ?』
「ううん! 藤井がいなくて、誰が今の七瀬を支えるの? お願い、私の我がままでやめたりしないで!」
私は、自分のこういう優等生的な性格が大嫌いだ。いつでもこんな風に、バランスをとろうとして、結局嫌な事でも我慢してしまう。今どき、こんな性格損なだけなのに…。けれど、藤井は私の言葉に喜んでくれたみたいだった。
『いいのか?』
声が明るい。
「うん」
私は頷いた。
『そうか、マユなら分かってくれると思った』
嬉しそうに言う。
『それじゃ、またな』
「うん。明日ね。おやすみ…」
そう言って電話を切ってしまってから、私はひどく後悔した。
…バカな私…。あのまま、藤井と七瀬が近付かないようにしてしまえばよかったのに…!
けど、同時に、藤井が家に電話して来てくれた事が嬉しくて、私はダイヤを頬に寄せ心の中で感謝した。
…ばあちゃん、ありがとう。やっぱり、これは魔法のダイヤモンドなんだね。これからも私を守ってね…
ダイヤモンドは、まるで私に答えるかのように、キラリと眩しく光った。
練習を始めて9日目、オーディション前日の夜。
私は鉄棒にもたれて、最後の仕上げをしている七瀬を見ていた。私の右隣で葛谷、左隣で綾美が、時計台正面のベンチでは藤井が、一様に七瀬を見守っている。七瀬は、時計台の下、光の輪の中で、いつものあのシンセサイザーのメロディに合わせ、眉を寄せ、口を結び、一心に踊っていた。鮮やかなステップ、軽やかな身のこなし。これが、つい先日まで右足を引きずっていた少女と同一人物とは、とても思えない。つまり、それ程完成度が高く、人とは、情熱を傾ければここまでの力を発揮できるものかと、驚嘆させられる。
3度目の通しが終ると、藤井が言った。
「ほぼ完璧!」
「そうかなあ…」
七瀬が汗を拭きながら首をかしげる。
「途中、3回ステップを間違った以外はな」
…え? そうだったの?
藤井の眼力に私は驚いた。
…どこを間違ったの? 全然気がつかなかった…!
完璧に見えたのに。
「まだ、右足を庇う癖が抜け切ってないように思える」
藤井が七瀬の痩せた足を眺めながら言う。
「もしかして、まだ痛むんじゃないのか?」
「ううん」
七瀬が首を振った。
「痛みは全然無い、庇っちゃう癖が直らないだけだと思う。今から徹底的に、間違えた所だけ繰り返してみる。絶対今日中に完璧に踊ってみせるんだから…!」 そう言うと、七瀬はしきりに足を動かし始めた。どうやら、間違えたステップを繰り返しているらしい。真剣な七瀬の表情を見て、藤井が、呆れたように、感心したように笑う。
「お前なら、完璧にやっちゃいそうだな…」
私は、目を伏せ自分の足元を見た。2人の姿を見たくなかったからだ。日がたつにつれ、藤井への七瀬の信頼は増していく。同時に、七瀬を見る藤井の眼差しが優しくなっていく。いつか私の入り込む隙間がなくなる程、2人の結びつきが強くなるのでは…と、そんな不安に苛まれ、胸が痛み出す。
…バカな私。どうして、正直に『七瀬に近寄らないで』とあの時言わなかったの? どうして、こんな嫌な思いをしてまで、私はここにいるの?
胸の奥に湧き上がる黒い物が、再び私の心を締め付けた…苦しい…! ばあちゃん、助けて!
気がつくと、私はダイヤモンドを握りしめていた。そして、自分に言い聞かせ
るように唱えた。
…大丈夫、私にはこのダイヤモンドがある。これがある限り、藤井が七瀬に心奪われることはない…!
「よっちゃん!」
ふいに私を呼ぶ声に我に返ると、いつの間にか、あのファンタジックなメロディーがチキチキというリズムに乗って流れていた。七瀬がまた踊り出したらしい…。
夢から醒めたように顔を上げると、心配そうに私を見ている葛谷と目が合った。
「な…何?」
驚いて言う。すると、葛谷は、にこっと笑って、
「俺の踊り、見たくない?」
と聞いて来た。
…踊り?
いきなり、何を言い出すんだろう? その浅黒い顔をまじまじと見返す。しかし、私が考え込むより先に、
「見たい、見たい!」
と、綾美が叫んだ。
「ね、見たいでしょ? マユちゃんも」
そう言って、綾美は私の背中を叩く。
「うん」
綾美の勢いに乗せられて頷くと、葛谷は「よっしゃ!」と叫び、時計台の下まで走って行った。そして、七瀬の後ろに回り、驚いている藤井を尻目に、波のように体を動かし始めた。
頭から、首、肩、腰、膝、足の先…カチカチとコマ送りみたいに器用に体を動かす。それを何度か繰り返すと、今度は両足を開いて足を巻き込むように動かしつつ、左右に移動する。その様はまるで地面を滑っているようだった。それが終ると、逆立ちして、足を大きく開き、足の反動で体を一回転させ、右手と左足で着地して止まった。まるでアクロバットだ!
「凄い、凄い、クズー!」
綾美が声援を送った。
次に葛谷は、大きく両足を開き、上半身を倒した。そして、右足を振り込み、上半身を返し、手をついて、受け身を取りながら、両足で地面を蹴り、腕から背中へと地面につき、その勢いを利用してバックスピンを始めた。綾美が興奮気味にキャーキャー叫んだ。
葛谷の斜前では、七瀬が顔色一つ変えずに彼女の踊りを続けている。藤井は、ベンチから半分腰を上げ、ぽかんとした顔つきでこのセッションを見つめている。私も、ぼんやりと見とれるばかりだった。目の前で展開されるダンスのあまりの見事さに圧倒され、私のちっぽけなジェラシーなど、跡形もなく消え去ってしまうようだ。
その時、視界の隅で、七瀬が苦し気に顔をゆがめたような気がした。
「?」
私は、七瀬の方へと視線を移した。しかし、彼女はいたって普通の表情だ。気のせいだったのか…? そして、そのまま、私は七瀬から目が離せなくなる。
光に透け揺れる黒髪。長い睫。鳴る鈴の足音。耳を澄ませ、音を捕らえ、寸分の狂いなくステップを踏む。
綺麗だと思った。本当に綺麗だと思った。顔が綺麗だからじゃない。もっと内側から光る、そう、まるでダイヤモンドみたいな…。
何一つミスなく、リズムの狂いもなく、最後まで七瀬は踊り切った。
私達は2人のダンサーに、惜しみない拍手を送った。