赤い靴 03
どうして? 藤井。
何で、七瀬の為にそんなに必死になるの? この間まであんなに嫌っていた癖に…
次の日、私と藤井は七瀬の家でレッスンメニューを考える事にした。
ダンスレッスンのビデオや、専門雑誌を読みながら、基礎的な動きを頭に叩き込む。リハビリやストレッチも組み込みながら、練習メニューを考えていった。
夕方になると、赤色のラジカセを持って公園に行った。まだ、日が残っているというのに、公園はひっそりと静まり返り人の姿も見えない…いや、たった一人だけ、ヘルメットの男がシーソーにまたがりこちらを見ている。男は私達を見ると「おせーよ」と文句を言った。
「クズっち!」
七瀬が叫んだ。
「え?」
私は驚いた。…あれが、葛谷ですって?
私達が注目している前で、男はヘルメットを取り無邪気な笑顔をこちらに向けた。その顔は、確かに葛谷だ。
「バイト、終ったの?」
七瀬が尋ねる。葛谷は昼間、近所のコンビニでバイトしているらしいのだ。ちなみに、綾美も家の近所のスーパーで、週3日のバイトしているらしく、今日は姿が見えない。
「もちろん! ばっちり終らせて、練習に来たんだよ」
「練習?」
「そうだよ。俺だって、始めたばっかりとはいえダンサーだからね。ナナさんと一緒に練習しようかなって…いいだろ?」
「そりゃ、もちろん」
七瀬が頷くと、横から藤井が悪態をついた。
「いるのは勝手だけど、邪魔はすんなよ」
「うるせえ!」
葛谷が顔をしかめた。藤井は葛谷を無視して、練習メニューの書いた紙を広げると、
「それじゃ、とりあえず始めようか…」
と、仕切り始めた。
第一日目は、怪我をした右足の強化の為に、主にリハビリとストレッチを重点的にやった。
ウォーミングアップをすませると、まずは、公園内を8の字を描くように何周もし、その後はベンチの昇り降りを何回も繰り返した。
それから、筋肉強化訓練の為のストレッチを始めた。まずは地面に寝転がり、片足を片膝立ちにして、反対の足を地面につかないように上げ下げする運動。何度も上げ下げを繰り返した後、下げた位置で足を止め、ゆっくりと10カウント数える。これを、両足交互に繰り返す。
それが終ると、片足ブリッジ。膝を曲げて腕立て伏せ。片足バランス。
片足バランスは、格10秒保持×5回。右足でよろよろと立ちながら、七瀬は眉をしかめた。
「大丈夫? 痛いの?」
私が思わず駆け寄ると、七瀬は「大丈夫」と首を振ったが、
「マユ! 手を出すな!」
と藤井に叱られ、すごすごとベンチに戻る。
「鬼だね、アイツ」
一人、気ままにブレイクダンスをやっていた葛谷が話しかけて来た。
そこまで終ると、少し休憩を入れ、やっとダンスの練習が始まった。
まず、ダンスの基礎中の基礎、『アップ/ダウン』の動きをやる。これは、簡単に説明すると『リズム取りの種類』で、やり方はといえば、足を広げて腰を落とし、カウントに合わせて上方向に意識してリズムを取るのが『アップ』、下方向を意識してリズムを取るのが『ダウン』である。
藤井がラジカセのスイッチを入れ、練習用の曲を流し始めた。そして、4つ打のリズムに合わせて、カウントを取る。それに従い、七瀬が体を揺らし始める。
「エン・ワン・エン・トゥー…」
しばらくアップダウンの動きを繰り返した後、「前ノリ!」と藤井が声を出した。同時に、七瀬は両足の踵でリズムを取り始めた。リズムに慣れて来ると、徐々に上半身、そして、肩の動きを加えていく…。これも基礎中の基礎で、それ程難しくはない動きだったが、七瀬の体は若干右に傾いているような気がした。やはり、右足が痛いんじゃないだろうか? ハラハラして見ていると、再び藤井が叫んだ。
「アップ取りヒール打ち!」
すると七瀬は、今度はステップを踏み始めた。まず、軽く右足を前に出す。そして、すぐに戻す。次に左足を軽く前に出す。そして、また、すぐに戻す。
しかし、この簡単な動きでさえ七瀬には負担だったらしく、左から右へ重心をずらす時に、ガクッと体がよろけてリズムに乗りそこねてしまった。その時は、さすがに藤井もラジカセを止め、
「大丈夫か?」
と、心配そうに七瀬に尋ねた。
「大丈夫」
七瀬が頷いた。
「痛みは全然無いんだけど、なんだかな? よろけちゃう…」
「無意識に庇ってるんじゃないのか?」
「無意識に?」
「ああ、大怪我をした後しばらくは、治ったって事を脳が把握できなくて、無意識に患部を庇っちゃうって事はあるらしい。その上、筋力も弱ってるし…」
「へぇ…!」
藤井の博識ぶりに、七瀬は目を丸くした。
「で、どうしたらいいのかな?」
「うーん」
藤井は眉間に皺を寄せて考えた。
「ストレッチとリハビリを徹底的にやるべきだと思う。カンを取り戻すのと、筋力強化を第一の目標にしよう」
理路整然と話す藤井によっぽど感動したのか、七瀬が大袈裟に叫んだ。
「委員長…凄いよ。医者になれるよ」
「おだてるな、バカ」
そう言いつつも、藤井は照れて顔を赤らめた。
「藤井!」
私は立ち上がり、2人の間に割って入った。
「何だよ、マユ」
「私にも、なんかやる事無い?」
…2人でばっかり喋ってて、入りにくいよ!
言外に、そんな思いを含ませて言う。
ところが、藤井は私の思いなんかにまったく気付かないみたいで、
「別に無いかな? とりあえずそこで座って見ててくれよ」
…素っ気無い。
「何よ! バカ」
頭に来たので、思いきり叫んでやった。藤井と七瀬がびっくりして私を見る。私は、回れ右して柳の向こうのブランコまで歩いて行くと、その一番端っこの一つに、どかっと腰を降ろした。すると、葛谷がこっちにやって来て言った。
「ねえねえ、よっちゃん。俺の踊り見てくれない?」
「いいよ」
私は仏頂面で答えた。すると、葛谷が地面に手をついてグルグルと踊り出した。それを見ながら、私はばあちゃんのダイヤモンドをぎゅっと握りしめていた。
練習を始めて5日目…。
七瀬の右足を庇う癖は、いまだに完璧に直ったわけではなっかたが、オーディションまでもう後4日しかないということで、一度、怪我する前にやっていた『ルーティン』を、通しでやってみようと言う事になった。『ルーティン』とは『振り付け』の事で、要するに七瀬がクリスタルパークで踊っていたあのダンスを、ここで通して踊ってみようという事だ。
赤いラジカセから流れ出す、チキチキという4つ打のリズムと、シンセサーザーのメロディーに合わせ、痩せた右足を慎重に動かし、目を閉じて七瀬は踊り始める。私はといえば、仏頂面で鉄棒の上に腰掛け、じっと藤井の横顔ばかり見ていた。
あの日以来、藤井とも七瀬とも、まともに口をきいていなかった。除け者にされたようで、頭に来ていたからだ。しかし、それでも夜のレッスンには来てしまう。こういう性格が、我ながら大嫌いだ。
「ああ! ダメ!」
音楽の途中で、突然七瀬が叫んだ。
「やっぱり、ダメ! 全然カンを取り戻せない」
「おいおい、一回ステップを間違えたぐらいで、やけになるなよ」
藤井がカセットを止めて言う。見ていなかったので分からなかったが、どうやら七瀬はステップを踏み外したらしい。
「だって、後、今日を入れて4日しかないのよ!」
七瀬は頭を抱えて叫ぶ。相当焦っているようだ。
「けど、ナナチ~ン。結構決まってたよ」
ちょうど私の膝の高さのところで、綾美が慰めるように言った。
「俺も、よかったと思うけどなあ…」
シーソーの上から葛谷が叫んだ。相変わらずヘルメットをかぶっている。私も何か慰めの言葉の一つも言うべきなのだろうが、意地でも何も言うものかと固く口を結んでいた。
「委員長は、どう思った?」
乱れた髪をかきあげ、七瀬は藤井を見た。
「うん? 俺もまぁまぁよかったと思うよ。もう少し練習すれば、もっと上手く踊れるようになるんじゃないの?」
その言葉で、七瀬の表情がみるみる和らいだ。
「委員長がそう言うなら、大丈夫かな?」
「なんですか? それ」
葛谷が不満げに言う。私も同感だった。…なんなのよ、あんた達! いつからそんなに仲良くなったのよ?
「とりあえず、今、間違えたトコ、ゆっくりくり返してみろよ」
藤井が、外野を無視して言った。
「うん」
七瀬は素直に頷くと、ゆっくりとクロスステップを踏み始めた。
エン・ワン・エン・トゥー・エン・スリー…
右足をクロスさせ、左足をバック。右足を踏み込みターン、膝を伸ばし左足をクロス…
何度も何度も、同じステップをくり返す七瀬を、じっと見守る藤井の優し気な眼差しが、私をイライラさせる。やがて、藤井が立ち上がって言った。
「よし、もう一度通してみよう」
「うん」
七瀬が頷いた。
「失敗しても、最後までやるんだぞ」
「分かりました」
2度目は、途中、何度かふらつきながらも、ほとんどミスする事もなく最後まで踊り切る事ができた。全て踊り終ると、綾美と葛谷がパラパラと拍手をした。私は…もちろんするわけがない。
「やったじゃん!」
踊り切った七瀬に向かって、藤井が嬉しそうに笑った。ドキンと私の胸が激しく音をたてる。七瀬も驚いたように藤井を見ていた。
藤井は気付いただろうか? 自分が、はじめて七瀬に笑顔を向けた事を…。
まじまじと自分を見ている七瀬に気付くと、藤井は慌てて笑顔を隠した。すると、今度は七瀬が笑った。
「委員長って、笑うと全然印象違うよね」
バン!
私は鉄棒から飛び降りた。
葛谷と綾美が、驚いてこちらを見る。
「よっちゃん?」
葛谷の声が聞こえたような気がした。
その声を無視して、私はずかずかと藤井と七瀬の間に割り込んで行った。そして、責めるように七瀬を見た。それは、自分でも思いもよらない行動だった。
「どうしたの?」
七瀬は、私を見て不思議そうに首を傾げた。
「…」
それには答えず、私は奥歯をぎゅっと噛み締め七瀬を睨み続けす。七瀬はしばらく私の視線を受け止めていたが、やがて、何かを悟ったようにぴくりと肩を揺らせた。
「どうしたんだよ…マユ」
藤井の声が聞こえる。しかし、私が答えるより先に、
「ありがとう、委員長。もういいよ。1人で練習できるから…」
と、七瀬が笑った。それから七瀬は時計台の下に戻り、ラジカセのスイッチを入れ、黙々と基礎の練習をはじめた。 それを見て、私の高ぶっていた気持ちが少しだけおさまる。しかし、それでも尚、心のどこかで私は意地悪く、こう思っていた。
『当然よ!』と。
藤井が怒ったように私を見ていた。